著者
菅島 正栄 岡田 英俊 松渕 志帆 佐々木 重夫 中島 大誠 川島 功 浜田 節男
出版者
特定非営利活動法人 日本歯科保存学会
雑誌
日本歯科保存学雑誌 (ISSN:03872343)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.9-15, 2008-02-29 (Released:2018-03-31)
参考文献数
16

近年,接着技術の進歩により歯冠修復にレジンを応用する症例は多くなってきた.これまでの研究により歯面処理時において唾液や血液によって汚染されると,それらが接着阻害因子となり,接着強さは低下することが報告されている.実際の臨床において,止血剤は出血した部位に作用させた後,水洗,乾燥して除去する.しかし,止血剤自体が処理後の被着面に残存することによって,ボンディング材の歯質に対する接着強さに影響を及ぼすことが危惧された.そこで今回,さらにボスミン®(第一三共製薬)の歯面処理効果について確認するため,リン酸処理,希塩酸処理を行った象牙質表面を対照とし,原子間力顕微鏡(以下,AFMと略す)による象牙質の表層における構造変化の観察,そしてボスミン®の作用時間による接着強さの違いについて比較検討を行った.AFM観察した結果,実験群を無処理のものをコントロールとし,リン酸処理,希塩酸処理,およびボスミン®処理をそれぞれ比較すると,リン酸処理,希塩酸処理を行ったものは象牙質表層の凹面は少なくなり,より平坦な像が観察された.しかし,ボスミン®処理においては,15秒間処理では無処理のものと比較し,ほぼ均一な凹凸が測定面一面に観察された.1分間処理においては15秒間処理のものと比較すると微細な凹凸形が少ない像を示したが,無処理のものよりは凹凸を示す像が観察された.接着強さ試験において,対照であるリン酸処理群,希塩酸処理群は無処理群と比較し有意に低い値を示したが,一方,実験群であるボスミン®15秒間作用群,1分間作用群は無処理群と比較し有意に高い値を示した.以上のことから,ボスミン®には歯面処理効果があり,その結果接着を強めることが明らかとなった.
著者
北浦 健生 太田 和宏 吉田 誠 曽我 綾香 野路 稔 伊藤 智司 岡田 英孝 北 宜裕
出版者
神奈川県農業技術センター
巻号頁・発行日
no.160, pp.1-6, 2016 (Released:2016-09-14)

青首総太り品種が主流となっている現在のダイコン生産・流通体系において,特色あるダイコン新品種の開発を目的に、白首総太りダイコンの一代雑種品種を,神奈川県農業技術センター,民間育種家及び横浜植木株式会社の3者で育成した。花粉親系統については当所と県内育種家が育成を担当し,2003年から‘大蔵’及び‘晩野路’を交配母本に用い,集団選抜法により根形が円筒形の系統を育成した。2009年の集団選抜第6世代以降,形質の分離幅が縮小したため,横浜植木(株)保有の雄性不稔系統を種子親としたF1交雑検定を並行して実施した。計25の交雑系統から有望な系統‘UON’を選抜し,特性検定及び現地適応性試験を実施した。その結果,‘UON’は根部が首部を含め全体が白色で円筒形,甘味が強く,‘耐病総太り’と同等の食味評価を確認したことから,‘湘白’と命名し,2013年3月5日に品種登録出願し,2015年6月19日に品種登録を受けた(農林水産省登録番号第24375号)。
著者
岡田 英孝
出版者
一般社団法人 情報科学技術協会
雑誌
情報の科学と技術 (ISSN:09133801)
巻号頁・発行日
vol.56, no.12, pp.589-593, 2006-12-01 (Released:2017-05-19)
参考文献数
16

MEDLINEでは1980年代より訂正記事情報に対する取り組みがされているが,その現状について東京医科大学図書館分館で受け入れた2003年出版の冊子体の訂正記事データを用いて調査した。調査対象は114タイトル901件で,これらのデータとPubMedのデータを比較した。訂正記事の収録率は約80%で,著者名など書誌データに関わる訂正では書誌データ自体訂正されている例も見られた。収録率は過去の研究と比べても上がっており,また訂正記事情報に容易に到達できるように様々な工夫もされているが,未収録の訂正記事の存在や書誌データ自体の表記のゆれといった問題も見られたため,利用の際は注意が必要である。
著者
岡田英弘著
出版者
藤原書店
巻号頁・発行日
2010
著者
岡田 英男
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報
巻号頁・発行日
no.9, pp.1-16, 1991-03

