著者
下定 雅弘
出版者
中國文學會
雑誌
中國文學報 (ISSN:05780934)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.22-47, 1974-10
著者
櫻井 準也 Junya SAKURAI 尚美学園大学総合政策学部 Shobi University
出版者
尚美学園大学総合政策学部総合政策学会
雑誌
尚美学園大学総合政策論集 = Shobi journal of policy studies, Shobi University (ISSN:13497049)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.1-17, 2018-06-30 (Released:2018-10-04)

本稿では神奈川県横須賀市で発掘された高度経済成長期のゴミ穴に廃棄された生活財について紹介する。廃棄された生活財には陶磁器、ガラス製品、金属製品、プラスチック製品など様々な素材が使用されており、その種類では薬品、日用品、調味料、化粧品が全体の10%を超え、当時の日常生活を反映するものである。調査の結果、これらの生活財は都市銀行の寮で消費されたものが廃棄されたものであり、廃棄年代は1960年代中頃であることが判明した。さらに、同時期の一般家庭の資料との比較によって、この資料の性格が行員寮における消費生活を反映していることもわかった。この資料はわが国の高度経済成長期の日常生活の実態を知る手掛かりとなるものである。 In this paper, I introduce the life goods discarded into the garbage pit of the rapid economic growth period in Yokosuka-city, Kanagawa prefecture. Various materials, such as pottery, glassware, metal goods, and plastic article, are used for the discarded life goods. and if it totals for every kind, medicine, daily necessaries, seasonings, and cosmetics are over 10% of the whole rate, and it reflects everyday life of those days. As a result of investigation, it became clear that these life goods were consumed in the dormitory of the city bank, and the discarded age was middle of the 1960s.Furthermore, the feature of these materials also understood reflecting the consumption habits of dormitory by comparison with the materials of ordinary home of the period. These materials serve as a key which knows the actual condition of the everyday life of the high economic growth period of Japan.
著者
中川 敏宏
出版者
専修大学法科大学院
雑誌
専修ロージャーナル = Senshu Law Journal (ISSN:18806708)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.153-166, 2013-01-25 (Released:2013-05-14)

