著者
福田 立明
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
no.31, pp.13-26, 1998-03

A text of fiction charged with the author's own intense psychic involvement in his fictional character is supposed to evoke in the mind of the reader an equivalent response to him/her. Caddy Compson of The Sound and the Fury (1929) impresses many readers with rich capacity for affection and compassion. As William Faulkner once declared in a class conference that she was his "heart's darling, " so the reader might find himself fascinated by her. Unlike the other Compson children who play the fundamental role of subject and monologist each in the first three sections, only Caddy, deprived of narrative voice, remains an object to be seen, to be missed, and to be hated by her brothers, or in Bleikasten's expression, makes up "an empty center" of the text. In trying to fill the void, the author who had no sister and was destined to lose his first daughter in infancy creates instead a fictional little girl, upon whom he projects his subconscious desires. She is the personification of his own anima. In this essay I try to note the intensity of the authoer's emotional involvement in the created character, and understand the reason why he rejected publication of his "Introduction to The Sound and the Fury" and attempted to conceal all its related draft materials in the closet. I hope to throw light on this question by a brief textual review of the materials which have been published in certain different steps after their discovery. In the meantime, Faulkner's correspondence and biographical evidences enable us to draw conclusions that the author wrote the "Introduction" with reluctance at first, sending the final version to Random House in August 1933 for their proposed limited edition of The Sound and the Fury : that the typescript sent for the finally abortive project had been lost until the publisher found it in 1946 and returned it to the author to rewrite it for the Modern Library combined edition of The Sound and the Fury and As I Lay Dying ; and that Faulkner finally did not agree and offered instead the "Appendix : Compson : 1699-1945" from the recently published The Portable Faulkner (1946). Consequently Faulkner readers got a strange book with the "Appendix" taking the place of "Introduction" in the first pages. The development of the matter clearly shows Faulkner's indomitable will to keep from the public eye the "Introducton" he wrote thirteen years ago working "on it a good deal, like on a poem almost." His poetic inclination betrays itself even in writing an introduction to his own book that is supposed to be done in non-poetic discourse. By comparing the draft papers, one may find the traces of excision that seemed to the writer to be revealing too much about his emotional envolvement as well as the ecstasy he experienced during his creative labor. Caddy, thus portrayed in the ecstasy to be a contemporary negative emblem of the historically lost Southern Lady, expatriates herself to be a Paris courtesan and, just like the anima to be exorcised from the author's psyche by artistic projection, must be lost forever to the South. The texts of "Introduction, " which the author supposes threaten to reveal too much about the secret of his artistic creation, were once believed to have been hidden safely in the closet. But a text addressed to the reader and paid for its circulation, is in the end to be recovered by the addressee.
著者
川平 ひとし
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.1-23, 1990-03-20

藤沢の時宗総本山清浄光寺 (遊行寺) に蔵される標記の一本を紹介する。同本は著者冷泉為和の自筆になるものと目され、依拠すべき本文であることはもとより、為和の和歌活動、ことに時宗の人々との繋がりを伝える資料として貴重だと思われる。同本をめぐる書誌を吟味しながら、関連してもたらされる問題点-書名・構成・記載内容 (系譜意識、家の説の提示、和歌の会の場の意義など) の含みもつ問題、惣じて室町後期数多く作成され享受された和歌作法書類を捉えるための視点にかかわる問題-を検討し、論末に本文翻刻を付す。
著者
渡部 武
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.115-126, 1990-03-20

石田梅岩著『都鄙問答』における学問の性格を、本稿では学問の功用と、正統と異端の区別についての梅岩の見解に、『翁問答』と『童子問』との見解を対比して解明しようと試みるものである。梅岩は学問によって、五倫が立ち、士農工商が身を立てることが出来ると主張して、学問は現実的で、プラグマティックな功用を有する点で有用であり信頼できるとした。この点で、藤樹が身を立てることのみでなく心の安心に、仁斎が世俗の人倫的世界とそれとの一体性における立身の実現に学問の功用をみたのとは、異なっている。次に、梅岩は正統と異端の区別を立てはいるが、学問の世俗の功用とその実際の結果を重視したために、両者の区別は相対化され、異端もまたその功用によって認知されることになる。藤樹にあっては両者の区別を厳しく立てながらも、その主体的な日新の学問的態度によって、その厳しさが緩和され、他方仁斎にあってはその区別は明確な基準に従って厳格を極めた点で、梅岩はこれら両者とは異なっている。
著者
山崎 一穎
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.49-71, 2002-03-15

