- 著者
-
遠藤 基
- 出版者
- 一般社団法人 日本物理学会
- 雑誌
- 日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
- 巻号頁・発行日
- vol.77, no.4, pp.208-214, 2022-04-05 (Released:2022-04-05)
- 参考文献数
- 15
ミューオンの異常磁気モーメントの研究の歴史は長い.ミューオンのスピン磁気モーメントが初めて測定されたのは,1950年代にコロンビア大学ニーブズ(Nevis)研究所でのことだ.その後,60年以上にわたって研究されてきた背景には未知の素粒子理論の存在がある.素粒子の振る舞いは標準理論と呼ばれる基礎理論によってとてもよく説明することができる.この理論は2012年にヒッグス粒子が発見されたことで確立したが,時代とともに,それでは説明のつかない現象が見つかってきた.そのため,なにか新しい理論が存在するのは確かなのだが,その正体は依然として明らかではない.ミューオン異常磁気モーメントの測定は新しい理論を探索する有力な手段として注目されてきた.とてもよい精度で測定することができるうえに,未知の粒子がつくる量子効果の影響を強く受けるからだ.20年近く前にブルックヘブン国立研究所で行われた実験結果は標準理論の予想と大きく食い違っていた.この結果に多くの研究者は頭を悩ませてきた.はたして素粒子の未知の理論がついに見えてきたのだろうか.それとも実験結果が間違っていたり,標準理論に見落としがあるのだろうか.ブルックヘブンの結果の確認と,さらなる高精度の測定を目指して,2018年にフェルミ国立加速器研究所で新しい実験が開始された.データの解析には長い時間がかかったが,2021年4月7日についに最初の結果が発表された.多くの研究者が待ち望んでいた結果だ.解析に使われたデータ量はまだ多くないが,結果はブルックヘブンの実験を追認するものであった.もう一方の標準理論の予想はというと,じつは,依然として混沌としている.量子論によれば,ミューオンは仮想的に光子(フォトン)を放出して,さらにそのフォトンからクォークをつくり出すことができる.クォークは強い相互作用をもつために計算がものすごく難しい.これまでは,この難しさは実験データを使うことで回避されてきた.つまり,この部分を理論的な関係式を使って別の観測量に置き換えてしまうという方法だ.このアプローチはうまくいっており,異常磁気モーメントの理論値を決める方法として長いこと使われてきた.これで標準理論の計算は決着がついたと思われていたが,最近そこに一波乱あった.Budapest–Marseille–Wuppertalグループが発表した格子QCD計算の結果だ.それによると,クォークの寄与はこれまでの実験データを使った値から大きくずれている.もし本当であれば,ブルックヘブンやフェルミの実験結果と標準理論の間にあった食い違いは消えてしまうというのだ.いまだにどちらの結果が正しいのか決着はついていない.もし従来の結果が正しくて,そしてミューオン異常磁気モーメントの実験の検証も進めば,いよいよ未知の素粒子理論の発見に期待が高まる.これまでに様々な模型が提唱されてきたが,実験と理論の発展によって候補はかなり絞られてきた.興味深いことに,ほとんどの模型は近い将来に実験で検証できるようになることが予想されている.ミューオン異常磁気モーメントのこれからの実験と理論の進展に関心が高まっている.