建築遺跡や集落の発掘調査の成果をより一層具体的に表現するために、建造物の復原的考察が行われ、併せて実物大に再現されたり、模型が製作される場合が少なくない。昭和23〜25年度に発掘調査が行われた登呂遺跡では住居と高床倉庫が復原されている。この復原に当たり、倉庫では登呂遺跡で発見された建築部材と、静岡県山木遺跡から発見された多量の高床式建物の部材が併せて検討された。住居については江戸時代天明4年(一七八四)完成の製鉄技術書『鉄山秘書』に記された製鉄小屋「たたら」の記録が重要な根披となったことは広く知られている。高床式建物では三重県ら納所遺跡、福岡県湯納遺跡、愛媛県古照遺跡などのように建築部材が発見されたことが少なくない。これらの古材が最も重要な復原資料であることは言うまでもない。その他、銅鐸、土器に刻まれた建物の絵、家型土器や家型埴輪、家屋文鏡、太刀の環頭など建築の姿を表現する遺物が少なくない。また『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』などに見える建築関係用語の研究も行なわれ、伊勢神宮・出雲大社・住吉大社のような伝統的な神社建築の構造形式も原史時代の建築を考えるうえに重要な資料となっている。
著者
岡田 英明 喜連川 優 高木 幹雄
雑誌
全国大会講演論文集
巻号頁・発行日
vol.45, pp.253-254, 1992-09-28

ソーティングネットワークを初めとして、並列ソーティングアルゴリズムは多数提案されており、最近では超並列計算機上への実装についても報告されるようになった。しかし逐次型と違い、並列ソーティングの場合は比較的計算量やメモリアクセスの他に、ネットワークを介したデータの移動を考慮しなくてはならなくなるため、プロセッサ数、データ数によって最適なアルゴリズムは異なる。異なるアーキテクチャを持つ計算機ではなおさらのことである。そこで本論文ではデータパラレル超並列計算機におけるデータ数、プロセッサ数に適応したソーティングについて述べるとともにアーキテクチャに応じたソーティングについて考察する。今回使用したのは、MasPar MP-1というSIMD型の超並列計算機である。MP-1は4bitのPEを2次元格子上に配置し、隣接する8方向のPEと通信が可能であるX-netと、多段クロスパ結合による汎用通信網ルータを備えている。PE数は1Kである。ソート対象は32bit整数のキーのみとし、以下の説明においてPをPE数、Nをデータ数とする。また、グラフ中の処理時間はPEあたりのデータ数で正規化している。
著者
岡田 英己子
出版者
首都大学東京
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

1990年代から「平塚らいてうは優生思想の持ち主」論が流布している。しかし、その説の典拠はあいまいで、史資料の誤った引用が目立つ。平塚はたしかに優生思想の持ち主であるが、断種法制定運動を率いたわけではな、いからだ。本研究では、いつ頃から、どのようにして、平塚が優生思想に親近感を持つのかの解明を、主目的とする。III部構成である。I部「平塚らいてうの優生思想形成過程-大澤謙二・永井潜の『反』フェミニズムとの対比を通して」では、日独の結婚制限・断種法情報比較から、若き平塚の優生思想形成過程を追う。平塚は日本女子大学校時代に東大医学部生理学教室初代教授の大澤謙二講義を聴く。大澤の後継者である永井も、同時期に大澤講義を通して結婚制限に研究関心を待つことが明らかにされる。II部「断糎法制定(国民優生法)に至る動き」では、永井に代表される東大医学部の一群が、ナチ断種法に傾倒していく経緯を年表で提示し、それが平塚のフェミニズムに依拠する優生思想とは異なることを示す。III部「戦後優生思想の読みかえと隠蔽・忘却」では、優生保護怯制定時の平塚(1949)と永井(1948/49)の原稿を比べ、永井は「反」フェミニズムの姿勢を貫き、かつ彼の優生学テキストは戦後も変化がない点を明らかにする。研究成果は三点である。1.1990年代に流布する「平塚は優生思想の持ち主」論を批判し、「母性主義フェミニズム」とは別の平塚フェミニズム論の新たな可能性を探った。2.東大教授永井が優生学研究と断種法制定運動に没頭する理由が明らかにされた。3.日独比較を機軸にする優生学の歴史研究方法論のモデル例が示された。
著者
岡田 英孝
出版者
一般社団法人 情報科学技術協会
雑誌
情報の科学と技術 (ISSN:09133801)
巻号頁・発行日
vol.69, no.12, pp.615-618, 2019-12-01 (Released:2019-12-01)

主要なテーマに対しシソーラス用語が付与されないケースがあるのか,クリニカルパス(以下パス)を事例として「日本クリニカルパス学会学術集会」の抄録を元に調査を行った。2001年から2017年に収載された抄録数7,720件中,シソーラス用語「クリティカルパス」が付与されない抄録は566件あり,その中で明らかにパスに関連しない抄録は265件だった。これら265件とパスに関連すると考えられる抄録に付与されたシソーラス用語を確認したが,両者で共通するシソーラス用語も多く両者を区別する明確な理由は見つけられなかった。パスに関連すると考えられる文献を漏れなく検索できるようにする明快な方法はないため,現状では検索手法の工夫で対応が求められる。
著者
岡田 英弘
出版者
東洋文庫
雑誌
東洋学報 = The Toyo Gakuho
巻号頁・発行日
vol.48, no.4, pp.464-485, 1966-03
著者
岡田 英弘
出版者
東洋文庫
雑誌
東洋学報 = The Toyo Gakuho
巻号頁・発行日
vol.48, no.3, pp.301-326, 1965-12

