著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.325-348, 2003-03-31

本論文では、都市民俗学の立場から、喫茶店、とりわけそこで行なわれるモーニング(朝食を、自宅ではなく、喫茶店のモーニングセット〈モーニングサービス〉でとる習慣)という事象に注目し、記述と問題点の整理を行なった。本論中で行ないえた指摘は、およそ次のとおりである。(1)モーニングが行なわれる理由は、①労力の軽減、②単身者の便宜、③コミュニケーション、のうちのどれか、あるいはそれらの複合に求められる。(2)日本におけるモーニングは、豊橋以西の、中京圏、阪神圏、中四国のそれぞれ都市部、とりわけ工業地帯の下町的な地域に分布しているものと見ることができる。(3)モーニングは、一九六〇年代後半から行なわれるようになっていると見られる。その場合、喫茶店経営者側は、出勤前のサラリーマンへのサービスを意図してモーニングセット/サービスを開始したのであったが、これが地域で受容される際には、地の生活者、とりわけ女性たちの井戸端会議の場としての機能を果たすようになっている。(4)アジア的視野で眺めた場合、都市社会においては、朝食を外食するほうが一般的だといってよいくらいの状況が展開されており、日本のモーニングには、アジア都市社会に共通する生活文化としての性格が存在するといっても過言ではない。(5)モーニングの場は、他者と他者とが場を共有しながら、そこでさまざまな言葉を交わす公共圏であるが、そこで語られるのは、決して論理的に整理された明晰な言葉ではない。むしろ、モーニングの場は、そうした論理的な言葉で形成される「市民的公共圏」からは排除される言説あるいは人々が交流する場として存在するのであり、この空間は市民的公共圏に対する「もう一つの公共圏」として位置づけることができる。
著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.325-348, 2003-03

本論文では、都市民俗学の立場から、喫茶店、とりわけそこで行なわれるモーニング(朝食を、自宅ではなく、喫茶店のモーニングセット〈モーニングサービス〉でとる習慣)という事象に注目し、記述と問題点の整理を行なった。本論中で行ないえた指摘は、およそ次のとおりである。(1)モーニングが行なわれる理由は、①労力の軽減、②単身者の便宜、③コミュニケーション、のうちのどれか、あるいはそれらの複合に求められる。(2)日本におけるモーニングは、豊橋以西の、中京圏、阪神圏、中四国のそれぞれ都市部、とりわけ工業地帯の下町的な地域に分布しているものと見ることができる。(3)モーニングは、一九六〇年代後半から行なわれるようになっていると見られる。その場合、喫茶店経営者側は、出勤前のサラリーマンへのサービスを意図してモーニングセット/サービスを開始したのであったが、これが地域で受容される際には、地の生活者、とりわけ女性たちの井戸端会議の場としての機能を果たすようになっている。(4)アジア的視野で眺めた場合、都市社会においては、朝食を外食するほうが一般的だといってよいくらいの状況が展開されており、日本のモーニングには、アジア都市社会に共通する生活文化としての性格が存在するといっても過言ではない。(5)モーニングの場は、他者と他者とが場を共有しながら、そこでさまざまな言葉を交わす公共圏であるが、そこで語られるのは、決して論理的に整理された明晰な言葉ではない。むしろ、モーニングの場は、そうした論理的な言葉で形成される「市民的公共圏」からは排除される言説あるいは人々が交流する場として存在するのであり、この空間は市民的公共圏に対する「もう一つの公共圏」として位置づけることができる。In the study of folklore, i.e., in the study of urban folklore, there is a growing accumulation of studies on various types of living space that exist in the city. However, there have not yet been any folklore studies made on the subject of the coffee house. The coffee house is, needless to say, a place to eat and drink, but from the point of view of folklore studies, it can be pointed out that there is more to the coffee house than its role in providing a place for eating and drinking.This paper focuses on the coffee house, especially on the phenomenon of the "morning set" (the habit of eating the "morning set" at a coffee house instead of having breakfast at home), defining the phenomenon and arranging the issues. The comments made in the paper are as follows.1) The reasons that people have a "morning set" are one or more of the following: a) to save effort, b) because it is convenient for single people, and c) for communication.2) The "morning set" in Japan can be seen in urban areas west of Toyohashi, i.e., in cities in the Chukyo (Nagoya), Hanshin (Osaka and Kobe), or Chushikoku (Chugoku and Shikoku) regions, particularly in the old downtown areas of industrial zones.3) The "morning set" is thought to have come into existence in the late 1960s. At that time, the coffee house owners had begun providing the "morning set" or "morning service" for salaried workers who stopped by on their way to work; however, as the idea was accepted into the community it began to serve as a meeting place for the people, especially women, of the community to get together and talk.4) If we look at the whole of Asia, in urban society it is almost more widespread to take breakfast outside the home, and it can be said that the Japanese "morning set" contains an aspect of life and culture that is universal all across Asian urban communities.5) The venue of the "morning set" is a communal space where strangers share the same space and exchange words with each other, but the words that are exchanged there are never theoretically sound, clearly defined logical arguments. Rather, in the case of the "morning", the coffee house exists as a place to meet people and exchange opinions that are excluded from the "citizens' communal space" which is made up of logical arguments. Therefore, one might regard the "morning set" venue as "another communal space" as compared to the "citizen's space".
著者
島村 恭則 周 星 山 泰幸 桑山 敬已 岩本 通弥
出版者
関西学院大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2020-04-01

