著者
今井 小の実
出版者
一般社団法人 日本社会福祉学会
雑誌
社会福祉学 (ISSN:09110232)
巻号頁・発行日
vol.62, no.4, pp.1-16, 2022-02-28 (Released:2022-05-21)
参考文献数
28

本研究の目的は,1917年7月に制定された軍事救護法の成立過程を明らかにすることによって,同法の誕生が“福祉”行政の創設をもたらしたことを検証することにある.同法の成立により救護課ができ,それがその後の社会事業行政の始まりとなったことから,このような認識は従来から共有されてきたが,その具体的な検証はなされてこなかった.この研究では,陸軍省作成の法案(1916年8月)と内務省案(1917年5月)を比較検討し,軍事救護法が最終的に内務省の思惑を反映してつくられたことを検証する.その際に陸軍省が懸念を示していた四種類の救護と,最後まで抵抗を示した私設団体への委嘱を,内務省が方策を講じ,後者についてはのちの施行令に入れることによって最終的にその目的を遂げたこと,そしてそれが戦後の福祉行政にもつらなる重要な要素であったことを明らかにする.
著者
今井 小の実 Konomi Imai
出版者
同志社大学人文科学研究所キリスト教社会問題研究会
雑誌
キリスト教社会問題研究 (ISSN:04503139)
巻号頁・発行日
no.51, pp.63-84, 2002-12

論説正誤表: 69頁:「…、妻にも同等の権利があって(中略)家庭には礼儀など余り行われず…」→「…、妻にも夫と同等の権利があつて(中略)家庭には礼儀など余り行はれず…」70頁:「「社会は婦人の手を要してゐる」という女性の社会進出の内容は、「病毒に充ちた世を真っ白に沈ひ清めて、其慮に清純な美を生れ出させるのは、…」→「「社会は婦人の手を要して」いるという女性の社会進出の内容は、「病毒に充ちた世を真白に沈ひ清めて、其慮に清純な美を生れ出でさせるものは、…」71頁:「…、誰が思ひ子であったが、…」→「…、誰が思ひ子であったか、…」74頁:「…御精神を受けついで、(中略)…実地に行うて初めて…」→「…御精神を受ついで、(中略)…実地に行ふて初めて…」75頁:「…同じ関係を保つ人々も見受く…」→「…同じ関係を保つ人々をも見受く…」75頁:「…甚だしきは他人の良人、妻でも…」→「…甚だしきは、他人の良人でも、妻でも…」75頁:「…婦徳を打破し男子同様に自由放縦ならしめ度いと望まる〉るように…」→「…婦徳を打破して、男子同様に自由放縦ならしめ度いと望まる〉やうに…」76頁:「…凡べての人類の神を除いて…」→「…凡べての人類の父なる神を除いて…」76頁:「…自覚して其天性を発揮(中略)婦人方のように習慣に囚はれて、(中略)婦人がこれを自覚して之を守る…」→「…自覚して、其天性を発揮(中略)婦人方の様に習慣に囚はれて、(中略)婦人が自覚して之を守る…」77頁:「…呼ぶところのそのすべてを貫く…」→「…呼ぶところの一つの運動のそのすべてを貫く…」78頁:「…醜悪と堕落を包んでいるか…」→「…醜悪と堕落とを包んでいるか…」81頁:「…女性同盟第一号は、…」→「…女性同盟の第一号は、…」
著者
今井 小の実
出版者
一般社団法人 日本社会福祉学会
雑誌
社会福祉学 (ISSN:09110232)
巻号頁・発行日
vol.43, no.1, pp.1-11, 2002

1934年母性保護法制定促進婦人連盟として誕生した母性保護連盟は,母性保護運動を展開し,1937年の母子保護法制定に貢献した。その連盟誕生の産婆役をつとめたのは,婦選獲得同盟であった。婦人の参政権獲得を目的として結成された女性団体が,母性保護連盟を生み出し,母性保護運動に積極的にかかわっていくのは,戦時体制へと突入し,婦選運動が閉ざされていく状況にあったからだといわれている。しかし同盟が母性保護運動に取り組んでいく方向性は,1928年にはすでに示されていた。同盟には従来の研究では説明されてこなかった母性保護運動を開始する別のモチベーションも存在したのではないだろうか。本稿の目的は,同盟の母性保護運動に対する従来の評価に,新たに大正時代の母性保護論争から続く"継承性"という視点を加えることによって,その揺籃期のモチベーションを明らかにしようとするものである。
著者
今井 小の実
出版者
大阪体育大学
雑誌
大阪体育大学健康福祉学部研究紀要 (ISSN:13493280)
巻号頁・発行日
pp.67-84, 2004-03-24

