著者
平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.193-241, 2012-09

髪には、人々の身分や生き方が如実に反映されてきたという歴史から社会の変遷を読み取り、また人々のもつ無意識の戦略について論じることで、普遍的な美への志向を読み取る。化粧や髪形は時代とともに変化する。動態的には公家から武家へといった支配的地位にいる者の変化、異性から同性など、「誰のためによそおうのか」というよそおう対象の変化に伴って、表現として変化する。 本研究では、主に女性の髪に焦点を結び、髪の長さや結髪などが文化史的にもつ意味をあきらかにするとともに、それが社会的な存在であったこと、美意識はその社会性に裏打ちされてきたことなどを、男性の髪の社会的変化とともに論じる。そのなかで、俗説的に言われてきた、垂髪は平安時代の顔隠しに由来するという説や、髷は歌舞伎や遊女を真似たとする説などを批判し、文化史としてのコードを明確に読み解く。
著者
鄭 敬珍
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.151-181, 2016-03

1764年の通信使行は、使行のすべてを尽くしたと評価されるほど、苦難に満ちた使行であったが、日本人との詩文や筆談の唱和を通した文化交流は、どの使行よりも盛んに行われたといわれている。本稿は、この1764年の朝鮮通信使の日本来聘の際に、大坂で行われた朝鮮の製述官・書記と木村蒹葭堂をはじめとする蒹葭堂会の人々の交遊を再考察するものである。この交遊については、すでに高橋博巳をはじめ、先行研究において論じられてきたが、その交遊を可能にした背景や、朝鮮側の人々については、十分な考察が行われてこなかった。一方で、朝鮮の書記・成大中が依頼したとされる「蒹葭雅集図」の製作過程についても再考察の余地があると考えられる。 本稿では、まず、朝鮮側からの視点に寄り添って、蒹葭堂会の人々と交遊した製述官や書記たちが「庶孼」という庶子の身分であったことに注目した。庶孼身分と朝鮮通信使との関連性について分析すると同時に、彼らが朝鮮通信使に参加する前からすでに、詩社などを通し、文人との交遊を持っていたことも明らかにした。 本稿は、使行録の記録を分析材料として取り上げ、日本ではほとんど注目されてこなかった、製述官・南玉の『日観記』を中心に、江戸に向かう前と帰路の大坂での記録を時系列で追うことを試みた。このような考察を通して明らかになったのは、朝鮮側の製述官や書記たちは、通信使として派遣される前から文人詩社に集い、文人としての経験を培っていた、ということである。そして、そのようなことが、1764年の交遊を可能にした一因になっていたのである。多様な階層の文人による蒹葭堂会と、朝鮮社会の特殊な身分の「庶孼文人」たちの間に、文人として認識が共有されていた可能性は、交遊の産物である「蒹葭雅集図」の製作意図を考える上でも重要な意味を持つ。「蒹葭雅集図」の意味合いについては、今後の課題として、「蒹葭雅集図」と朝鮮後期の雅集図との比較分析を行うなど、さらなる考察を加えていきたい。本稿が、朝鮮通信使に関する研究だけでなく、近世日本と朝鮮社会における多様な「文人」の有様を考察する上でも、有効な手がかりとなることを期待したい。
著者
権 東祐
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.7-32, 2017-10

本稿は、富士山が信仰の場とされながらも、各々異なる祭神が形成され、変貌してきたことを〈神話解釈史〉という視座から考察することを目的とする。 〈神話解釈史〉とは、「中世日本紀」や「中世神話論」を継承しつつも、従来の「古代神話」のように架空の時代を形成しそれに固定することを否定し、神話解釈がどのように新たな歴史を創造してきたかを考えるものである。とくに、「近代主義」によって構築された歴史観念を離れ、神話を解釈・創造する過程こそが新たな歴史を作るという視点から神話と歴史の概念を改める作業である。 このような発想は、磯前順一の主張した「記紀神話」は「どう読まれたか」という「記紀解釈史」と類似している。しかし、磯前は神話が歴史上でどのように解釈されてきたかを考える「神話の解釈史」にとどまっている。対して、神話解釈がどのように歴史を叙述してきたかを考える「神話解釈の歴史」の発想は、斎藤英喜によって提示されており、本稿はそれを積極的に継承しつつ、〈神話解釈史〉という方法の可能性をより広げていきたい。 そこで、本稿では従来の神話研究者が主に『古事記』や『日本書紀』を中心とする神話研究を展開してきたこと、また、神話解釈への関心も「中世の『日本書紀』と「近世の『古事記』」に集中してきたことに対し、それとは異質的な「富士信仰」を中心としてその祭神の変貌を考えてみた。 「浅間の神」から「浅間大菩薩」そして「コノハナサクヤヒメ」を経て「天御中主神」に展開していく富士信仰における神格変貌は、従来の日本神話研究の枠組からは読み取れなかった新鮮な神話世界の一面を見せてくれるだろう。
著者
漆﨑 まり
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.55-100, 2013-09

