著者
長田 俊樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.179-226, 2001-03

さいきん、インドにおいて、ヒンドゥー・ナショナリズムの高まりのなかで、「アーリヤ人侵入説」に異議が唱えられている。そこで、小論では言語学、インド文献学、考古学の立場から、その「アーリヤ人侵入説」を検討する。まず、言語学からいえば、もし「アーリヤ人侵入説」が成り立たないとしたら、「印欧祖語=サンスクリット語説」もしくは「印欧祖語インド原郷説」が想定されるが、いずれも、Hock(1999a)によって否定されている。また、インド文献学では、リグ・ヴェーダの成立年代問題など、たぶんに解釈の問題であって、インド文献学がこたえをだすことはない。考古学による証拠では、インダス文明が崩壊した時期における「アーリヤ人」の「大量移住」の痕跡はみとめられず、反「アーリヤ人侵入説」の根拠となっている。結論をいえば、じゅうらいの「アーリヤ人侵入説」は見直しが必要である。「アーリヤ人」は「インド・アーリヤ祖語」を話す人々」とすべきで、かれらが同一民族・同一人種を形成している必要はけっしてない。また、「侵入」も「小規模な波状的な移住」とすべきで、年代についても紀元前一五〇〇年ごろと特定すべき積極的な根拠はない。
著者
宮田 昌明
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.149-179, 2006-03

本稿は、一九二四年の加藤高明内閣の成立と幣原外交を、第一次世界大戦後の日本の政治的変化を日本の一等国化と内外の融和に向けた挑戦の過程として再検討することを目的としている。戦後の日本の政策は、日本の国際的地位の向上に対応し、国内政策と対外政策が連動しながら変化し、昭和初期の二大政党政治と協調外交をもたらした。本稿は、以下の三点に注目することで、以上の議論を展開している。 第一に、加藤高明は、外交官および憲政会の総裁として、イギリスを目標とする自由主義的な理想、すなわち、日本は一等国として国民それぞれが自立し、自らの責任を自覚する中で国民的義務を果たしていかなければならないという理想を持ち、そうした視点から加藤は、政府は国民に積極的に権利を付与することで、国民にその責任意識を持たせていく必要があると主張した。と同時に、加藤は第一次世界大戦中に外相として、中国に対し一等国としての日本の優越的地位を示すべく、高圧的な外交を展開していた。しかしこうした外交は、かえって英米や中国との関係を悪化させたとして、元老から批判されていた。 第二に、元老・西園寺公望は、原敬が暗殺された後、分裂に苦しむ政友会の再建を目標とし、高橋是清内閣総辞職後、政友会に首相の地位は与えなかったものの、政友会を与党として政権に参画させることで、その党内の統制と政権担当能力の回復を図ろうとした。加藤友三郎内閣は、そうした政友会を与党として始まったが、その後同内閣は、対外的にはワシントン条約によって規定された国際的義務を履行し、体内的には社会運動に対処し、政府に対する国民の支持を獲得するために、与党政友会以上に普通選挙の導入に積極的な姿勢を示した。対して政友会は、対照的に混乱を深めていった。そうした状況の下で一九二四年に政友会は分裂し、第十五回総選挙で普通選挙を公約に掲げた憲政会に敗北する。その結果、西園寺は加藤高明を後継の首相に指名した。それは西園寺が、当初持っていた政友会の再建という目標を、日本における政党政治の育成を図ろうとする意識に発展させ、政党政治を一等国に相応しい国内政治の在り方として受け入れたことを意味していた。 第三に、加藤高明内閣の幣原喜重郎外相もまた、上述のような国内の政治的変化に対応し、古い日本外交の在り方を一等国に相応しい外交の在り方に変化させようとした。一九二四年九月に第二次奉直戦争が勃発した際、幣原は張作霖への支援を要請する芳沢謙吉駐華公使に対し、内政不干渉の方針を徹底した。幣原は中国の政治的・経済的再建を目標とするワシントン条約の理念を意識し、中国政府に国際的責任意識を喚起させるため、国家主権独立の原則を積極的に適用しようとした。中国における国家意識の形成は、中国の政治的再建と日中関係の安定化の前提条件と考えられたからである。西園寺はこうした幣原外交を評価することで、加藤内閣全体に対する評価をも向上させ、続く昭和初期における二大政党政治の実現をもたらしていくのである。
著者
渡辺 雅子 渡邉 雅子 渡辺 雅子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.573-619, 2007-05