2012年5月24日,韓国大法院は,日本による植民地統治下において三菱重工(旧三菱)・不二越により強制徴用を受けたとして,その被用者らが同会社を相手に損害賠償と未払賃金の支払いを請求した事件において,原審である釜山高等法院が同じ請求を棄却した日本における判決(最高裁で本件原告らが敗訴確定)を受け入れ原告らの請求を棄却したのに対して,その原判決を破棄し,釜山高等法院に事件を差し戻した。この日本企業に対する戦後補償の可能性を認めた大法院判決は,韓国のマスコミでも大きく取り上げられ,さらなる追加訴訟を提起する動きも伝えられている。その意味で,本判決は,韓国において,対日本企業のみならず対日本国の戦後賠償問題に関し象徴的な意味を有するものになるであろう。本判決については,今後わが国でも様々な観点からの検証・分析が求められるが,そのような多角的な検証・分析は訳者の能力の域を出ており,ここでは,本判決の重要性に鑑み,公表されている三菱重工に対する訴訟の大法院判決を取り上げ,判決文の翻訳を試みたい。翻訳に際して,できるかぎり原文のニュアンスを尊重したが,日本人読者への便宜から,日本における一般的呼称等に従っている箇所がある(例えば,韓国と日本を指す際,韓国語では「韓日」と表現されるところは「日韓」と訳出している)。
著者
馬場 靖人
巻号頁・発行日
pp.4-249, 2017 (Released:2017-11-13)

早大学位記番号:新7586
著者
針谷 寛
出版者
一橋研究編集委員会
雑誌
一橋研究 (ISSN:0286861X)
巻号頁・発行日
vol.7, no.2, pp.47-61, 1982-07-30

論文タイプ||論説
著者
針谷 寛
出版者
一橋研究編集委員会
雑誌
一橋研究 (ISSN:0286861X)
巻号頁・発行日
vol.6, no.4, pp.45-58, 1981-12-31

論文タイプ||論説
著者
針谷 寛
出版者
日本評論社
雑誌
一橋論叢 (ISSN:00182818)
巻号頁・発行日
vol.91, no.5, pp.659-678, 1984-05-01

論文タイプ||論説
著者
王 屶瀟
巻号頁・発行日
2017 (Released:2018-03-01)
著者
大野 はな恵
巻号頁・発行日
2015-11-26 (Released:2017-10-23)

学位の種別: 論文博士 審査委員会委員 : (主査)東京大学教授 長木 誠司, 東京大学教授 河合 祥一郎, 東京大学教授 Hermann Gottschewski, 国際医療福祉大学教授 新美 成二, 東京大学 岩佐 鉄男
著者
砂澤 雄一
巻号頁・発行日
(Released:2017-06-01)

マンガ研究において、改稿の有無を確認しどのテクストをもって定本とするかは研究の第一歩である。改稿データを研究者が共有し、客観的に妥当だと認められたテクストを策定する作業は、今後のマンガ研究において欠くことのできない重要なステップであると考える。本稿ではこうした基礎研究を「生成論的研究」と位置づけ実践するとともに、今後の多くのマンガ研究で行われることを提唱するものである。\n\n宮崎駿の唯一の長編マンガ『風の谷のナウシカ』(以下『ナウシカ』と略す。アニメ版の同名作品を指す場合はその都度「アニメ版」と付す)は、「アニメージュ」連載時と「アニメージュコミックスワイド版」刊行時との間に相当数の異同が見られる。また、「腐海は、人類が汚染した大地を浄化するために生まれた生態系」というアニメ版のコンセプトが、マンガ版では相対化され、「腐海は、旧人類が人工的に作り出した清浄化システムであった」というものに変更されている。これは、読者の意表を突く「どんでん返し」だった。\n本稿は、改稿分析を通じて「改稿はなんのために行われたのか」と「〈どんでん返し〉を宮崎駿は何時の時点で着想したのか」という二つの点について考察することを目的としている。\nこのことについて、第1章では執筆経緯と当時の世界情勢、先行作品や後続作品との影響関係を、第2章では第1巻から第7巻までの具体的な改稿箇所を、第3章では先行論文について検証し分析した。\n \n『ナウシカ』は、1982年2月号から1994年3月号まで足かけ13年連載された。連載時には国内外で世界史的な出来事が立て続けに起こった。1986年4月チェルノブイリ原発事故、1989年1月昭和天皇崩御、2月手塚治虫死去、6月天安門事件、11月ベルリンの壁崩壊、12月冷戦終結、1990年10月東西ドイツ統一、1991年12月ソ連邦崩壊、1992年ユーゴスラビア解体などである。