江戸歌舞伎においては、舞踊の場面に、半太夫節・河東節、長唄、常磐津節・富元節・清元節など多彩な音曲が用いられてきた。新作が上演されると、音曲の詞章は演じる役者や演奏者などの上演情報とともに三~五丁程度の小冊子に載せられ、芝居茶屋や絵草子店に頒布された。これが歌舞伎の音曲正本である。 筆者は江戸版の長唄本について広く書誌調査を行ってきた。伝本は、享保十六年(一七三一)から明治期にわたりほぼ継続して残っている。長唄正本には上演後も稽古本としての用途があったため、多くの版元が再販を手がけており、異版の非常に多いことが一つの特徴である。その伝本の多さからも、長唄本が地本の主要品目の一つであったことが窺える。異版はいずれも初版を踏襲した体裁をとっており、そのなかには、共表紙(本文と同じ料紙)に描かれる役者絵や外題・本文の書体などが初版に酷似するものも存在する。この異版の存在によって、地本における当時の偽版の実態や版権の確立する過程を知ることができるのである。本稿は、長唄本を江戸における草紙(地本)の一品目として捉え、版権の確立する過程(すなわち株板化)について考察したものである。 これを中村座の長唄本によって説明すると、以下の段階を経て株板化に進んでいる。まず、版元村山源兵衛は座と専属的関係をつくり、長唄正本の版行を独占する。するとこれに伴い、その独占的な利益に不正参入しようとする偽版も現れるようになる。その偽版には、村山版を版下に流用して作成する手法が多く用いられている。 次の段階として、村山源兵衛は、偽版の版元を相版元とし、出版にかかる経費を偽版の版元に担わせるようになる。これにより原版の不正利用に対する弁済の方策が立つようになったと考えられる。 寛政期になると版元が沢村屋利兵衛に代わり、蔵版して再版を数次行うかたちに版行形態が変化する。そして、再版に際しても沢村屋と他の版元との相版のかたちがとられ、沢村の原版に対する所有権は概ね守られていると見なされることから、株板化したと判断される。 これは、寛政二年(一七九〇)の出版令により、地本問屋仲間行事による新本に対する自主検閲が義務付けられるようになったことを受けて、地本にも版権を明らかにして取り締まりを強化する体制が整えられたことに連動した動きと捉えられよう。しかしその一方で、こうした長唄正本の版行形態の変化が、稽古本の需要の高まりを受けて再販性の高い出版物へと成長した長唄本の出版益を、座あるいは芝居町に取り込む目的のもとに、座側の主導によってもたらされている面は看過できない。
著者
神戸 航介
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.7-31, 2016-03-25

本稿は税収が豊かな国のことを指す「熟国」と、税収が不安定で統治が困難な国を意味する「亡国」の語に注目し、熟国・亡国概念の制度的構造について検討を加え、摂関期の地方支配のあり方の一端を明らかにすることを目指した。
著者
佐野 真由子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.29-64, 2009-03

