著者
岡本 弘道
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.89-98, 2012-03-01

1609年の琉球侵略から1879年の琉球処分に至るまでの「近世琉球」期は、明清両朝への朝貢・冊封関係、そして島津氏およびその上位の徳川幕府に対する従属関係が琉球王国を規定した時期である。そのため、明清両朝の華夷秩序と近世日本の日本型華夷観念との衝突やその中で生じる矛盾を琉球は抱え込まなければならなかった。17世紀末頃までにその枠組みを確立した琉球の外交は、島津氏と幕府に対する対日外交、そして朝貢使節の派遣と冊封使節の迎接に代表される対清外交に大別される。両者は琉球の「二重朝貢」として並列されることもあるが、その位相は全く異なるものであり、琉球の外交に制約を課すとともにその国内体制とも密接に絡み合い、逆に琉球の存在意義を保障する役割を果たしていた。 近世琉球期の外交については、既に重厚な研究蓄積が存在するが、本報告ではそれらの成果に依拠しつつ、その国際的位置づけと外交の枠組みに関するいくつかの問題について検討を加え、その中に見いだせる「主体性」もしくは「自律性」について考えてみたい。
著者
チョン ダハム 金子 祐樹
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.67-88, 2012-03-01

朝鮮初期の敬差官は従来、主に朝鮮王の命を受けて朝廷から地方の行政区域に派遣されたものと理解されてきたが、実際には女真や対馬へ長期にわたって派遣されていた。この事実は、韓国の歴史研究者の大多数が半世紀にもわたって述べてきた「交隣」という枠組みの根本的問題点を我々に示している。「交隣」の枠組とは大いに異なり、朝鮮は非常にダイナミックな手法により「小中華」という自身のアイデンティティを想像していた。当時の東北アジアの情勢下で朝鮮は、太祖李成桂がもたらした女真族と対馬島に対する勝利を歴史編纂の過程で儒教的名分論によって粉飾し、両者に対する「上国」としての地位を公式化する作業を進めていった。明が朝鮮を藩国と位置づけたように、朝鮮もまた彼らを朝鮮の藩籬・藩屏と規定したのである。敬差官とはこうした歴史的な文脈を受け、明が藩屏(朝鮮)に派遣する欽差官の制度を借用しつつ、これを一段低める修辞的技巧によって登場したものであった。これにより朝鮮は、女真族と対馬島への優位を確認しつつ、同時に明の臣下たる者として私かに他の勢力と交流してはならないという明中心の東アジア秩序に逆らわない巧妙さを発揮することができた。朝鮮初期におけるこうした外交のあり方は、明中心の東アジア秩序を強調する「事大」や、外国勢力の侵略による近代化の失敗への被害意識から、朝鮮の女真と対馬への侵略を認めようとしない「交隣」という視座では説明しがたく、東アジアの辺境である女真・対馬・朝鮮の間における地域秩序と関係性形成の脈絡を、リアルに伝えてくれる。原著:チョン ダハム翻訳:金子祐樹
著者
キム サンヒョプ
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ3 『陵墓からみた東アジア諸国の位相―朝鮮王陵とその周縁』
巻号頁・発行日
pp.63-86, 2011-12-31

朝鮮王陵の石室玄宮は,初期から造成が行われた。またそれまでの古制が研究・整理され,世宗代には『五礼儀』が編纂された。その後,世祖の遺命により,玄宮は石室でなく灰隔で造成されるようになった。 石室玄宮には単陵と双陵,合葬陵があるが,築造に使用される石材には違いがある。単陵と双陵は,壙中に旁(傍)石と北隅石,蓋石,加置蓋石,門立石,門閾石,門扉石,門倚石などが置かれる。石室の上部には蓋石が置かれ,蓋石の下面は,北隅石と両旁石,門立石などと組み合うよう,加工されている。 合葬陵では単陵の部材に加え,仕切として隔石が設けられる。隔石は中央に窓穴が両側に空けられ,石室中央に南北方向に置かれる。隔石と北隅石や,北隅石と両旁石は,抜けたり倒れたりしないよう,接合部が加工されている。このように,単陵と双陵は蓋石を中心に玄宮が造成され,『五礼儀』編纂時の合葬陵は,隔石を中心に東・西室を分ける玄宮が造成された。 玄宮の下部には床面が設けられるが,この床面は,単陵と双陵の場合は雑石と土で突き固められ,合葬陵では炭粉と三物(漆喰,細砂,黄土を混ぜたもの),銅網などを用いて堅固に造成された。こうした方法は『世宗実録五礼儀』や『国朝続五礼儀』に記載されており,古制の研究により生み出された石室玄宮の発展型と言えよう。 いっぽう世祖の光陵以降,王陵には石室が用いられなくなり,「灰隔」の玄宮が登場する。灰隔とは朱子が著した『家礼』に登場し,朝鮮時代初期における儒教理念の浸透とあいまって広く普及していった。 灰隔の玄宮は,まず壙を掘り,壙の下で炭末に火をつけて焼き,三物で床面を突き固める。次に傍灰を設けるが,その方法は二つに大別される。こうした工法は石室玄宮とは異なるが,概念は同じものと考えられ,旧禧陵の発掘調査によっても確認されている。
著者
吾妻 重二
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
東アジア文化交渉研究 = Journal of East Asian Cultural Interaction Studies (ISSN:18827748)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.47-66, 2009-03-31

