著者
魯 成煥
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.117-146, 2014-03-31

本稿は、九州のある篤志家が自分の私有地に朝鮮の義妓である論介を祀ることによって惹起した韓日間の葛藤について考察したものである。論介は、晋州の妓女というだけでなく、全国民に尊敬される愛国的英雄で民間信仰においても神的な人物である。韓国の国民的な英雄である論介の霊魂を祀った宝寿院の建立と廃亡は、韓日間の独特な霊魂観の対立を象徴するものであった。和解と寛容、平和という純粋な理念に基づいて行われたとしても、当初から様々な問題点を抱えていた。論介にまつわる伝説を歴史的な事件として理解し、命を失った論介と六助に対する同情から彼らの墓碑が造成され、韓日軍官民合同慰霊祭が行われた。これを日本人は、怨親平等思想に基づいた博愛精神の発露だと表現するかもしれない。しかし韓国人はそれとはまったく違う感覚で見る。つまり、それは敵と一緒に葬られることであり、霊魂の分離であり、祭祀権と所有権の侵害というだけでなく、夫のある婦人を強制的に連行し、無理やり敵将と死後結婚させる行為だと考え、想像を超える民族的な侮辱であると感じるのである。
著者
北浦 寛之
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.191-207, 2014-09

近年の邦画作品、『ALWAYS 三丁目の夕日』は山崎貴監督により、二〇〇五年のその第一作目から二〇〇七年『ALWAYS 続・三丁目の夕日』、二〇一二年『ALWAYS 三丁目の夕日'64』とあわせて全三作制作、公開されているが、そのどれもが、邦画年間興行収入のベスト・テンに入り、三十億円以上を稼ぐヒット作である。全作通じて昭和三十年代(一九五五年~六四年)の東京の下町の様子が、ノスタルジックに再現されており、特に近所の者が集まってテレビを一緒に見ては、大騒ぎしている様子が、当時を知る多くの人たちの共感を呼んだと指摘されている。ただ、テレビを囲んで展開されるこうした賑やかな光景は、当時の日本映画界では、違った景色として映っていたはずである。 すなわち、「ALWAYS」三部作が描いた昭和三十年代は、日本映画界にとって繁栄から衰退へと向かう転換期にあたる。そして、その転落の要因となったのが、テレビの普及であった。一九五〇年代は映画観客が年々急増し、日本映画の黄金期と呼ばれていた。だが、一九五八年に十一億人を超える動員数を記録するも、この年を境にして減少へと転じ、その後も大衆の映画離れが拡大していく。一方のテレビはというと、一九五九年、皇太子のご成婚パレードの影響もあって、国民のテレビ購買意欲は増大し、五八年に二百万ほどだったテレビ受信契約数が倍以上の四百万超にまで急伸する。以後、着実にテレビは国民の間に浸透していき、それに対して映画の観客数は減少していくことから、テレビは映画の脅威と見なされたのである。 本論文は、そうした当時の映画とテレビの緊張関係の中で、映画製作者たちが「ALWAYS」で見られたようなテレビをめぐる場面とどう対峙したのかを探るものである。昭和三十年代の映画作品を中心に、そこで、テレビないしはテレビ業界など、総体としてテレビ・メディアがどのように表象されていたのかを分析し、いまなお大衆娯楽の中核を担う映画とテレビの攻防の歴史を、本質的な映像の次元から整理していく。
著者
笠谷 和比古
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.35-47,iv, 2001

本論文では豊臣秀吉没後の慶長四(一五九九)年閏三月に発生した加藤清正ら豊臣七武将による石田三成襲撃事件の顛末を取り上げ、ことに同事件を事実関係の究明の観点から検討する。関ヶ原合戦の端緒をなすこの著名な事件の経緯をめぐっては、豊臣武将たちの襲撃計画を事前に察知した石田三成は大阪から伏見に逃れ、そして伏見にある徳川家康の屋敷に入ってその保護を求め、家康もまたこれを受け入れて豊臣武将たちによる三成の身柄引き渡し要求を拒絶し、三成を近江佐和山の領址に逼塞させることで問題を解決に導いたという認識が示されてきた。これはただにドラマ・時代劇の筋立てだけであるのみならず、権威ある多くの歴史研究の論著においてもそのようなものとして論述されてきた。しかしながらこれは事実誤認であり、伏見に逃れ来った三成が身を守るために入ったのは家康の屋敷ではなく、伏見城の中にある彼自身の屋敷であった。関ヶ原合戦に関する多くの研究論著において繰り返し論述され、われわれにとって常識ともなっているこの事件が、事実関係という最も根本的なところで何故にこのような誤認が生じていたのか。また数多くの歴史研究者がこの問題に言及しながら何故にこのような基礎的な誤認に気がつかなかったのであろうか。本論文はこの事件の事実関係を解明するとともに、われわれの認識を束縛し、誤認に導いていく危険を常に孕んでいるところの歴史認識のメカニズムについて分析を施していく。
著者
山折 哲雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.15, pp.93-103, 1996-12

