著者
藤原 進 波多野 雄治 中村 浩章
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.77, no.1, pp.35-41, 2022-01-05 (Released:2022-01-05)
参考文献数
44

トリチウム(三重水素,3HあるいはTと表記)は,極めて低いエネルギーのβ線と反ニュートリノを放出する放射性の水素同位体である.自然界では地球に降り注ぐ宇宙線と大気との核反応により生成される.また原子炉でも生成される.生体試験用のトレーサーや蛍光物質を用いたライトなどにも利用されており,高純度のトリチウムは,核融合反応の燃料にもなる.福島第一原子力発電所の処理水中にも存在しており,社会的関心を集めている.トリチウム由来のβ線の飛程は水中や細胞中で数ミクロン程度と短い.そのため,外部被ばくが問題となることはなく,内部被ばくに対する防護が重要となる.我々は,トリチウムが生体分子へ与える影響を計算機シミュレーションで解き明かすことにより,生体分子の損傷機構を明らかにすることを目指している.そこで,計算手法およびシミュレーション精度の確認のため,単純な系で生体分子の損傷速度を定量的に評価する実験技術の開発を進めている.実験では,蛍光顕微鏡を用いたDNA一分子観察法により,トリチウム水中に浮遊するDNAの二本鎖切断メカニズムを定量的に明らかにしつつある.具体的には,滅菌環境下でトリチウム水およびトリチウムを含まない注射用水中におけるDNAの平均長さの経時変化を,蛍光顕微鏡で観察した.その結果,注射用水と比べて高濃度トリチウム水中では,DNA二本鎖切断が速やかに起こることがわかった.一方で,1 kBq/cm3程度のトリチウム濃度では有意な照射効果が見られないことを確認した.トリチウムを含む化合物が生体内に取り込まれると,化合物中のトリチウムがDNA分子中の軽水素と置き換わることがある.このことは,メダカや大腸菌を使った実験で確かめられている.トリチウムに特有の壊変効果として,DNA分子中の軽水素に置換したトリチウムが3Heにβ壊変することによる化学結合の切断が挙げられる.法令による排水中の濃度限度(60 Bq/cm3)におけるトリチウムと軽水素の比はT/H=5×10-13と極めて小さく,置換トリチウムの影響が現れるとは考えにくい.一方で,「どの程度の濃度以上であれば置換トリチウムの影響が顕著になるのか?」という問いに対して,現時点では必ずしも明確な答えはない.そこで我々はトリチウムの壊変効果に着目し,DNAから置換トリチウムが除去されることに伴うDNA部分構造の変化を,分子動力学シミュレーションにより明らかにする.我々の戦略として,まずDNAよりも分子構造の単純な高分子の計算から始め,続いてDNAの計算を行った.高分子の分子動力学シミュレーションの結果,除去される水素の割合が大きいほど,高分子の熱安定性と構造安定性が低下することがわかった.また,二重結合や共役結合の生成など,化学結合の変化を確認することもできた.さらに,テロメア二重らせんDNAの分子動力学シミュレーションの結果,グアニンのアミノ基中の水素が除去されることにより,水素結合が消失し二重らせん構造が崩れる様子を明らかにすることができた.今後は,反応力場を用いた分子動力学シミュレーションにより,β壊変によるDNA二本鎖切断のメカニズムの解明といった展開が期待される.本記事の長さは通常の「最近の研究から」欄記事の規定を超過しておりますが,編集委員会の判断によりこのまま掲載しています.
著者
本郷 研太 小山田 隆行 川添 良幸 安原 洋
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.60, no.10, pp.799-803, 2005-10-05 (Released:2008-04-14)
参考文献数
33
被引用文献数
2