本稿は、安永七(一七七八)年から安政六(一八五九)年までを生きた幕臣筒井政憲に光を当て、幕末期の対外政策論争におけるその役割を考察するとともに、とくに後半において、そこに至る筒井の経験の蓄積を検討の対象とする。 今日、筒井の名が知られるのは、嘉永六(一八五三)年から翌年にわたり日露和親条約交渉にかかわったこと、弘化年間(一八四九年代半ば)に老中阿部正弘の対外顧問的な立場に登用されたこと、また、それ以前に江戸町奉行として高い評判を得たという事績程度であろう。本稿では、安政三(一八五六)年に下田に着任した初代米国総領事ハリスの江戸出府要求が、翌年にかけて幕府の一大議案となった経緯、その中で、幕府の最終的な出府許諾に重大な影響を与えたと考えられる筒井の議論に着目する。そこで示された筒井の論理は、日米関係の開始を、徳川幕府がその歴史を通じて維持してきた日朝関係の延長線上に整理する、すぐれて特異なものであった。 これは筒井が満七十八歳から七十九歳を迎える時期のことであり、長い職業生活の集大成と位置づけることができる。この地点からその人生をたどり直すとき、見えてくるのは、若き日からのさまざまな経験が、筒井という一人の人間の中に豊かに蓄積され、上記のハリス出府問題への態度に結実していく様である。具体的には、昌平坂学問所の優秀な卒業生として、文化八(一八一九)年の朝鮮通信使迎接のため対馬に赴く林大学頭の留守を預かった青年期から、日蘭貿易を拡大し、オランダ商館員らとの交流を深めた長崎奉行時代、そして、新たに「外国」として登場した欧米への対応と、幕末まで継続した朝鮮通信使来聘御用との双方にまたがる、幕府の対外政策形成に深く携わった最終的なキャリアまでを順に取り上げ、ハリス来日の時期に戻ることになる。 筒井の歩みは、「近世日朝関係史」「幕末の対欧米外交史」といった後世の研究上の区分を架橋し、徳川政権下において自然に存在したはずの、国際関係の連続性を体現するものと言うことができよう。
著者
権藤 愛順
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.143-190, 2011-03

本稿では、明治期のわが国における感情移入美学の受容とその展開について、文学の場から論じることを目標とする。明治三一年(一八九八)~明治三二年(一八九九)に森鷗外によって翻訳されたフォルケルト(Johannes Volkelt 1848-1930)の『審美新説』は、その後の文壇の様々な分野に多大な影響を与えている。また、世紀転換期のドイツに留学した島村抱月が、明治三九年(一九〇六)すぐに日本の文壇に紹介したのも、リップス(Theodor Lipps 1851-1914)やフォルケルトの感情移入美学を理論的根拠の一つとした「新自然主義」であった。西洋では、象徴主義と深い関わりをもつ感情移入美学であるが、わが国では、自然主義の中で多様なひろがりをみせるというところに特徴がある。本論では、島村抱月を中心に、「新自然主義」の議論を追うことで、いかに、感情移入美学が機能しているのかを検討した。感情移入美学の受容とともに、<Stimmung>という、人間の知的判断、認識以前の本源的な「情調」に対する関心が作家たちの間にひろがりをもつ。そして、文学表現の場で、<Stimmung>をいかに表すかという表現の方法も盛んに議論されている。本稿では、感情移入美学がもたらした描写法の一つの展開として、印象主義的な表現のあり方に着目し当時の議論を追っている。さらに、感情移入美学と当時の「生の哲学」などの受容があいまって、<生命の象徴>ということが、自然派の作家たちの間で盛んに説かれるようになる。<生命の象徴>ということと感情移入美学は切り離せない関係にある。感情移入美学が展開していくなかで、<生命の象徴>ということにどのような価値が与えられているのかを論じている。また、感情移入美学の大きな特徴である主客融合という概念は、作家たちが近代を乗り越える際の重要な方向性を示すことになる。ドイツの<モデルネ>という概念と合わせて、明治期のわが国の流れを追っている。
著者
今谷 明
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.201-214, 2007-05

アメリカ、フランス、オランダ、ドイツ各国に於ける日本史研究の現状と特色をスケッチしたもの。研究者数、研究機関(大学など)とも圧倒的にアメリカが多い。ここ十年余の期間の顕著な特色は、各国の研究水準が大幅にアップし、殆どの研究者が、翻訳資料でなく、日本語のナマの資料を用いて研究を行い、論文を作成していることで、日本人の研究者と比して遜色ないのみか、医史学など一部の分野では日本の研究レベルを凌駕しているところもある。 このための調査旅行として、二〇〇六年八~十月の期間、アメリカのハーバード大学、南カリフォルニア大学、カリフォルニア大学ロスアンゼルス校、およびオランダのライデン大学を訪問し、ハーバード大学歴史学部長ゴードン氏以下、幾人かの日本史研究者と面談し、第一線の研究状況を直接に聴取することができた。なお、アメリカについては、日文研バクスター教授の研究を参考とし、フランスは総研大院生ハイエク君の調査を、ドイツについては日文研リュッターマン助教授の助力を仰いだことを付け加えておく。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.325-341, 2004-12-27