仏教の説話文学に登場する「捨身飼虎」の物語は、インドでつくられ、中国の千仏洞の壁画に描かれ、やがて日本の法隆寺にある厨子の側壁に再現されることになった。しかしこの絵はその残酷なシーンのためか、わが国では、その後しだいに敬遠され忌避されるようになった。ところが中世になって、三匹の野生の虎に見守られて瞑想する僧の絵がつくられることになる。「華厳絵巻」のなかに出てくる七世紀の韓国僧・元暁にかんする一シーンがそれだ。この絵巻をつくる上で大きな役割をはたしたのが明恵(一一七三~一二三二)であるが、そのかれにも、小動物や小鳥たちに囲まれて瞑想にふけっている肖像画がある。明恵の伝記によると、かれは若いころ「捨身飼虎」図に惹かれ、そのように生きようと願うが、やがて成長し、動物たちとの共存の生活を夢見るようになったのである。「捨身飼虎」の犠牲のテーマは、日本ではどうも定着しなかったようだ。
著者
Vovin Alexander
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.11-27, 2009-03

最近日本祖語、琉球祖語と日琉祖語の再構が非常に進んだとは言え、まだ不明な箇所が少なからず残っている。特に、日本語にない琉球語の特別な語彙と文法要素、また、琉球語にない日本語の特別な語彙と文法要素が目立つ。それ以外にも、同源の様でも、実際に説明に問題がある語彙と文法要素も少なくない。この論文では、そうしたいくつかの語彙を取り上げる。結論として次の二つの点を強調したい。先ず、琉球諸言語の資料を使わなければ、日琉祖語の再構は不可能である。第二に、上代日本語と現代日本語の本土方言には存在しない韓国語の要素が琉球諸言語に現れていることを示そうとした。私の説明が正しければ、ある上代韓国語の方言と琉球祖語の間に接点があったことを明示する事になるであろう。
著者
磯田 道史
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.87-109,vii, 2002

徳川日本の武士身分は兵農分離されていたとされる。しかし、実際には百姓がしばしば足軽・中間として大名の下層家臣に加わっていた。そこで、本稿では津山藩における奉公人雇用の実態調査を試みた。津山藩と山北村の古文書を調べた結果、人口一〇万人の津山藩では常に領民二四〇〇人を雇っており、それに例年八四〇〇石もの奉公給を支払っていた事実が明らかとなった。足軽や中間には城下近村に住む農民が雇われることが多く、彼らは農業に従いながら侍の公務補助や守衛を務めていた。
著者
田名部 雄一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.161-173, 1990-09-30

食物忌避現象には、その社会におけるタブー(宗教的タブーも含む)によって表れているものと、その民族の体質(遺伝子による)によってその食物の消化・吸収・利用ができないために表れているものとがある。いずれの場合にも、ある食物に対する忌避現象は偶然に生じたものではなく、その根底に社会的な必要性があったことは無視することはできない。本論文では、この問題を、(1)肉食の完全な忌避、(2)牛肉食の忌避、(3)豚肉食の忌避、(4)犬(狗)肉食の忌避、(5)牛乳の利用に対する忌避、(6)飲酒に対する忌避に分けて記述した。
著者
森岡 正博
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.5, pp.p67-87, 1991-10

本論文は、パソコン通信のフリーチャットに典型的に見られる、匿名性のコミュニケーションを分析し、電子架空空間で成立する匿名性のコミュニティの諸性質について論じる。その際に、都市社会学の観点からの分析を試みる。パソコン通信を都市社会学の観点から議論する試みにはほとんど前例がない。本論文で提起されるいくつかの仮説は、今後のメディア論に一定の影響を与えると思われる。
著者
石井 紀子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.167-191, 2005-03

