著者
坂 敏宏
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.270-286, 2014

Max Weberの価値自由 (Wertfreiheit) という概念はこれまでさまざまに解釈されてきた. 本稿はまず, Weberの著作からwertfreiまたはwertungsfreiを含む語 ('価値自由') の用例を調べ上げることで, Weber自身がこの言葉にどのような意味を与えていたのかを明らかにしようとする. 調査の結果, '価値自由'の語はテキスト中30カ所において得られた. これらの用例を分析したところ, これらはすべて社会科学的認識のための方法論の立場を示すものとして用いられており, 実践的な「価値への自由」を含意していなかった. つまり, '価値自由'が意味しているのは, 実践的内容を含意するものである価値は, 科学的認識の「過程」において認識の対象とすることができるが認識の基準にすることはできないということ, および認識の「言明」において価値評価は排除されるということである. 次にその意義を考察した. それによると, '価値自由'は自然と対置される価値の世界を自然科学と同じ確実性をもって認識するための原理であって, これによって価値の世界を自然の世界と同様の客体として科学的に「説明」することを可能にするものであり, さらには, 認識と実践の統一を主張するHegel的な汎論理主義的性格に抗して, あくまで認識と実践との区別というKant的な立場に踏みとどまろうとするWeberの「哲学」の基礎をなしている.
著者
池本 淳一
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.64, no.2, pp.169-186, 2013 (Released:2014-09-30)
参考文献数
33

武術学校とはスポーツ化した「競技武術」の専門課程をもつ中国における私立の体育系学校であり, 1980年代までの間に大学やナショナルチームを中心に発展してきた. 本稿は武術学校における再生産戦略とアイデンティティ構築に着目し, 競技武術の民間普及をもたらした社会的背景と, 実践者にとっての競技武術の意味を明らかにする. 具体的には以下の点を明らかにした.第1に, 武術学校への転入学は農村の教育問題や都市の住居問題を解決するために, 農民や農民工の親によって決定された再生産戦略の一部であったこと. 第2に, 武術を学歴取得や就職のための技能として受入れ, 親の用意した再生産戦略を自分自身の戦略として受け継いだ生徒のみが, 中学部以上に進学していくこと.第3に, 卒業生の多くは武術教師や警備員として都市で就職していくこと. 他方で豊富な身体資本を蓄積した生徒はステート・アマに, 豊富な文化資本を蓄積した生徒は体育大学・教育大学の武術科の大学生となること.第4に, 卒業後, 武術は本人の出世と親子での都市移住を達成させるための経済資本となること. くわえて武術に打ち込むことで, 武術がナショナルかつ私的なアイデンティティを生み出す「身体化された文化資本」となること.最後に競技武術の民間化をもたらした社会的背景, 武術文化が生み出す公的で私的な文化的アイデンティティ形成の可能性と危険性, 武術のローカリゼーションに関する諸問題を指摘した.

5 0 0 0 OA 社会の文化

著者
多田 光宏
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.36-50, 2011-06-30 (Released:2013-03-01)
参考文献数
57
被引用文献数
1

本稿では,ニクラス・ルーマンによって構想された自己準拠的な社会システムの理論の観点にもとづき,文化と社会の関係を定式化する.従来の社会学理論,たとえばタルコット・パーソンズやアルフレート・シュッツは,社会的なものの成立基盤として人々のあいだの共有文化を想定していた.この発想によるならば,社会とは文化の産物であり,この意味で「文化の社会」である.これに対して自己準拠的な社会システムの理論は,社会的なものを可能にするそうした共通基盤を前提しない.文化は,社会システムを外部からサイバネティックス的にコントロールする永続的な客体などではない.社会システムはまず人々の相互不透明性,つまり二重の偶然性のうえに創発し,それから自身の作動に関する記憶を想起し忘却することで,自らの方向性をコントロールしはじめる.この記憶こそが文化と呼ばれるものであり,それはシステムの作動から自己準拠的に帰結する.よって文化とは,社会システムの作動の副産物という意味で,「社会システムの文化」である.これは,地理的単位としては表象されない脱国家化した世界社会というシステムにも当てはまる.「社会の文化」としての世界文化は,世界社会の固有値としての偶然性である.こう考えることで,社会的なものを文化に先行させて,今日の世界のなかで文化が分化していく現状とそれに付随する諸問題を適切に記述し分析しうる理論枠組が整えられる.
著者
三谷 はるよ
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.65, no.1, pp.32-46, 2014 (Released:2015-07-04)
参考文献数
31

