- 著者
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臼杵 陽
- 出版者
- 日本中東学会
- 雑誌
- 日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
- 巻号頁・発行日
- no.9, pp.1-35, 1994-03-31
本論は,1950年から1951年の2年間にほとんどがイスラエルに移民したイラク・ユダヤ人に関して,1941年にバグダードで起こったファルフードと呼ばれているユダヤ人襲撃事件,ファルフードが契機となって活発化したイラクにおけるシオニスト地下運動,共産主義者とシオニストとの相互関係,そしてイラクからイスラエルへのユダヤ人大規模移民の研究動向を整理する試みである。議論の際に依拠するのは,主にイスラエルにおけるヘブライ語および英語による最近の研究成果であるが,必要に応じてアラビア語による研究にも言及することになろう。イスラエル人研究者(圧倒的にイラク出身者)による研究および記述は概して,シオニズムのイデオロギーを前提として議論を展開する。すなわち,ユダヤ人はファルフードを契機としてイラク社会への同化は不可能となり,ファルフードのような「ポグロム」の再発に対する防衛措置としてシオニスト地下運動が展開された。しかし,パレスチナ問題の展開に対応してイラク政府がユダヤ人に対して抑圧的な政策をとったため,結局,ユダヤ人はイスラエルへの移民の道を選ばざるを得なくなったという説明である。ところが,約12万人のユダヤ人が移民せざるをえなくなった事態はイラクのユダヤ人コミュニティ内部を見ただけでもより複雑な過程を取ったといえる。そこで,大量移民への過程の一端を明らかにするため,シオニスト地下運動のみならず,ユダヤ人共産主義者とシオニストの関係をも検討する。シオニズム以上に若いユダヤ人知識人を動員することのできた共産主義運動はシオニストが提唱するような,移民によってユダヤ人の直面する問題を解決することには反対し,イラク社会への同化による問題解決の方向性を堅持した。しかし,ソ連による国連パレスチナ分割決議への支持(1947年11月)を契機に共産主義者とシオニストとの協力関係の土壌が生まれた。結局,共産主義者はイスラエル国家設立(1948年5月)を機にシオニストと協力してイラクのユダヤ人コミュニティの防衛に当たり,そのほとんどがイスラエルに移民した。イラク社会への同化の立場は伝統的なユダヤ人指導者屑にも共通した考え方であった。しかし1950年3月のイラク政府による国籍剥奪法の制定を契機として,多くのユダヤ人が出国登録をした。その最中,ユダヤ人に対する爆弾爆発事件が起こった。この事件はユダヤ人の出国登録を加速度的に促進することになったが,本論の最終章でこの事件をめぐる議論を紹介して,イラク・ユダヤ人におけるシオニズム運動,共産主義,そして大量移民に関する今後の研究課題を提示したい。巻末に,今後の研究の便宜のため,イラク・ユダヤ人のシオニズム運動,共産主義運動,および大量移民に関するヘブライ語,アラビア語,英語による主要な関係文献のリスト(論文も含む)を,筆者が実際に入手しえた範囲内で付すことにする。