著者
水田 宗子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.41, no.11, pp.1-12, 1992-11-10 (Released:2017-08-01)

近代日本文学は、<公>の男傾域ではなく、女のいる私領域に生きようとする男を描いてきた。家庭に帰ってくる男と、家庭という世俗から色街へ出ていく男、共に、世俗を抜け出す道を、女のセクシュアリティに見出したいと願う。自我に荒れた内面を、女の肉体と母性によって癒されたいと願う男によって観念化された<女>と、その内面劇に要約される<男>に、女性作家は、性的他者として立ち向かうよりは、自らの内面を深層まで下降しようとし、独自な女性文学の世界を展開してきた。
著者
和泉 司
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.62, no.11, pp.13-23, 2013

<p>総合誌『改造』が〈戦前〉に実施していた『改造』懸賞創作と、その当選者たちの当時の〈文壇〉及び現在の日本近代文学史上における存在意義を問い直すことを目的として、その当選者の一人である芹沢光治良に注目した。芹沢の〈作家〉デビューから〈文壇〉における立場を確立させるまでの過程から、〈戦前〉における〈文学懸賞〉とその当選者である〈懸賞作家〉たちの状況を考察し、〈文学懸賞〉である『改造』懸賞創作が現在の〈文学賞〉の発展の基礎となったことを指摘し、その研究の重要性を訴えた。</p>
著者
丹藤 博文
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.2-9, 2005

森鴎外『高瀬舟』を授業で扱った。私の予想に反して登場人物「喜助」に強く印象づけられている読者が多かった。教室の読者に促されるようにして再読し、このテクストの語りの関係性を検討してみたところ、喜助の超越性に読者の思いが向くように仕掛けられており、そのレベルにこそ批評性があることが明らかになった。喜助という他者を読むことがこのテクストの読みである。メディア社会といわれ自己中心的な言説が横行する今日こそ、<読み方>を問題とし、文学作品を深く読むことによって、他者性の衝撃に撃たれることがいっそう重要になることを論じた。
著者
木股 知史
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.47, no.11, pp.12-21, 1998-11-10 (Released:2017-08-01)

『たけくらべ』の結末に描きこまれている「水仙の作り花」については、(1)信如の境遇についての暗示的表現 (2)信如の内面(美登利に対する感情)の暗示的表現 (3)信如と美登利の関係性についての暗示的表現 (4)投影された美登利の内面の暗示的表現 (5)テクストの外から持ち込まれた語り手の介入的メッセージの暗示的表現、というように多義的に理解することができる。多義性をまとめあげるために、<恋愛>という枠組が必要とされ、そのことが理解を拘束していることを検討する。
著者
松田 浩
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.61, no.5, pp.2-12, 2012

<p>万葉集には、五十数例の「いはふ」という語が見られる。本特集の呼びかけ文にあるように、現今、万葉集のテキストも電子化され、検索機能を用いれば瞬時にその用例を並べることもできる。そのことによって、「いはふ」には「いむ」や「まつる」といった言葉との親和性があることが浮かび上がる。だが、それのみでは一つの歌になぜ「いむ」でも「まつる」でもなく「いはふ」が用いられているのか、という問題まではなかなか論じることはできない。本稿では折口信夫の鎮魂論における「いはひ」という概念に注目することによって、万葉集に見られる「いはふ」という語の表現性について考えてみたい。</p>
著者
佐野 正俊
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.56-65, 2012-01-10 (Released:2017-08-01)

太宰治「猿ヶ島」の教材としての価値を、「物語」としての「おもしろさ」にあるとまずは押さえる。その上で、教室の初読の段階において「物語」のレベルで読み、その「おもしろさ」を十分に味わう。次に再読の段階で、一人称の「私」という語り手が気づいていないことを批評的に読んでいく。このような指導過程によって、本作品はこれまでとは大きく違った相貌を見せてくるはずである。
著者
土方 洋一
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.29, no.12, pp.61-73, 1980

Onna San-no-miya's conception is not only an important affair in the second part of The Tale of Genji but also a latent factor for the third part in which kaoru is a hero. After she committed adultery with Kashiwagi, her conception as a result of the night had something to do with his dream of a cat, and miraculously Kaoru was born. It was said that such mysterious rendezvous as in dream brought a miracle of conception for one night. Thee heroines of adultries, Fujitsubo, Onna-San-no-miya and Ukifune composed poems in each of which the word "dream" was included. The purpose of this study is to follow the process from adultry to conception with the clue of the word "dream".
著者
永井 聖剛
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.52, no.6, pp.44-56, 2003