鴎外史伝の特異性は、読者が参加をすることである。書き手である鴎外の手元に読者から寄せられる情報、書き手が読み手へ情報の提供を呼び掛けるという双方向性が機能して、書き手と読み手との間にネットワークが成立し、伝記文学が誕生する。このようなネットワークを解明する資料で今日残されているのは、天理大学の天理図書館所蔵の「『伊澤蘭軒』森鴎外自筆増訂稿本」と、その補訂の論拠となった資料の一部が、東京大学総合図書館所蔵の鴎外の手沢資料集に収録されている。本稿では従来等閑に付されてきたこの両資料の関連を検討する。このことは初出稿と定稿との異同を探るだけでなく、鴎外が補訂した根拠資料を顕現化することになる。さらに情報ネットワークの実態を解明することは、『伊澤蘭軒』の本文の生成過程を明らかにすることになる。それのみならず、『伊澤蘭軒』に於ける資料の扱い方から、鴎外史伝の方法を解明することにもなる。本稿は補訂稿とその根拠資料を通して、本文の生成過程の一端を復元する。
著者
梅宮 創造
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.77-98, 1989-03-20

サッカレイが書いた様々な作品のうちでも、とりわけ『虚栄の市』を読めば、彼の抱えていたいろいろな問題に突き当る。ガンジス河のほとりに幼年時代を送り、その後イギリス本国へ戻って学校に入り、少年から青年に成長する。サッカレイは多感で神経質で、そのうえ母親にべったりなところがあったから、明るく楽しい思い出というような類は少ない。更に、成人して一家を構えるようになると、生活の重圧がもろに彼の肩に掛る。幼女の死、妻の精神異常、家庭崩壊、正しく悲運が悲運を呼ぶという具合だが、そんな生活の裡側でサッカレイの文学はゆっくりと熟していった。『虚栄の市』に彼の過去が揺曳していることは云うまでもない。サッカレイは自分の過去を凝視した人である。そこから人生を空と見る態度や、諷刺とか皮肉とか愛の精神、或は人物や事象の表裏を読む眼が鍛えられたものと思われる。『虚栄の市』ではそれらが作品を操る意図となり技法となって強く働いている。本稿ではそのあたりを出来るだけ作品から離れないで述べてみることにした。資料の勢いに流されることなく、作品の具体的な生命に触れるにはどうすれば良いか。そうなるとやはり、立返ってゆく所は作品そのものを措いて他にない。これは文学作品を扱う場合に常に重要な問題である。
著者
渡部 武
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
no.25, pp.p171-195, 1992-03

本稿は石門心学の祖石田梅岩 (一六八五-一七四四) の主著『都鄙問答』における「都」と「鄙」の実質的内容を解明し、かつ両者がどのように関連しあって彼の思想形成を可能にしたかを追求する試みである。その結論は以下の通りである。「都」と「鄙」とは問答の当事者ではなく、両者は梅岩の二つの異質な生活体験である。「問答」とはそれぞれの生活体験を沈潜させた梅岩の内なる二つの自己の間の問答である。梅岩の思想は「都」と「鄙」の相互浸透による総合の過程としての問答の成果である。そしてその総合を可能にしたのが「都」と「鄙」の中間者としての梅岩であった。
著者
高田 美一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.105-115, 1986-03-15