フント則の交換エネルギーによる解釈は誤りである.2電子系, 軽分子の低励起状態についてこの事実が指摘されて以来, 既に20年以上経つ.スピン最多重度状態の安定性は, 運動エネルギーはもちろん電子間斥力エネルギーをも増加させる代償として得られる原子核電子間引力エネルギーの低下に起因する.本稿は, 炭素, 窒素, 酸素原子の基底状態について同結論を拡散量子モンテカルロ法によって初めて検証し, 相関の役割を解析した.
著者
身内 賢太朗 濱口 幸一
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.75, no.2, pp.68-76, 2020-02-05 (Released:2020-08-28)
参考文献数
34
被引用文献数
1

暗黒星雲,ブラックホール,ダークエイジ,ダークマター,ダークエネルギー.いずれも宇宙の中の「黒そう」なモノたちである.いずれも実際に宇宙に存在するもので,中でも暗黒星雲,ダークエイジについてはよく知られており,ブラックホールについても地球規模の電波干渉望遠鏡による「撮影」に成功するなど,その姿が知られるようになってきている.ダークマターはヒーローもののテレビ番組の敵役やチョコレートの商品名として登場するなど,名前自体は世間に知られるようになってはいるが,その正体は不明である.ダークエネルギーについても,宇宙の加速膨張に寄与する何らかのエネルギーであることは知られているが,その根源については分かっていないため,名前を付けて満足している状態である.ここではダークマターに焦点をあて,その正体解明を目指す理論的研究および直接探索実験について述べる.ダークマターは,宇宙に存在する「目に見えない」(光学的に観測されない)未知の「物質」である.重力的にはそこに質量がなくてはならないが目に見える物質はない,という観測結果の一例として銀河の回転曲線がある.万有引力の法則を考えると,観測される銀河の回転速度を説明するには,見える星のみでは足りないのである.この矛盾を説明するために多くの仮説が立てられてきたが,我々の知っている宇宙に対してもっとも少ない拡張で自然に説明できるものがダークマターという未知の素粒子の存在を仮定することであった.その後の様々な宇宙観測により,我々は宇宙の構成要素を右図に示す通り精密に知るに至った.宇宙の記述に「大成功」している素粒子の標準模型で説明される「通常の物質」はエネルギー換算で宇宙全体の1/ 20に満たない.通常の物質の5倍以上のダークマターと,さらにその2倍以上のダークエネルギーが宇宙のほとんどを構成する,というのが現在広く受け入れられている宇宙の姿である.こうした謎の物質,ダークマターの正体解明のために,数十年にわたって多くの理論的,実験的な研究が進められてきた.理論的に多くのダークマター候補が提唱されてきたが,その中でも宇宙初期に生成され,宇宙の膨張と共に他の物質から切り離され現在に至るという「WIMP」が有力候補のひとつである.こうしたWIMPを探索する手法に,通常の物質との相互作用を用いて探索するという「直接探索」実験がある.直接探索実験では,ダークマター以外の自然放射線起源の事象を低減するために低バックグラウンド化した大質量の検出器を用いて観測を行い,ダークマター反応の事象を待つ.半導体検出器,固体シンチレータ,低温熱量計など多様な検出器による探索が行われ,現在では数トンの質量の液化希ガス検出器による探索が世界をリード,直接検出に迫っている.直接探索をはじめとして,間接探索・加速器を用いた探索によってダークマターの正体が数年の内に明らかになる可能性が高まってきている.現在の物理学に課せられた大きな問題であるダークマターへの我々の取り組みに今後もご注目いただき,正体解明へのみちのりを一緒に楽しんでいただければと思う.
著者
大江 昌嗣
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.73, no.11, pp.790-792, 2018-11-05 (Released:2019-05-24)
参考文献数
6

歴史の小径Z項―木村榮の発見と,その後の物理の探求
著者
佐藤 正寛 高吉 慎太郎 岡 隆史
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.72, no.11, pp.783-792, 2017-11-05 (Released:2018-08-06)
参考文献数
48
被引用文献数
2

