著者
酒井 啓子
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.28, pp.145-172, 2013-01-05

2010〜11年、チュニジアに始まった、路上抗議運動の拡大から政権転覆に至る一連のアラブ諸国における政治変動は、個々の国の政治体制や社会経済的状況、対外関係などにおける固有の要因に基づいて、異なる経過と結果を生んだ。いかなる条件のもとでこうした大規模民衆運動が発生し、いかなる条件で政権交代に至るのかを分析するためには、個々の事例における体制内政治構造と社会運動、および国際関係を複合的に視野にいれることが肝要である。本論では体制政治エリート同盟のあり方と、路上抗議運動のあり方、および国外主体の役割に着目するが、それぞれが相互に影響を及ぼしあうことを前提とし、その影響度合いを「脆弱(敏感)性」と名付ける。その上で、体制エリート同盟と路上抗議運動との間の相互の脆弱(敏感)性、およびそれぞれの国外主体との間の脆弱(敏感)性に応じて、政変の経緯および政権交代後の体制再編のあり方が変化することを論ずる。チュニジア、エジプトの事例では体制エリート同盟および路上抗議運動ともに相互に脆弱であり、かついずれも国外主体(具体的には米政権および国際機関)の動向に敏感であったことで、暴力的衝突や政体の劇的な変質を伴うことなく政権転覆が実現した。そのため政権転覆後の支配的政治エリートにおいても、旧政権下でエリート同盟の辺境におかれた勢力が主流を占めることとなった。他方リビア、シリアの場合はそうした脆弱(敏感)性に基づく関係が体制エリート同盟と路上抗議運動の間に存在しなかったため、衝突は暴力的、長期的なものとなった。両者の事例で政変の成否を決定したのは路上抗議運動が強く脆弱性を持つ国外主体の対応であり、国内主体間に脆弱性が見られない場合には政変の展開に国外要因が重要な役割を果たすことがわかる。従来の政治学ではアラブ動乱を十分分析できたとは言い難く、体制論、社会運動論、国際関係論と細分化された諸分野を総合的に組み合わせて分析する枠組みの開発が必要である。本論はそのための一試論である
著者
セラーノ・ルアーノ デルフィナー
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.27, pp.209-236, 2011-07-15

本論文は、ムラービト朝時代(11世紀末から12世紀前半)のカーディーとカーディー以外の裁判官(行政官)の関係を検討する。この問題は、ムラービト朝のもとでカーディーとマーリク派法学者が支配王朝を支持するのとひきかえに、前例のないほどの有利な地位をえていたとする通説にかかわる。カーディー以外の裁判官に対して理論的にはカーディーの専権のもとにある権限を賦与することはなくならず、それはカーディーの黙認によるものではなかった。ここでは、大イブン・ルシュド(450/1048〜520/1126年、コルドバの大カーディー、哲学者・医者として著名なイブン・ルシュドの祖父)のジナー(姦通罪)にかかわる一連の法学テキストに焦点をあてる。イブン・ルシュドのテキストを綿密に検討しそのコンテキストを再構成するならばつぎのことが明らかになる。そのファトワーでは、大カーディー(カーディー・アルジャマーア)だけが姦通罪に関する判決を下すことができ、地方のカーディー以外の裁判官(行政官)にはその権限はないと述べる。ハッド(コーランまたはハディースで量刑が定められた身体刑)にかかわる法学理論の特殊性や法学意見の術を習得することは、大イブン・ルシュドが宗教上の処罰と行政上の処罰との違いを明らかにし、統治者に対して、カーディーがハッド刑を効果的に執行するようにしなければシャリーアを支配領域において執行することに基づく彼らの統治の正当性を危うくしかねないことを喚起する手段であったのである。また、ハッド刑の執行という問題についていえば、シーア派の法学者がハッド刑を執行する資格を認められた政治支配者が正当な統治者であるとしたのに対し、大イブン・ルシュドは政治支配者がハッド刑の執行をカーディーに委ねる体制が正当であるとした。
著者
松本 ますみ
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.21, pp.147-171, 2005-09-30

中国ムスリムに対するキリスト教宣教は、19-20世紀半ば、福音主義宣教会の中では大きな課題となった。中国のムスリム人口は当時3000万人とも言われ、インドについで第2位といわれた。植民地主義の時代、他地域のムスリムの大多数が西欧の支配下、すなわち、「キリスト教徒の支配者」の下にあったが、「異教徒」の政権下の中国ムスリムは、福音から最も遠いという点において「問題」であると考えられた。植民地主義がピークに達した1910年のエジンバラ世界宣教会議以降、中国ムスリムに対する宣教も本格化、さまざまなパンフレット、宣伝文書、ポスターの作成が行なわれた。それに対し、ムスリム側も、論駁書、啓蒙書の発行、学校設立などイスラーム復興に着手して対抗を図った。ただ、両者の対立が深刻化しなかったのは、多文化多宗教の共存を旨とする中国ムスリム側の伝統による所が大きい。また、宣教師にもイスラームに深い共感を示した者が存在したことも大きい。
著者
松本 ますみ
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.147-171, 2005

