著者
堀 智久
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.57-75, 2007-06-30 (Released:2010-03-25)
参考文献数
27

本稿の目的は,先天性四肢障害児父母の会の運動の展開を追い,そのなかで親たちが,いかにしてその主張の有り様を転換させてきたのかを明らかにすることである.先天性四肢障害児父母の会は,1975年に設立され,環境汚染がさまざまに問題にされた時代にあって,子どもの障害の原因究明を訴える運動として始められた.親たちは自らを被害者家族として位置づけ,一方では国・厚生省に催奇形性物質の特定・除去を求め,他方ではシンポジウムや写真展の活動を通じて,障害をもった子どもが二度と生まれないように社会啓発を展開していく.こうした訴えはそれ自体,親たちにとって,解放の効果をもつものであった.だが,1980年代に入ると,この原因究明の訴えは次第に行き詰まりを見せるようになる.とりわけ,障害者本人による原因究明活動への違和感の表明や「障害をもっていても不自由ではない」という主張は,この運動の質の転換を決定的なものにした.親たちはその後,親と子どもの当事者性の相違を認識し,親子の日常生活に立脚した活動を展開していく.子どもが主役のシンポジウムや子どもの生き生きとした姿の写真が並べられた写真展の活動を通じて,「障害をもった子どものいる暮らしはけっして不幸ではない」ということを示していく.本稿では,こうした先天性四肢障害児父母の会の運動の展開から,1970年代および80年代における運動の質の相違を明らかにしていく.
著者
小林 伸行
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.59, no.4, pp.805-820, 2009-03-31 (Released:2010-04-01)
参考文献数
16

本稿の目的は,N. ルーマンの教育システム論を他の機能システム論と比較可能な「特殊でない」機能システム論へと再構築することである.ルーマンの教育システム論が他の機能システム論との比較可能性を損なっている要因は複数ある.包摂がすべての個人に及んでいない,固有メディアや二分コードを欠いたまま機能システムとしての自律性などが説明されてきた,コードとプログラムが明確に区別されない等である.本稿では,その淵源を主に「学校(教育)」に偏向した説明に求めつつ,そうした説明からの脱却を通じて他の機能システム論との比較可能性を教育システム論に付与するとともに,社会システム論全体の一貫した説明力を向上させる可能性を模索する.そのために,教育システムのメディアを「ライフコース」から〈能力〉に,形式を「知識」から「手本/模範」に変更し,二分コードを「有能/無能」とすることを提案する.また,相対評価にも絶対評価にも変更されうるような従来の「選抜コード」を,有能か無能かの判断基準となる可変的なプログラムの一環として位置づけ直し,「有能/無能」コードとともに学習者だけでなく教育者にも向けられるものと見なしたうえで,教育システムの機能を「何かが〈できない〉ために諸人格の参入が不可能であるとの判断を延期させ,いずれ〈できる〉ようになって包摂が可能になると予期を変質させること」すなわち「包摂不可能性の認知的予期化」と規定する.
著者
佐々木 洋成
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.55, no.4, pp.468-482, 2005-03-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
10
被引用文献数
1

男性中高年と特定地域の自殺が社会問題となっている.本稿ではアナール学派社会史のアプローチを採用して経年的検討を行い, 現状に至った歴史的経緯を把握する.理論枠組はMertonのアノミー解釈 (欲求と充足手段の乖離) を参照し, 自殺死亡の変動をアノミー状況の変化の指標と位置づけた.使用したデータは, 『人口動態統計』の, 1899年から2002年までの男女・年齢層・都道府県別自殺死亡率である.検討の結果, 高度経済成長期の自殺死亡率が例外的に低いこと, 今日の問題状況はこの時期におこった構造的な方向転換によるものであることがわかった.日本全体は, 1960年代の急激な下降の後, 漸次的な上昇を続けている.性別では, 1960年代に男女差が縮小するとともに70年間続いた連動が終了し, 女性は緩やかに下降する一方で男性は上昇している.男性の上昇は50代とその前後に顕著であり, 経年加算的に高まる傾向がみられる.1960年代には地域差も圧縮し, その後は低水準を維持する地域と上昇する地域とに区別され, 「東海道ベルト地帯が低く, 低開発地域が高い」構成へと再編されている.
著者
横山 敏
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.26, no.2, pp.36-52, 1975-11-30 (Released:2009-10-19)
参考文献数
37
被引用文献数
1