In this paper, education and Gaku Juku of the key persons who dictated the acceptance of Neo-Confucianism in the early Edo period, such as Seika Fujiwara, Sekigo Matsunaga, Kyoan Hori, Razan Hayashi, and Gaho Hayashi, are discussed. Needless to say, it is due to acquired education that wisdom and thoughts are transferred and reproduced and "cultures" are formed. I'd like to consider how they viewed Confucian cultures in China and Korea and how those Confucian cultures were accepted in Japan, especially taking influences from and comparisons between China and Korea. The establishment of Byo-gaku system by Razan Hayashi and development of Gaku Juku organizations and educational rules by Gaho Hayashi are revaluated while the development of their visions of Gaku Juku is traced from the viewpoint of cultural interaction.
著者
深澤 秋人
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ5 『船の文化からみた東アジア諸国の位相―近世期の琉球を中心とした地域間比較を通じて―』
巻号頁・発行日
pp.37-48, 2012-01-31

近世琉球の首里王府は、那覇と鹿児島を結ぶ鹿児島航路に楷船・運送船・馬艦船、福州とのあいだの福州航路には進貢船や接貢船などいずれもジャンク船タイプの定期便、ほかにも臨時便を派遣していた。両航路の乗船者のなかでも、船舶乗組員である「船方」は、責任者である船頭、船頭を補佐する佐事、熟練者と思われる定加子、水主などから構成されていた。出身地は那覇や久米村などの町方(都市部)、慶良間島(渡嘉敷間切と座間味間切)と久高島(知念間切)の島嶼部に限定される。 本稿では、いずれも臨時便であるが、1734年に福州に派遣された護送船の「船方」、1850年代に鹿児島に派遣された飛船(飛舟)の乗組員について、基本的な検討を加えた。 前者では、佐事と水主の人選が短期間で行われたこと、その人数はのちの規定より小規模であったこと、那覇の渡地村と久米村出身の経験者が多かったことなどを明らかにした。 後者では、小型の馬艦船とくり舟五艘組が飛船として用いられていたこと、船頭は久高島の出身者が多いこと、くり舟五艘組の乗組員の人数は15人に固定され、経験豊富な久高島出身者で構成され、その航跡も特徴的であることを明らかにした。さらには、夏楷船の「船方」のなかに、久高島出身者の集団が形成されていた可能性をも指摘した。
著者
松原 典明
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ3 『陵墓からみた東アジア諸国の位相―朝鮮王陵とその周縁』
巻号頁・発行日
pp.181-194, 2011-12-31

日本の近世における「王権」の墓制についてその歴史的な系譜と展開を示すことを目的とする。特に天皇家,将軍家,大名家に視点を当て,支配者階級における造墓に対する意識が,古墳時代以来改めて「象徴」として意識されたことを,墓の規模,構造,その変遷,宗教,思想などを通して捉えてみたい。具体的には,近世天皇家と将軍家の墓の規模の比較検討をする。将軍家の墓制については,特に将軍が霊廟として祀られるが,その系譜は,中世禅宗における開山堂,昭堂の系譜にあることを類例など確認しながら示した。さらに,将軍を中心とした実質的な権力下にあった構成員である大名の墓制の実態と,造墓の背景となった,思想,宗教,政治的な関係について類例を示しながら紹介した。結論的には,特に近世初期における大名家墓所造営において遺骸を埋葬する場合,朱子『家禮』の葬制に則った埋葬が行われ,後の供養は仏教的な様式に従ったことを指摘した。近世初期大名家墓所造営における儒教受容の一端を先学の研究に導きられながら明らかにした。
著者
內田 慶市
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
東アジア文化交渉研究 = Journal of East Asian Cultural Interaction Studies (ISSN:18827748)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.191-198, 2012-02-01