「磁性体の磁化の向きを限界まで素早く変えたい.」これは次世代情報素子のコアとなりうるスピントロニクス技術であるのみならず,多数スピンの非平衡統計力学として基礎物理学的にも重要な概念である.近年この問題に対して,光を用いた戦略が盛んに議論されている.レーザーパルスの整形・変調,メタマテリアルやプラズモニクスなど光科学分野の実験の進展は目覚ましい.そのような最先端の光技術を上手に使えば,スピンの集団運動にとっての量子力学的な限界速度であるピコ(10-12)秒という時間スケールで磁化を制御できるのだ.この「超高速スピントロニクス」の実現には,磁性体と光との結合様式(光・物質結合)や時間変化する外場中における量子系の時間発展(量子ダイナミクス)を理解する必要がある.しかし,多自由度を取り扱う固体物理分野では量子ダイナミクス研究の進歩が遅れていた.その一因として,多自由度の協調現象を扱う基本的な枠組みが整備途上であり,平衡系で慣れ親しんだエネルギーや固有状態などの議論の足がかりを失うことが挙げられる.レーザー中の多体系の解析では「非平衡系の相転移とは何か? それをどう特徴付けるべきか?」などの疑問の解消が望まれる訳である.実はこの問題は,磁気共鳴,量子化学,量子光学などのダイナミクスとの関わりが避けて通れない分野においては限定的ながら解決されている.レーザー電磁場を時間について周期的な外場とみなすと,系は離散的な時間並進対称性を持つ.このときエネルギーや固有状態といった概念が復活するのだ.この「フロケ理論」,そして回転枠などへの「ユニタリ変換の方法」を使うと,時間依存ハミルトニアンが駆動する多体系ダイナミクスを静的な有効ハミルトニアンで理解できるのである.望みの物性が実現するような動的状況を与える外場をフロケ理論の有効模型からさかのぼって設計することを,物性を操るという意味を込めて「フロケエンジニアリング」と呼ぶ.多体系のフロケエンジニアリングは,冷却原子系や電子系で発展してきたが,近年磁性体の制御にも適用されはじめている.例えば,標準的な磁性絶縁体に円偏光レーザーを照射し磁化を生成・成長させる方法が提案されている.これはレーザー周波数のエネルギースケールに対応する大きな静磁場が有効模型に現れることに由来する.レーザーによるスピン流生成は超高速スピントロニクスの主要テーマの一つであり,特異な光・物質結合を持つマルチフェロイクス(強誘電磁性体)が注目されている.この系ではスピンはレーザーの磁場成分だけでなく電場にも応答する.あるクラスのマルチフェロイクスに円偏光レーザーを照射するとベクトルスピンカイラリティ(またはジャロシンスキー・守谷相互作用)が生じることが有効模型・数値計算から示唆される.これを利用したスピン流の生成,およびその検出方法について,現実的な実験セットアップの理論提案もなされている.レーザーを用いた物性制御は従来型秩序にとどまらず,系のトポロジカル秩序をも変化させられる.その具体例としてキタエフ模型への円偏光レーザー印加の研究がある.有効模型に生じるホッピング項がスピン液体基底状態にギャップをもたらし,系をエッジ状態を持つトポロジカルな状態へと変化させることが予言される.
著者
中山 康之 伊藤 真
出版者
一般社団法人日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.38, no.10, pp.787-793, 1983

原子を形づくる原子核と電子の間の空間には何が存在するだろうか. そこにはもはや他の分子や原子が入り込めないことを我々はよく知っている. そこにはどんな物も存在し得ない, まさしく虚とか空とか言えそうな場所である. 我我の物理学ではその空間は負のエネルギーをもった電子で満たされていると解釈し, それを真空と呼ぶ. この真空は外からエネルギーを与えれば簡単に確認出来るが, 原子番号が173をこえるような超重原子では外からエネルギーを与えなくても, 真空から自発的に電子-陽電子対が発生して真空が崩壊する. これは真空中に実在の電子が出来ることを意味し, 真空の全く新しい側面である. こんな理論的予測を実証しようとする実験が永い間続けられている.
著者
大島 恵一
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.26, no.8, pp.538-543, 1971-08-05 (Released:2008-04-14)