宮崎に最も大きな衝撃を与えたのはユーゴスラビア紛争であった。「人間は同じ過ちを何度でもする」と痛烈に感じたからだ。それは1983年に亡くなった母・美子の口癖であった「人間はしかたのないものだ」を思い出させた。母の言葉は、尊敬する司馬遼太郎と堀田善衛によって「人間は度しがたい」という言葉に昇華される。『ナウシカ』を終わらせようという時期に宮崎は〈マルクス主義をはっきり捨て〉、〈人間は度しがたい〉という〈ごくあたりまえのところ〉に〈もう一度戻〉った。それは母と同じ場所に立つことでもあった。\n この宮崎の内面の変化に呼応するように、作品内の時間の在り方も変化していった。初のオリジナル作品であった『砂漠の民』(1969-1970)は、ソクート人がどのようにして滅んでいったかを主人公テムの目を通して描かれている。父、親友、好意を寄せる少女、尊敬していた師が次々と殺されていくというかなり惨い物語である。『砂漠の民』は、予告編の段階ですでにソクート人が滅びることを告げており、時間は「滅び」へ向かってリニアに流れていた。\n1978年、宮崎が実質的に初監督をつとめたテレビアニメ『未来少年コナン』では、最終戦争後から物語を出発させるという変化が見られる。しかし、直線的に時間が進むという構造は『砂漠の民』と変わらなかった。ところが、1983年に刊行された『シュナの旅』に流れる時間はそれまでのものとは違っていた。〈いつのころからか/もはや定かではない/はるか昔か/あるいはずっと/未来のことだったか〉という書き出しで始まるこの作品では、時間は確定されていない。それは過去か未来かも定かではない。これは『ナウシカ』の描く世界が、産業革命を起点に考えれば西暦3800年くらいの未来を描いているにもかかわらず、その風俗が現代から見て過去のものに見えるという設定に通じる。\n 『ナウシカ』の連載後に制作された短編アニメ『On Your Mark』の絵コンテには〈永劫回帰シーン〉というメモが見られる。円環する時間の流れへの変化は、先に述べたマルクス主義を捨て生活実感に根ざした身体的思想とも言うべき境地に戻った宮崎の航跡と重なる。\n\n 『ナウシカ』のマンガ表現上の特徴は、コマ割が細かくコマ数が多いことにある。大ゴマが少なく、あったとしてもキャラクターのアップは少ない。ページ全体のレイアウトよりもコマの完成度に重きを置いている。「漫符」の使用頻度は低く、使われるものも限定的である。「光芒」と「集中線」の使用の多さは、『ナウシカ』が〈気づきのマンガ〉であることを示している。「音喩」については、コマを跨いだりするものはなく抑制的である。また音喩が描かれるレイヤーの位相が、一般的なマンガによく見られるように一番読者側にあるわけではないという特徴がある。音喩については宮崎独特の文法が存在するように感じられる。\n \nコミックス刊行時に行われた「加筆」「さしかえ」「描き直し」「挿入」「台詞等の変更」の5項目の改稿についての分析の結果は以下の通りであった。\n「加筆」は、改稿の中で最も多いものだが、その主な要因は連載時の描き込み不足を補うものであった。背景が緻密で情報量が多い、と言われることの多い『ナウシカ』であるが、連載中には緻密な描き込みができずにそのまま掲載された場合が少なくない。ただし、後半に見られる「加筆」には「血糊」を意図的に増やすなどの演出上の要請から行われたものが見られる。\n 「さしかえ」は、視線誘導に関係する可能性が高いもので、その意味で既成のマンガ文法との関係が問題になる改稿でもある。しかし、結果的に視線誘導の大幅な変更は見られない。\n 「描き直し」も同じ構図の絵であるために視線誘導の変化には関与しない。ただし、同じ絵をわざわざ描き直すために物語内容に対する作者の何らかの特別な意図が感じられる改稿である。「描き直し」は第7巻に多く、「庭の主」との対決の場面などに顕著である。\n 「挿入」はページ毎のものが多く、結果的に視線誘導に絡む場合は殆どない。挿入されたページもその他のページと同様で、特にコマ割に変化が見られるわけではない。挿入については第4巻の挿入が特徴的である。粘菌兵器のエピソードをかなり前倒しして投入したり、クシャナの母にまつわるエピソードを新たに入れたりしており、作品全体の構成が固まりつつある時期との関連が窺われる。