中国ムスリムに対するキリスト教宣教は、19-20世紀半ば、福音主義宣教会の中では大きな課題となった。中国のムスリム人口は当時3000万人とも言われ、インドについで第2位といわれた。植民地主義の時代、他地域のムスリムの大多数が西欧の支配下、すなわち、「キリスト教徒の支配者」の下にあったが、「異教徒」の政権下の中国ムスリムは、福音から最も遠いという点において「問題」であると考えられた。植民地主義がピークに達した1910年のエジンバラ世界宣教会議以降、中国ムスリムに対する宣教も本格化、さまざまなパンフレット、宣伝文書、ポスターの作成が行なわれた。それに対し、ムスリム側も、論駁書、啓蒙書の発行、学校設立などイスラーム復興に着手して対抗を図った。ただ、両者の対立が深刻化しなかったのは、多文化多宗教の共存を旨とする中国ムスリム側の伝統による所が大きい。また、宣教師にもイスラームに深い共感を示した者が存在したことも大きい。
著者
若松 大樹
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.24, pp.29-59, 2009-02-25

Nevruz is a spring festival celebrated the world over and particularly in Eastern Muslim countries, including Iran and Turkey. It was for a long time commemorated by Ottoman society as a regular cultural festival, but the practice gradually changed since the late 1980s, when Kurdish nationalist movements arose. To put it briefly, the Nevruz festival, which was a normal cultural festival until then, was now transformed into a battlefield of ethnic self-assertion in Turkey. In this article I intend discussing the practical aspects of Nevruz in contemporary Turkey by utilizing primary sources like daily newspapers, by the observation of the Nevruz practices, and through interviews that I conducted during my field research
著者
山尾 大
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.25, pp.1-29, 2009-07-15

イラクのイスラーム主義運動は、2003年の米国によるイラク侵攻以降、多くの注目を集めてきた。とりわけ、戦後突如として政治アリーナに台頭し、政策決定過程でキャスティング・ヴォートを掌握することになったサドル派は、イラク政治の分析において重要な研究対象になりつつある。イラク・イスラーム主義運動の研究は、その蓄積が決して多いわけではないが、これまで主として、(1)1980年に国外に亡命を余儀なくされる以前の反体制運動と、(2)2003年以降の政権運営におけるパフォーマンスの2点に着目してきた。言い換えると、1980年から2003年までの、とりわけイラク国内におけるイスラーム主義運動については、実態がほとんど明らかになっていない。その最大の要因は、バアス党権威主義体制下の厳しい弾圧によって、全てのイスラーム主義運動が死滅したと考えられてきたことに求められる。それゆえに、亡命経験を持たず国内に留まったサドル派については、戦後イラクの政治分析において重要な意味を持つにもかかわらず、歴史的背景や政治社会基盤が明確になっていない。しかし、様々な資料を検討すると、サドル派の起源は1990年代の社会運動に求められることが分かる。具体的には、サドル派の指導者ムクタダー・サドルの実父であるサーディク・サドルによって、イスラーム主義を掲げた社会運動が形成され、1990年代のイラク国内で大きな動員力を獲得することとなったのである。そこで本稿は、1990年代イラクで展開されたサーディクの社会運動の実態を再構築し、抑圧的な権威主義体制下でほぼ全てのイスラーム主義運動が弾圧・禁止されてきたにもかかわらず、イスラーム主義を掲げた社会運動を結成することができたのはなぜか、そしてそれが大きな動員力を獲得することができたのはなぜか、という問題を論証する。この問題を明らかにすることは、現代イラクのイスラーム主義運動の歴史的変容過程を、イラク国内外のアクターを総合して再構築すること、ならびにイラク戦争後の政治分析におけるサドル派の政治社会基盤を解明することにも資するものである。そこで、はじめに1990年代イラクの社会運動の中心となったサーディク・サドルの軌跡と運動を創始するモチベーションを分析し(第II節)、次にサーディクの社会運動そのものを概観する(第III節)。そして最後に、サーディクがイスラーム主義を掲げた社会運動を形成することが可能となり、イラク現代史上まれに見る大きな動員力を獲得した要因およびメカニズムを、バアス党権威主義体制の政策との相関性に着目することで、明らかにする(第IV節)。本稿で解明したのは、以下の点である。サーディクは、湾岸戦争後の経済制裁によって深刻な社会経済的混乱に陥った1990年代のイラクにおいて、(1)シーア派宗教界の保護と、(2)その政治社会的役割の再活性化という二つの問題意識に基づいて、社会運動を始めた。サーディクは、果たすべき政治社会的役割を等閑にする宗教界の「静寂主義」を批判して「行動主義」の立場を取り、同時に過去のイラク・イスラーム主義の革命路線の「失敗」を反省して権威主義体制と「同盟関係」を構築した。そして、サーディクのこの姿勢は、バアス党政権が政治・社会・経済の未曽有の混乱に直面して政権と社会を安定化させるために起用した「イスラーム化政策」と「取り込み政策」(cooptation)と調和した。バアス党権威主義の政策とサーディクのモチベーションの「奇妙な一致」は、サーディクの社会運動に「合法性」を付与する結果となった。それゆえに彼の運動は勢力を拡張し、大きな動員力を獲得することとなったのである。