This paper intends to clarify the process of enacting "Boshi-hogo hou (the public assistance law for mothers and children)" (1937) from the view point of the movement. The activism of the Maternal Protection Union (MPU) contributed to the enactment of the law. It was the Woman's Suffrage League of Japan (WSL) that led to the organization of the MPU. Therefore, I analyze the journals of the MPU and the WSL in order to clarify the process.
著者
今井 小の実 寺本 尚美 陳 礼美 大塩 まゆみ アンベッケン エルスマリー 孫 良 サンド アンブリット
出版者
関西学院大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011

日本における”ケア”労働に関するジェンダー公平な政策を展望するために、ジェンダー平等な国と評価されるスウェーデンを指標に研究を進めてきた。具体的には高齢者介護、育児政策に焦点をあて、その現状と課題を現地調査、スウェーデン在住の研究協力者との共同研究により明らかにした。そのうえで、日本の現在の制度・政策との比較を試み、両国の相違をもたらす要因について考察を深めた。その一つとして、スウェーデンのケアに関わる政策、つまり家族政策形成の歴史を検証し、日本との比較を行った。これらの研究は、今後日本がジェンダー平等な政策を展開していく上での貴重な材料となるはずで一定の成果が得られたと考える。
著者
今井 小の実
出版者
一般社団法人日本社会福祉学会
雑誌
社会福祉学 (ISSN:09110232)
巻号頁・発行日
vol.40, no.1, pp.77-95, 1999-06-30

In 1926, "Boshi Fujyo Hou Seitei Sokusinkai" was established by Sirou Fukushima who was the chairman of "Fujyo Shinbun". It was the first movement body in Japan which aimed at enacting a public assistance law for mothers and children. The paper is a part of a study which will clarify the process of enacting "Boshihogo hou" (1937) from the view point of the movement. That is, I assume that the starting point of the movement was the controversy known as "Bosei Hogo Ronsou" (1918-1919). In this controversy, Raityou Hiratsuka and Waka Yamada, influenced by Ellen Key, feminist thinker in Sweden, insisted on thoughts of maternal protection. I assume the thoughts developed into the movement, and as the result, the law was enacted even though it had a phase which was utilized for the purpose of securing human resourses during the war. Therefore, this paper intends to demonstrate "Inherent Relevancy" between "Bosei Hogo Ronsou", following the genealogy of thoughts of the maternal protection and "Boshi Fujyo Hou Seitei Sokusinkai".
著者
今井 小の実
出版者
関西学院大学
雑誌
Human Welfare : HW (ISSN:18832733)
巻号頁・発行日
pp.5-18, 2009-03

The "Houmen Iin "was a quasi-(professional) social work system providing the Japanese public with assistance before the Second World War. The "Houmen Iin "System which was established in Osaka prefecture in 1918 was modeled on the "Elberfelder System" (1853-) of Elberfeld city (now, a part of Wuppertal city) in Germany. In the system the proto-case-workers were respected and had a public mandate but unpaid. The system had a big effect reducing expenses for poor relief, so public welfare in Germany came to use this system widely. But gradually the limitation of the amateur was pointed out and the system was remade in Strasbourg in 1906; the new system combined care and public surveillance. It was called the "Strasbourg System" and was further developed and adjusted to the conditions of rapid urbanization. The significance of this system is that it had both worker volunteers and paid staff, and increasingly trained employees. In Japan citizens also paid attention to the "Strasbourg System" , but the "Houmen Iin "System was established by law at the beginning of the Showa period. I aim, as a first step in my research, to make a clear why the "Elberfelder System" was chosen but not the "Strasbourg System" in Japan.
著者
室田 保夫 今井 小の実 倉持 史朗 原 佳央理 佐野 信三 竹林 徑一 大野 定利 水上 妙子 鎌谷 かおる 片岡 優子 新井 利佳 蜂谷 俊隆
出版者
関西学院大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

3年間の共同研究の成果を終えて、第一に大きな成果は社会福祉史のみならず近代日本史、大阪の近代史にもきわめて貴重な博愛社の史料整理とその保存が出来たことである。具体的には史料目録(仮)の完成とおよそ90箱にも及ぶ資料の保存である。研究の方では創立者小橋勝之助の日誌の翻刻といった研究が進捗した。そして機関誌の複製の作成、また史料が整理されたことによって研究への道がついた。さらにこの作業をとおして研究仲間同志の博愛社研究についての共有するところが大になったことも付け加えておこう。