本研究は、アメリカ・イギリス・フランスが頂点として君臨する「知の覇権主義的構造」とは異質の、世界中のすべての地域の民俗学が対等な関係で連携、協働することを理想とした「対覇権主義的(counter-hegemonic)な学問ネットワークとしての『世界民俗学』」を構築することを目的とする。そのための方法として、「知の覇権主義」とは異なる次元で個性的な民俗学が展開されている中国、韓国、台湾、インド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、アイルランド、ブラジルを対象に、それぞれの民俗学の特性とそれをふまえた世界連携の可能性について、実態調査と共同討議を実施する。
著者
朝倉 敏夫 太田 心平 岡田 浩樹 島村 恭則 林 史樹 韓 景旭 岡田 浩樹 島村 恭則 林 史樹
出版者
国立民族学博物館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009-04-01

東アジアのコリアン・ネットワークについて、既存の研究では明らかとなっていなかった、ないし否定されてきた3点が明らかとなった。越域性、多重性、主体性の3点である。この研究成果の主たる報告書、および現地還元活動として、『韓民族海外同胞の現住所―当事者と日本の研究者の声』(學研文化社、2012)を、韓国語にて出版した。
著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.106, pp.51-60, 2003-03-31

日本における現代民話研究は,すでに少なからぬ研究の蓄積を見ているが,日本の現代民話を日本以外の社会の現代民話と比較検討する作業は,まだまったくといってよいほど行なわれていない。この研究動向上の欠を補うべく,本論文では,韓国社会で語られている現代民話について,日韓比較の視点から検討した。本論文で行なった指摘を列挙すれば,次のようになる。(1)現代韓国社会では,現代民話がたいへんさかんに語られているが,日本社会における現代民話の存在様態と比較した場合,怪談系統の現代民話に加えて,社会的・政治的な諷刺の性格を持った笑話系統の現代民話が豊富に語られている点を特色として指摘できる。(2)韓国で,笑話系統の現代民話がさかんに語られていることの背景には,独裁政権下の社会状況と民主化闘争,深刻な労働問題,急速な経済発展とそれに伴なう矛盾などが存在するものと考えられる。(3)現在,日本の現代民話研究において集成され,分析が加えられている現代民話群は,その大半が怪談系統の語りであり,社会的・政治的諷刺の性格を持った現代民話をそこに見出すことは困難である。この状況を規定する要因は,①70年代以降の日本社会における脱政治化,②言論統制等の抑圧が存在しないことによるメディアとしての現代民話の需要低下,③研究者における現代民話対象化過程における偏向,といった要素の複合に求められる。(4)上の指摘をふまえたとき,われわれは現状の再解釈と再調査を行なう必要に気づかされる。また,海外との比較研究は,こうした現代民話再考の契機となるものであり,ここに比較研究の重要性が確認されるものである。
著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.763-790, 2001-03