日本原子力産業会議が, 「2000年にいたる原子力構想」というものを3月11日に発表しました. その時点での日本の予想電力需要の50%, 約2億kWは原子力発電になるだろうといっています. 発電所1ヶ所が100万kWとしても, 日本中に200ヶもの原子炉がばらまかれることになるのです. これは大変なことだと思われます. 原子力がわれわれに何故必要なのかという問題に関して, 自由なお話を伺うことにしました.
著者
丹生 潔
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.45, no.1, pp.25-32, 1990-01-05 (Released:2008-04-14)
参考文献数
36

欧米では過去の実験技術として捨てられた原子核乾板の技術を日本独自の方法で絶えず革新し, 最高の空間分解能1μmを持つ特性を活かしながら, 最先端の素粒子物理学の分野で成果を上げてきた経過について述べる. 原子核乾板の技術はコンピュータ制御の自動飛跡解析機と, 原子核乾板・カウンター複合実験法とにより, 今また素粒子物理学におけるユニークな実験技術として甦った.
著者
遠藤 基
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.77, no.4, pp.208-214, 2022-04-05 (Released:2022-04-05)
参考文献数
15

ミューオンの異常磁気モーメントの研究の歴史は長い.ミューオンのスピン磁気モーメントが初めて測定されたのは,1950年代にコロンビア大学ニーブズ(Nevis)研究所でのことだ.その後,60年以上にわたって研究されてきた背景には未知の素粒子理論の存在がある.素粒子の振る舞いは標準理論と呼ばれる基礎理論によってとてもよく説明することができる.この理論は2012年にヒッグス粒子が発見されたことで確立したが,時代とともに,それでは説明のつかない現象が見つかってきた.そのため,なにか新しい理論が存在するのは確かなのだが,その正体は依然として明らかではない.ミューオン異常磁気モーメントの測定は新しい理論を探索する有力な手段として注目されてきた.とてもよい精度で測定することができるうえに,未知の粒子がつくる量子効果の影響を強く受けるからだ.20年近く前にブルックヘブン国立研究所で行われた実験結果は標準理論の予想と大きく食い違っていた.この結果に多くの研究者は頭を悩ませてきた.はたして素粒子の未知の理論がついに見えてきたのだろうか.それとも実験結果が間違っていたり,標準理論に見落としがあるのだろうか.ブルックヘブンの結果の確認と,さらなる高精度の測定を目指して,2018年にフェルミ国立加速器研究所で新しい実験が開始された.データの解析には長い時間がかかったが,2021年4月7日についに最初の結果が発表された.多くの研究者が待ち望んでいた結果だ.解析に使われたデータ量はまだ多くないが,結果はブルックヘブンの実験を追認するものであった.もう一方の標準理論の予想はというと,じつは,依然として混沌としている.量子論によれば,ミューオンは仮想的に光子(フォトン)を放出して,さらにそのフォトンからクォークをつくり出すことができる.クォークは強い相互作用をもつために計算がものすごく難しい.これまでは,この難しさは実験データを使うことで回避されてきた.つまり,この部分を理論的な関係式を使って別の観測量に置き換えてしまうという方法だ.このアプローチはうまくいっており,異常磁気モーメントの理論値を決める方法として長いこと使われてきた.これで標準理論の計算は決着がついたと思われていたが,最近そこに一波乱あった.Budapest–Marseille–Wuppertalグループが発表した格子QCD計算の結果だ.それによると,クォークの寄与はこれまでの実験データを使った値から大きくずれている.もし本当であれば,ブルックヘブンやフェルミの実験結果と標準理論の間にあった食い違いは消えてしまうというのだ.いまだにどちらの結果が正しいのか決着はついていない.もし従来の結果が正しくて,そしてミューオン異常磁気モーメントの実験の検証も進めば,いよいよ未知の素粒子理論の発見に期待が高まる.これまでに様々な模型が提唱されてきたが,実験と理論の発展によって候補はかなり絞られてきた.興味深いことに,ほとんどの模型は近い将来に実験で検証できるようになることが予想されている.ミューオン異常磁気モーメントのこれからの実験と理論の進展に関心が高まっている.
著者
柴田 一成 一本 潔 浅井 歩
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.66, no.12, pp.896-904, 2011-12-05 (Released:2019-10-22)
参考文献数
47