The infl uence of Jean Basset’s translation of the Bible into Chinese on Robert Morrison’s translation of the Bible into Chinese is well known. There are four groups of manuscripts for Basset’s translation. This research will present an initial consideration of the formation process of these manuscripts, after which the connection with the Morrison translation shall be explored.
著者
鄒 双双
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
東アジア文化交渉研究 = Journal of East Asian Cultural Interaction Studies (ISSN:18827748)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.89-101, 2012-02-01

This paper discusses how Qian Daosun, famous for his translation of the Man’yōshū, was described in Japanese materials. Despite Qian Daosun’s contributing greatly to the translation of Japanese literary works into Chinese, he is a poorly understood fi gure in China as he was sentenced and sent to jail as a traitor by the Kuomintang government, which discouraged later research.There are, however, materials about Qian in Japan, written by Yoshikawa Kojiro and others, through which it is possible to understand Qian’s public image in Japan and develop some idea of what he was like as an individual. Qian was regarded as a serious teacher and a kind-hearted scholar, taking care of Japanese overseas’ students in Beijing. Some articles depict Qian as experiencing psychological confl ict owing to his ambivalence on the tense relations between China and Japan, and that he showed indomitable courage in protecting Chinese culture from destruction by the Japanese army during the Second Sino-Japanese War.
著者
宮嶋 純子
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ1 『東アジアの茶飲文化と茶業』
巻号頁・発行日
pp.119-128, 2011-03-31

本稿は,2009年7 月28日(火)から8 月5 日(水)にかけておこなった「沖縄における茶文化調査」に基づく,近現代の沖縄における茶業史と茶文化に関する報告である。近現代の沖縄における茶樹栽培の歴史は,紆余曲折を経ながらも定着と発展がはかられてきた。その努力と工夫は現在に至るまで,形を変えながら受け継がれている。一方,消費という面から見れば,さんぴん茶に代表されるように,沖縄における飲茶の主役は常に中国・台湾・日本という周辺諸地域からの輸入茶であったといえる。このような茶文化の発展と展開と可能にしたのは,沖縄が周囲の情勢に応じて様々な地域から茶を輸入することのできる「周縁」であり,その周縁性が保持され続けてきたからにほかならない。
著者
篠原 啓方
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
東アジア文化交渉研究 = Journal of East Asian Cultural Interaction Studies (ISSN:18827748)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.33-39, 2011-03-31

While only twelve characters were engraved on the surface of a small copper bell from the Goguryeo period that was discovered in the Taewang imperial tomb in Jian City, the inclusion of three characters, 好太王 hotaewang, make this bell a document of great historical importance. There are various suggestions for one of the characters in this inscription. This author argues that one of the characters is 教 from its similarity with the 漢簡 han wooden strips script style.
著者
篠原 啓方
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.19-30, 2012-03-01

4-5世紀の高句麗は、漢字文化を受容・運用して政治体制を整えたが、高句麗における「漢字文化の普及」は「漢化」とは必ずしも一体ではなかった。ゆえに用語や表現のみを中国的な文脈で判断することは危険であり、地域研究のアプローチとしてふさわしいとは思えない。 また本稿は「中心」と「周縁」という二つの視点を対比させ、両者の拮抗と均衡の模索という様相について考えた。高句麗は外部からの「周縁」という位置づけを認識するいっぽう、自身を中心とした「周縁」へのまなざしを持っていた。この二つの視点・文脈を以て周辺世界とかかわっていたことが、東アジアにおける「個」としての高句麗を維持し得た原動力につながっていたと思われる。
著者
西村 昌也
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ1 『東アジアの茶飲文化と茶業』
巻号頁・発行日
pp.75-93, 2011-03-31

中国文化の影響の強いベトナムでは、中国の茶飲習慣受容や茶自体の輸入を古くから行っている。その一方、生茶、竹筒茶、さらには茶とは別種の植物の葉を用いる苦茶などの茶的飲料など独特の茶飲習慣もみられる。東アジア的視点では9 -10世紀頃の越州窯系陶磁器の輸出にともなう茶飲習慣あるいは茶器セットの伝来、17世紀後半から18世紀にかけての煎茶的飲茶習慣の伝来が、ベトナム茶飲史における大きな画期になっていると思われる。また李陳朝以来、仏教(禅宗)との関係も深い。そして、フランス植民地時代には茶業の大規模な拡大があり、それが今日の茶飲慣習の普遍化を促進している。