著者
市川 美香子
出版者
大阪市立大学
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.51, no.4, pp.393-408, 1999

フィクションは「嘘」である。したがって, 語り手は読者に対して暴かれない嘘をついてはならない, つまり正直でなければならない。理由は単純至極。嘘をついたのにそれが暴かれないとすると, 元のフィクションは消滅し, 別の<フィクション=嘘>になってしまうからである。フィクションにおいて語りに「嘘」があるとすれば, 「嘘」と「真実」の両方が見えていなければならない。つまり, 歪みは歪みとして見えなければならないのである。その歪みがより明確に見えやすいのが, 作中のドラマに関わっている人物の一人称による語りである。……
著者
高島 葉子
出版者
大阪市立大学
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.50, no.12, pp.997-1018, 1998

1 はじめに : 蛇女とは何ものなのだろうか。それはまず, 水に関係した超自然の生き物つまり水の妖精である。水の妖精の最も代表的な存在は, 人魚, 特に女の人魚であろう。そして, 人魚の姿は, よく知られているように, 上半身は女性で下半身は魚か蛇である。キリスト教的図像では, 人魚は「女性の姿をした蛇」であり, OEDにも, 人魚と同義的に使われるセイレーンは, 「想像上の蛇の一種」と説明されている。蛇女は人魚と同類と言える。……
著者
奥平 康照
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.20, no.4, pp.331-339, 1968

現在ではもう既に, 経験主義教育論が, 実践の場においても, 理論の場においても, まともに正面にすえて批判されたり問題にされたりすることはほとんどないと言って良いだろう。たしかに第二次大戦後, それが教育理論(思想)のすべてでもあるかのように, 日本の教育界を包んだ経験主義, アメリカ新教育の直輸入, というレベルでの批判は既に終っているであろう。だが, 経験主義的思考は依然として教育についての考え方や実践の中に, ある力をもっている。……
著者
加藤 美雄
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.11, no.8, pp.789-806, 1960
著者
森 信成
出版者
大阪市立大学大学院文学研究科
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.16, no.1, pp.37-50, 1965-01

ことわりがき : 昨年春以来、公然たるかたちをとってあらわれるにいたった中ソの思想的、政治的対立は、世界政治に深刻な影響を与えている。本稿は、本誌に中ソ論争の理論的内容を紹介するために、中共の代表的イデオローグである周揚の、中共派の主張を要約した、いわばその結語ともいうべき「哲学、社会科学工作者の戦斗的任務」(『前衛』一九六四年四月号所収)をとりあげ、批判したものである。……
著者
藤井 康生
出版者
大阪市立大学文学部
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.45, no.9, pp.p821-842, 1993

コルネイユは, 殉教の悲劇『ポリュクト』(1642)で成功を収め, 続いて悲劇『ポンペーの死』(1643), 喜劇『嘘つき男』(1644), 喜劇『続・嘘つき男』(1644), 悲劇『ロドギューヌ』(1664)を発表した後, 再び殉教者を主人公にした悲劇『テオドール』(1645初演, 1646初版)を書くのだが, この宗教悲劇は大失敗に終わる。……
著者
丹羽 哲也
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.44, no.13, pp.1115-1150, 1992

副助詞には、程度用法aと取り立て用法bを合わせ持つものがある。……
著者
小林 直樹
出版者
大阪市立大学
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.50, no.10, pp.685-702, 1998

一 『今昔物語集』巻一七第33話は、女人と変じた法輪寺の虚空蔵菩薩が好色な叡山僧を学問の世界へと「謀リ」導く顛末を幻想味豊かに語って、本朝仏法部中でもひと際印象深い一篇である。その末尾は次のように結ばれる。……
著者
片山 綾 佐伯 大輔
出版者
大阪市立大学大学院文学研究科
雑誌
人文研究 : 大阪市立大学大学院文学研究科紀要 = Studies in the humanities : Bulletin of the Graduate School of Literature and Human Sciences, Osaka City University (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.71, pp.129-142, 2020