日本の第3番目となる太陽観測衛星「ひので」が明らかにした最新太陽像について述べる.「ひので」衛星の最大の課題であるコロナ加熱問題は解明されたのか?黒点やフレアなどの電磁流体現象はどこまで明らかにされたのだろうか?あるいは,これまで誰も想像しなかったような新しい現象の発見はあったのか?本稿では,これらについて,打ち上げ後4年間あまりの観測成果を詳しく解説する.
著者
大久保 進
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.32, no.7, pp.557-561, 1977-07-05 (Released:2008-04-14)
参考文献数
17

現在, クオーク線則(quark line rule)は素粒子論で最近発見されたψまたはJの安定性を説明するのに有効なだけでなく, φメソンやf'メソンを含む種々の散乱実験の結果やそれ等のdecay の幅等の説明にも役立ちます. この規則の奇妙な点は, 100%完全である事が原理上, 不可能である事です. また, この規則は素粒子のクオーク模型と大変密接な関係があります. このような事実を, 歴史的な見地からここに解説します. 現在の所, クオーク線則は多分量子クロモ力学(quantum chromo dynamics)で説明され得る可能性が一番大きいと考えられて居ります.
著者
西野 友年 大久保 毅
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.72, no.10, pp.702-711, 2017-10-05 (Released:2018-08-06)
参考文献数
52

原子・分子スケールの微視的な物理は,我々が目にする巨視的な測定量に,どう現れるのだろうか.微視的なものとして,例えば磁性体を構成するスピン自由度を考えてみよう.結晶格子中で,幾つかのスピン自由度を含む“ブロック”に着目すると,これを新たに「1つの有効的な自由度」とみなすことが可能だ.このような「自由度の抽出」はカダノフによって半世紀前に提唱されたもので,ブロックスピン変換と呼ばれている.この変換を繰り返せば1つのブロックに対応する領域が指数的に大きくなり,やがて巨視的な大きさへと到達する.このように物理系を粗く眺める粗視化や,逐次的なスケール変換のアイデアはウィルソンによって整理され,繰り込み群の概念が生まれた.巨視系には普遍的に現れる相転移と臨界現象を,繰り込み群は定量的に説明する.ただ,ブロックスピン変換を用いる実空間繰り込み群によって,相転移を特徴付ける臨界指数を正確に求めることは困難であった.粗視化に伴う相互作用の変化である「有効ハミルトニアンの流れ(flow)」を,精密には追えなかったのだ.実は,ブロックから抽出する自由度の選び方に問題が潜んでいたのである.本稿で紹介するテンソルネットワーク形式では,隣接するブロック間の結合に着目し,相互の連絡に「物理の本質」を見出す.ブロックの境界(辺や面)に並んでいるスピン自由度をまとめ,1つの多状態自由度として取り扱うのだ.例えば立方体のブロックを考えるなら,それぞれの面にi,j,k,ℓ,m,nの,合計6つの多状態自由度を割り当てる.他方,境界に面していないブロック内のスピンは,配位和を取り消去してしまう.このような手続きを経て粗視化を行うと,系が持つ相互作用や相関を全て,局所的な重率テンソルAijkℓmnへと押し込んでしまえるわけだ.この自由度抽出を,系の持つエンタングルメントを保ちつつ,行列の特異値分解(SVD)によって効率的に行うことが,テンソルネットワーク形式の特徴である.本稿では,磁性体の模型であるイジング模型を例に取り,同形式の概要を紹介し,最近のマルチスケールな発展についても触れる.テンソルネットワーク形式は行列積状態(MPS)に,その原型を見ることができる.イジング模型の相転移を導出するクラーマース・ワニエ近似に端を発し,菊池の近似を経て,半世紀前にバクスターが確立した角転送行列(CTM)の手法は,実質的には3脚テンソルAiαβの縮約で転送行列の固有ベクトルを近似する変分法だ.1次元スピン鎖のAKLT状態,デリダによる非平衡定常状態の記述,密度行列繰り込み群(DMRG)による数値計算など,MPSは何度も「再発見的に」用いられて来た.近年では,高次元系への拡張であるテンソル積状態(TPS/ PEPS)が,2次元量子系の基底状態解析に応用されつつある.テンソルネットワーク形式は,数値解析に適した物理系の表現手段なのだ.
著者
三宅 芙沙 増田 公明
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.69, no.2, pp.93-97, 2014-02-05 (Released:2019-08-22)