本稿の目的は, 「市民活動参加者の脱階層化」命題が成り立つかどうかを検証することである. すなわち, 資源のある人もない人も等しく市民活動に参加するような状況に変化しつつあるのかどうかを検討する. そのために本稿では, 1995年と2010年に実施された全国調査データであるSSM1995とSSP-I2010を用いて, 社会階層と市民活動参加の関連の動向に注目した時点間比較分析を行った.分析結果は以下のとおりである. 第1に, 1995年も2010年も変わらずに, 高学歴の人ほど市民活動に参加する傾向があった. 第2に, 1995年では高収入や管理職の人ほど市民活動に参加する傾向があったが, 2010年ではそのような傾向はなかった. 第3に, 1995年では無職の人は市民活動に参加する傾向があったが, 2010年では逆に参加しない傾向があった. 本稿から, 高学歴層による一貫した市民活動への参加によって教育的階層における「階層化」が持続していたこと, 同時に, 中流以上の層や管理職層, 無職層といった従来の市民活動の中心的な担い手の参加の低下によって, 経済的・職業的階層における消極的な意味での「脱階層化」が生じていたことが明らかになった.
著者
李 洪章
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.168-185, 2010-09-30

本稿は,朝鮮籍を有する若い世代の在日朝鮮人の語りから,彼らのナショナル・アイデンティティについて考察し,さらには彼らが政治的/社会的に不利な状況を打破するために打ち立てる生存と連携のための戦略のあり方を明らかにするものである。<br>朝鮮籍者は,在日朝鮮人の法的地位が変遷していくなかで,一貫して管理対象として取り扱われ,「無国籍者」あるいは「北朝鮮国民」として一方的に規定されてきた.ただし,こうした管理体制のもとで,朝鮮籍者が一貫して受動的な生を営んでいるわけではない.朝鮮籍者はみずからが維持している朝鮮籍を,あらゆる眼差しを受けながら解釈しなおし,朝鮮籍に積極的な意味づけを行おうとする.また,こうした実践は,つねに日本人/日本籍者/「ダブル」など,異なる他者との日常的なコミュニケーションのなかで行われる.それゆえ,朝鮮籍問題をめぐる連帯構築に向けた模索からは,日常生活に根ざした「権力性を伴わない開かれた連帯」の可能性をうかがい知ることができる.
著者
ニシオ ハリー K. 竹中 和郎
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.20, no.1, pp.73-90, 1969-07-30

