著者
安冨 歩 若林 正丈 金 早雪 松重 充浩 深尾 葉子 長崎 暢子 長崎 暢子 福井 康太 若林 正丈 金 早雪 鄭 雅英 三谷 博 北田 暁大 深尾 葉子 久末 亮一 本條 晴一郎 與那覇 潤 千葉 泉
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2007

「魂」という学問で取り扱うことを忌避されてきた概念に、正当な地位を与えることができた。それは人間の創発を支える暗黙の次元に属する身体の作動であり、本来的に解明しえぬ(する必要のない) ものである。学問はそれを喜びをもって受け入れ、尊重し、その作動を抑圧するものを解明し、除去する役割を果たせばよい。そのような学問は、抽象的空間で展開する論理や実証ではなく、「私」自身を含む具体的な歴史的時空のなかで展開される合理的思考である。このような生きるための思考を通じた「私」の成長のみが、学問的客観性を保証する。この観点に立つことで我々は、日本とその周辺諸国におけるポスト・コロニアル状況の打破のためには、人々の魂の叫び声に耳を傾け、それを苦しませている「悪魔」を如何に打破するか、という方向で考えるべきであることを理解した。謝罪も反論も、魂に響くものでなければ、意味がなく、逆に魂に響くものであれば、戦争と直接の関係がなくても構わない。たとえば四川大地震において日本の救助隊が「老百姓」の母子の遺体に捧げた黙祷や、「なでしこジャパン」がブーイングを繰り返す観衆に対して掲げた「ARIGATO 謝謝 CHINA」という横断幕などが、その例である。我々の協力者の大野のり子氏は、山西省の三光作戦の村に三年にわたって住み込み、老人のお葬式用の写真を撮ってあげる代わりに、当時の話の聞き取りをさせてもらうという活動を行い、それをまとめて『記憶にであう--中国黄土高原 紅棗(なつめ) がみのる村から』(未来社) という書物を出版したが、このような研究こそが、真に意味のある歴史学であるということになる。
著者
北田 暁大
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.281-297, 2004-12-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
29

「過去 (歴史) は記述者が内在する〈現在〉の観点から構築されている」という歴史的構築主義のテーゼは, 公文書の検討を通じて歴史命題の真偽を探究し続けてきた実証史学に, 少なからぬインパクトを与えた.「オーラル・ヒストリーをどう位置づけるか」「過去の記憶をめぐる言説はことごとく政治的なものなのではないか」「記述者の位置取り (positioning) が記述内容に及ぼす影響はどのようなものか」といった, 近年のカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズム, フェミニズム等で焦点化されている問題系は, 構築主義的な歴史観と密接なかかわりを持っている.もはや構築主義的パースペクティヴなくして歴史を描き出すことは不可能といえるだろう.しかしだからといって, 私たちは「理論的に素朴な実証史学が, より洗練された言語哲学・認識論を持つ構築主義的歴史学にとってかわられた」と考えてはならない.社会学/社会哲学の領域において, 構築主義が登場するはるか以前に, きわめて高度な歴史方法論が提示されていたことを想起すべきである.以下では, WeberとPopperという2人の知の巨人の議論 (プレ構築主義) に照準しつつ, 「因果性」「合理性」といった構築主義的な歴史論のなかであまり取り上げられることのない-しかしきわめて重要な-概念のアクチュアリティを再確認し, 「構築主義以降」の歴史社会学の課題を指し示していくこととしたい.
著者
北田 暁大
出版者
日本マス・コミュニケーション学会
雑誌
マス・コミュニケーション研究 (ISSN:13411306)
巻号頁・発行日
no.53, pp.83-96, 213, 1998-07-31

Offering the proposition "Media is the messages, " Murshall McLuhan indicated that the modality of media consumption can define our kinetic sense and thoughts. The unfortunate acceptance of McLuhan's arguments invited the lack of the sociological scrutiny. This paper will rethink the theoretical implication of McLuhan's proposition from the viewpoints of social system theory developed by Niklas Luhmann. His theory clarifies the theoretical difference between face-to-face communication and mediated communication, and the concept of "observation" will give us the alternative idea of "Medialiteracy".
著者
北田 暁大
出版者
東京大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2009

東京都練馬区在住の若者を調査対象者として想定し、趣味・文化にかかわる意識・行動、情報行動、社会への態度について量的調査を行った。その結果、趣味領域ごとの性質の相違や、領域内で「サブカルチャー資本」として機能しうる事柄の違いなどがあきらかとなり、サブカルチャー研究において「サブカルチャー資本」「文化資本」といった概念を適用していく際の理論的・方法論的な課題をあきらかにすると同時に、個別趣味と社会関係の関連性について考察した。
著者
北田 暁大
出版者
日本建築学会
雑誌
建築雑誌 (ISSN:00038555)
巻号頁・発行日
no.1590, 2009-05-20
著者
北田 暁大
出版者
関東社会学会
雑誌
年報社会学論集 (ISSN:09194363)
巻号頁・発行日
vol.2022, no.35, pp.48-56, 2022-08-26 (Released:2023-08-30)
参考文献数
8