江見水蔭「十人斬」(明二七・九)と田山花袋『重右衛門の最後』(明三五・五)は、もともと同一の事件(山間の小村における放火・殺人)をめぐる報告・記録として記述されたものであるが、その物語行為のあり方は対照的な相貌を見せている。「十人斬」では、犯人自身の自己言及によって放火・殺人に至る過去が構成されてゆくのに対し、『重右衛門の最後』では、当事者の声はつねに「あちら側」に疎外され、それに代わって、語り手が、噂・証言・推測・断言などあらゆる情報を総動員しつつイメージとしての重右衛門を編成してゆくのである。両テクストの相違点を、同時代の〈事実らしさ〉を装う物語行為の状況の中に位置づけようとするのが本稿の試みである。
著者
永井 聖剛
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.6, pp.33-44, 2000

田山花袋の小説は、三人称で書かれているのにもかかわらず、地の文の知覚主体が語り手なのか作中人物なのか判然とせず、結果、語りが一元化されてしまっているかのような印象を与えることが多々ある。そしてこのことは従来、「田山花袋と私小説」という物語を補強する役割を果たしてきた。本稿は、『田舎教師』のある同時代読者の読書の様態を考察しながら、「一人称的に読める」小説文体が、実際のところ、どう読まれていたのかを検証しつつ、「一人称的に読める」花袋の小説を、「私小説」とではなく、明治三十年代の「写実・写生の時代」との連続と差異のうちに評価し位置づけようとするものである。
著者
深沢 徹
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.34, no.9, pp.53-66, 1985-09-10 (Released:2017-08-01)

日記文学作品の構造は、唯一、体験時の<主体>と、その体験を回想し叙述する、執筆時の<主体>との、相互補完的な関係構造としてのみ、抽出可能である。そこで本稿では、『蜻蛉日記』における<主体>の関係構造が、上中巻から下巻に至るにつれて、どのような変様をこうむるかについて論述する。具体的には、夢の<記述>と、その<解釈>を通して、その関係構造が、<対話>から<抑圧>へと向かわざるを得なかった経緯について、跡付けた。
著者
昆 隆
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.37, no.10, pp.1-11, 1988

「こゝろ」の「下 先生と遺書」の、特に叙述の様態について、考察した。Kの自決、殊にも「私」がお嬢さんと結婚して以降(「下・五十一」)の叙述が、ひたすら独白(モノローグ)化して行くのに対して、それ以前、「下・五十」までの叙述は、趣を異にしている。そこには「他者」の「声」がある。だが、若いころの「私」は、それをよく聴き取れたわけではなかった。ではなぜ、現在の「私」は、その叙述の裡に、能く「他者」の「声」を響かせることを得たのか。そこに、追想の問題が生じる。わたしはそれを、<追想-叙述>の機構の不可思議と、名づけてみた。生来の主我主義者(エゴイスト)とも評されるべき「私」が、自身に課せられた制約を乗り超えること、それが、「他者」の「声」に出会うことなのだが、それはいかにして可能だったか。何故というより-である。それを、本文の叙述の様態を考えることを通じて、明らかにしようと、試みた。
著者
高田 衛
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.9, pp.54-55, 2000-09-10 (Released:2017-08-01)
著者
佐藤 泉
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.11, pp.35-44, 2007-11-10 (Released:2017-08-01)

一九五〇年代末、九州の炭鉱地帯で展開された「サークル村」の文化運動は、それ以前の自然発生的な民衆文化運動を自覚的に思想化した点で重要である。本稿は、この運動をリードした詩人・谷川雁のサークル論をとりあげて、共同体としてのサークルと集団的な創作主体がどのように論理化されたかを考察する。日本の戦後思想の布置において、「村」「共同体」は個人の自由を拘束する悪しき結束であり、克服すべき前近代のシンボルとして語られてきた。しかし、五〇年代後半になって、個人の確立を掲げる戦後思想の有効性は薄れていた。経済および社会の構造再編が進むなかで、社会運動と労働運動が急速に力を失っていったためである。個人の確立に変えて、共同体の再構築が必要だと判断した谷川は、新たな連帯の思想を実践する場として文化サークルの運動に注目していた。民衆は潜在的なエネルギーを秘めている。しかし革新政党や労働組合は、民衆の力や欲望を適切に代表していない。そのため、しばしば民衆の力は、ファシズム的な表象によって奪われる。民衆の力を誰がどのように表象するかが重要な問題である。そこで、谷川は、民衆が自らを表象し、それによって自己を再想像する場として文化運動を活性化する必要があると考えた。谷川は、文化運動の場を「村」と呼び、創作の主体を個人ではなく集団としたが、そのためには戦後思想としての近代主義、個人主義の言説と対決する必要があった。この時期の谷川の言語活動によって語り変えられた「共同体」は、伝統的な共同体の権威主義、閉鎖性を克服することに成功しており、そのため、コミュニティの再構築が課題となった現在、多くの手がかりを与えるものとなっている。
著者
塩崎 文雄
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.4, pp.70-71, 2006