The social sciences, sociology in particular, have aimed to develop an empirically-verifiable body of theory through application of the structural-functional analysis of social action in general. Functional sociologists, whether they be the Grand Theorists or Middle-range Theorists, have therefore concerned themselves with "objective" and "scientific" investigation of phenomena, rejecting metaphysical as well as positivistic interpretations of social reality. While the voluntaristic theory of social action caught the imagination of sociologists articulating the theoretical position of sociology vis-a-vis social idealism, radical utilitarianism and Social Darwinism, a new, though somewhat "off-beat" sociological approach has begun to appear, challenging the theoretical foundation of systematic sociology in general. Ethnomethodology is one of such challenges posed upon against the Orthodox Sociology.<BR>Ethnomethodology finds its origin in the work of Alfred Schutz, an Austrian sociologist who wrote a three-volume work titled <I>Collective Papers</I>, in which most of his ideas are contained. His "subjective" approach to social action, tied with his interest in phenomenology, appealed to social scientists in New York and California. Included in this group of ethnomethodologists are Harold Garfinkel, Aron Cicourel, Peter Mcllugh, Marvin Scott and many young sociologists.<BR>What these sociologists aim to accomplish may be summarized in the following : 1) in the process of scientific enquiries, a priority should be given to the subjective aspect of social interaction based on mutual understanding and on the accepted "rules of the game", 2) instead of developing generalized rules <I>arbitarity</I> constructed by scientists, ethnomethodologists, by taking the position of social actors, attempt to understand not only the expressed symbolic interaction but also more subtle, unstated, unpredictable definitions of situations, 3) the ethnomethodologists treat the acting individuals not merely as "actors" but as "theorists" capable of defining the situation, impressing others in ways they desire and to some extent manipulating the given social structure to their advantage, and 4) in this type of observation, it is indispensable for the observer to react with those whom he analyses so as to enable him to identify the processes by which new shared knowledge and group experiences emerge and become sanctioned. In ethnomethodology, however, emphasis is upon <I>culturally unstated</I> social facts, rather than those formally institutionalized or stated. Because of this interest, ethnomethodologists tend to preoccupy themselves with many unusual, off-beat topics such as homosexuality, the social system of gamblers, social interaction in horse racing, etc. They are convinced that orthodox sociology is able to deal with only a very small portion of social reality which appears above the surface while a gigantic mass of unstated social interaction remaining beneath totally untouched. With this approach, E. Goff man attempts to analyse the communication processes which are primarily being "give-off" by the social performers. He uses a dramaturgical approach and cynically examines social interaction in terms of the performance that takes place in front or back of the curtain in relation to the audience. Aron Cicourel, articulating the theory of Harold Garfinkel, attempts to develop the theory-methodology of Ethnomethodology in his recent work by pointing out the theoretical, methodological shortcomings of the conventional survey methods.<BR>Ethnomethodology is still theoretically ambiguous and methodologically unclear to many. For one thing, where should we draw a line between ethnomethodology and social interactionist approach?
著者
宍戸 邦章 佐々木 尚之
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.336-355, 2011-12-31 (Released:2013-11-22)
参考文献数
42
被引用文献数
3

本稿の目的は, 2000年から2010年の期間に8回実施されたJapanese General Social Surveys (JGSS) の累積データに基づいて, 時代や世代の効果を考慮しながら, 日本人の幸福感の規定構造を検討することである. JGSSは, 各年または2年に1回実施されている反復横断調査であり, このデータをプールすることで, 単年度の調査では明らかにできない時代や世代の効果を検討することができる. また, 時代や世代の効果を統制しながら, 個人レベルの変数の効果を検討することで, 特定の調査時点だけで成り立つ知見ではなく, より一般化可能な知見を得ることができる. 分析手法は, 階層的Age-Period-Cohort Analysisである. 個人は時代と世代の2つの社会的コンテクストに同時にネストされていると考え, 時代と世代を集団レベル, 年齢および幸福感を規定する他の独立変数を個人レベルに設定して分析を行う.分析の結果, 次のことが明らかになった. (1) 年齢の効果はU字曲線を描く, (2) 2003年に幸福感が低下した, (3) 1935年出生コーホートや80年以降コーホートで幸福感が低い, (4) 出身階層や人生初期の社会的機会が幸福感の加齢に伴う推移パターンに影響を与えている, (5) 絶対世帯所得よりも相対世帯所得のほうが幸福感との関連が強い, (6) 就労状態や婚姻状態が幸福感に与える効果は男女によって異なる.
著者
宇田川 順子
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.18, no.4, pp.50-57,118, 1968-03-01 (Released:2009-11-11)
参考文献数
2