本稿は、ヴェーバーの近代認識を検討している。ヴェーバーの近代論をマルクスとのかかわりで論ずるうえで、かれの「事象化」 (Vrsachlichung) 概念をまずもって検討することは、きわめて重要であるように思われる。一、ヴェーバーは、次のように、人類史の転換について論じている。プロテスタントによる被造物神化の拒否は、資本主義の精神の形成にさいしての一つの決定的要因となった。そのことを通して、人格的諸関係 (die persönlicehe Verhältnisse) は突破され、使命として合理的職業労働が選択されたのである。そうした労働は、事物に即した行為、態度を特徴とするのであるが、同時に、それは、社会的な事物的諸関係 (die sachliche Verhältnisse) を生み落すところとなった。二、ヴェーバーは、近代資本主義を二段階に区分している。その第一段階は、プロテスタンティズムの禁欲主義と「独自の市民的エートス」をその特色とする。資本主義の向上期において、市民の行為は、意欲して事象化を推進する。第二段階においては、客体 (官僚制) は、主体から自立し、いかなる力をもってしてもそれを破壊できないものとなる。この段階で人間は、人格的に意味の喪失に陥る。ヴェーバーは以上のようにいうが、それに対して、マルクスは、資本主義の向上期にあっても、人は事物的諸関係 (商品=貨幣関係) の担い手であり、人々が第二段階と同様に事物への隷属に陥っていると見做す。三、ヴェーバーは、事物の人間に対する非合理的専制を突破できないといっている。経済的領域にかんしていえば、この事態に対するヴェーバーの批判は、資本主義の精神の存在いかんにかかっているから、その批判は、本質的なものでないと思われる。マルクスは、プロレタリアートに高度の生産諸力と普遍的交通の領有可能性を見いだしているが、このように、マルクスが物象化として止揚可能性を見いだしたものを、ヴェーバーは、合理化の宿命としてひきうけたのだと、われわれは考えることができる。
著者
白波瀬 佐和子
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.56, no.1, pp.74-92, 2005-06-30 (Released:2009-10-19)
参考文献数
26
被引用文献数
1

本稿では, 高齢社会の階層格差を所得と支援提供メカニズムに着目して, 実証データ分析を通して検討した.65歳以上高齢者のいる世帯の所得格差は, 1986年から1995年まで拡大傾向を呈したのち最近縮小傾向にある.この格差縮小の理由の1つは, 高齢層で大きく増えた夫婦のみ世帯の所得格差が低下したことによる.夫婦のみ世帯を基準 (100) とした他の世帯構造との平均可処分所得の相対的な違いは, 高齢女性単身世帯との間で縮小されたが, 高齢女性の一人くらしに伴う経済的リスクはまだ大きい.本稿の後半部は, 既婚女性から本人と母親と夫の母親への経済的支援と世話的支援に関して分析を行った.その結果, 本人の親に経済的な支援を提供するかどうかは, 母親と同居するか, 母親が一人くらしかに左右され, 世帯構造は支援ネットワークを形成する上にも重要であった.しかし一方で, 夫の母親への経済的支援については, 世帯所得に加えて夫が長男であるかどうかが重要であった.1990年代後半においても男系型直系家族規範が機能していた.3世代同居というかたちで高齢者に生活保障を提供できる状況が減り, 高齢者の一人くらしや夫婦のみ世帯の増加によって世帯のもつ生活保障機能そのものが変わっていく.世帯状況と密接に関連していた高齢者の生活に公的な保障がどう関与すべきかは, 今後の制度設計を考える上に重要な検討課題である.
著者
稗島 武
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.56, no.1, pp.200-213, 2005-06-30 (Released:2010-04-23)
参考文献数
15
被引用文献数
2 2

