著者
手嶋 泰伸
出版者
吉川弘文館
雑誌
日本歴史 (ISSN:03869164)
巻号頁・発行日
no.820, pp.48-64, 2016-09
著者
鳥羽 厚郎
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.10, pp.42-67, 2016

本稿は、戦間期日本における「反骨の平和主義者」として著名な海軍大佐水野広徳の「平和論」を再検討する。<br>先行研究では、水野が第一次大戦の視察を契機として、「平和主義者」へと転身し、その後の水野の思想は、日本国憲法の源流の一つであるとして高く評価する見解が主流を占めてきた。しかし、「平和主義者」への転身後における水野の思想分析をほとんど行なわないまま、水野の思想を戦後と直接的に接続させることには問題がある。また、水野の論説に現れる国家自衛権の肯定や、合理的な軍備のあり方の模索といった事例は、どのように「平和主義」へ接続しうるのか、という疑問が残る。<br>そこで、本稿では、戦間期の水野の論説を詳細に分析することで、水野が「総力戦論者」と「平和主義者」という二つの側面を持ち、両者を結合させるものとして「戦争は利益にならない」とする「合理主義」を基底とし、「国力」という概念を通して戦争と平和を見通す「合理主義的平和論者」であるということを論証した。<br>水野の「平和論」は、独自な「平和主義」と「総力戦論」の相互補完関係によって成立する論理であった。水野はこの特性を利用し、「総力戦」対応策をそのまま「平和論」に接続させた。しかし、「世界の大勢」という流動的な事象に立脚してしまったが故に、反動に対抗する力を失った。満州事変以後、国家自衛の名の下に軍拡が肯定され、水野の「平和論」は依って立つ基盤を失ったのである。<br>しかし、水野研究は決して無意味ではない。水野は、一九二〇年代を通して自らの「平和論」を、単なる国家間の問題から個人や社会の問題へと発展させ、最終的には民族自決論へ接続させていった。それは、一九二〇年代の平和思想が持つ国際協調主義と反植民地闘争の両者を統一的に把握する一助となり得るのである。
著者
佐伯 正克
出版者
社団法人日本化学会
雑誌
化学教育 (ISSN:03862151)
巻号頁・発行日
vol.27, no.5, pp.311-316, 1979-10-20
著者
原口 大輔
出版者
九州史学研究会
雑誌
九州史学 (ISSN:04511638)
巻号頁・発行日
no.173, pp.51-79, 2016-06
著者
武藤 三代平
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.16, pp.15-32, 2016

これまで明治政治史を論及する際,榎本武揚は黒田清隆を領袖と仰ぐことで,その権力基盤を維持しているものとされてきた。箱館戦争を降伏して獄中にあった榎本を,黒田が助命運動を展開して赦免に至った一事は美談としても完成され,人口に膾炙している。そのためもあり,黒田が明治政界に進出した榎本の後ろ盾となり,終始一貫して,両者が「盟友」関係にあったことは疑いを挟む余地がないと考えられてきた。はたしてこの「榎本=黒田」という権力構図を鵜呑みにしてよいのだろうか。榎本に関する個人研究では,明治政府内で栄達する榎本を,黒田の政治権力が背景にあるとし,盲目的に有能視する論理で説明をしてきた。榎本を政府内でのピンチヒッターとする一事も,その有能論から派生した評価である。しかし,榎本もまた浮沈を伴いながら政界を歩んだ,藩閥政府内での一人の政治的アクターである。ひたすら有能論を唱える定説が,かえって榎本の政府内での立ち位置を曇らせる要因となっている。本稿では榎本が本格的に中央政界に進出した明治十年代を中心とし,井上馨との関係を基軸に榎本の事績を再検討することで,太政官制度から内閣制度発足に至るまでの榎本の政治的な位置づけを定義するものである。この明治十年代,榎本と黒田の関係は最も疎遠になる。1879年,井上馨が外務卿になると,榎本は外務大輔に就任し,その信頼関係を構築する。これ以降,榎本の海軍卿,宮内省出仕,駐清特命全権公使,そして内閣制度発足とともに逓信大臣に就任するまでの過程において,随所に井上馨による後援が確認される。この事実は,従来の政治史において定説とされてきた,「榎本=黒田」という藩閥的な権力構図を根本から見直さなければならない可能性をはらんでいる。