The lineage of class theory in post-war Japanese sociology has roughly three trends. The first is what is called sociological class theory, the second is Marxist class theory and the last lies between the two. This study especially focuses on the historical development of “sociological class theory”, which has its backgrounds in the theoretical development from cultural anthropological class theory to the structural-functional class theory in American sociology. Today, the work of Ken'ichi Tominaga shows the stage of sociological class theory in Japan. The essence of his theory is the denial of the antagonism of two large classes in capitalistic society and the denial of the possibility of the emancipation of the working class by class struggle. In his theory Tominaga gives a precise meaning to the concept “social structure” in order to explain the class structure as a system of inequality springs from the functional prerequisites of social structure. He finds that the theory of social stratification is more appropriate than Marxist class theory to industrial society. On the other hand, he denied that the class struggle is the driving force of historical progress by basing his analysis on the theory in social dynamics which seeks cause for such progress outside the society in which it occurs. Sociological class theory, such as that outlined above, has come to play an important role in our cotemporary society. By which I mean that the development of this theory corresponds with the development of post-war Japanese capitalism.
著者
田渕 六郎
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.56, no.4, pp.950-963, 2006-03-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
37
被引用文献数
5 4
著者
小井土 彰宏
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.194-209, 2014 (Released:2015-09-30)
参考文献数
24

合衆国に現在約1,150万人滞在するといわれる非正規移民の社会運動は, 2006年以来急激に台頭し, その後も持続的な潮流となってきた. 一斉検挙や強制送還に反対し, 正規化を求める運動は, 一見すると国民国家の枠内での権利獲得の運動とも思える. だが, この運動は移民と安全保障に関するアメリカ国家の枠組みの根本的再編成というかたちをとって, 新たなグローバリズムが社会に浸透したことへの対抗運動という性格をもっている. 他方, この運動は, 市場原理志向の再編成の結果生み出される経済・社会的な排除の論理に対抗して, さまざまな水準のローカルな規制やトランスナショナルな交渉によるグローバル化の諸影響への抵抗の戦略という性格も合わせもってきた. 本稿では, 移民管理レジームとその作動様式をまず概観し, この新たな統治性の様式の出現の衝撃がどのような運動の行動論理と戦略を生み出すかを分析していく. その一方, グローバルな市場原理の地域社会への浸透に対抗する移民の運動の組織や戦略の特質について, 類型的に整理・分析することで検討していく. 最後に, 2009~10年の現地調査に基づくロサンゼルス郡での2つの対照的な一斉検挙を分析することで, このグローバルな移民統治様式と市場の論理が相互作用しながら移民コミュニティにどのような影響を与えるかを例証していく.
著者
武田 尚子
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.65, no.4, pp.486-503, 2015 (Released:2016-03-31)
参考文献数
15

本稿は, テレビ草創期のNHKドキュメンタリー・シリーズの2本の番組を取り上げ, 地域研究資料としての意義を考察した. これらの番組は, 1960年代に広島県因島の家船集落を取材したもので, 漁村の貧困と不就学児童の問題に焦点をあてている. このシリーズは, 民俗学の視点を参照して, 底辺層の生活に迫り, その人々が直面している社会的ジレンマを視聴者に問うという方針で制作された. これとほぼ同時期に, 同じ集落で, 宮本常一が参加した民俗学調査が実施された. これら2つの調査・取材は, いずれも民俗学的関心に基づいて実施されたものであるが, 見出した知見には相違がみられる.テレビ・ドキュメンタリーは, 階層的視点が明確で, 貧困地域という集落特性を映像で実証的に示している点に意義がある. これによって, ミクロな地域社会の事象をマクロな社会構造に位置づけてとらえることが可能になった. しかし, その一方で, 民俗学調査報告書と比較すると, テレビ・ドキュメンタリーは, 該当地域に居住していた非識字者を貧困の視点でとらえる傾向がつよく, 非識字者の集団が保持していた口承文化の豊かさについて, 理解が浅い面があったことがわかる.以上のように本稿は, 民俗学調査と比較することによって, テレビ・ドキュメンタリー番組を地域資料として利用する場合の長所および留意点を明らかにしたものである.