著者
西村 直登 Naoto Nishimura
出版者
同志社大学人文科学研究所
雑誌
社会科学 = The Social Science(The Social Sciences) (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.47, no.1, pp.33-61, 2017-05-31

本稿は、1923年9月1日に発生した関東大震災を経験した朝鮮人にとって、朝鮮への帰還がどのような意味を持ったのかについて検討したものである。震災下における朝鮮人の帰還は、震災発生直後から「排外心のるつぼ」と化した日本から逃れるための、いわば「避難」としての帰還にとどまらなかった。「避難」は文字通りの「災難を避けて、安全な場所へ立ち退くこと」だけでなく、生き延びようとする、そして真相を明らかにするための「抵抗」の表れであった。
著者
田村 雲供
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.79, pp.1-30, 2007

第一次世界大戦後のドイツ・ヴァイマル共和国では、開放は同時に消費指向性をもたらした。まず「性」の解放が進む。これは産児制限への欲求となって「性相談所」の設立をうながす。1919年から1932年までに400件以上の相談所ができ、そのうちのほぼ400件がベルリーンに集中していた。20年末には最高潮となる。フェミニスト、ヘレーネ・シュテッカーは精力的に相談所設立にかかわり、「性の民主化」をおしすすめた。しかし、1926年以降には公営の「結婚相談所」が設けられ、その方針は社会ダーウィン主義的な選別的断種においていた。「性科学」と「優生学」への両極化へのプロセスがはじまる。しかし、ナチズムはすべての成果を破壊する。
著者
岡本 真希子 オカモト マキコ Okamoto Makiko
出版者
同志社大学人文科学研究所
雑誌
社会科学 = The social sciences (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.49, no.4, pp.225-254, 2020-02

論説(Article)本稿は,日本の植民地統治下台湾における法院通訳の使用言語について,統治前半期(1898~1918年)に焦点をあてて検討し,北京官話への依存と脱却の過程を明かにする。第2章では台湾社会における言語使用状況を,1905年の臨時台湾戸口調査を用いて確認する。第3章では法院通訳の使用言語(官話/「土語」)に関する論争を,通訳制度(複通訳制度/単通訳制度)のあり方とともに検討する。第4章では,高等官法院通訳の合計10名の個々の経歴を用いて検討する。その際には,江戸時代から明治時代への移行期における北京官話学習者との関係に着目し,開国以降の近代日本の北京語学習者の軌跡を台湾からとらえかえすことも試みる。
著者
井ヶ田 良治
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.76, pp.31-52, 2006

黒住教は江戸時代後期に黒住宗忠(1780-1850)によって岡山で組織された神道系の民衆宗教である。宗忠は自己の全生命と太陽神天照大神が合一する神秘体験から、神人不二の妙理を悟り、天照大神を万物の根源年、人間すべて平等に神の子であるとする現世利益の教説を説いた。彼の死後、弟子の努力で宗忠にたいし吉田神社より大明神号をうけることができた。黒住教は岡山藩内から次第に教線をひろげたが、その布教は丹後田辺藩領にもひろがっていた。その実態を田辺牧野家領の裁判記録を通じて明らかにすることができる。民衆の歴史史料として、裁判記録の利用がいかに有効であるかを実験してみた。記録自身は為政者の手になるもきてはあるが、そこに反映されているのは、吟味を受けた領民の信仰の姿である。それを通じて江戸後期の民衆の精神活動と行動がいかに活発てあったか,その行動範囲がいかに広かったかをしることができた。また、信仰を通じて血縁・経済活動などの民衆のネットが存在したことや、村を追放された罪人が父母や家族への孝養・介護の為に御構い場所にたちかえっている実態なども明らかになった。丹後田辺藩は他藩と比べて、異常なまでに他国からの宗教者の入国を拒否した藩であるが、その田辺藩にあってさえ、領民の新興民衆宗教への受容熱我根強かったことは驚くほどである。以上のように、裁判記録は民衆史の史料として大いに役立つことがあきらかである。The Kurozumikyo was a Shinto-oriented religious sect, founded by Kurozumi Munetada in Okayama. He went through on a mysterious experience, in which all his life was united with Amaterasu-omikami as God of the Sun. So he preached that God and human-being are one, and that Amaterasu-omikami is the root of creation all, and all human-being are chldren of God equally, and can enjoy happiness of this world. After his death he was receipt dignity of God by Yoshida shrine in Kyoto. The Kurozumikyo were expanding out round of Okayama, reached into Tango-Tanabe clan. I look at the mission of the Kurozumikyo in Tango-Tanabe clan through some legal records of the clan governmental office.
著者
尾崎(井内) 智子 オザキ(イウチ) トモコ Ozaki(Iuchi) Tomoko
出版者
同志社大学人文科学研究所
雑誌
社会科学 = The social sciences (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.45, no.3, pp.105-131, 2015-11