From 1547 till 1628, just before its conquest by the Manchus, Inner Mongolia was divided into six Mongol states each headed by a qaγan, namely Ordos, Tümed and Qaračin to the west and Čaqar, Inner Qalqa and Qorčin to the east of the Khingan Mountains, while Outer Mongolia was under the rule of three qaγans of Outer Qalqa. The royal families of all those states save that of Qorčin had descended from Dayan qaγan, himself a descendant of Činggis qaγan. Such an important historical personage as he was, it has not yet been determined just when he lived and died. There are ten Mongol chronicles, all composed in the seventeenth and eighteenth centuries, that report on his reign. Three of those are found to have best preserved the historical traditions of the aforementioned states, quite independent of each other: Erdeni-yin tobči of Ordos, Altan tobči of Tümed and Ganga-yin urusqal of Čaqar. The Tümed chronicle is the most accurate in chronology up until the reign of Manduγuli qaγan who died in 1479. His successor, Dayan qaγan’'s father Bolqu ǰinong, is reported to have died in 1487 in a contemporary Chinese source, Ming Hsien-tsung Shih-lu. As for the length of Dayan qaγan’s reign, both Altan tobči and Gangga-yin urusqal give 37 years. Thus the date of his death falls in 1524, one year after the death of his eldest son Törö bolad, who is said in the Ordos chronicle to have died before the father. After Dayan qaγan’s death, his third son Bars bolad ǰinong took over the throne, according to the Čaqar chronicle for one month, but Bodi alaγ, son of Törö bolad and the rightful heir, backed by the left-wing tribes, forced him to retire. Erdeni-yin tobči reports that Bars bolad died in 1531, seven years later. All the three Mongol chronicles and a Chinese source, Ming Hsien-tsung Shih-lu, concur in asserting that Bodi alaγ qaγan died in 1547, that is, 23 years after his grandfather’s death, and this is the very number Altan tobči gives for the duration of his reign. Thus it is established that Dayan qaγan was on the Mongol throne from 1487 till 1524. As for the date of his birth, 1464 is preserved in the Ordos chronicle, most probably culled from an old genealogical work. Judged from ages of his sons and grandsons, especially that of Bodi alaγ qaγan, this date is quite reliable, while earlier birth-dates of Dayan qaγan’s predecessors are all false, often anachronistic, suggesting that he was the first one in the original family-tree whose birth-date was recorded.
著者
牛島 倫世 山川 義寛 高越 優子 加藤 潔 岡田 英吉
出版者
公益社団法人 日本臨床細胞学会
雑誌
日本臨床細胞学会雑誌 (ISSN:03871193)
巻号頁・発行日
vol.48, no.5, pp.280-284, 2009 (Released:2011-03-18)
参考文献数
12

背景 : 子宮内膜間質肉腫はまれな疾患で予後不良であり, 術前診断は困難である. 子宮内膜細胞診・組織診が診断の契機となった 1 例を報告する.症例 : 52 歳, 4 回経妊 2 回経産, 50 歳閉経. 主訴は不正性器出血. 経腟超音波で子宮体部に径 5.5 cm の腫瘤を認めた. 子宮内膜吸引細胞診陽性であり, 内膜生検にて間質細胞に著明な核異型と核分裂像を認め, 子宮内膜間質肉腫が疑われた. CT で腫瘤は辺縁が不均一に造影され, MRI では T2 強調像できわめて不均一であり, 出血性壊死を疑わせる所見であった. 病変は子宮内に限局しており, 腹式単純子宮全摘術・両側付属器摘出術を施行した. 病理所見では, 子宮内腔に広茎性ポリープ状腫瘤を認め, 多くの核分裂像を伴った多形性の腫瘍細胞からなっており, 脈管侵襲を認めた. 免疫染色では CD10, vimentin に陽性, cytokeratinAE1/AE3, SMA, S-100, ER に陰性であり, high-grade endometrial stromal sarcoma と診断された.結論 : 本症例では免疫染色を含む細胞診, 組織診が子宮内膜間質肉腫の診断に有用であった.
著者
岡田 英己子
出版者
東京都立大学人文学部
雑誌
人文学報 (ISSN:03868729)
巻号頁・発行日
no.361, pp.23-97, 2005-03

1990年頃から「平塚らいてうは優生思想の持ち主」論が通説として流布している。その典拠とされるのが、平塚執筆の「避妊の可否を論ず」に記された断種法要求であるが、実は原稿は3種類あり、刊行時期も食い違う。では、フェミニズムの旗手である平塚は、いつ、どのようにして女性の「性と生殖の自己決定」から、「性と生殖の国家管理」断種法要求にまで暴走していくのか。平塚著作の検討を通して、新婦人協会の花柳病男子結婚制限法案の修正経緯を概観し、同時に民族衛生学会の永井潜やドイツ社会事業に精通する海野幸徳との比較から、「いか程の優生思想の持ち主なのか」を査定した。これは優生学歴史研究方法の再考であり、また第一波フェミニズムの最初の敗退の背景解明にも繋がるものである。