一八八〇年代から一九〇〇年代にかけて北中国ミッションと日本ミッションに赴任した医師の資格を持つ一人のアメリカ女性宣教師の本国宛の書簡を手がかりに、伝道地の主体性、宣教師の専門性、ジェンダーと伝道活動の相互作用を検討した。その結果、伝道活動を決定する要因として伝道地の事情が宣教師個人の専門性より優先することが明らかになった。本事例でホルブルックは中国で専門を生かして診療所開設の上、「医療バイブル・ウーマン」を養成できたのに対し、日本では女子高等教育の中の理科教育、家庭衛生教育の分野で自身の専門性を生かした。女性宣教師はジェンダーの分離を根拠に女性のための伝道を正当化していた上、海外伝道の目的として伝道と女性の地位の向上を矛盾したものとはとらえていなかったので、ホルブルックにとって二つの伝道活動は一貫していたといえる。
著者
小田 亮
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.131-140, 2000-10

日本人における配偶相手の好みにみられる性差を、結婚相手募集広告の分析から研究した。一九九七年一〇月から二〇〇〇年一月までに個人広告雑誌に掲載された七八〇件(男性によるもの五七七件、女性によるもの二〇三件)の広告を分析対象とした。要求または提示されている特徴を比較すると、男性では要求された特徴と提示された特徴の数に違いはないが、女性は提示数よりも要求数の方が多かった。また女性は男性よりも要求数が多く、提示数は少なかった。男性は自らの経済的状況あるいは社会的地位を提示する傾向があり、女性はそれを要求する傾向があった。家庭への投資に関しては提示には偏りがなかったが、女性の方がより要求する傾向があった。身体的な特徴については要求、提示のどちらにも性による偏りがみられなかったが、相手に写真を要求するのは女性の方が多かった。連れ子の拒否については偏りがなかった。一方男性の方が女性よりも連れ子を受け入れる態度を示す傾向があった。男性は年下の女性を相手として好んだが、女性については充分なデータが得られなかった。これらの結果を先行研究ならびに質問紙を使った調査の結果と比較検討した。

3 0 0 0 IR 戌亥の風

著者
久野 昭
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.2, pp.p11-35, 1990-03

日本に吹く主要な季節風は二つある。ひとつは冬季に吹く北ないし西北からの季節風であり、もうひとつは夏季の南ないし東南からの季節風である。不意に激しく吹く西北の季節風は、西日本では「あなし」とよばれてきた。「あな」はこの場合は恐怖をも含む感嘆詞であり、「し」は息であり風である。古代、漁師も農夫もこの「あなし」を怖れた。しかも、この風は疫病をもたらすとも考えられ、だから疫病は風病、風の病ともよばれていた。七世紀、飛鳥に宮廷を置いた天武天皇は龍田で風祭を行ったが、龍田は飛鳥の西北に位置する。奈良時代および平安時代、不安定な政治情勢を背景に凶作と疫病の蔓延が繰り返されたとき、これらの現象は、権力の座から追い落とされて死んだ者たちの怨霊の所為にされた。怨霊は祀られねばならなかった。たとえば京都では上御霊社、下御霊社が建てられたし、御霊会が祇園で行われた。最も有名な御霊は菅原道真の怨霊だが、この御霊はこの両社に他の御霊たちとともに、また北野には単独で祀られている。古代、朝廷は出雲地方を怖れていた。おそらくこれが、出雲が黄泉と結び付けられた主な理由である。その出雲は飛鳥や奈良から西北の方角に位置する。祇園社、下御霊社、上御霊社は一直線上にある。そして上御霊社の近くから出雲路が始まる。道真の御霊の祀られた北野は祇園の西北の方向にあり、この方向も出雲を目指す。朝廷およびその周辺の人々にとって、死者の怨念は黄泉から戌亥(西北)の風に乗って都を襲ったのである。
著者
蔡 鳳書
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.263-277, 2002-04-30

これまでの中日古代文化交流歴史研究においては、文献記録の資料に主として依拠する場合が多かったが、戦後の五〇年間には中国、日本ともに考古学の研究成果が多い。この情勢により、両国の発掘調査の資料を利用し、中日文化交流史を研究することが必要になる。
著者
王 秀文
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.125-171, 2000-02-29

