著者
ハンス・マーティン・クレーマ 楠 綾子
出版者
東京大学社会科学研究所
雑誌
社会科学研究 (ISSN:03873307)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.150-170, 2007

本稿は,1948年から1950年にかけて行われた「共産主義的」大学教員の追放(レッド・パージ)を,いわゆる占領政策の「逆コース」の一例として検討する.本稿は,レッド・パージは,米国の対日政策の変化によるものではなく,むしろ日本主導で行われたと考える.反共主義は1946年以降,教育行政の思想においては不可欠の要素であった.しかしながら,反共主義が処罰的行動へと直結したわけではない.政治色よりも大学での地位の低さといった要素が個人の追放の決定要因になったことは,追放が単に上からの命令によるものではなかったことを示唆している.本稿は,旧制弘前高校の哲学講師と京都府立医科大学の解剖学教授のふたつの追放の事例からこれを証明するものである.「逆コース」を従来の研究のようにとらえれば,日米それぞれの担当者が占領政策にいかなる貢献をしたのかが見落とされることになる.占領政策の形成に日本がいかなる役割を果たしたのかを明らかにするためには,中堅,下層レベルの行動を考慮に入れて占領期の正確な実像を描く必要がある.
著者
籠谷 公司 西川 賢 廣野 美和 楠 綾子 伊藤 岳
出版者
中央大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2023-04-01

外交的抗議は軍事的行動や経済制裁とは異なり、標的国の国民に物理的な損害を与えない。しかし、安全保障政策が顕著な争点である限り、外国からの否定的な声明でさえも標的国の国民の間に愛国心を引き起こすかもしれない。自国の国益と相手国の対外政策が相反する場合、抗議をしなければ事態の更なる悪化を招き、抗議をすれば相手国内の反発や相手国からの強硬策を招いてしまう。それゆえ、外交的抗議のジレンマが存在する。こうした学術的背景を踏まえ、本研究では「いかなる場合に外交的非難がラリー現象を引き起こし、国家間の緊張を高めるのか」という学術的問いの答えを探す中で、外交的抗議のジレンマの解決策を探る。
著者
楠 綾子
出版者
関西学院大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2011

本研究は、日米安保条約を基礎に日米が1950年代を通じてどのように、どのような安全保障関係を形成したのか、とくに在日米軍基地の運用をめぐる合意形成に焦点を当てた研究である。条約締結時に日本が自衛の能力と意思に乏しかったこともあって、日米間の安全保障関係の中心的機能は、共同防衛よりも基地の貸借と運用であった。その性格は1950年代を通じてほとんど変わらず、日米は基地の運用をめぐってさまざまな慣行や制度を作りあげていった。事前協議制度はそのひとつの例である。本研究は、日米両国が米軍基地の運用に日本が協力する仕組みを形成することを通じて、日米が「同盟」関係を形成したことを明らかにしている。
著者
楠 綾子
出版者
日本政治学会
雑誌
年報政治学 (ISSN:05494192)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.2_226-2_247, 2017

<p>日本国内では1950年代半ごろまで, 日本の自衛力建設が進めば日米安全保障条約の相互防衛条約化と駐留米軍の撤退を米国政府に対して要請できるようになると考えられていた。相互防衛条約という形式と基地の提供は不可分ではないし, 米軍駐留と自衛力建設とのトレード・オフ関係が条約で規定されているわけでもない。にもかかわらず, 2国間の安全保障関係の態様と米軍への基地提供と再軍備がなぜ, このような関係でとらえられたのだろうか。本稿は, 1951年に調印された日米安保条約の形成過程と日本国内の批准過程に焦点を当て, 条約が法的に意味した範囲とその日本における解釈を明らかにする。北大西洋条約 (1949年7月) やANZUS条約と米比相互防衛条約 (1951年) とは異なり, 旧安保条約が基地提供に関する条項と2 国間の安全保障関係を一つの条約で規定したことと条約が暫定的な性格をもっていたことに注目し, なぜそうした方式が選択されたのか, それによって条約にどのような構造が生じ, いかなる解釈を可能としたのかを考察する。</p>
著者
クレーマ ハンス・マーティン 楠 綾子
出版者
東京大学社会科学研究所
雑誌
社會科學研究 (ISSN:03873307)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.150-170, 2007-12-17

本稿は,1948年から1950年にかけて行われた「共産主義的」大学教員の追放(レッド・パージ)を,いわゆる占領政策の「逆コース」の一例として検討する.本稿は,レッド・パージは,米国の対日政策の変化によるものではなく,むしろ日本主導で行われたと考える.反共主義は1946年以降,教育行政の思想においては不可欠の要素であった.しかしながら,反共主義が処罰的行動へと直結したわけではない.政治色よりも大学での地位の低さといった要素が個人の追放の決定要因になったことは,追放が単に上からの命令によるものではなかったことを示唆している.本稿は,旧制弘前高校の哲学講師と京都府立医科大学の解剖学教授のふたつの追放の事例からこれを証明するものである.「逆コース」を従来の研究のようにとらえれば,日米それぞれの担当者が占領政策にいかなる貢献をしたのかが見落とされることになる.占領政策の形成に日本がいかなる役割を果たしたのかを明らかにするためには,中堅,下層レベルの行動を考慮に入れて占領期の正確な実像を描く必要がある.
著者
楠 綾子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2013-04-01

冷戦期の日米の安全保障関係は、とりわけ旧日米安全保障条約下(1951~1960年)においては、在日米軍基地の設置と運用が中核となっていた。基地は米軍の極東戦略を支える重要なシステムであった。他方で、基地は、いわゆる「基地問題」という形で日本国民の反米感情を刺激し、日米関係の不安定要因でもあった。本研究は、米軍の戦略的利益と基地周辺住民の利益を可能なかぎり均衡させる方途を求めて、日米両政府が基地の設置と運用の方式について合意を形成した過程を考察した。