放射性同位体の存在量測定による年代推定は,自然科学や考古学などの様々な場面で応用されている.測定対象となる同位体には^<14>Cや^<10>Beなどがあり,これらは地球に飛来して大気に突入した宇宙線が,大気中の原子核と相互作用することによって作られる.同位体の半減期と平均的な生成量がわかっているので,その濃度を調べることによって生成からの経過年数を知ることができる.逆に,年代がわかっている試料,例えば樹木の年輪や極地方の氷床中の同位体濃度を調べれば,当時の宇宙線の強度を知ることができる.宇宙線によって生成された^<14>Cは,二酸化炭素^<14>CO_2となり,さらに樹木へと取り込まれて年輪内で固定されるため,年輪中の^<14>C濃度は過去の宇宙線強度を「記録」しているのである.したがって太陽フレア,超新星爆発,ガンマ線バーストといった突発的高エネルギー宇宙現象も,^<14>C濃度の急激な増加として,その痕跡が記録されている可能性がある.このような背景のもと,我々は6-12世紀における屋久杉年輪中の^<14>C濃度を1-2年分解能で測定してきた.その結果,西暦774-775年,993-994年にかけての2つの^<14>C急増イベントを発見した.これらは1年程度の時間で急激な^<14>C濃度の上昇を示した後,10年のオーダーで減衰していく様子がきわめて似ており,同じ原因によって引き起こされたことが示唆される.さらにこの2イベントについては,ヨーロッパ産の年輪中の^<14>Cと南極の氷床中の^<10>Beにおいても全く同時期に濃度の異常上昇があったことがわかり,屋久島付近における局所的な現象ではなく,地球規模で何らかの大きな変動を与えた突発的宇宙現象がその原因であることが決定的となった.すぐさま,その宇宙現象が何であったかについての活発な議論が始まった.先に述べた太陽フレアやガンマ線バーストなどの現象について,その発生頻度や放出されるエネルギー,地球に与える影響などについて定量的評価が行われた.現在のところ最も有力と見られているのは,太陽表面の爆発によって地球に大量の放射線が降り注ぐSolar Proton Event(SPE)という現象である.また,見つかった2イベントにおける^<14>C濃度の上昇量を説明するためには,その規模は現在知られている最大の太陽フレアの10倍から数10倍であることも明らかになった.これまでに多くの研究者によって年輪中^<14>Cの1-2年分解能の測定が行われてきた期間は,合計すると約1,600年分になる.そしてその期間中,このような大規模なイベントが少なくとも2度起こっているというのは注目すべきことである.^<14>C濃度の上昇はきわめて短い時間で起こっており,本研究のような1-2年の分解能による測定で初めて発見することができるものであるが,この分解能による測定がなされていない期間に,このようなイベントがまだ過去に多く隠されている可能性は高いのである.過去の大規模フレア現象の頻度を正確に把握することで,太陽活動メカニズムの新しい知見を得るとともに,将来における「宇宙気象」の予測へとつながることなどが期待される.また観測史上最大のキャリントンフレア(1859)でも世界的に大きな影響があったことが知られており,その数10倍の規模のフレアが「珍しくない」とすれば,現代社会活動への諸影響を考えることも大変に重要である.