杉山登志は、〈作家〉性を帯びた最初のCMディレクターだと評価されている。この論文は、杉山の資生堂向けCM作品のいくつかを紹介し、彼が不可解な自殺を遂げた後に〈作家〉として評価されていった、時代背景の解明を試みた。
著者
外川 昌彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.39-94, 2020-03

本稿は、近代日本を代表する美術家・岡倉天心のアジア美術史に関する認識の転換を、1902 年のインド滞在中のベンガル知識人との多様な思想的交流の経緯を通して検証する。岡倉にとってインド美術史の探求は、ハーバート・スペンサーの社会進化論やヘーゲルの発展段階論に基づく芸術の単系的な発展モデルを克服し、アジア諸美術の「自然な成長」やその相互交渉を捉える視点を与えるものとなっていた。本稿では、岡倉がギリシア美術の影響を離れたインド美術の内発的発展という新たな視点を獲得する鍵となる人物が、近代インドを代表するヒンドゥー教改革運動家ヴィヴェーカーナンダであると考え、ヴィヴェーカーナンダとの交流を通して岡倉が、インドの美術や歴史に関わる新たな認識を深めてゆく経緯を、日本とインドに残された当時の資料を対比して検証する。本稿の構成は、以下の通りである。第一章は、日本の仏教美術とギリシア美術の類似性という美術史上の争点についての岡倉の視点の変遷を検証し、本稿の課題を位置づける。第二章は、岡倉天心の生涯を検証するこれまでの伝記的研究を整理し、本稿の課題の背景を明らかにする。第三章は、岡倉のアジア美術史観の変遷を、社会進化論やヘーゲル美学の影響を通して検証し、インド訪問後のその視点の変化を検証する。第四章は、岡倉とヴィヴェーカーナンダの相互の影響関係を検証する手掛かりとして、両者の著作に見られる共鳴関係を検証する。第五章は、インド美術に関心を深めたヴィヴェーカーナンダの、当時のインド美術のギリシア起源説への批判的なまなざしを検証する。第六章は、両者の思想的な影響関係を、仏教の伝播や社会変革の思想としての仏教などの論点を対比して検証する。第七章は、インド美術の独自の発展を捉えようとする両者の問題関心の共有を検証し、その影響関係の広がりを跡付けて、まとめとする。
著者
コズィラ アグネシカ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.93-149, 2006-10-31

この論文の目的は、西田幾多郎の哲学における「絶対無」とハイデッガーの哲学における「本来的無」とが、同じ「パラドックス論理のニヒリズム」という思潮に分類できることを証明することである。「パラドックス論理の無」は、無矛盾原則に従う「形式論理の無」と違って、「有に対立する無」ではなく、「有即無」というパラドックスを意味している。西田の「無」とハイデッガーの「無」とは、すべての対立を超えると同時にすべての対立を超えない、すなわち「否定即肯定」の「パラドックス論理の無」であることを本稿にて明らかにしたいと思う。
著者
馮 天瑜 呉 咏梅
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.159-190, 2005-10

古漢語「経済」の元々の意味は、「経世済民」、「経邦済国」であり、「政治」に近い。日本は古代より「経世済民」の意義で「経済」を使ってきた。近世になって、日本では実学が勃興し、その経済論は国家の経済と人民の生活に重点が置かれた。近代になると、さらに「経済」という言葉をもって英語の術語Economyを対訳する。「経済」の意味は国民生産、消費、交換、分配の総和に転じ、倹約の意味も兼ねる。しかし、近代の中国人学者は、「経済」という日本初の訳語に対してあまり賛同しないようで、Economyの訳語として「富国策、富国学、計学、生計学、平準学、理財学」などの漢語を対応させていた。清末民国初期、日本の経済学論著(とりわけ教科書)が広く中国に伝わったことや、孫文の提唱により、「経済」という術語が中国で通用するようになった。しかし、「経済」の新義は「経世済民」の古典義とかけ離れているばかりでなく、語形から推計することもできないから、漢語熟語の構成根拠を失った。にもかかわらず、「経済」が示した概念の変遷は、汎政治的汎道徳的な観念が中国においても日本においても縮小したことを表している。
著者
孫 江
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.163-199, 2002-02-28