旺盛な繁殖力・生命力をもつものは、同時に不思議な呪力をも持っているが、桃も例外ではない。桃の呪力に関する伝承は、中国の諸史書にみられる。たとえば、古代の帝王や諸侯のあいだで行われた喪式・盟会・進食などの時や貯蔵した氷を取り出す時などに、桃の枝などで不祥を防ぎ凶悪を追い払った。『山海経』にみえる有名な度朔山伝説においては、巨大な桃の木の東北の枝間に鬼門があり、万鬼が出入りする。見張りの神荼・鬱塁の二神はその悪鬼を捕らえて虎に食わすと述べられている。この伝説を受け継いで、桃の呪力が古くから行われてきた追儺式にも用いられているし、中国の門神信仰や日本の鬼門信仰の起源ともなっている。そして、桃は黄泉国の神話において鬼を退散させたことから、桃太郎が鬼が島へ鬼征伐に出かける時にも、その呪力を発揮している。概して、桃は陰に対しての陽であり、死に対しての生であるので、時間的・空間的な境目において、生を扶助する呪力が認められる。
著者
木村 汎
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.13-35,iii-iv, 2002

ロシア連邦を構成する八九の行政単位の一つであるカリーニングラード地方は、日本人にとり次の意味で無視しえない地域である。ソ連邦崩壊後リトアニアが独立国となったために、カリーニングラード地方は、ロシア本土から地理的に切り離された陸の孤島となった。モスクワの中央政府は、そのような境遇となった同地方に「経済特区」の地位を認めた。経済特区とは、関税・査証・為替通貨などにかんし優遇措置を与えることを通じて内外からの投資を惹きつけ、よって当該地域の経済活動を活性化しようとする工夫のことである。ソ連邦解体後の一九九一~九二年にかけて、ロシア連邦内には約十四ヶ所の「経済特区」が設立された。 他方、ロシア政府は、一九九六年一一月以来、日本から領土返還を要求されている北方領土で日ロ両国が「共同経済開発」を行うことを提案している。「共同経済開発」とは、ロシア側の解釈によれば、一種の「経済特区」。ロシアによる「共同経済開発」提案の諾否を決定するにあたり、日本側は、類似の「経済特区」構想が現実にはどのような運命を辿っているのか、研究する必要がある。そのような観点からカリーニングラードの経済特区研究を行った研究は、皆無である。 結論を先に述べれば、ロシアの「経済特区」構想は、現在スローガン倒れに終わった。そのアイディアはロシア連邦の一三ヶ所で失敗し、わずかにカリーニングラードで「自由関税地区」としてのささやかな形をとり生き長らえているにすぎない。なぜか?本ペーパーは、その理由の探求を試みる。文献の読破に加えて、現地調査の成果にもとづいている。 カリーニングラードの経済特区化がはかばかしく進んでいない訳は、ひとえにモスクワ中央政府の態度と政策にある。カリーニングラードの経済特区化が進むあまり、同地方が中央のコントロールの手を離れ、諸外国(特にドイツ)への傾斜を深め、経済的オートノミーばかりでなく政治的自治を拡大する。――このような事態の展開を、モスクワは、危惧する。そのような懸念の存在のために、モスクワはたんにリップサービスをおこなうのみで、現実にはカリーニングラードの経済特区化を援助するための具体的な手立てを何ら講じていない。法律も制定しなければ、奨励金もあたえようとしない。このような中央政府の非協力のゆえに、現在、カリーニングラードは、ロシア本土に比べさらに苦しい経済的困窮下にある。自由関税地区としてのわずかな優遇措置を悪用して、中古車、麻薬などの密輸、売春の中継地と化している。 近い将来、リトアニアとポーランドのEU加盟が確実視されている。これが実現すると、両国に囲まれたカリーニングラード地方とEUとのあいだの壁が現在以上に高くなり、同地方は数々の分野で甚大なる被害をこうむるだろう。そのような事態に直面し、モスクワは一体どのようなカリーニングラード政策をとるのか。要注意である。 わが国が、ロシア政府による「共同経済開発」案を受諾すべきか否かの問に対する答えは、ほとんど明白といえる。仮にまだ明白でないとの慎重な態度をとる者は、諾否を決定する前に、ロシア「経済特区」(特にカリーニングラード)の実情をまず正確に把握する必要がある。
著者
韓 韡
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.129-147, 2013-09