9 0 0 0 OA 真空の寿命

著者
庄司 裕太郎
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.74, no.3, pp.128-136, 2019-03-05 (Released:2019-08-16)
参考文献数
10

我々の宇宙は,熱い宇宙から始まり,宇宙膨張に従って徐々に冷えてきた.その間,幾つかの相転移があり,より低いエネルギー状態へと遷移してきたと考えられている.現在の宇宙の温度はおおよそ3 Kほどであり,素粒子標準模型(以下,標準模型)における「真空」周りに落ち着いている状態である.通常,量子論における真空という言葉は最低エネルギー状態を指すものであるが,より広い意味でエネルギーの極小点にも使われる.最低エネルギー状態を特に「真の真空」と呼び,そうでないものを「偽の真空」と呼ぶ.我々が今,真の真空にいるか偽の真空にいるかは,残念ながら究極の理論を知らない限り判別できない.それでは,もし偽の真空であったとして,何が問題になるのであろうか.偽の真空もエネルギーの極小点ではあるため,一度そこに落ち着いてしまえば安定に思える.しかし,量子論においては最低エネルギー状態でなければそれは不安定である.つまり,トンネル効果によって,偽の真空中に真の真空の小さな泡が突然現れてしまうことが起こり得るのである.この泡は,過冷却水の中にできた小さな氷の核のようなもので,真の真空への相転移をトリガーしてしまう.仮に,標準模型が究極の理論であったとしたら,我々が今いる真空(電弱真空)は真の真空であろうか.標準模型のパラメーターは最近のヒッグス粒子の測定により全て決定されたため,電弱真空から外挿して他の真空が無いかを調べることができる.その結果,実は,電弱真空は偽の真空ということが分かった.素粒子の質量の源となっているヒッグス場の凝縮度が現在の値よりも桁違いに大きい場合には,エネルギーが電弱真空よりも下がることが予言されるのである.電弱真空が偽の真空であるからといって,標準模型は究極理論では無いと言ってしまって良いだろうか.実はそれは言い過ぎである.崩壊を引き起こす泡の生成確率が,広い宇宙空間と長い宇宙年齢を考慮しても,一つも生じないほど低ければ良いのである.標準模型の電弱真空の寿命を計算してみると,宇宙年齢よりもさらに数百桁長い寿命を持つことが分かる.つまり,標準模型の電弱真空は偽の真空ではあるが,十分長寿命なのである.ところで,我々の宇宙は過去にどのような相転移を経験してきたのであろうか.電弱相転移はそのうちの一つである.高温であった宇宙初期ではヒッグス場が凝縮しない真空が安定となるが,宇宙が十分冷えると電弱真空の方が安定となり,相転移が起こる.この時,過冷却状態が生じたとすると宇宙の物質が反物質よりも多い理由が説明できるかもしれない.将来の重力波観測,ヒッグス粒子の精密測定による電弱相転移の様子の解明が期待されている.さらにずっと過去では,宇宙は非常に多くの相転移を繰り返してきたという仮説がある.超弦理論において,真空の数は10500とも見積もられており,我々の宇宙はこれらの真空の間で相転移を繰り返してきたと言う説である.素粒子論における様々な微調整問題は,インフレーションと相転移によって生じる無数の物理定数が異なる泡宇宙によって解決されるかもしれない.