著者
田中 好子
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.20, pp.189-196, 2004-09-30
著者
柳橋 博之
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.19, pp.27-43, 2003-09-30

後世のハナフィー派はタウリヤを、「信頼売買」の一つとして定義している。同派は、タウリヤにおいては、売主が目的物の取得に要した原価を表示し、それと同額で転売することから、これを商取引に疎い買主を保護することを目的とする売買と解したのである。しかしイスラーム法形成期の8世紀の少なくとも初頭においては、タウリヤが締結される場合、買主が目的物を転売することによって得られる転売益について売主が一定の取り分を留保することが予定されており、従ってタウリヤは一種の組合契約であった。しかし、タウリヤは形式上は売買であって、所有権を移転する機能を有することから、その締結後、ないしは少なくとも目的物の引渡しが完了した後には、その滅失・毀損について売主は危険を負担しなかった。しかし、「危険を負担しない物から利益を得てはならない」という原則が8世紀前半に導入されることによって、このいわば原タウリヤ売買は非合法化され、それに代わるものとして、イシュラークが導入された。
著者
柿崎 正樹
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.19, pp.175-205, 2003-09-30

本稿では、トルコ共和国における共和人民党の社会民主主義政党への変容とそれに伴う党理念の変遷を、第三代党首ビュレント・エヂェヴイットの著作や発言を中心に分析することを試みる。共和人民党は共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクによって1923年に結党され、一党支配体制の下、共和国の近代化を進めるべく様々な改革を断行した。1931年には「六本の矢」として知られるケマル主義六原則を党大会で採択し、共和主義・世俗主義・民族主義・人民主義・国家資本主義・革命主義を党の行動理念とした。37年にはこれらは共和国憲法にも取り入れられ国是となる。トルコは第二次世界大戦後、その政治体制を一党支配体制から複数政党制へと移行させる。1950年総選挙では、共和人民党の非民主的かつ官僚主義的な政権運営に反対し、より自由主義的経済政策を追求する民主党が圧勝した。一方、共和人民党は1960年クーデターで軍部が民主党政権を崩壊に追い込むまでの10年間野党の座に甘んじ、選挙での敗北を重ねていく。しかし、この野党時代、特に民主党政権が独裁的傾向を強めていく50年代後半、共和人民党には改革志向の強い若手党員が加わり、新たな党のアイデンティティーの模索が始められる。その中から党首イスメット・イノニュの支持を背景に頭角を現し、共和人民党の「左回旋」の中心的人物となったのがビュレント・エデェヴィットであった。1965年にイノニュが共和人民党は「中道左派」であると宣言したが、エヂェヴィットはそれをアタテュルク革命の延長線上にあり、アタテュルク革命を補完する行動理念と位置づけた。さらに、イノニュに代わって第三代党首となったエデェヴイットは、「中道左派」を「民主左派」に改め、党綱領を一新する。そこではケマル主義と共に民主左派主義が併記され、エヂェヴィットの下で共和人民党が社会民主主義政党にむけてケマル主義の大幅な再解釈を行ったことが伺える。結論を先取りして言えば、共和人民党の社会民主主義政党化の狙いは、それまで大衆から隔絶された中央エリートの政党というイメージを払拭し、大衆利益を代表する政党への転換であった。そのために、共和人民党は大衆に対する従来の否定的な見解を肯定的なものへと逆転させ、さらに大衆を「経済的に搾取され、政治的に抑圧された人々」とした。そしてその大衆は労働者と農民からなる集団であるとしたのである。こうして共和人民党は労働者と農民の支持を取り付け、彼らの政治的経済的権益の拡大を求めて、「人民セクター」・「農業組合」・「農村都市計画」などの政策を掲げた。70年代にはその多分にケマル主義の要素を含んだ社会民主主義は、トルコの主要な政治潮流の一つとなっていったのである。
著者
夏目 美詠子
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.11, pp.71-130, 1996-03-31

本稿はトルコの現代政治史を,共和国成立以来の国民統合と社会発展の過程で"後進地域"として取り残されてきた東部トルコの視点から再構築しようという試みである。1991年の総選挙で,"クルド問題"の議論と解決を叫ぶ人民労働党(PLP)のクルド系議員22名が南東部トルコの圧倒的支持を得て当選したことと,やはり東部トルコで支持を集めた福祉党を中心とするイスラム・極右連合が躍進したことは,トルコ内外に大きな衝撃を与えた。それはオスマン帝国時代から,その多様な宗教・民族・言語構成と国家の統治体制に組み込まれることなく生き残った部族社会の故に,"異端な辺境"として中央政治から疎外されてきた東部トルコが初めて"合法的政治手段によって"中央に突きつけた強烈な政治要求であった。1950年の多党制導入以後の総選挙で,東部トルコでは中道右・左派の二大政党が弱く,少数政党や無所属候補者に票が分散し,かつ地元有力者による部族票のコントロールで唐突で組織的な支持政党の転換が行われるなど,その特異な投票行動が注目を集めた。しかし中央エリートや過去の研究者は,これを東部の後進性の発露に過ぎず,国全体の経済・社会発展とともにこうした後進性は克服され,均質な国民文化の中にその特異性は吸収されるという"進化論"的な国家史観で論断した。本稿は過去の東部選挙民の投票行動を分析することによりその政治的意味を改めて問い直し,トルコの民主国家としての発展を阻害してきたこの国家史観の致命的な欠陥を明らかにしようとするものである。