The term/concept of neoliberalism has perhaps been one of the most popular and continuously used terms/concepts in critical sociology, economics, politics, geography, gender theory, etc. over the past few decades. While examining the ambiguity and inflexibility of this concept in the history of economics and sociology with Marxism at its core, Shinichiro Inaba has extolled the concept of neoliberalism as a “Brocken spectre.” In this paper, while continuing Inaba’s problem-setting, we will address the question of how the use of the concept of “neoliberalism” is justified, and what people are doing by using the concept. One task will be to detect its social and sociological functions rather than to show the expiration of neoliberalism as an explanatory concept.
著者
北田 暁大
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.49, no.4, pp.635-650, 1999-03-30 (Released:2010-11-19)
参考文献数
40

われわれはごく日常的なコミュニケーションの場面において, 他者の行為を記述することによりその行為をその行為者へと帰属させ, 「責任」の所在を指示しているといえようが, そうしたなかで, 行為者の意図 (目的) とは齟齬をきたすような行為記述がしばしば「適切」であるとされることも少なくない。行為者自身が自らの行為の記述に関する「権威」でありえない状況のなかで, われわれはいかにして行為記述の適切性を見定め, また行為の責任を帰属させているのであろうか。本稿では, こうした行為の同定 (identification) や帰責 (attribution) のメカニズムをめぐる問題に照準しつつ, A.Schutzの提示した理由動機/目的動機の概念的区別を導きの糸として, 「行為を解釈すること」と「行為 (者) の責任を問うこと」がどのような関係にあるのかをまずI・II節で分析し, 行為者責任 (行為と行為者の関係) と行為の責任 (行為とその結果の関係) との相違を明らかにする。そして次に, N.Luhmannの「道徳」についての知見を参照しながら, 道徳コミュニケーションにおいて問われる責任が, 行為者責任/行為の責任のいずれとも異なる位相にあることを示し, そのようにして捉えられた道徳が現代社会において孕んでいる両義的な性格をIII節において論じていく。「責任」や「道徳」の社会学 (コミュニケーション論) 的な位置づけを与えることが, 本稿全体を通しての目的である。
著者
北田 暁大
出版者
日本マス・コミュニケーション学会
雑誌
マス・コミュニケーション研究 (ISSN:13411306)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.64-77, 2000

Inaba Michio once focused on the aethetics of Nakai Masakazu to elaborate the conception of media and mediation. Although 30 years have passed since Inaba's suggestion, the theoretical definition of MEDIA seems to remain confused. In this paper, picking up Nakai's investigation for medium and Mittel, I re-examine the ontological problems concerned with Media Studies. First, Nakai's argument about technology is examined from the two theoretical viewpoints : the concept of directedness-non-mediatedness, and the concept of cooperation. Next, I focus on his unique film theory and clarify of Nakai's theory in the present context of Media Studies.
著者
北田 暁大
出版者
日本マス・コミュニケーション学会
雑誌
マス・コミュニケーション研究 (ISSN:13411306)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.83-96,213, 1998-07-31 (Released:2017-10-06)

Offering the proposition "Media is the messages, " Murshall McLuhan indicated that the modality of media consumption can define our kinetic sense and thoughts. The unfortunate acceptance of McLuhan's arguments invited the lack of the sociological scrutiny. This paper will rethink the theoretical implication of McLuhan's proposition from the viewpoints of social system theory developed by Niklas Luhmann. His theory clarifies the theoretical difference between face-to-face communication and mediated communication, and the concept of "observation" will give us the alternative idea of "Medialiteracy".
著者
北田 暁大
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2019-04-01

本研究は「社会と名指される集合的対象を、特定化し、その集合的状態の変化・改善を、何らかの統制された方法を用いて目指す社会的実践(social practice)」としての「社会調査(social survey)」の歴史・社会的機能を、19世紀末~20世紀半ばのアメリカ社会学、行政、財団の動向に照準して分析するものである。この作業は、現代にいたる量的/質的の区分の誕生や統計的手法の採用の起源を確証し議論を活性化させると同時に、欧州と異なる”social”概念のアメリカ的用法の解明に寄与し、近年注目を集めている「社会的なもの」をめぐる議論のブラッシュアップにも繋がるであろう。