一九三二年三月一日、関東軍によって作られた傀儡国家「満州国」が中華民国の東北地域に現れた。本稿で取り上げる満州の宗教結社在家裡(青幇)と紅卍字会は、いずれも満州社会に深く根を下ろし、「満州国」の政治統合のプロセスにおいて重要な位置を占めていた。
著者
谷川 建司
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.105-115, 2017-05

1990年代に東アジアや東南アジアにおいて日本のポピュラー・カルチャーが極めて高い人気を獲得し、パリで第一回「ジャパン・エキスポ」が開催された2000年頃には世の中全体の日本のポピュラー・カルチャーへの視線が熱くなり始めた。一方、1990年代後半からこれを研究対象とする動きが始まり、2000年代に入ってから本格的論考が発表されるようになった。「ポピュラー・カルチャー研究」に含まれるべきジャンルについての捉え方は様々であり、厳密な意味での定義は共有されていないが、様々な学問分野の研究者が集まって一定期間の共同研究を行う形や、単発のワークショップやシンポジウムを開催して議論していく形での日本のポピュラー・カルチャー研究の枠組みも、2000年代に入ってから活発に行われるようになった。個別の研究成果に関しては、トピックによりその研究の蓄積の多寡にはかなり差がある。日文研で2003年から2006年にかけて開催された共同研究会「コマーシャル映像にみる物質文化と情報文化」(代表:山田奨治)は、終了から10年目の2016年にシンポジウムを開催し、自己検証した点で重要な試みだった。2014年度の日文研の共同研究は、全部で16の研究課題のうち実に5つが「ポピュラー・カルチャー」に関するものであり、この分野の研究への関心の高まりと同時に、日文研がその中心地として機能し始めていることを示していると言える。今後の日本のポピュラー・カルチャー研究に必要な点を挙げるならば、(1)作品が生み出され、世の中に流通して受容されていくプロセス全体に目配せし、その様々な場面で関わっている人たちにフォーカスした論考を積み重ねていく必要性、(2)産業論的なアプローチ、表現の自由と規制の問題、国家戦略との関わり、など違った角度からポピュラー・カルチャーをとらえる必要性、そして、(3)個々の領域のポピュラー・カルチャー研究を志向する研究者が共通して利用できる一次資料のデータベース化の促進、が指摘できる。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.377-391, 2009-11

福沢諭吉ら明治啓蒙思想家たちは、明治維新を「四民平等」を実現した革命のように論じたが、黒船ショックが引き起こした倒幕運動は、開国か、尊皇攘夷かが争われ、紆余曲折を経て、尊皇開国に落ち着いたもので、その過程で政治の自由や四民平等がスローガンにあがったことはない。すでに、江戸時代のうちに、いのちの自由・平等思想がひろがり、身分制度も金の力でグズグズになっていたため、デモクラシーは至極当然のことのように受けとめられたのだった。明治新政府は、一八三七年一月に徴兵令の告諭を発し、国民の自由・平等を認め、それと引きかえに「国家の災害を防ぐ」ために、西洋でいう「血税」として、二十歳に達した男子に三年の兵役義務を課した。「国民皆兵」制度は、国民各自が自分の権力の一部を国家に提供し、秩序を維持し、各人の安全の保証を得るという自然権思想に立つものだが、明治啓蒙家たちの思想においては、自由、平等が未分化で、自然権思想や社会契約説の定着が見られないことが、すでに指摘されている。しかし、その理由については、これまで恣意的な分析しか行われてこなかった。 その理由は、ヨーロッパやアメリカにおけり各種の「自由・平等」思想をひとくくりにして、天賦人権論として受けとめたこと、それらのリセプターとして、江戸時代に公認されていた朱子学の「天理」や、ひろく流布していた天道思想が働いたことに求められる。そして、江戸時代の通念では、いのちの自由と平等とがセットになっていたため、天賦人権論者たちは、あらためて自由と平等の関係について、それぞれを社会や国家と関係づけながら考えようとしなかったのである。それゆえ、個々人の諸権利についても、いのちにおける、社会における、国家におけるそれが切り分けられないまま、個人、社会、 国家の相互の関係についての考え方が、時どきの状況により、また論者の立場によって、たえず変化することになった。ここでは、まず「自由」「平等」が、どのように受け止められたのかについて検討し、そのうえで個々人の社会論、国家論を考えてみたい。外来の概念とその「リセプター」となった伝統概念とをあわせて考察すること、また、「自由と平等」のように、複数の概念を組み合わせて、個々人の概念形成を解明することは、社会的に流通する概念組織(conceptural system or network)の形成を解明するために有効かつ不可欠な方法である。
著者
青木 孝夫
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.8, pp.p55-70, 1993-03