\n 「台詞の変更」はコマ割に関わらないが、物語の内容に大きく影響を与える重要な改稿の一つである。特に第7巻に多い。これは「墓所の主」との対決の場面に見られ、挿入された新たな台詞と共に、宮崎が連載終了後にもこの場面を深化させようとしていたことが窺える。\n 以上の分析から、『ナウシカ』における改稿が「読みにくく」しているものかどうかについては、少なくとも「読みにくく」はなっていないという結論に達した。ただし、既存のマンガ文法に従う形で改稿が行われているとは考え難い。したがって既存のマンガ文法には従っていないものの、結果としては物語の展開が理解しやすくなり読みやすくなっているという場合が多い。強いて言えば「読みやすく」はなっていないとしても「わかりやすく」はなっていると言えそうである。「読みやすさ」は表現論的な分野に関わりが深く、「わかりやすさ」は物語論的な分野に関わりが深いという予感がするものの、今後の課題としたい。\n\n先行研究を「表現論的分野」「物語論的分野」「倫理の問題」の3分野に関して分析し、あわせて手塚治虫との関係について検証した。\n 表現論的な研究では阿部幸弘と久美薫を取り上げた。阿部は、『ナウシカ』が後半読みやすくなるのは宮崎が自身で作り上げようとしたオリジナルのマンガ文法が次第に機能するからだと述べている。久美薫は、映画の場面のつなぎ方の分析を援用し、後半読みやすくなるのはコマ割というよりはコマのつなげ方が巧みになるからであると述べている。その方法は映画的とも言え、この点を夏目房之介は「アニメからの逆輸入」と呼んでいる。\n 物語論的な研究では小山昌弘の「語り」の見地から分析した論考を取り上げた。小山は『ナウシカ』にナレーションが少ない理由と、その代替としての登場人物の内語について分析している。小山も『ナウシカ』は読みにくいが後半読みやすくなるとして、その理由をマンガ文法に従うようになるからだとしている。もっともコマ割自体は変化せず、最後までコマ数は多いままだとも述べている。\n 倫理の面から稲葉振一郎と夏目房之介を取り上げた。稲葉は『ナウシカ』における「青き清浄の地」が、実在するがたどり着くことのできないユートピアであるという点でノージックのユートピアの「枠」を超えた存在だと論じた。夏目は戦後マンガに流れていた手塚治虫的「生命倫理」が引き継がれている作品として『ナウシカ』を見ている。宮崎駿は手塚治虫の継承者だったというとらえ方である。\n『ナウシカ』における「どんでん返し」の時期について、久美はそれを『紅の豚』制作時、ユーゴスラビア紛争の時期と見、稲葉は冷戦構造が解消した時点と見ていた。二人ともその時点から宮崎が、『ナウシカ』の結末を変更せざるを得ない思想的立場に立ったと分析した。\n 以上の分析から、改稿の多くは連載時に十分時間をかけられなかった部分を補筆する形で行われているが、第4巻においては、全体像がほぼ固まった時点から遡って行われており、作品全体の整合性を保とうとしている様子が窺えること、また、改稿は一般的なマンガ文法にはよっていないため、必ずしも「読みやすく」はなっていないが、物語の内容的にはより深まりかつ理解しやすくなっているという結論を得た。\n 全体的な構想がまとまった時期は、第4巻の刊行時の1987年中頃にかけて、「どんでん返し」については第5巻の改稿が行われた時期に着想されたと考える。ただし、『シュナの旅』には『ナウシカ』における「庭」や「墓所」に相当する場面が登場するため、1983年頃には大本になるアイディアはあったと考えるべきである。また、「人間はしかたのないものだ」という母の考え方に、ユーゴスラビア紛争の激化に伴って戻ったと見ることもできる。1983年の『シュナの旅』刊行と母の死、1986年のチェルノブイリ原発事故、1991年からのユーゴスラビア紛争の激化などの要素が「どんでん返し」に至らせたと考えるのが妥当であろう。\n\n 最後に「文化人≒思想家」としての宮崎駿と、「町工場のオヤジ≒職人」としての宮崎駿の関係について検証した。宮崎は自ら「文化人ではなく町工場のオヤジでいたい」という旨の発言をしているが、結果として「文化人」と見なされることで、アニメ制作に好都合な面はあった。