- 著者
-
藤谷 武史
- 出版者
- 財務省財務総合政策研究所
- 雑誌
- フィナンシャル・レビュー (ISSN:09125892)
- 巻号頁・発行日
- vol.152, pp.4-29, 2023 (Released:2023-08-24)
- 参考文献数
- 70
「法と経済学」(法の経済分析)の分野の古典的業績に数えられるのが,「厚生主義(welfarism)の下では,法制度は効率性のみを追求し,所得分配の不公平性の問題は専ら税制および財政的給付(tax and transfer)を通じた所得再分配によって対応すべきである」という命題を提出した,Kaplow & Shavell (1994)(以下,「KS1994」)である。KS1994は,米国を中心とする「法と経済学」の研究者に幅広く受容された一方で,所得分配の問題に関心の強い論者からは,法と経済学が専ら法の効率性の観点を重視し,所得分配の公平の問題を等閑視することに免罪符を与えるものとして,批判の対象となってきた。しかし,わが国では,こうした論争自体,必ずしも広く知られているとは言えない状況にある。 本論文では,この缺を補うべく,関連文献を渉猟して,米国におけるKS1994をめぐる論争から得られた理論的蓄積を整理し(その際には,議論の拡散を避けるため,広い意味での厚生主義に依拠する陣営内部での論争に焦点を絞ることとした。),特に同論文の命題の射程を検討した。 検討の結果,以下の諸点が明らかとなった。まず,厚生主義者でKS1994の成果を全面的に否定する者は見当たらず,批判のほとんどは,KS1994が理論モデルから言える範囲を超えて一般的な射程を持つ「かのように語られる」点に向けられていた。理論モデルから言える範囲では,KS1994の結論は穏当ですらある。たとえば,KS1994は,「所得」以外の不平等について法制度が対応することについては否定も肯定もしておらず,衡平を考慮した法的権原(entitlement)の分配もKS1994の理論モデルからは必ずしも排除されない。また,KS1994が成り立つ条件も実は限定されている。例えば,所得再分配の手段としてみた場合に常に「所得税+給付」が優れているとも限らず,政治的に利用可能な手段であるとも限らない。論争を通じて明らかとなったこれら諸点は,いずれもKS1994が十分に述べなかった理論モデルの留保条件や射程を明らかにし,KS1994を理論的に補完するものである。ただし,政策的指針として見た場合には,「これら理論的留保により補完されたKS1994」がそのオリジナルの形態に比べて,簡明さゆえの魅力を大きく損われたものになっていることは否定しがたい。