著者
太田 啓子
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.17, pp.1-20, 2002-03-31

中近世のイスラム世界において、メッカは巡礼の目的地であったのみならず、ウラマーなどの交流の場として、通商路の中継地点として、政治・経済的にも文化的にも重要な役割を果たしていた。当時メッカの支配勢力は、預言者ムハンマドの子孫であるシャリーフによる政権であった。彼らはメッカのおかれた地理的条件、ヒジャーズ外部の王朝の勢力関係、シャリーフとしての宗教的権威などを巧みに利用しつつ、複雑な国際政治の舞台においてその存在基盤を確かなものとしてきた。しかし従来のメッカ研究は、イスラム教の聖地としての宗教的役割に集中され、その結果、メッカが当時のイスラム世界において果たしていた政治・経済的、そして文化的な役割についての歴史的史料に基づく実証的な研究はきわめて少ない。本稿は、メッカの地方史であるIbn Fahd (812/1409-885/1480)のIthafおよびal-Fasi (775/1373-832/1429)のShifa'と、人名辞典であるal-Fasiのal-'lqdを主史料として用い、シャリーフ政権によるメッカ支配の実態を検証する。メッカのウラマーによって記された史料を用いることにより、メッカ内部からの視点を提供し、その考察を通じて、メッカの支配勢力であったシャリーフ政権の性格を明らかにする。バフリー・マムルーク朝期(1250-1390)には、メッカにはシャリーフ政権としての軍隊は存在せず、個々のシャリーフらが手兵とも呼ぶべき個人的な軍隊を率いて行動していた。シャリーフらは個々の支配領域において分立し、イラクやアフリカ東海岸地域の都市など、ヒジャーズ地方に限定されない広い領域において支配を行っていた。メッカは農業に適さない環境であり、ハラージュ(地租)の税収入に依存することが不可能であったことから、彼らの主要な財源はマクス(雑税)であった。マクスはメッカにおいて売買されていた商品のほとんど全てに課されていただけでなく、巡礼者にも課されていた。メッカにおけるカーディーなどの各種任免権は本来メッカのアミール(統治権保持者)位にあるシャリーフの権限に含まれていた。しかし、外部諸王朝がシャリーフ政権への干渉を行った結果、これらの任免権は外部の諸王朝の権限に含まれるようになった。アイユーブ朝・マムルーク朝、ラスール朝、イル・ハーン朝などの外部諸王朝はシャリーフ政権内の内部抗争を利用して干渉を行った。干渉の目的は、聖地の支配者としての権威の獲得および商業・巡礼ルートの中継地点を支配下におくこと、マクス収入の確保であり、この目的を達成するために軍事遠征、シャリーフらの信奉していたザイド派への宗教的弾圧、徴税権や任免権などへの干渉を行った。シャリーフ政権はこれらの諸王朝の勢力を均衡させることによりアミール権の安定をはかり、一時的には成功を収めたが、その後の度重なる外部からの干渉と各シャリーフへの軍事援助によりシャリーフ間の対立が激化し、シャリーフ政権は弱体化した。以上のような支配実態・国際関係から、シャリーフ政権とは、個々のシャリーフらによる諸都市の分立統治体制であり、これに対して外部諸王朝が、巡礼・商業路の中継地点であったメッカを支配することによって得られる商業利益と、メッカを支配することによってイスラム世界において得られる権威を求めて干渉を行ったことが明らかとなった。このように、政権の内部抗争と外部からの干渉が密接に結びついていたことは、メッカという都市・地域の持つ特殊性と言うことができる。
著者
大坪 玲子
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.10, pp.117-134, 1995-03-31

There have been many political powers through the history of Yemen. Among them are the Zaydi tribes in the Upper Yemen who are still as powerful as they have ever been. The purpose of this paper is to argue that authority of a shaykh (a tribal leader) is based on his success in arbitration, commenting Dresch's papers. Tribesmen are farmers, who live in villages or village clusters and produce very largely for their own subsistence. Villages comprise a section, and sections comprise a tribe. Most of the tribes belong to one or the other of the two confederations: Hashid and Bakil. In