一八八六年七月三日、ヘンリー・アダムズと画家ジョン・ラ・ファージが日本を訪れ、フェノロサ一家とともに日光にて夏を過ごし、その後、フェノロサとともに鎌倉、京都、奈良、岐阜へと旅行し、日本古美術品を蒐集した。文部省派遣のヨーロッパ美術教育調査に出発するフェノロサと天心は、十月二日横浜出航のシティ・オヴ・ペキン号でアダムズ、ラ・ファージと同船し親交を結んだ。一九四〇年、パウンドは「アダムズ・キャントウズ」を出したが、それはアダムズ家のアメリカ建国の父祖第二代大統領ジョン・アダムズの功績と人格を顕揚したもので、その資料はヘンリーの父チャールズ・フランシス・アダムズ編の『ジョン・アダムズ著作集』からえた。ヘンリーも、ジェファーソンに焦点をあてたアメリカ建国時代の歴史の大著を出し、パウンドもまたジェファーソンの功績と人格を賞揚した。
著者
村越 行雄
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.A37-A83, 1995-03-15

言語哲学において重要な研究領域として位置付けられている指示研究には, フレーゲ的研究方法と反フレーゲ的研究方法 (いわゆる指示の新理論家の研究方法) の対立が全般にわたって見られる。本稿では, 特に指標詞と指示詞を取り上げて, その対立点を検討するのが目的であり, 具体的には指標詞と指示詞に対するフレーゲ本人の説明, そしてそれに対立するペリーとウェットスタインの説明を比較・検討することになる。なお, 一般的に解釈されているフレーゲ像が, 必ずしもフレーゲの真意を反映しているものとは言いがたく, 従って擁護するにしても, また批判するにしても, フレーゲの主張をより正確に解釈する必要があり, その意味で指標詞と指示詞に対するフレーゲの説明を多少詳細に検討し, それに続いてフレーゲの主張を批判するペリーとウェットスタインの主張を明確にする為に, 指標詞と指示詞に対するペリーとウェットスタインの説明を比較・検討することにする。指標詞と指示詞に対する説明の相違は, 単純な言い方をすれば, 指標詞と指示詞の指示 (指示物) が意味によって決定されるとするのか, それとも言語的意味と文脈的要素によって決定されるとするのかの対立によるもので, その点を具体的に検討していくことになる。
著者
浪本 澤一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.1-20, 1983-03-15

本稿は、わが国の南北朝時代に活動した臨済宗の高僧寂室元光 (一二九〇〜一三六七) の偈頌の中から二十四首を挙げて、その解説を試みたものである。坊間、寂室の偈頌を取上げたものは、日本古典文学大系の『五山文学集 江戸漢詩集』(山岸徳平校注) に六首を収載しているに過ぎない。寂室は、三十一歳のとき渡海入元し、杭州 (浙江省) 西天目山の中峰明本の禅に参じて尽大な感化を享けた。中峰は、定居なく草庵に住し船中に起臥し、標するに「幻住」を以てした。寂室は、中峰の道に参じたあと、南方中国の聖山禅匠を歴訪し、在元七年を経て帰国したが、京・鎌倉の大寺叢林に寄らず、中峰の家訓を体して林下の禅者としての道を貫徹した。世寿七十八歳、坐夏六十六年。世間の名利を超越したまことに純潔な高僧であった。愚のごとき門外の徒が何故寂室の禅道に関心を抱いたかに就いては多少の理由がある。芭蕉の名高い「幻住庵記」における「幻住」の根源は寂室の謁した中峰の「幻住」に発している。芭蕉は『奥の細道』の吟旅のあと幻住庵に寓止して、此処もまた仮りの宿り、「幻住」であるという生涯の観想を書き綴った。尤も芭蕉の遺語には寂室の名は見えないが、高足其角の手に成る「芭蕉翁終焉記」の文中「遺骨を湖上の月にてらす」の語には寂室の偈頌の薫染が感受されるのである。即ち、同門の支考が、寂室の「死在巌根骨也清」の一句を挙げてその傍証をしている。加うるに芭蕉をはじめ其角・嵐雪・丈草・支考等々、文人として禅法を修しており、蕉風の俳諧は禅法を除外しては理会しがたいものを内在している。愚が、仏心宗における禅とは何か、という問題とともに禅の公案を詩として表象した偈頌に就いて、年来関心を寄せてきたのは大凡以上のごとき理由に因る。もとより禅はただ机上の読書だけで片付くような生易しいものではない。然し乍ら、ありがたいことに禅には宗派心がない。古来禅は僧俗を問わず個の日常生活裡に原点を持っている。禅は中国の唐朝中期に広大な揚子江の流域において目覚ましい進展を遂げるが、その時代の古徳は、官人から禅とは何ぞやという質問を受けたとき、即座に「汝、日々の心」と答えたという。禅には宗派心がないし、隠している何ものもないのである。門は有つて門はないのである。宋の詩人蘇東坡は夜中に渓川の声を聞いて悟道したという。その詩偈に曰はく、「谿声便是広長舌。山色無非清浄心。夜来八万四千偈。他日如何挙似人」。
著者
岩本 憲司
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.105-170, 1992-03-20

