著者
和田 敦彦
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.8, pp.45-57, 2000

ここでは、書物対読者という関係を越えて、現代の多様な情報の様式の中で、それを理解、解読してゆく私たちの行為をどのように問題化してゆくべきかを考える。特に、その中でも急速に普及しつつあるビデオゲームと享受者の関係をとりあげ、その享受において見いだすことのできる独自の問題を明確にし、その検討を通して、現在の私たちの読書行為を考えるうえでの有効な視点、方法について考える。
著者
内藤 まりこ
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.7, pp.14-24, 2011

<p>「和歌」という詩的言語には、「叙景」と呼ばれる表現方法があるとされる。「叙景」の方法は古代にまで遡るとされるが、「叙景」という言葉は明治二〇年代に初めて登場した。本稿では、まず、「叙景」の成立を明らかにし、「叙景」の方法が古典詩歌の解釈の枠組みとなるまでの過程を考察する。次に、中世の「叙景歌」と呼ばれる歌について、「叙景」の枠組みでは捉えきれない歌の構造を、人称を手がかりに解き明かす。</p>
著者
小二田 誠二
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.34-43, 2012

<p>近世の実録は、実在の事件に取材しながら、書写、伝承していく過程で、場合によっては荒唐無稽と思われるような変容を遂げる。それは、現代の科学的思考から見れば「非・事実」、「虚構」である。しかし、そうした虚構によってこそ「事実」は言語化できるとも考えられる。具体的な資料を検証できる実録を材料とすることで、我々にとっての事実とは何か、記録する営みとは何か、と言う文学の根源的な課題に近づくことができるだろう。</p>
著者
大隅 和雄
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.31, no.1, pp.71-77, 1982-01-10 (Released:2017-08-01)

The Taiheiki contains many passages which allude to and introduce passages from the Chinese classics. ln order to study the function of Chinese topics in the Taiheiki,I studied the distribution pattern of the 385 Chinese who appear in the work. From this study, the Taiheiki appears as a primer of the Chinese classics; the knowledge it offers is based upon that consolidated by the Heian aristocrats and fails to renect any of the new elements of the Kamakura Period.
著者
山本 欣司
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.9, pp.52-60, 2005

小学校六年国語教材「海の命」は、教師用指導書や実践報告等を見る限り、父を殺された太一が、「父を破った瀬の主」を捕らえ父を乗り越えようとするものの、瀬の主を「海の命」と見ることで認識を転換し、共生を選ぶ物語として教授されているようである。しかし、太一から殺意が感じられず、瀬の主への恨みも読み取れないこと、太一の出会ったのが「父を破った瀬の主」かどうか確定できないことなどから、そもそもこの小説は復讐譚的枠組みとは無縁であると考えられる。作品に突然の転回をもたらしたのは、太一がそれまで抱いてきた瀬の主への憧憬であり、海への畏敬の念であった。「海の命」は、与吉じいさの後継者としての太一の生が描かれた作品である。
著者
小二田 誠二
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.38, no.8, pp.75-83, 1989-08-10

近世の仇討小説は厖大な量に上るが、"ワン・パターン″で面白みがなく、個々の趣向でしか評価できない、という見方が強い。しかし、量産された背景には、仇討小説の持つ本質的な魅力があった筈である。本稿では、実録等を材料として、趣向を捨象し、仇討小説の定型を抽出し、仇討小説が定型を保ちつつ史的な流れの中で、仇討とは別の副次的な主題を持って来たことを確認し、近世に於ける仇討小説の意味を考察した。
著者
倉田 容子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.61, no.12, pp.34-44, 2012-12-10 (Released:2018-01-25)