論説(Article)本研究は、日本婦人団体連盟が行った「白米食廃止」運動をとりあげ、国民精神総動員運動にどのような影響を与えたのかを明らかにした。日本婦人団体連盟は、婦選獲得同盟が中心になってつくった組織で、1920年代に行われた女性参政権運動の流れをくんでいる。同連盟は1937年につくられると、最初に脚気予防の観点から白米食廃止が重要と考え、国・東京府・東京市のそれぞれの総動員運動でとりあげられるように働きかけた。日本婦人団体連盟の活動の結果、「白米食廃止」は東京府の政策にはとりいれられなかったが、政府と東京市内の総動員運動にとりいれられた。This study focuses on the movement to "Abolish the White Rice Diet" promoted by the Federation of Japanese Women's Organizations and discusses the impact of this campaign on the National Total Spiritual Mobilization Movement. The Federation of Japanese Women's Organizations was formed under the leadership of the Women's Suffrage League of Japan, which had been a prominent voice in the Women's Suffrage Movement during the 1920s. When the Federation was established in 1937, its leaders quickly realized the importance of eating germ rice to prevent beriberi and started lobbying activities not only on the national level but also on the prefectural and municipal levels. In the end, although many of the Federation's efforts were unsuccessful, the National Spiritual Mobilization Movement Central League and the Tokyo Municipal Government decided to adopt the recommendation to promote the consumption of substitute foods.
著者
戸邉 秀明 トベ ヒデアキ Tobe Hideaki
出版者
同志社大学人文科学研究所
雑誌
社会科学 = The social sciences (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.42, no.4, pp.27-47, 2013-02

論説(Article)本稿は,20世紀後半の日本における代表的な朝鮮近代史家であり,「内在的発展論」の主導者と目された梶村秀樹(1935~89年)の研究課題や方法の変遷について,同時代の日本歴史学の動向全体のなかに位置づけ,梶村の歴史研究の史学史的位置づけを検証する試みである。特に,梶村が晩年まで方法的革新を図り,国家と民衆の2つに焦点を結ぶ朝鮮近代史の全体像を追究した軌跡を,「戦後歴史学」とよばれる思想潮流との関係で位置づけている。It is required to understand the Japanese social sciences in the late 20th century, especially the academic movements that called "post-war historiography", to capture the development of the research agenda and methodical viewpoint by Kajimura Hideki(1935-89). This article aims to explore the Kajimura' s historiography on the modern Korean history in the trend of historiography in post-war Japan. Kajimura tried to innovate his own methodical viewpoint until shortly before his death, and pursued the overall picture of the modern history of Korea which links the two focuses of "state" and "people". This article traces the development of his viewpoint of "development".
著者
趙 義成
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.113-125, 2014-05