これまでの民俗学において,〈在日朝鮮人〉についての調査研究が行なわれたことは皆無であった。この要因は,民俗学(日本民俗学)が,その研究対象を,少なくとも日本列島上をフィールドとする場合には〈日本国民〉〈日本人〉であるとして,その自明性を疑わなかったところにある。そして,その背景には,日本民俗学が,国民国家イデオロギーと密接な関係を持っていたという経緯が存在していると考えられる。しかし,近代国民国家形成と関わる日本民俗学のイデオロギー性が明らかにされ,また批判されている今日,民俗学がその対象を〈日本国民〉〈日本人〉に限定し,それ以外の,〈在日朝鮮人〉をはじめとするさまざまな人々を研究対象から除外する論理的な根拠は存在しない。本稿では,このことを前提とした上で,民俗学の立場から,〈在日朝鮮人〉の生活文化について,これまで他の学問分野においても扱われることの少なかった事象を中心に,民俗誌的記述を試みた。ここで検討した生活文化は,いずれも現代日本社会におけるピジン・クレオール文化として展開されてきたものであり,また〈在日朝鮮人〉が日本社会で生活してゆくための工夫が随所に凝らされたものとなっていた。この場合,その工夫とは,マイノリティにおける「生きていく方法」「生存の技法」といいうるものである。さらにまた,ここで記述した生活文化は,マジョリティとしての国民文化との関係性を有しながらも,それに完全に同化しているわけではなく,相対的な自律性をもって展開され,かつ日本列島上に確実に根をおろしたものとなっていた。本稿は,多文化主義による民俗学研究の必要性を,こうした具体的生活文化の記述を通して主張しようとしたものである。
著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.106, pp.51-60, 2003-03

日本における現代民話研究は,すでに少なからぬ研究の蓄積を見ているが,日本の現代民話を日本以外の社会の現代民話と比較検討する作業は,まだまったくといってよいほど行なわれていない。この研究動向上の欠を補うべく,本論文では,韓国社会で語られている現代民話について,日韓比較の視点から検討した。本論文で行なった指摘を列挙すれば,次のようになる。(1)現代韓国社会では,現代民話がたいへんさかんに語られているが,日本社会における現代民話の存在様態と比較した場合,怪談系統の現代民話に加えて,社会的・政治的な諷刺の性格を持った笑話系統の現代民話が豊富に語られている点を特色として指摘できる。(2)韓国で,笑話系統の現代民話がさかんに語られていることの背景には,独裁政権下の社会状況と民主化闘争,深刻な労働問題,急速な経済発展とそれに伴なう矛盾などが存在するものと考えられる。(3)現在,日本の現代民話研究において集成され,分析が加えられている現代民話群は,その大半が怪談系統の語りであり,社会的・政治的諷刺の性格を持った現代民話をそこに見出すことは困難である。この状況を規定する要因は,①70年代以降の日本社会における脱政治化,②言論統制等の抑圧が存在しないことによるメディアとしての現代民話の需要低下,③研究者における現代民話対象化過程における偏向,といった要素の複合に求められる。(4)上の指摘をふまえたとき,われわれは現状の再解釈と再調査を行なう必要に気づかされる。また,海外との比較研究は,こうした現代民話再考の契機となるものであり,ここに比較研究の重要性が確認されるものである。There has already been considerable research on modern folktales in Japan, but research that compare modern Japanese folktales with modern folktales from societies outside of Japan cannot even be said to have begun. To address this shortcoming in research trends, this paper attempts to examine modern folktales in present-day Korean society through a Japanese-Korean comparison. The following is a list of issues highlighted in this paper:1) In present-day Korean society, modern folktales are told very frequently. It can be noted that in contrast to modern folktales in Japanese society, modern Korean folktales not only appear in the form of ghost stories, they also contain many humorous stories characterized by social and political satire.2) I believe that many modern Korean stories are humorous because of the social conditions and the struggles for democracy that have occurred under totalitarian regimes, as well as serious labor issues and rapid economic development and its associated conflicts.3) Most modern folktales compiled and analyzed in current folklore research in Japan are ghost stories. It is difficult to find modern folktales characterized by social and political satire. This is due to a combination of elements including: i) the anti-politicization of Japanese society in the 1970's and later; ii) the decrease in the demand for modern folktales as a medium due to the absence of oppression, such as the repression of the freedom of speech; and iii) scholars' propensities in the process of objectivizing modern folktales.4) Given the issues above, I have come to understand the necessity of reinterpreting and restudying the current situation. In addition, international comparative research provides an impetus to reconsider modern folktales such as this one. This paper proves the importance of comparative research.
著者
李 建志 島村 恭則 上水流 久彦 齋藤 由紀
出版者
関西学院大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2013-04-01

