著者
竹沢 泰子
出版者
京都大学「京都からの提言」事務局
雑誌
京都大学 附置研究所 ・センター シンポジウム : 京都からの提言-21世紀の日本を考える(第7回) 「明るい未来像」
巻号頁・発行日
vol.7, pp.63-76, 2013-02-26

会期・会場: 2012年3月17日(土)10:00-17:00 : 神戸国際会議場メインホール ; 後援: 読売新聞社、(公財)京都大学教育研究振興財団、神戸大学
著者
秋谷 裕幸
出版者
早稻田大學中國文學會
雑誌
中國文學研究 (ISSN:03850919)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.1-14, 2018-12-25
著者
塚崎 公義 Kimiyoshi Tsukasaki
出版者
久留米大学商学会
雑誌
久留米大学商学研究 = Journal of commerce,Kurume University (ISSN:1342047X)
巻号頁・発行日
vol.11, no.4, pp.171-204, 2006-03-25

銀行が合理的に行動したとしても、「実質債務超過でありながらリストラを怠っている借り手に対して追い貸しを行なう」ことはあり得るし、それが国民経済的に望ましい場合もある。したがって、「追い貸しだから問題だ」とは言えない。たとえば建設中のビルを完成させるための資金を追い貸しすることは、銀行の回収額を増加させるのみならず、生産的で国民経済的にも意義のあるプロジェクトである。また、債務超過であっても借り手が自力で利払いを行なっていれば、これに対する追い貸しも、銀行にとり合理的で国民経済的にも意味がある。「銀行が利払い資金を追い貸しして借り手を延命させ、自己資本の毀損を防いでBIS規制の制約を逃れる」という行為も、銀行にとっては場合により合理的な行為であり得るし、国民経済的にも有害とは言い切れない。マクロ的な資金配分への悪影響が限定的である一方で、貸し渋りを緩和する効果も期待でき、しかも景気が回復するとこうした追い貸しが縮小されていくメカニズムが内包されているからである。銀行がBIS規制逃れの目的で追い貸しを行なう場合には、モデル上は、「借り手の資産が少ないほど追い貸しを受けやすい」という逆転現象が生じ得る。もっとも、90年代の邦銀の状況に鑑みれば、そうした実例は多くなかったと思われる。銀行が追い貸しを行なうことが予想されると借り手がリストラを怠るという問題があるため、銀行としては「リストラしないと清算する」と脅す必要がある。
著者
越田 稜 Takashi Koshida
出版者
学習院大学東洋文化研究所
雑誌
調査研究報告 (ISSN:09196536)
巻号頁・発行日
no.34, pp.47-69, 1992-09

この小論のいわば「はじめに」にあたる部分に,以下論述の概要を記しておきたい。 大戦後の日韓政治文化摩擦の一要因として,日韓の教育,とりわけ歴史教育のあり方は比較的大きな位置を占めるものと考えられる。いうまでもなく,政治と教育との関わりは,為政権力層にとっても,また一般市民にとっても,たとえ教育の政治的中立という一種の教育的識見なるものが存在しても,両者の深い関わりは無視することができない。その点の概観を試みつつ,日韓の戦後教育事1青に触れ,相互の特に歴史教育及びその展開過程である歴史教科書問題について点描する。 日韓両国間に横たわる政治文化摩擦の因果関係に,この教科書問題が大きな要因を占めると考えられるので,小論においては,歴史教科書の双方の記述比較と歴史教育の在り方の究明に紙幅が多くさかれることになろう。 さらにこれらを補う意味で,近代日本の対韓イメージの推移を追いながら,日本の近現代史教育に与えた影響を探ってみたい。 そして最後に,日韓の歴史認識の改めの予兆を叙し,日韓近現代史教育の意義性の一端に触れるつもりである。
著者
永野 航太郎
出版者
九州工業大学
巻号頁・発行日
2022-03-25

九州工業大学博士学位論文 学位記番号: 情工博甲第364号 学位授与年月日: 令和4年3月25日
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学総合研究所 = Research Institute of Sapporo Gakuin University
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 = Journal of the Society of Humanities (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.108, pp.1-33, 2020-11-20

ハイデガーは,『存在と時間』のなかで,「実在性」「主観・客観関係」「真理」にかんする独自の見解を主張している。われわれの意識の外部に客観的実在が存在するかどうかという問題は哲学の根本問題とされてきた。この問題にどう答えるかで,哲学上の立場と流派が決定されるからである。これと関連して,主観と客観との関係をどう見るか,真理をどう定義するかなどの認識論の基礎をなす問題群がある。伝統的な西洋哲学における存在論を「解体」または「破壊」して独自の思想を構築しようとするハイデガーは,この問題と関連する問題群とに対しても独自の立場を展開する。彼によれば,客観的実在をめぐる実在性の問題は人間存在である「現存在」のひとつの「存在様式」である。主観・客観の問題もまた「主体の実存様式に依存する」とされる。そして,「真理」にかんしても認識と対象との一致という伝統的な真理概念は妥当しないとされ,「真理」は「現存在」の中で「隠蔽」されていたものが「開示」されるという主観的な関係のうちで理解される。私見によれば,「独我論」へと傾斜する彼のこうした主観主義的立場が,いざ客体的存在を含めた彼自身の「存在」論を展開しようとする段になって,重大な困難をもたらしたように思われる。本論文では,ハイデガーの伝統的認識論に対する批判がいかなる意味をもつかを検討し,その批判の正当性と問題点とを批判的に考察する。