本稿で, 私はレディメイドという衣服のあり方と身体の関係を切り口に, 近代の身体観の変容について論じる.具体的な分析対象としては, 雑誌『アンアン』の記事を用いる.オーダーメイドとレディメイドの大きな違いは, 衣服を着る側から関わることのできない「サイズ規格」に基づいた生産システムにある.このシステムの変化は, 生産の効率化や生産アイテムの多様性を実現した.一方, 体型に関しては, 個別の体型を包摂するとされる「サイズ規格」により作られるがゆえに, 実際の身体と衣服とが適合しない可能性を持つことになってしまった.ここにおいて, レディメイドは, 個別具体的な身体から切り離された「もう1つの身体」を体現するものとなる.この「もう1つの身体」は, 個別具体的な身体を, 1つのラインに順序立て秩序づけるような, メタ次元に存在する「身体」であるといえる.これにより, 人々は, 常にこの「もう1つの身体」に基づいて, 自分の身体を意識せざるをえない.オーダーメイドにおいて, 個別的な対象であった身体は, レディメイドにおいて, 1つのラインに順序立てられ, 秩序づけられていく.自らの身体のみならず, あらゆる身体を包摂すると考えられるメタ次元の「もう1つの身体」の成立.これこそが, レディメイドによってもたらされた身体認識の変化であった.
著者
山岸 健
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.32, no.3, pp.18-35, 1981-12-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
47
被引用文献数
1 1

社会学の研究領域では、まだ身体論と呼ばれるようなまとまった考察はおこなわれていないが、ヒューマニスティック・パースペクティヴで日常生活の世界と生活している人間に社会学のサーチライトが向けられてもいる現況において、私たちは、座標原点でもあれば根源的な表出空間でもある身体に注目しなければならないだろう。現象学的社会学でも身体についての若干の考察は見られるが、身体については、今日のところ、実存社会学の分野で積極的な検討が加えられている。ここでは、そのような検討をふまえて、人間と世界という軸で身体を視点として私たちが生きている世界地平に目を向けたいと思う。私たちにとって、現実構成は、日常的な営為なのである。現実構成とは何か、身体とは何か、ということを考えながら、人間そのものに向かっていきたいと思う。社会学的人間学にいたる一つのステップとして、現象学と社会学というコンテクストで身体について若干の考察を試みたいと思う。身体を考えるということは、日常生活の場面での世界経験を考えるということだ。私たちは、自分の身体によって、この世界に巻き込まれているのである。私たちが経験しつつある身体を出発点として私たちの身のまわりに目を向けるならば、私たちが生きている世界がどのように照らし出されるのだろうか。
著者
安田 雪
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.46, no.4, pp.417-427, 1996

本研究の目的は, 「企業集団とは, 各企業が市場からの拘束を軽減することを目的として連結しあう, 市場 (取引) と組織 (内製) との中間的な形態である」ことを提唱し, 社会ネットワーク分析の手法を用いて日本の六大企業集団の形成要因を分析することである。第1に, 日本の六大企業集団に属する企業の業種別構成をとりあげ, 企業集団においては企業が相互に紐帯により連結しあっており, 個々の集団内部に異業種の産業間を連結させるネットワークが形成されていると論ずる。第2に, 企業間の取引は, 産業連関構造を形成する産業間ネットワークより拘束されており, 産業ネットワークから個々の産業・企業に拘束 (market constraint) が課されていると論ずる。第3に, 企業集団に属する企業のダイアド (dyad) 関係を分析し, 産業間ネットワーク上で高い拘束・被拘束関係にあるような産業間を連結させるように企業集団内では紐帯が分布していることを実証する。
著者
宮本 直美
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.375-391, 2011-12-31 (Released:2013-11-22)
参考文献数
23
被引用文献数
1

オーセンティシティ概念がツーリズム研究の中で中心的な議論を形成して久しいが, 本稿は, クラシックの音楽祭の分析を通して, この概念をめぐる議論に新たな局面を拓こうとするものである. そもそも, この概念は, 西洋化, 近代化, 商業主義化にさらされる非西洋地域の文化について, つまりエスニック・ツーリズムの文脈で議論されてきたのだが, この概念がさまざまな検討を経てより複雑で新しい意味を獲得した現在, 西洋側の文化であるクラシックの音楽祭を分析することが可能であり, それによって新たな意味を加えることができる. 半世紀にわたる日本の音楽祭の傾向からは, 西洋音楽に無縁な日本の土地が場所としてのオーセンティシティを獲得しようとする努力が見出される一方で, そこでは一貫して「一流の演奏家」といった宣伝文句が見られるように, 高い演奏水準がアピールし続けてきた. この普遍的な質への要求に見えるものが, じつは西洋の伝統的な演奏スタイルの継承によって保証されていることを考察するとき, 質の高さもまた, オーセンティシティへの要求であることがわかるのである.