this way, tribes have a segmentary system, but tribesmen do not remember detailed genealogical relations. A shaykh comes from a shaykhly family. It is not the rule for a tribe or a section to recognize a single shaykh. He seldom has rights over his tribesmen's land or tax collection. It is therefore by his ability of arbitration that a shaykh can establish and extend his influence. A tribesman has a concept of honour that he must defend himself and those under his protection and keep their peace. If the peace breaks, his honour will be lost. Therefore he will recover his loss by disputing. On the other hand, as a shaykh assimilates his honour to his tribe or section, he will lose his honour by the dispute; accordingly he will be involved in it and recover his honour by success in arbitration. The process of arbitration is as follows; 1) Men at odds choose whom they wish to judge the matter by themselves. They can go to any shaykh with a reputation as an arbitrator. Such a shaykh can extend his influence beyond his tribe and confederation. Men of religious learning can also be arbitrators. 2) Men at odds hand their rifles to the arbitrator, by which it is meant that they ask him to judge their matters and stop disputing themselves. 3) On the other hand, taking rifles as guarantee, the arbitrator takes responsibility for the peace of the arbitration and for the compensation, and is accorded authority to arbitrate the matter. If matters are complicated, he requires each disputing party guarantors to be responsible for the peace and compensation. A breach of the peace during arbitration by someone under guaranty is an insult to the guarantor, as well as to the arbitrator who demands due amends. The arbitrator dialogues with, not commands, men at odds, reaches a consensus, and persuades them to a ccept it. He should use his knowledge (shaykhs know customs and men of religious learning know the shari'a) and possess eloquence. 4) The ties among arbitrator, guarantors and men at odds, formed for a particular matter, is dissolved at the end of the arbitration, which accompanies the return of the rifles. There is an exception to this. Hijrah, a tribal enclave, has a fixed guarantor who is always responsible for the hijrah's peace. Shaykhs with reputations as arbitrators have arbitrated many matters out of their tribal territory. Today they are concerned with state politics and some of them behave as arbitrators. In Yemen, the peace is not coerced but produced through dialogue.