近松門左衛門の『曽根崎心中』、とりわけその<道行>の場面の上演に即して、独自の他界観を検討した。それに拠れば、心中の道行には二つの位相があり、一つは相対死(あいたいじに)に到る過程、今一つは霊魂の結婚に到る死後の旅路である。 『曽根崎心中』の道行では、この二つの位相が言わば重ねられて上演される。死に極まる恋愛は、身体の死に到る過程がそのまま霊魂の一体化の過程として描写または具体化されている。「恋の手本」は死の門を通過して、「一つ蓮」と二人一緒に成仏することによって成就する。蓮の花咲く来世は単なる死者の国ではなく、仏教的に了解された浄土である。かく恋愛の理想と成仏とが、心中という情死を通して結びつき一体的に実現される。 その心中は、元来遊女の愛の誓いであるが、その真心を示すのについには命を懸ける点で、この観念は「一所二懸レケル命ヲ」武士の主従の<契り>と融合している。この<契り>は前世からの定めの約束であり、心中の道行は、この約束の成就の過程にして来世への往生の過程である。この時、情死は死に行く二人の恋心が誠であることの明かしである。
著者
尹 芷汐
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.137-149, 2016-03

本論は、1950年代の「内幕もの」との相関性において松本清張のノン・フィクション作品集『日本の黒い霧』を考察したものである。松本清張は当作品集の中で、下山事件や松川事件など、占領期に起きた一連の「怪奇事件」を推理し、それらの事件がすべてGHQの「謀略」に関わっていると説明したが、この「謀略論」は1960年に発表されると大きな反響を呼び、「黒い霧」も流行語となった。実は、『日本の黒い霧』の事件の表象は同時代において決して孤立した存在ではなかった。1950年代、様々な社会的事件の「内側」を知りたいという時代の気運があり、その中で「内幕もの」というジャンルのルポルタージュが総合雑誌、週刊誌の中で急速に増加していった。「内幕もの」は、権力層の「内側」の人間が語り手となり、歴史や政治上の秘密を暴露するのが常套である。しかし、そうした「内幕もの」は、「真実の暴露」に見せかけながら、権力側の世論操作の道具として利用されることも多い。例えば「内幕もの」の第一人者で、GHQの「内部」に潜り込んだジョン・ガンサーは、『マッカーサーの謎』を執筆してGHQの秘密を「暴露」している。しかし、その「暴露」は明らかにGHQとマッカーシズムを讃えるために意図されたものである。 松本清張の『日本の黒い霧』は、直接ガンサーの「内幕もの」に反論しながら、「内側」から発された「秘密」の虚偽性を明らかにした。松本清張は、「内側」に入り込んで新たな秘密情報を探るのではなく、「外側」に立つ「一市民」として新聞報道や既存の資料の読み込みを通して真実を見出そうとする手法で、『日本の黒い霧』を書いた。『日本の黒い霧』は、歴史がいかに「作り物」であるかを教え、「公式的見解」の精読、いわゆる「真実」の不自然さの発見を示唆する書物として読まれるべきである。
著者
王 秀文
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.11-45, 1998-02-27

植物にまつわる民間伝承において、桃ほど古く、広く伝えられているものはあるまい。中国の『詩経』に収められている遠い周の時代の民謡、春秋戦国の時代から行われた諸儀式と年中行事、漢の時代に急に浮上してきた度朔山伝説、六朝時代から盛んに伝えられるようになってきた西王母の伝説や神仙説、さらに晋の陶淵明の「桃花源記」や明代に集大成された『西遊記』物語、および今もお正月に、門戸の両側に貼り付ける赤い紙切れの「春聯」など、至るところに、桃の伝承が浸透している。いっぽう、日本においても、記紀神話から平安時代の宮中の儀式まで、鬼門信仰から「桃太郎」の民話まで、桃の伝承は数多くみられる。