宮崎を、当初から「作家」として扱おうとしたのは1981年にアニメージュで「宮崎駿特集」を組んだ当時の編集部、とくに鈴木敏夫であった。大人数で制作するアニメにおいて「作家性」を強調し、宮崎駿の特異性をアピールした。鈴木は1982年当時、仕事らしい仕事のなかった宮崎に『ナウシカ』の執筆を勧め、連載が決まると『ナウシカ』のタッチを「読みにくい」ものにし、連載が危うくなると鉛筆での執筆を勧めた。鈴木は、宮崎にアニメを制作させるための一段階として、既存のマンガ文法によらないオリジナルマンガを描かせようとしたと見ることもできる。『ナウシカ』の成立には鈴木敏夫が大きく関与しているのである。 \n\n 今回本稿で行った『ナウシカ』の改稿分析が、基礎資料として『ナウシカ』研究の進展に寄与することと、「生成論的研究」が今後のマンガ研究において基礎研究の方法として定着することを望む。 表象文化学
著者
内海 健
出版者
上智大学哲学会
雑誌
哲学論集 (ISSN:09113509)
巻号頁・発行日
no.37, pp.19-40, 2008-09-10
著者
岩田 浩子:筆頭著者 佐藤 啓造:責任著者 米山 裕子 根本 紀子 藤城 雅也 足立 博 李 暁鵬 松山 高明 栗原 竜也 安田 礼美 浅見 昇吾 米山 啓一郎
出版者
昭和大学学士会
雑誌
昭和学士会雑誌 (ISSN:2187719X)
巻号頁・発行日
vol.78, no.2, pp.156-167, 2018-04 (Released:2018-09-11)

終末期医療における治療の自己決定は重要である.終末期医療における自己決定尊重とそれをはぐくむ医療倫理教育に関する課題を,安楽死・尊厳死の意識から検討する.われわれが先行研究した報告に基づき医学生と一般人と同質と考えられる文系学生を対象として先行研究(医学生と理系学生)と同じ内容のアンケート調査を行った.アンケートでは1)家族・自分に対する安楽死・尊厳死,2)安楽死・尊厳死の賛成もしくは反対理由,3)安楽死と尊厳死の法制化,4)自分が医師ならば,安楽死・尊厳死にどう対応するかなどである.医学生は安楽死・尊厳死について医療倫理教育を受けている230名から無記名のアンケートを回収した(回収率91.6%).文系学生は教養としての倫理教育をうけている学生で,147名から無記名でアンケートを回収した(回収率90.1%).前記5項目について学部問の意識差について統計ソフトIBM SPSS Statistics 19を用いてクロス集計,カイ二乗検定を行いp<0.05を有意差ありとした.その結果,家族の安楽死については学部間で有意差があり,医学生は文系学生と比較し医師に安楽死を依頼する学生は低率で,依頼しない学生が高率で,分からないとした学生が高率であった.自分自身の安楽死について医学生は医師に依頼する学生は低率で,依頼しない学生は差がなく,分からないとした学生は高率であった.家族の延命処置の中止(尊厳死)では,医学生と文系学生間で有意差を認めなかった.自分自身の尊厳死は,医学生は文系学生と比較し,医師に依頼する学生は低率で,かつ依頼しない学生も低率で,分からないとした学生が高率であった.もし医師だったら安楽死・尊厳死の問題にどう対処するかは,医学生は条件を満たせば尊厳死を実施すると,分からないが高率で,文系学生では安楽死を実施が高率で医学生と文系学生との間に明らかな差を認めた.法制化について,医学生は尊厳死の法制化を望むが多く,文系学生では安楽死と尊厳死の法制化を「望む」と「望まない」の二派に分かれた.以上より終末期医療における安楽死・尊厳死の課題は医学生と一般人と同等と考えられる文系学生に考え方の相違があり,医学生は終末期医療における尊厳死や安楽死に対して「家族」「自分」に関して医療処置を依頼しない傾向がある一方,判断に揺れている現状が明らかとなった.文系学生は一定条件のもとで尊厳死を肯定する意識傾向があった.医学生の終末期医療に関する意識に影響する倫理的感受性の形成は,医学知識と臨床課題の有機的かつ往還的教育方略の工夫が求められる.「自己」「他者」に関してその時に何を尊重して判断するかを医学生自身が認識することを通して,倫理的感受性を豊かにする新たな教育の質を高める努力が必要である.文系学生においても終末期医療の現実を知ることや安楽死・尊厳死を考える教育が必要であると思われた.