本稿は、何休『春秋公羊經傳解詁』の日本語譯である。譯出作業はかなり進んでいるが、紙面の都合で、今囘はとりあえず、(三) として、莊公十一年から僖公四年までを掲載する。以後、數年にわたって連載する豫定である。なお、本稿は、一九九一年度跡見學園特別研究助成費、及び三島海雲記念財團學術奬励金による研究成果の一部である。
著者
山川 淳次郎
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.91-98, 1983-03-15

シラーはその『哲学的書簡』の中で愛の哲学を展開する。それによれば、愛とは宇宙におけるあらゆる偉大なもの、美なるもの、卓越するものを表象し、そのことによって、それらをわがものとして同時に実現する能力である。このように解された愛とは、実は想像力に他ならない。というのは、想像こそあらゆる表象を目ざめさせ、多様なものとし、それらを高め、神性の理想に近づくことができるからである。そして「各人がすべての人間を愛するならば、各人は世界を所有し、神性に近づく。」想像力豊かな詩人は愛するものであり、全宇宙を愛し乍ら所有する可能性をもっている。このような愛を客観的愛とよぶならば、主観的愛は感覚的魅力において作用し、心の感受性を意味し、血の情熱を意味する。したがって主観的愛は、肉体的、性的脅威をもつ。それゆえ、シラーはこの主観的愛を Elysium にまで高め、愛を安全なものとして永遠化しようとする。以上のような「愛」についてのシラーの見解を、かれの戯曲作品を通じて跡づけてみる。『フィェスコ』では愛と権勢欲が対比され、両者が同一人においては共存、合一し得ず、破局に導かれる。『ルイーゼ・ミレーリン』では個体的な愛を目ざすものの悲劇、階級の対立を超越して、自らの独特の人格性の根抵のうえに新らたなる愛の世界を創造せんとしたものの破局がとかれる。さらに『ヴァレンシュタイン』において、本来、この世のものではない高次の愛を、この世において実現しようとしたものの悲劇がとかれている。
著者
梅宮 創造
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.83-104, 1993-03-20

本稿では若きサッカレイの生活模様に主眼を置く。チャータハウス校を出てケンブリッジ大学に入り、その後の精神放浪、結婚、家庭、妻の発狂、等々、サッカレイのくぐり抜けた甘い苦い経験を凝視してみたい。そこから何が生れるか。作家誕生の過程が、作品制作の秘密が、そして何よりも、サッカレイなる人物の体温が直かに感じられるものなら喜ばしい。たび重なる苦難の日々に悲哀となり夢となり、陰に陽に現れている彼の素顔、それを明らかにすることが当面の仕事である。サッカレイ文学の深い理解のためにも、欠かすべからざる仕事であろう。大作『虚栄の市』に至るまでの道程は生易しいものではない。サッカレイは一とき画家を志し、新聞記事を書き、小説を試みては批評文を物すなどした。その下積みは何年も続いた。剰え、サッカレイには生活の不如意が、家庭の悩みが絶えなかった。それやこれやが彼を鍛え、文章に磨きをかけ、結果としてはその作品が類稀なる光芒を放つに至った。しかし、これが彼自身にとって仕合せな結果であったか否か、判らない。後世の我々は遺された作品を読み、手紙や日記を検め、さらに夥しい証言や伝記の類に眼を通すばかりである。そうして一作家の像を心中にふかく刻み、末永く、個人の大切な所有物として蔵って置こうとする。それで良いのだろうと思う。もとより文学は他人に押付けるものではない。他人を説得するものでもない。文学研究上の「新発見」などにせよ、多くは既に発見された真実の「再発見」であろう。何故なら、文学における真実とは、幾度も幾度も重ねて発見されるべきものであり、一個の動かぬ力を揮って人を黙らせる代物ではない筈だから。
著者
町田 栄
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.53-66, 1991-03-20