本稿では、『悪魔の手毬唄』の物語構造を一九五〇年代後半の農村表象という文脈から照射し、パロディとして引用された『楢山節考』との批評的距離を検討した。『悪魔の手毬唄』には同時代の農村の「リアリティ」が織り込まれるとともに、「リアリティ」と手毬唄に代表されるフォークロアとの結節点において、戦前・戦後のそれぞれ異質な排除をめぐる暗闘が刻印されている。農村の封建的秩序を主なモティーフとしてきた金田一シリーズの転換を見定めつつ、〈戦後啓蒙〉の語りからも反動的なナショナリズムからも身をそらす『悪魔の手毬唄』の農村表象の位相を明らかにした。
著者
佐々木 孝浩
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.63, no.7, pp.12-20, 2014-07-10 (Released:2019-07-20)

和歌一首をどこで改行し何行で記すかという書式は平安末期には成立しており、定家も『下官集(げかんしゆう)』に関連する記述を遺している。三大手鑑に収載される『新古今集』以降の勅撰集の古筆切八〇葉五七種を対象として、装訂や書形とも関連させつつ、和歌の書式を確認し、行数の違いによる差異のあり方やその意味について考察し、特に一般的な二行書から一行書になる際に起こる、漢字表記の増大化傾向について具体的な検討を行った。
著者
大塚 英志
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.59, no.4, pp.25-35, 2010-04-10

例えばアニメーション作家。新海誠はまず、小説に似たことばを連ね、それを自分で「声」として朗読し、その上に映像絵コンテを重ねていく。そんなふうに「ことば」や「小説」から立ち上がっていくアニメーションがある。あるいは発表者(大塚)が思春期の若者たち、あるいは時に医師を介して臨床の現場で「書きかけの絵本」を渡し完成させるワークショップ。そこでは一人一人が古典的で懐しい「成長の物語」を自ら描くことでささやかな自己治癒を果たしているように思える。「文学」とかつて呼ばれたものを「制度」と批判してみたところで古い文学に涙する学生たちを幾人も見る。「文学」について何かを語り、そして「文学」に何かを取り込み右往左往し、終わりや変容や脱構築を語る場所とは別のところで、「文学」の役割もその作法もいくらでも引き受けている場所がある。あるいは引き受ける方法がある。ただ、それを「文学」と呼ぶことはもう必要ない。必要なのは文学の役割であり、そう呼ばれることをめぐっての他愛のない何かでは多分ない。
著者
田中 徳定
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.52, no.7, pp.1-11, 2003-07-10

「家」の永続性は祖先崇拝と表裏一体となっている。それゆえ、歴史学における「家」成立の研究では、祖先祭祀の観点から多くの成果が積み重ねられてきた。本稿では、「木幡寺呪願文」の分析から、藤原氏の木幡墓所が、子孫繁栄を願って四神相応の地に点定され、さらに仏教による祖先祭祀が行われていたこと、その後も藤原「氏」繁栄の基盤として認識されていたことを明らかにした。また、中世に氏から家が分立していく藤原氏の祖先祭祀では、各家の始祖が建立した寺院が「家」の精神的紐帯となっていくことを考察した。
著者
品田 悦一
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.51, no.4, pp.1-13, 2002-04-10 (Released:2017-08-01)

『万葉集』のことばは、それを使用した古代人にとっては決して国語ではなかった。それは畿内の貴族たちのことばであり、また倭歌という特殊な文化を背負う言語であって、古代国家の版図の津々浦々に通用するような性格は持ち合わせてはいなかった。明治中期に過去の諸テキストから国民の古典が選出されたとき、それら諸テキストの使用言語は過去の国語として追認された。とりわけ『万葉集』のことばは、国語の「伝統」の栄えある源泉として仰がれ、この観念のもと、万葉調の短歌がさかんに創作される。興味深いのは、近代短歌の使用言語が、古代語そのものでも、それと現代語との混融物でもなかったという点だろう。伝統の復興であるべきものが、その実、いまだかつて存在しなかった言語を新たに作り出してしまったのだ。その言語は、しかも、歌壇の外側にはほとんど通用しないという点で、事態を導いた「国語」の理念を裏切ってもいた。素朴で自然で、原始的生命力に満ちていて、そのうえ意味不明な言語。こいつはいったい、なんという鵞鳥だい。