著者
中山 大輔
巻号頁・発行日
(Released:2018-04-13)

本論文では、精度保証付き数値計算におけるaffine演算を拡張した新しい算法の提案・実装を行い、その算法が有用な場面について論じる。 精度保証付き数値計算で用いられる区間演算の算法やライブラリは、一般に区間幅が狭いことを前提に設計されており、入力の区間幅が大きいと意味のある計算結果を返さない場合がある。そのため、入力の区間幅がある程度の大きさを持つ場合は何らかの工夫をする必要があり、簡単なものでは入力の区間を分割するということが考えられる。なお、多倍長演算を用いることも考えられるが、これは丸め誤差を軽減させるためのものなので、「入力の区間幅が大きい場合でも意味のある出力を得られるようにする」という目的には適していない。 近年、高次元の問題への精度保証付き数値計算の応用が行われているが、入力区間の分割は入力変数の個数に関して指数関数的な計算時間の増加をもたらすので、高次元の問題ではできる限り入力区間の分割を行わずに計算ができる必要がある。区間の間の相関を考慮することで計算時の区間拡大を抑える演算でaffine演算というものがあるが、これは非線形な演算を一次式で近似するため、割り算などの演算に対して精度が出にくい場合がある。そこで、affine演算を拡張し、非線形な演算を二次式で近似することを考える。 affine演算を拡張したものを「拡張affine演算」と呼ぶことにし、拡張affine演算における四則演算を実装したライブラリを作成した。数値実験により、出力の精度が一定以下になることが求められていて入力を分割しなければならないような状況では、affine演算よりも拡張affine演算の方が速度の面で優れている場合があり、特に入力が多変数となると、拡張affine形式の方が数百倍程度早く計算できる場合があることがわかった。 2017
著者
佐野 真人
出版者
皇學館大学研究開発推進センター
雑誌
皇學館大学研究開発推進センター紀要 = Bulletin of the Research and Development Center of Kogakkan University (ISSN:21892091)
巻号頁・発行日
no.4, pp.165-190, 2018-03-01 (Released:2018-07-24)

皇學館大学研究開発推進センター神道研究所では「皇室祭祀の研究」と「神宮祭祀の研究」とを総合研究に掲げ、創設された昭和四十八年(一九七三)以来の重要課題として、特に「大嘗祭の研究」を推進してきた。平成二十九年度の初めに、元文度の大嘗祭に関する史料であり、桜町天皇大嘗祭の調度品の略図と考えられる『元文聖代大嘗会拝見私記御調度品略図』を古書肆より購入し、神道研究所の所蔵とすることができた。本稿では、新収蔵資料である『元文聖代大嘗会拝見私記御調度品略図』について、その史料的価値を考えたい。At The Shinto Institute in Research and Development Center of Kogakkan University,advocated “a study of the religious service of the Imperial Family” and “a study of the religious service of Ise-jingu Grand Shrine” for a general study and, as an important issue since founded 1973, promoted “the study of the Harvest Festival after an Emperor’s enthronement” in particular.