瀬戸内晴美氏 (法名は寂聴師)、その文学と大納言久我雅忠の女、すなわち後深草院二条、その自伝『とはすかたり』との交渉は深く、長く、篤い。宿緑に結ばれているようだ。たんに、『中世炎上』と原典との関連ではすまない。また、その現代語訳者にとどまらぬ。何んと、十年も集注して固執し、やがて卒業して行く。おりから、氏自身が次のように回顧した、その時期にあたる。昭和四十一年に「一つの心理的転機」をきたして、「流行作家的生活を清算」 (自筆『年譜』)したいとの願いにそそられ、歳末、京都に転居してみる。東京との往復、二重生活を試みているのだ。なぜかについて説明はない。以来、ひそかに「私の文学変革」、「脱皮」はすすみ、昭和四十三年度には、それが「本格的」(『わが文学の履歴』、いずれも『昭和文学全集25深沢七郎・水上勉・瀬戸内晴美・曾野綾子・有吉佐和子集』昭六三・四・一刊小学館に収載) になったという自覚を持つ。さらに延長線上には、昭和四十八年十一月十四日の得度、出離がある。自然な、ひとつの帰趨であろう。一念発起とか、翻然として悟るとかの挙ではない。いま、瀬戸内文学の昭和四十年代を眺めわたして、転換期を設定するとき、推力の枢要部に『とはすかたり』を置かなければなるまい。後深草院二条に、氏は等身大の、血脈たる自己を見出したのだ。劇的ですらある。時代性を別してふたりの資質、性行、嗜好はあまりに酷似している。ほとんど寸分の狂いなく、重ね合わせられよう。両者の遭遇は、約七百年を隔てた骨肉の呼応と称しても、過言ではあるまい。この至純な邂逅によって好伴侶を得るが、同時に自己凝視、自己啓発をもたらす。いや、かえって、それを強いられたかも知れない。多年にわたって、『とはすかたり』に固執するゆえんである。氏の心酔、長い同行と追随のうちに触発され、促進され、督励され、そして自得されたものは何か。それらが、ゆるやかな転換へといざない、おのずから転換期を形成する。内実を明らめなければならぬ。瀬戸内氏と『とはずがたり』との交渉の生きた現場に立ち会って、検証する必要がある。具体的に、。『とはすかたり』との出会い 。受容-自己凝視と発露、出家出離 。残された問題の体験的自得などによって、考察を試みたい。『とはすかたり』という作品の特質も立ち現われて来よう。
著者
町田 榮
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.13-36, 2001-03-15

本稿は、直接には、青山、志賀家墓所の空想と夢想 (三)-『城の崎にて』と『佐々木の場合』(一)-『跡見学園女子大学紀要』第三十三号 (二〇〇〇年三月十五日発行) 青山、志賀家墓所の空想と夢想 (三)-『城の崎にて』と『佐々木の場合』(二)-『跡見学園女子大学国文学科報』第二十八号 (平成十二年三月十八日発行) に掲載に続く。なお、一連の志賀文学の考察に、青山、志賀家墓所の空想と夢想 (一)-墓参史の意味-『跡見学園女子大学紀要』第三十二号 (一九九九年三月十五日発行) に掲載青山、志賀家墓所の空想と夢想 (二)-慧子の誕生、死、その埋葬-『跡見学園女子大学国文学科報』第二十七号 (平成十一年三月十八日発行) に掲載がある。