本稿の目的は,朝鮮民主主義人民共和国(以下「共和国」)の朝鮮語学において,旧ソ連言語学のいかなる影響があったのかについて,とりわけ政治・思想的な側面と文法論的な側面に関して考察することである。第2次世界大戦以前のソ連言語学界ではN.Ja.マールの理論すなわちマール主義が「マルクス主義言語学」として,絶対的な地位にあった。共和国の言語学界がソ連の言語学を受容することは衛星国としての公的な方針であり,金寿卿が紹介した論文はほとんどがマール主義に関連づけられたものであった。しかし,共和国の朝鮮語研究それ自体はいたって常識的な言語学に基づいた研究活動であり,マール主義は共和国に根ざすことがなかったと推測される。1949年刊行の『朝鮮語文法』(以下『49年文法』)は,音声学と音韻論を区分せずに音論として扱う点,造語論を形態論の中で扱う点,統辞論で単語結合を扱う点などは,当時のソ連言語学と軌を一にしている。『49年文法』は,従来の文法論で同義の用語だった「助詞」と「ト([ト])」を別個のものとして扱っていた。朝鮮語の格を表示する要素を「助詞」という単語と見ずに「ト」という形態形成の形態素と見たのは,ロシア語文法における名詞の格の捉え方を参考にしたものと考えられる。一方,「助詞」は,ロシア語文法における「小詞」の概念と関連づけ得る。また,『49年文法』では,旧ソ連言語学における単語結合が「語詞結合」という用語で扱われているが,この時点では文法理論をまだ十分に吸収することが困難だったと考えられる。スターリンによるマール批判(1950年)とマール主義を否定したソ連言語学は,朝鮮戦争休戦までには共和国にもたらされていたと見られる。1958年,共和国言語学界の主導的立場にあった金枓奉批判する論文が掲載され,6字母などの金枓奉の業績はことごとく否定され,金寿卿も公式に批判を受けた。金枓奉の失脚が政治的な動機によるものであった一方で,金寿卿は「追従者」と受動的な立場に位置付けられていることから,金寿卿に対する批判はあらかじめ「逃げ道」の用意されていたもののようにも思われる。金寿卿が執筆に関わった1960年刊行の『朝鮮語文法1』(以下『60年文法』第1巻)と,1963年刊行の『朝鮮語文法2』(以下『60年文法』第2巻)には,1952年と1954年に刊行されたアカデミー版『ロシア語文法』(以下『ソ連60年文法』)が大きな影響を与えたと推測される。セクションを区切る書式,「序論」と称して形態論の諸問題を広く検討する手法,音論において国際音声記号を用いず固有文字で発音を表記する手法などは,『ソ連60年文法』の手法をそのまま踏襲している。『49年文法』から『60年文法』第1巻への大きな変更点は,すべての「助詞」を認めなくなった点である。文法形態素として語根に膠着する要素をことごとく「ト」とするこのような見解は,その後の共和国のあらゆる文法論に原則的に引き継がれていく。『60年文法』第1巻では,ソ連言語学と同様の単語結合の概念を認めているが,3年後に刊行された『60年文法』第2巻では,「諸単語の文法的連結」というより広い概念を設定し,その下位範疇として「結合」,「接続」の2つを設定した。ソ連言語学の「単語結合」だけでは処理しきれない問題があったためであると見られる。1960年代までの共和国の言語学界が学問的に健全に活動を行ってくることができたのは,金寿卿をはじめとする研究者の真摯な学問的姿勢に拠るところが大きいといえよう。
著者
森 涼子 モリ リョウコ Mori Ryoko
出版者
同志社大学人文科学研究所
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.44, no.1, pp.57-66, 2014-05-30

