著者
市川 智生
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.117, no.6, pp.1059-1096, 2008-06-20 (Released:2017-12-01)

During the Meiji era, foreign trade in such treaty ports as Yokohama facilitated the entry of much acute infectious disease into Japan. The morbidity caused by such disease was so high that city authorities were forced to take preventive measures. In 1879, the Yokohama Local Board of Health (YLBH) was organized to deal with an Asiatic cholera epidemic and consisted of Kanagawa prefectural officers, local leaders and medical physicians, both Japanese and foreign. Since the Japanese authorities could not impose the Board's rulings directly upon foreigners, the Prefecture decided to employ foreign doctors to deal indirectly with sanitation problems in the foreign settlement there. Focusing on the administrative side of the YLBH, the author argues that 1) Kanagawa Prefecture was able to establish disease control throughout the Yokohama treaty-port and 2) by virtue of foreign physicians taking the initiative within the YLBH, it was their organizational skills, medical know-how and ideas that determined the sanitary measures implemented throughout the treaty-port. Large-scale measures, like the development and construction of toilet facilities and implementation of hygienic inspections, deserves special mention, since it was such measures that contributed significantly to the sanitary improvements that occurred in Yokohama under the YLBH. In addition, the successful efforts of the YLBH did not go unnoticed by the Japanese central government, which then instituted a similar system of local boards of health in all of Japan's prefectures.
著者
市川 智生
出版者
日本政治学会
雑誌
年報政治学 (ISSN:05494192)
巻号頁・発行日
vol.73, no.2, pp.2_98-2_121, 2022 (Released:2023-12-15)
参考文献数
22

明治期日本の海港検疫制度の創設過程は、行政権とその運用をめぐる政治外交上の争点と、医療・衛生分野での学知をめぐる争点が交錯するものであった。1878年に外務省で開催された「検疫委員会議」には、医師検査法と停船法の対立という感染症をめぐる国際的動向が強く影響し、日本は検疫の方針に結論を出すことができないまま1879年のコレラ流行を迎えることになった。「海港虎列剌病伝染予防規則」の制定は停船法に基づく厳格な検疫の選択を意味したが、諸外国公使との協議を欠いた一方的な発令が反発を招き、検疫は機能しなかった。1882年以後、日本は「虎列剌病流行地方ヨリ来ル船舶検査規則」による簡易な検疫へと転換する。それは、イギリスが国際標準だと主張する検疫を追認することにより、諸外国公使から外国船舶への検査実施への協力を獲得するためであった。1880年代末から、繰り返されるコレラの蔓延や医学的理解の進展を背景として、日本は検疫の厳格化を計画するようになった。しかし、条約改正交渉との兼ね合いやコレラの常在化への疑念などから、日本は意に反して簡易な検疫を継続せざるを得ず、このような状況は1899年の「海港検疫法」まで続いたのである。
著者
飯島 渉 橋本 雄太 市川 智生 五月女 賢司 中澤 港 井上 弘樹 高橋 そよ 後藤 真
出版者
青山学院大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2023-04-01

COVID-19のパンデミックの歴史化をめぐっては、個人的な記録や記憶など、感染症対策への反応を示す資料群の整理・保全が必要である。そのための仕組みとして、国立歴史民俗博物館が運用しているクラウドソーシング・デジタル・プラットフォームを援用し、「コロナ関係資料アーカイブズ」(仮称)を構築・運用する。COVID-19のパンデミックの感染状況などの基本的な状況を示すデータを組み込む。中澤港(神戸大学)が整理・公表してきた時系列的な感染の推移データを基本とし、国別の状況も組み込む。持田誠(浦幌町立博物館)、五月女賢司(大阪国際大学)、高橋そよ(琉球大学)の収集資料などを、デジタル化して組み込む。
著者
市川 智生 福士 由紀 平体 由美 星野 高徳 前田 勇樹 戸部 健 井上 弘樹 趙 菁
出版者
沖縄国際大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2020-04-01

本研究は、従来の医療社会史の中心的課題であった感染症対策ではなく、近代化の過程において健康とされる状態がどのように認識されてきたのか、すなわち「健康観」の歴史的解明を目標としている。日本(アイヌおよび琉球・沖縄を含む)、中国(上海、天津)、植民地統治期および戦後の台湾と朝鮮・韓国がその対象である。歴史資料の収集・検証とこれまでに利用してきた感染症関係資料の再検証をもとに、左記の地域を専門とする研究者が共同で歴史研究を実施する。政治、文化、社会経済、自然環境などに影響された多様な「健康観」形成の歴史を明らかにし、現代社会への継承のあり方まで特定する。
著者
東城 文柄 市川 智生
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.63, 2013 (Released:2013-09-04)

本報告では、広大な淡水面とそれに付随する生態系を持つ琵琶湖において、1920-50年代の土地改変がどのような環境影響を持っていたかの考察を、土着マラリアの流行と終焉に関する歴史地理的分析を通して行う。日本の土着マラリアは、シナハマダラカ(Anopheles sinensis)によって媒介される三日熱マラリアであった。特に滋賀県での罹患者数が他地域と比較して多く、しかも1940年代末に発生が集中したために、戦後の医療・衛生改革の対象となった(彦根市 1952)。琵琶湖の東岸に位置する彦根市では、彦根城およびその周辺の城下町を取り囲む堀が媒介蚊の孵化地となり、県内でも特に濃厚なマラリアの汚染地域になっていたと言われている。一方統計データから判断すると、マラリアの流行はより広域的で、マクロな環境条件と結び付いた現象であった可能性があると言えた。 統計が示す1920年時点の湖岸地域における村毎のマラリア罹患者分布(1,000人対比)は空間的に不均一で、かつ1920年に作成された測量地図(縮尺5万分の1)からデジタイジングした当時の水田・浅水域(内湖)・泥田の分布と極めてよく一致していた。これら湖岸の内湖が、1940年代までに干拓によってほとんど消失すると、マラリア罹患者数と分布もこれに合わせて急速に収縮した。このように戦後彦根市で社会問題とされたマラリアの発生は、実際には戦前から広域で見られた流行の「残滓」と言える状況であった。歴史的な日本の土着マラリアの終焉に関しては、これまで戦後の彦根における医療・衛生対策の役割が強調されていたが、この分析結果からは1920-40年代の大規模な湖岸の環境改変の進展により、シナハマダラカの発生に適したタイプのエコトーンがマクロスケールで消失し、マラリアの終焉にまで影響を及ぼしたと推測できる。