本論は、従来の研究で注目されてこなかった清末「日本型教育体制」の成立における女子教育と日本モデルという問題を、女子手芸科目という視点から考察した。その結果、清松の女子師範学堂および民国の女子中学校と女子師範学校のカリキュラムに組み込まれた手芸科目「編物・組糸・嚢物・刺繍・造花」が、明治三十四年文部省発布の「高等女学校令施行規則」における随意科目の手芸内容の模倣であることを明らかにした。そして、富国強兵の方策を模索していた清末の教育視察者が、実業技能として教授された明治期の手芸が女性の職業と結びつき、国家の産業発展に貢献しているのを見て、またそれが伝統的な婦徳にも合致するため、中国でもこれを実現しようと意図的に中国の女子教育に組み込んだ結果であることを論証した。 しかし、中国に導入された手芸は、実用性がないものとして教育関係者から批判された。手芸が日本のような大きな発展を見せなかった理由の一つとして、教育制度の導入に際し、日本の高等女学校では随意科目とされた手芸科目を裁縫や家事と同様の家政科目として取り入れたことが考えられる。さらに、日本における手芸は、女子教育の中で実業技能という位置づけであったが、中国においては近代的産業の未発達が女子実業教育の社会的実利を妨げたため、実業教育としての手芸が成り立たなかった。また、日本では産業全体と女子実業教育の発展とが連動しており、手芸の中でも開化趣味に合った「編物」と「造花」は、明治後期にはすでに女性の職業の一つとして成立していた。一方、中国では、原材料すら日本からの輸入に頼らなければならない「編物」と「造花」は、その物自体も単なる装飾品・奢侈品として認識されるにとどまった。近代女子教育に導入された手芸は、当時の社会状況と産業経済の未熟さによって、日本のような職業と結びついた実業として発展を遂げることができなかった。
著者
川部 裕幸
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.117-145, 2000-03-30

浮世絵の一つに「疱瘡絵」と称されるものがある。疱瘡絵はかなり特殊な浮世絵である。疱瘡(天然痘)にかかった病人への見舞い品として贈られたり、病人の部屋に貼られるという用途に限って用いられた浮世絵である。また、疱瘡絵は、全面、濃淡二種の赤色のみで摺刷されているという、際立った特徴を持つ。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.35-63, 1990-09-30

徳川幕府体制の下での特異な政治的問題の一つとして、「大名改易」のあったことは周知の通りである。それは軍事的敗北、血統の断絶、法律違反などの諸理由に基づいて、大名の領地を幕府が没収し、当該大名がそれまで保持してきた武家社会内での身分的地位を剥奪してしまうものであった。徳川時代にはこの大名改易が頻繁に執行され、結果的に見れば、それによって幕府の全国支配の拡大と安定化がもたらされたこと、また改易事件の幾つかは、その理由が不可解に見えるものがあり、それによって有力大名が取り潰されてもいることからして、この大名改易を幕府の政略的で権力主義的な政策として位置づけるのは定説となっている。そしてまたそのような大名改易の歴史像が、徳川幕府体制の権力構造、政治秩序一般のあり方を理解するうえでの重要な根拠をなしてきた。
著者
頼 衍宏
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.41-62, 2015-03

日本上代文学の研究成果の金字塔の一つと評価されているのが小島憲之『上代日本文学と中国文学――出典論を中心とする比較文学的考察』(1962~65)である。出版されて以来、中国文学もしくは国文学の立場から相次いで書評が寄せられている。特に頂点となったのは日本学士院賞恩賜賞を授与されたことであろう。しかし、1965年に公表された審査要旨においては「中国の典籍から出典をとりあげる場合に異論のある点もないではない」とあって、懸念材料が完全に払拭されたわけではない。この「異論」の意見を重視すべきであろう。そして『文淵閣版四庫全書電子版』を補助的に活かしたうえで、小島の提出した漢語の見解について追考してみなければならないだろう。結果として、「及」をはじめとする和習の六語について典例を洗い出してみれば、新たな解釈を示すことができるのではないかと思われる。漢語に関して、小島が誤解してしまったのは、明らかに類書と韻書に頼りすぎたためである。これは単発的な事例にすぎないとはいえまい。そのほかに、入矢義高の書評(1965)で取り上げられた四語、神田喜一郎の論著(1965~66)で文句をつけられた三語も穏当ではないだろう。また吉川幸次郎『漱石詩注』(1967)における五語も問題がないとはいえない。海彼の用例を採集するために力を注がねばならないし、これをもって和習と見なされている言葉と突き合わせつつ慎重に考え直さなければならない。小稿は、主に京都大学の権威のある四名による1960年代の典型的な論考に焦点を合わせ、「和習」とされてきた十八語の正体を明らかにする。インターネットを駆使して研究をするのが主流となりつつある昨今、従来いわれてきたような語性についての判断の適否を確認する場合、コーパスによる検証の手続きは不可避といえよう。