著者
秋葉 淳
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.13, pp.185-214, 1998-03-31

Bilindigi gibi, Osmanli Devleti'nde ulema sinifi, hiyerarsik bir teskilat olarak orgutlenmistir. Dar anlamda Ilmiye teskilati, tarik-i tedris ve tarik-i kaza'dan olusturulmus olup Seyhulislam bu teskilatin en yuksek mevkiinde bulunmustur. Yargiclik ve ogretim gorevini orgutleyen Ilmiye teskilati, ayni zamanda Padisah tarafindan bahsedilen 'ayricalik ve onur'un tahsis duzeni olarak da nitelenebilir. Ulema sinifinin ozerkligi, ayricaligin saglanmasiyla birlikte gelismistir. Bu siki hiyerarsi (kurallara uygun atama ve terfi usulu), ulema atamalarinda dis yetkililerin mudahalelerinin onlenmesini sagliyordu. Ayrica Ilmiye teskilati'ni,'gelir kaynaklarinin tahsis duzeni' olarak nitelemek gerekir. Kadilar mahkeme harglarini, muderrisler vakif ucretini alma hakkini kazaniyorlardi. Bu yuzden istekliler ulema mesleginde yogunlasmistir. Bu acidan siki hiyerarsik sistem, aday kalabalikligini kontrol etmek icin kurulmus denebilir. Bu mesleklerin gelir kaynagi olma niteliginin dogal sonucu olarak itibari memuriyetler meydana gelmistir. Itibari paye sahibine tahsis edilen kadilik geliri olan arpalik, bu gelismeyi anlatan en iyi orneklerdendir. Kadilik gorevi cogu zaman naib tarafindan yerine getirildigi gibi, muderrisler de artik atandiklari medreselerde ogretmenlik yapmiyorlardi. Muderrislik gorevini haiz olanlarin cogu camilerde dersiamlik yapiyorlarsa da, daha cok kazanc isteyenler, kadi naibligi, veya Seyhulislam ve Kazasker gibi yuksek rutbeli ulemanin dairelerinde katiplik vazifelerini goruyorlardi. Naiblikler ve katiplikler, cogu kez rutbe sahipleri ile kisisel iliski kuranlara tahsis ediliyordu. XVIII. yuzyildaki bazi buyuk ilmiye ailelerinin hakimiyeti, yukarida anlatilan Ilmiye teskilatinin niteliklerinden meydana gelmistir. Ilmiye teskilati reformu 1826 yilinda baslamistir. Bu yil eski Aga Kapisi, Seyhulislam dairesine (Bab-i Fetva) cevrilmistir. Daha once Seyhulislam, Kazasker, ve Istanbul Kadisi, kendi konaklarinda gorev yaparlardi. Resmi ofislerin kurulusundan sonra buralarda hizmet eden katipler, resmi memur sifatini almislardir. Bab-i Fetva giderek burokratik bir orgute dogru gelismistir. 1855 yilinda Tevcihat-i Menasib-i Kaza Nizamnamesi ve Nuvvab hakkinda Nizamname ilan edilmistir. Birincisi kadilik verilmesi hakkinda ayrintili bir duzen kurmussa da kadilik artik sirf itibari rutbe haline gelmisti. Naiblik ise kadiligin yerine fiili ser'i hakimlige cevrilmistir. 1854 yilinda Mu 'allimhane-i Nuvvab (Mekteb-i Nuvvab) ve sonra Meclis-i Intihab-i Hukkamu's-ser'(Ser'i Hakimler Secim Meclisi) kurulup naiblerin secim usulu duzenlenmistir. 