書評(Book Review)2012年出版の邦訳書『自然と権力』の書評である。内容紹介にとどまらず、本書の議論が、現在ドイツにおける自然・環境保護の歴史学研究においてどのような意味をもつのかを考察している。とくにラトゥカウの「現代環境意識」論に焦点をあて、この意識の特性、その新しさと限界とに検討を加えている。さらに2000年初版後に修正・加筆された部分が邦訳されていることの意義を高く評価している。Diese Rezension geht nach einer kurzen Zusammenfassung des Buches der Frage nach, welche Bedeutung Radkaus historische Sichtweise auf die natürlichen Ressourcen und die von ihr herausgezogenen Argumente für die Historiographie über Natur- und Umweltschutz in Deutschland haben. Die Rezensentin konzentriert sich auf die Darstellungen der Gegenwart und erörtert, wie das von Radkau vorgestellte „moderne Umweltbewusstsein" zu charakterisieren ist und inwieweit diese Gesinnung für „global" bzw. für „deutsch" gehalten werden kann.
著者
山田 智輝 Tomoki Yamada
出版者
同志社大学人文科学研究所
雑誌
社会科学 = The Social Science(The Social Sciences) (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.52, no.4, pp.117-149, 2023-02-28

本稿は、独領東アフリカをインドの植民地にすべきとの構想をめぐる議論と、同地がイギリス委任統治領タンガニーカとなったことにともなう、インド人からの委任統治当局および国際連盟への請願を検討する。それにより、第一次世界大戦期から1920年代後半までの、インド人とタンガニーカの関係と、国際連盟および委任統治制度をめぐる彼らの認識やかかわりを明らかにする。
著者
森 あかね Akane Mori
出版者
同志社大学人文科学研究所
雑誌
社会科学 = The Social Science(The Social Sciences) (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.50, no.4, pp.1-17, 2021-02-28

律令や孝子説話等の例において、継母と継子の恋愛関係は「不孝」と結びつけられる。光源氏の「孝」を称賛する場面が繰り返されるものの、光源氏と継母的立場である藤壺の関係に対しても「不孝」への連想が働いていたと想定され、「薄雲」の天変に繋がっている。光源氏とともに語られる「孝」は不孝を照射し矛盾を示す皮肉的なものとして機能しており、それは本来的な「孝」思想から離れた物語の「孝」と位置付けられる。論説(Article)
著者
中山 俊
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.83-108, 2014-02

1887年3月30日,フランスにおいて建造物と美術品の保護にかんする法律が初めて成立した。歴史的,美術的見地から「国民の利益」を有する不動産と動産,いわば歴史的記念物を指定することで,中央政府の許可のない修復工事,譲渡等を抑止することが立法の目的であった。以後,地方の学術団体は,指定するに値する文化遺産を推薦するよう求められた。トゥールーズでは,郷土史家団体のフランス南部考古学協会(SAMF)がそれに対応した。彼らは芸術の町としての過去の栄光を誇り地元の作品を保護するため,トゥールーズ独自の建造物,美術品をも指定しようとした。しかし,とくに動産にかんしては,指定に対する所有者の消極的な態度によりSAMFは情報を十分に収集することができなかった。「国民の利益」にこだわる政府と地方の連携もまた容易ではなかった。それでも,指定された建造物,美術品はSAMFが推薦したものであった。1887年法に基づいて行われた指定事業は,文化遺産を「大きな祖国」の国民芸術として保護するためのものでは必ずしもなかった。郷土史家は指定を通じて,「小さな祖国」に特有の文化遺産の保護に貢献したのである。
著者
居安 正
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.219-254, 1996-01

論説
著者
板垣 竜太 戸邉 秀明 水谷 智 Ryuta Itagaki Hideaki Tobe Satoshi Mizutani
出版者
同志社大学人文科学研究所
雑誌
社会科学 = The Social Science(The Social Sciences) (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.27-59, 2010-08-10

本稿は国際的な視野から日本植民地研究を再考した。その際、「比較帝国研究」の枠組とは一線を画すことに留意し、日本帝国を他の植民地帝国と比較するというよりは、日本植民地研究の史学史と現況に焦点を合わせた。すなわち、マルクス主義、近代化論、ポストコロニアル論などの欧米の学界に由来する歴史研究の枠組が、日本植民地研究にどう受容され、対話がおこなわれ、批判され、鍛えられてきたかに注目し、議論を展開した。