著者
山本 眞功
巻号頁・発行日
(Released:2018-07-26)

『本佐録』は「慶安御触書」と称される文書とともに、江戸時代に幕府や諸藩がおこなった農民統制の基本的な考え方を知ることができる記述を含む史料として、かつては多くの日本史教科書等にも取り上げられていた書物である。たとえば、「幕藩体制の経済的な基礎は農業であった。武士階級は「農は国ももとなり」といって農業を重視しており、農民の生活については、「百姓は財の余らぬやう不足なきやう」(「本佐録」)に統制することを心がけた」(実教出版)といったような形でである。そうした場合、著者は引用文の書名に示されているように、徳川家康に仕えた本多佐渡守正信という人物であるとされ、それをも根拠として、この書物は長く江戸時代初期の幕府政治の基本的理念を示す典型的な史料として扱われ続けてきた。しかしながら、その一方では早くからこの書物の著者を藤原惺窩とする見方も示されてきた。『本佐録』は、著者問題からしても、少なからぬ問題をかかえた書物であった。そうした事情もあって、『本佐録』の著者問題をはじめとする成立事情をめぐる問題については、江戸時代から新井白石や室鳩巣といった人々によって様々な議論がなされていた。また、江戸時代における論議をうけて、明治三四年には中村勝麻呂氏による詳しい検討もおこなわれたが、その成立事情については未だに十分に解明されたとは言えないままの状態が続いている。ここに提出する本論文は、その解明されていない成立事情を少しなりとも明らかにしようと試みるものである。そのために本論文は、まずこの書物の成立時期を明らかにすることから検討を始めるという方法を採用した。成立時期の問題については、書誌学や文献学に基づく検討によって解明することが可能だと考えたからである。検討は具体的には以下に記すような手順でおこなった。『本佐録』には四〇本近くの版本と一二〇本程の写本、さらには十数本の関係書が残っている可能性があることが確認されている。そこで本論文においては、これに私の所蔵する十数本の史料を加えて、まず可能な限りの史料にあたって、書誌学に基づく成立時期の検討をおこなった。その結果判明したことは、『本佐録』の確認できる成立時期の可能性の上限は、延宝五年(一六七七)を少しさかのぼったあたりであるということであった。そして、続いて文献学に基づく検討を試みた。『本佐録』には『心学五倫書』は系統の書物のなかの記述が用いられているという事実があるからである。『心学五倫書』は、版本としては慶安三年(一六五〇)に現在知り得る限りではじめて著者不明のまま姿を現した書物であるが、一七世紀後半の寛文期になって『五倫書』さらには『仮名性理』という名の書物に姿を変えている。これらの書物は数度にわたる改変の過程の折々で細部の記述を変えており、したがって『本佐録』に用いられているこの系統の書物からの記述がどの折りの書物から引かれたものかを文献学の方法に基づいて検討することで、我々は『本佐録』のおおよその成立時期を特定することが可能となる。検討の結果、『本佐録』が引いているのは『仮名性理』の記述であり、その『仮名性理』の成立時期からすると、『本佐録』の成立時期は寛文七~九年(一六六七~一六六九)から延宝五年(一六七七)の間の約十年間である可能性が高いということが確認できた。この結論は、書誌学の方法に基づく検討の結果とも符合する。『本佐録』は、元和二年(一六一六)に世を去った本多佐渡守正信や同五年(一六一九)に五九年の生涯を終えた藤原惺窩には著すことのできるはずもないものであり、明らかに偽書として流布したものなのである。偽書『本佐録』は、したがって江戸時代初頭の幕府や諸藩の政治理念を問題にするための書物などではない。この書物は、むしろ幕藩体制の確立期と言われる寛文延宝期の政治状況や思想状況を探るための材料として重要である。この観点に立って本論文では、『本佐録』として流布したこの書物の思想内容を“「文道」の重視”“「百姓」への対応”“「侍」の使い方”という三つの点から検討し、続いてそれが寛文延宝期という幕藩体制史上の重要な時期において、どのような思想的機能を果たすものであったのかを問題とした。本論文は、著者を本多佐渡守正信や藤原惺窩とする見方に基づいて幕藩体制成立期の問題を扱うための史料として長く用いられ続けてきた『本佐録』という書物を、改めて実際に書かれた時期、すなわち幕藩体制の確立期の現実と突き合せて読んでみようとしたものである。それは、この書物の成立の意義、特にこの書物が成立以後に果たした思想的機能や社会的機能に対して新たな視線を向けてみるという試みでもある。 哲学