1864 tarihli Vilayet Nizamnamesi'nde her vilayete mufettis-i hukkam atanmasi usulu konulduktan sonra 1872 tarihli Mahakim-i Nizamiye hakkinda Nizamname ile her vilayet, sancak ve kazaya naib atanmaya baslanmistir. Ser'i mahkemenin yargi usulu de turlu talimatnameler ile islah edilmistir. Naiblik teskilatinin kurulmasinin yani sira yeni yargi sistemi (mahakim-i nizamiye teskilati) kuruldugundan naibin yetkisi azalmisti. 1888 tarihli irade-i seniyede ser'i ve nizami mahkemelerin gorevlerinin ayrilmasi belirlenmistir. Ser'i mahkemelere sadece evlenme, miras ve vakifla ilgili idare ve yargilama yetkisi birakilmistir. Fakat nizami mahkemelere atanacak hakimler suratle yetistirilemediginden naibler onlarin gorevlerini de yapmislardir. Kaza bidayet mahkeme reisligi ve sancak ve vilayet mahkemesi hukuk dairesi reisliginin bir cogu, Imparatorlugun sonuna kadar naiblere havale edildi. 1909 yilinda Beyanu'l-hak dergisinde "Cem'iyet-i Ilmiye-i Islamiyenin Hukkamu's-ser' Kismi tarafindan Meb 'usan-i Kirama takdim olunan Idyihadir" adli reform tasarisi yayimlanmistir. Tasari, mahkeme usulunun duzenlenmesi ve naib seciminde Mekteb-i Nuvvab mezunlarinin tercih edilmelerini temel amac almistir. Bu tasarida onerilenlerin bir kismi II. Mesrutiyet doneminin ilk yillarinda gerceklestirilip, mektepli olmayan naibler imtihana tabi tutulmaya baslanmistir. Sonunda 1913 tarihli Hukkam-i Ser' ve Me'murin-i Ser'iye hakkinda Kanun-i Muvakkat ile mektepli naiblerin taleplerinin cogu yerine getirilmistir. 'Naib' adi 'kadi'ya cevrilmistir. Butun ilmiye memurlarinin atanmalarinda rutbelerinin goz onunde bulundurulmamasi ve Bab-i Fetva'ya katib alinmasi durumunda Medresetu'l-kuzat (eski Mekteb-i Nuvvab) mezunlarinin baskalarina tercih edilmeleri kurallastirilmistir. Naiblikte reform surecinin bir sonucu olarak, mezuniyetinin sagladigi uzmanliga guvenerek statusunun emniyetini ve ilerleme imkanlarini sorgulayan -ve Padisah tarafindan bahsedilen onur ve ayricalik sayesinde serbestlik saglanan ulemadan tamamen farkli olarak-, yeni bir ulema tipi dogmustur. Bu yeni ulema mulki memurlara daha yakinlasmis ve 1917 yilinda Ser'i mahkemeler Adliye Nezareti'ne baglandigi zaman bunu memnuniyetle kabul edenler bile bulunmustur. Yukarida anlatilan gelismenin yani sira Ilmiye teskilatinin daha ziyade dini islerle ilgilenme yolundaki degismesi de gozlenebilir. Bab-i Fetva'da kurulan Meclis-i Mesayih (Tarikat Seyhleri Meclisi), Teftis-i Mesahif-i Serife Meclisi (Mushaflar Teftis Meclisi) ve Tedkik-i Mu'ellefat-i Ser'iye Hey'eti (Ser'i Eserler Inceleme Heyeti) bunun en iyi orneklerindendir. Medreseler de dini bilimlerin ogretim organi olarak nitelenmislerdir.
著者
板垣 雄三
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.16, pp.1-26, 2001-03-31