「将来のために禁煙して健康な身体を手に入れるか、目の前の煙草を吸うか」といった、将来の目標達成と目先の快楽のどちらを選択するかの問題は、心理学の様々な分野において、セルフ・コントロールの問題として扱われてきた。本稿では、遅延される大きな利得を選択することをセルフ・コントロール、即時に得られる小さな利得を選択することを衝動性と定義し、これまで行われてきたセルフ・コントロール研究を概観する。まず、心理学におけるセルフ・コントロール研究の先駆けである満足の遅延パラダイムに基づいた基礎研究とその応用可能性、さらにそれに関連したセルフ・コントロールの強度モデルについてその概要を説明し、問題点を指摘する。次に、その問題点を解消するために、セルフ・コントロールを行動分析学の観点から扱う意義について考察し、これまで行動分析学で行われてきたセルフ・コントロールに関する基礎研究とその課題について整理する。最後に、それらの課題を踏まえて片山・佐伯(2018)によって新しく提案されたパラダイムを紹介し、基礎研究と応用研究の両方の側面から、今後の展望を述べる。
著者
中山 治一
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.20, no.9, pp.783-797, 1968

(一)問題の所在 : 説明する必要もないことであろうが、クリミア戦争が、一八五三年のロシアとトルコの開戦にはじまり、途中でイギリス・フランス・サルディニアの参戦を経て、セヴァストポリ要塞の陥落、そして結局一八五六年のパリ条約によって終結をつげる戦争であることはいうまでもない。……
著者
井上 浩一
出版者
大阪市立大学文学部
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.40, no.10, pp.p725-750, 1988

第三八章 : (九七)もし地方長官ががいるなら、彼を訪れよ。しかし頻繁には行くな。たまに行って必要なことを慎重に話せ。尋ねられなければ黙っていろ。神が汝に与えて下さった食べ物、飲み物のうちから、汝の力に応じて、長官とその従者に貢ぎ物をせよ。……
著者
三上 雅子
出版者
大阪市立大学
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.149-160, 2001

I 1901年, 英国で『スクルージ, 副題マーレーの幽霊』(Scrooge; or, Marley's Ghost)と題された映画が公開される。ディケンズ(Charles Dickens)の『クリスマスキャロル』(以下『キャロル』と略)(A Christmas Carol)の最初の映画化作品である。1900年パリの万国博覧会で華々しく脚光をあびた新世紀の娯楽・映画は, 1902年早くも見世物の域を脱した『月世界旅行』を世に送り出すことになるわけだが, それよりも1年早くすでに映画がこのクリスマスストーリーの映像化に取り組んだ事実は意外に知られていない。1848年に公刊されるや僅か一週間の内に6000部の売上を記録した「守銭奴スクルージのクリスマスイブの体験と改心」の物語は, 映画の誕生後すぐにスクリーンに登場したわけである。1901年の映画は短編のトリック映画である。……
著者
丹羽 哲也
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
no.61, pp.81-111, 2010-03

本稿は、逆体助詞「の」の用法記述のための1つの観点を提案するものである。「XのY」の間に成り立つ関係を、要素XまたはYが抽象的な形で内在している場合、そのX・Yを「関係項」、内在していないX・Yを「自立項」と呼ぶ。それによって、「XのY」は、(ア)Xが関係項で、Yが自立項であるもの(修飾部関係項型)、(イ)Yが関係項で、Xが自立項または関係項であるもの(主名詞関係項型)、(ウ)X・Yともに自立項であるもの(関係不明示型)という3種類に大別できる。関係項と自立項は連続的な関係にあり、これら3種も相互に連統的である。関係不明示型は、「XのY」の関係が運用論的な推論によって補完されるが、「XがYを所有する」「XにYが存在する」「XがYに存在する」等々いくつかの関係が慣用化しており、それらは、X・Yの一方がもう一方に何らかの点で内在・付随する関係でなければならないという制約がある。文脈の支えによって臨時的な関係が成り立つ場合も、その制約の延長上にある。ある「XのY」の例が(ア)(イ)(ウ)のどれかを満たすものであっても、「な」「という」「による」など他の形式と競合して、「の」が用いられないという場合も少なくない。
著者
Tanaka Takanobu
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.51, no.4, pp.431-447, 1999-12

I Introduction : Martin Chuzzlewit (1843-44) has an overall "design," a grand unifying theme. This is the theme of selfishness and all its fruits and is loudly enunciated by old Martin and the narrator at the end of the first monthly number. Many critics such as J. Hillis Miller and Steven Marcus read the novel as centered around this theme, and regard old Martin as a sort of "human providence." Stuart Curran, arguing that the myth of the loss of Eden is central to the whole idea of the novel, identifies him with the "stern Deity of the Old Testament, the God of Truth." Old Martin restores justice and order, and brings a happy ending. This reading can be reviewed from a different perspective, that is, the father-son relationship when we notice old Martin is a patriarch. In fact, the theme is itself developed as centered around such relationships as old Martin and his grandson young Martin, Anthony Chuzzlewit and his son Jonas, Tom Pinch and his "father" Pecksniff, and Tom and his new father-figure old Martin after he knows Pecksniff's true character. ……
著者
道宗 照夫
出版者
大阪市立大学文学部
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.38, no.5, pp.p427-440, 1986