研究代表者は、先住民に対する行政の問題と、日本陸海軍の将校たちの思想が、支配者の立場と支配される立場というかたちで交差することに気づき、朝鮮半島出身の陸軍幹部であった李垠などを中心に、この時代について分析することへと傾斜していった。その際、島村氏、上水流氏、齋藤氏との意見交換や研究会などでの密接な問題意識の共有と、その成果発表としての論文発表などが、相互にとってきわめて有効に働いたことはいうまでもない。研究代表者の成果に限っていうと近い将来に単行本として刊行される原稿を書きためていた。その分量は400字詰め原稿用紙にして1000枚にのぼっている。これは必ず出版する。
著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.763-790, 2001-03-30

これまでの民俗学において,〈在日朝鮮人〉についての調査研究が行なわれたことは皆無であった。この要因は,民俗学(日本民俗学)が,その研究対象を,少なくとも日本列島上をフィールドとする場合には〈日本国民〉〈日本人〉であるとして,その自明性を疑わなかったところにある。そして,その背景には,日本民俗学が,国民国家イデオロギーと密接な関係を持っていたという経緯が存在していると考えられる。しかし,近代国民国家形成と関わる日本民俗学のイデオロギー性が明らかにされ,また批判されている今日,民俗学がその対象を〈日本国民〉〈日本人〉に限定し,それ以外の,〈在日朝鮮人〉をはじめとするさまざまな人々を研究対象から除外する論理的な根拠は存在しない。本稿では,このことを前提とした上で,民俗学の立場から,〈在日朝鮮人〉の生活文化について,これまで他の学問分野においても扱われることの少なかった事象を中心に,民俗誌的記述を試みた。ここで検討した生活文化は,いずれも現代日本社会におけるピジン・クレオール文化として展開されてきたものであり,また〈在日朝鮮人〉が日本社会で生活してゆくための工夫が随所に凝らされたものとなっていた。この場合,その工夫とは,マイノリティにおける「生きていく方法」「生存の技法」といいうるものである。さらにまた,ここで記述した生活文化は,マジョリティとしての国民文化との関係性を有しながらも,それに完全に同化しているわけではなく,相対的な自律性をもって展開され,かつ日本列島上に確実に根をおろしたものとなっていた。本稿は,多文化主義による民俗学研究の必要性を,こうした具体的生活文化の記述を通して主張しようとしたものである。
著者
岩本 通弥 森 明子 重信 幸彦 法橋 量 山 泰幸 田村 和彦 門田 岳久 島村 恭則 松田 睦彦 及川 祥平 フェルトカンプ エルメル
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2011-04-01

本研究は、日独の民俗学的実践のあり方の相違を、市民社会との関連から把捉することを目指し、大学・文化行政・市民活動の3者の社会的布置に関して、比較研究を行った。観光資源化や国家ブランド化に供しやすい日本の民俗学的実践に対し、市民本位のガバナビリティが構築されたドイツにおける地域住民運動には、その基盤に〈社会-文化〉という観念が根深く息づいており、住民主体の文化運動を推進している実態が明確となった。