筆者は,長年にわたり,中東の地域的特質を明らかにするための研究を行ってきた。その過程で,筆者がいだいた着想と見解について検討・調査をかさね,その確かさをしだいに確信するようになった。それは,中東人にとってのアイデンティティー複合という注目すべき現象こそ,その地域の社会・文化を全体的に把握するためのキーワードであり,錯綜する現実を解明する糸口だということであった。研究作業の過程において,知見・発見の成果の輪郭を説明する目的で,多数の図が作成された。本稿は,それらの図のうちより選び出したいくつかを,中東の政治文化ならびに中東に対する文明戦略を考察することへと導く教育のために教材として活用することを提案しようとするものである。この図解による教育スキームの検討と解説の作業を通じて,以下の結論が導きだされた。すなわち,中東研究の専門家は世界研究(グローバル・スタディーズ)の一般に通暁しなければならず,また世界研究のジェネラリストは中東に関する十分な知識を要求される,ということである。すべての学生に中東の視点から世界を理解する基礎訓練を施すことには,特別の意義が認められなければならない。またその場合,中東問題そのものの性質のために,多専門的アプローチへの志向が重要な意味をもつのである。図解教材においてとりあげられる問題は,以下のとおりである。01 19世紀のオリエント概念 02「冷戦」下の中東概念 03 中東と中央アジアの連結の新段階 04 地域としての中東を超えた中東問題 05 ポスト冷戦期の世界=「世界の中東化」06 十字軍 07 東方問題 08 西欧の発明としての「二つの世界」論と「モザイク社会」論 09〜14 パレスチナ問題 15 ヨーロッパ中心主義の鋳造 16 中東における「族」的結合の可変的形態 17 中東の宗教・宗派一覧 18 n回繰り返された神の啓示 19 アイデンティティー複合の三つのパターン 20 個人の内面のイメージ 21〜25 n地域 26 社会契約局面1 27 社会契約局面2 28 ジハード 29 イスラーム経済論における経済活動 30 市民社会の推進力 31 世界史における近代化過程 32 B.ルイスが示唆する理解モデル 33〜36 イスラーム文明のネットワーク化過程のもとでの近代化 37 ユーラシアの諸文明 38〜39 文明戦略マップ
著者
アブドゥッラー・ハンナ
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.4, pp.141-174, 1989-03-31

デール・アティーヤ(文語ではダィル・アティーヤ)は、ダマスカス地方の山麓地帯に位置している.年間雨量は200mmを越えない.降雨は冬期に集中している.灌漑地は、ローマ式運河によって灌漑されている.この運河は、崩壊したあと、14世紀半ばに改修された.この灌漑地は穀類の作付や果樹が中心であり、土地所有では小土地所有が支配的である.他方、非灌漑地では穀類が作付られ、羊や山羊などの飼育が行われているが、このデール・アティーヤ村の非灌漑地は農民の共有地であった.19世紀末期に、デール・アティーヤからダマスカス市に移住する傾向が現れた.これは、ダマスカス市内の建築現場に職を求めての移動であった.また、1895年から1940年にかけて、多くの若者がラテン・アメリカに移住した.かれらの大半は移住地に定住したが故郷の近親者に送金を行っていた.これは、デール・アティーヤ村の復興と発展をもたらした.さらに、ダマスカス市や湾岸産油国への大規模な労働移動が起こった.この出稼ぎによって多くの労働者が豊かになり、村に大きな家を建築した.これは、村の景観を一変した.そして、村の人口は、15,000人に達した.デール・アティーヤ村の社会は、20世紀前半において、富農、中農、貧農、職工、および牧羊者から構成されていた.富農は、1926年に国有地を購入した.この国有地は、もともと村の共有地であったが、有力者たちがこれを一度国有地に転換したあと、問題にならないほど安い価格で手に入れた.富農たちは、古いローマ式運河を改修し、1937年には、そこに農業用水を引き入れた.これら一連の措置は、中農や貧農の怒りを買った.かれらは、富農による土地や水利の独占的な支配に対抗するために団結した.これち中農や貧農たちの農民運動は、リーダーとして、国家の日常業務に影響力を持っていた退職警察官を担ぎだした.農民たちは、村の各ハーラ(居住区)を代表する24人の農民で委員会を構成した.1942年には、配水の管理を行うため最初の農業協同組合を設立した.事実、1943年と1944年に、土地と水を手に入れたい一心の農民たちによって、5kmにも及ぷ運河が開削された.しかも、この作業は肉体労働によって原始的な手段で実施された.農業協同組合の規定は、1943年に発布され、1951年に改正された.それによれぱ、組合の目的は、農業用水の引き込みと分配、組合の土地にたいする植林、およびもめごとの話し合いによる解決となっていた.1945年9月、組合の執行委員会は、組合の土地に農民が開削した運河を利用して農業用水を引くことを決定した.土地と水利の所有形態は、もともと共同所有であった.しかし、1951年に、組合員たちに土地が分配されこれらの土地は個別に経営されるようになった.デール・アティーヤでは、外国人の宣教活動により教育が普及していた.1897年、ロシアがオーソドックス派グループを通じて学校を設立したが、これは1918年にシリア国家所有の学校となった.また、デンマーク系のプロテスタント宣教活動も活発となり、カラムーン地域(デール・アティーヤもこの地域に含まれている)に学校をいくつか設立した.さらに、イエズス会派も1920年後に学校を設立した.デール・アティーヤ村には、これらミッション系の学校の他に、コーランを教えるクッターブ(kuttab)もあった.しかし村民の多数派を構成していたイスラム教徒のなかにも教育熱心で上述のミッション系学校に通う者もいた.民族系の初等教育が活発となるのは独立を達成した40年代になってからのことである.それ以後、ミッション系の学校にかわって民族系の学校が次第に普及してきた.1950年、デール・アティーヤに「文化人連盟」が設立され、小学校及びそれ以上の証書をもつ若者たちがこれに加わった。この連盟が設立された本当の目的は、農民を支配していた有力者たちの影響力を弱体化させることにあったと言われている。連盟の規約をみると、第2条で、連盟の目的を規定し、デール・アティーヤの文化的・社会的状況の改善をあげている。このようにして、協同組合の役割は、1970年代の初めに終わりを迎えた。