アルベール・プリウーがその著書『「人間喜劇」前のバルザック』(1936年刊)で取上げたバルザック作品『仮面の愛または軽はずみと幸福(L'Amour masqué ou Imprudence et Bonheur)』については, その後ブルス・トリーが彼の論文「バルザックの諸作品(1829?)」という一項で論議をすすめ, その後さらにプリウーも論文「仮面をつけた愛, オペラ座の舞踏会で」においてふたたび取上げた。……
著者
小田中 章浩
出版者
大阪市立大学
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.196-211, 2007

サミュエル・ベケット(1906~1989)の戯曲が興味深いのは、それらが優れた作品であると見なされているだけでなく、上演を前提として書かれる「戯曲」と、文学的(あるいは芸術的)に完成された「作品」との間の埋めがたい溝に、「作者」がどの程度まで介入できるかという問題を提起しているからでもある。ここでは文学「作品」と「テクスト」の関係をめぐる、ポスト構造主義以降のさまざまな議論を検討する余裕はないが、少なくとも文学「作品」と、演劇における「作品」の違いとして言えることは、前者が物質的なレベルにおいて紙に書かれた(印刷された)インクの染み、あるいは電子的な記号の配列として存在するのに対して、後者は一定の時間の流れの中にしか存在せず、「作品」を同定することは本質的に不可能だと言うことである。その意味において、演劇における戯曲は、上演を実現するための他のさまざまな媒体(俳優の身体表現、舞台美術、演出プラン等)と同様に、まさにロラン・バルトのいう「テクスト」(さまざまな解釈に向かって開かれた表現)を構成すると言ってよい。ところがベケットは、そのいくつかの作品の上演において、自らの戯曲がこの種の「テクスト」として自由に解釈されることに強い抵抗を示した、その典型的な例が『勝負の終わり』である。ではわれわれはこの戯曲を、彼が構想した通りにしか解釈できないのであろうか。この小論では、ベケットが自らの作品において見落としていた要素に注目し、この「テクスト」の拡大解釈を試みてみたい。
著者
生澤 雅夫
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.34, no.10, pp.629-657, 1982
著者
小西 嘉幸
出版者
大阪市立大学文学部
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.p49-68, 1990
著者
土屋 礼子
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.51, no.9, pp.45-63, 1999-12

1)はじめに : 明治十七年(1884)に, 『今日新聞』と『警察新報』という二つの新たな小新聞(こしんぶん)が東京で誕生した。両紙はいづれも, それまでの小新聞にない新たな試みを行い, 後にそれぞれ『都新聞』と『やまと新聞』と改められて, 第二次世界大戦期まで存続する新聞の出発点となった。……
著者
新谷 和之
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
no.65, pp.25-46, 2014-03

一五世紀半ば以降、各地の守護は分国に戻り、地域支配に専念するようになる。その際、守護はそれまで分国支配の実権を握っていた有力被官と対立し、抗争の結果、戦国大名が生まれると理解されている。しかし、守護被官が権力内で一定の権能を果たすことは、守護の支配に必要とされる面もあり、当該期の権力抗争を守護と被官の矛盾の面のみで捉えるのは適切ではない。本稿は、この点について近江のケースをもとに考察した。一六世紀前半、近江守護六角氏は二度にわたる抗争の末、守護代の伊庭氏を排斥した。その原因は、伊庭氏が強大な権限を握り、六角氏当主との矛唐を深めたことにあると考えられていた。だが、伊庭氏の権限は六角氏権力内で容認されており、伊庭氏自身も六角氏権力の枠を逸脱しようとはしなかった。この事件の契機は、室町幕府将軍家の分裂という政治問題にある。六角氏の有力被官として中央と地方の双方につながりをもった伊庭民は、細川京兆家の要請や自身の被官からの突き上げを受け、六角氏と対立する道を選んだのである。当該期の抗争は、権力内の覇権争いにとどまらず、政治・社会の変動に伴う構造的な問題と捉えられる。