本稿では、日米仏のことばの教育の特徴を比較しつつ、その歴史的淵源を探り、三カ国の「読み書き」教育の背後にある社会的な要因を明らかにしたい。まず日米仏三カ国の国語教育の特徴を概観した後、作文教育に注目し、各国の書き方の基本様式とその教授法を、近年学校教育で養うべき能力とされている「個性」や「創造力」との関係から比較分析したい。その上で、現行の制度と教授法、作文の様式はどのように形作られてきたのか、その革新と継続の歴史的経緯を明らかにする。結語では、独自の発展を遂げてきた各国の国語教育比較から何を学べるのか、日本の国語教育はいかなる選択をすべきかを、「国語」とそれを超えたグローバルな言語能力に言及しながら考えたい。 個性と創造力の視点から作文教育を見ると、日本とアメリカの作文教育における自由と規模の奇妙なパラドックスが浮かび上がり、また時節の議論からは超然としたフランスの教育の姿が現れる。また評価法の三カ国比較からは、言葉のどの側面を重要視し、何をもって言語能力が高いと認めるのかの違いが明確になる。規範となる文章様式とその評価法には、技術としての言語習得を超えた、言葉の社会的機能が最も顕著に現れている。 社会状況に合わせて常に革新を続けるアメリカの表現様式と、大きな転換点から新たな様式を作り出した日本、伝統様式保持に不断の努力を続けるフランス。三カ国の比較から見えてくるのは、表現様式を通した飽く無き「規範作り」のダイナミズムである。
著者
小谷野 敦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.297-313, 2008-09

田山花袋の『蒲団』については、さまざまに評されているが、中には、伝記的事実を知らず、ただ作品のみを読んで感想を述べるものが少なくなく、また伝記的研究も十分に知られていないのが実情である。本稿では啓蒙的意味をこめ、ここ十数年の間に明らかにされた手紙類を含めて、その成立経緯を改めて纏め、「横山芳子」のモデルである岡田美知代と花袋の関係を纏めなおし、花袋がどの程度美知代に「恋」していたのかを査定するものである。 「蒲団」は、作家の竹中時雄が、女弟子だった横山芳子への恋慕と情欲を告白する内容だが、芳子のモデルは実際に花袋の弟子だった岡田美知代である。発表以後、これがどの程度事実なのか、論争が続いてきた。戦後、平野謙は、「蒲団」発表後も、岡田家と花袋の間で手紙のやりとりがなされていることから、虚構だったとし、半ば定説となっていた。しかし、館林市の田山花袋記念館が一九九三年に刊行した、花袋研究の第一人者である小林一郎の編纂になる『「蒲団」をめぐる書簡集』により、新たな事実が明らかになった。美知代が弟子入りしてほどなく、花袋は日露戦争の従軍記者として出征しているが、この事実は「蒲団」では省かれている。だが、その際美知代から花袋に送った手紙には、恋文めいたものがあった。妻の目に触れるものであるから、花袋は冷静な返事をしていたが、花袋が帰国した後、美知代は一時帰省し、神戸で英語教師をしていた兄の実麿の許にあって、神戸教会の催しで、キリスト教徒の永代静雄と出会い、恋に落ちる。そして神戸を発って東京へ帰るのに三日かかり、途次に静雄と会っていたのではないかと疑われ、美知代が肉体関係を告白したために親元へ帰されるところで「蒲団」は終わっている。 しかし手紙を見ると、永代と知り合ってから、花袋宛の熱っぽい手紙がなくなり、花袋はもとはさほどに思っていなかった美知代に急に恋着を感じ始めたことが、その後の花袋の美知代宛の手紙に恋を歌った詩がいくつかあることから分かる。つまり真相は、美知代からの恋文があったために花袋もその気になったところへ、永代という恋人ができたため美知代の働きかけがなくなって花袋が煩悶し始めたというものであると分かり、「蒲団」は決して虚構ではなかったのである。 美知代は花袋との縁が切れてからは、繰り返し「蒲団」における、主として「田中」つまり永代の描き方に不満を述べているが、晩年には、永代との関西での同衾はなかったと主張している。しかし三日の遅延はうまく説明できておらず、説得力はない。
著者
古藤 真平
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.243-262, 2012-09

延喜二年三月二十日、平安宮内裏の飛香舎で藤花宴が催された。『西宮記』に記された同日の記録と、『河海抄』に引用された『醍醐天皇御記』同日条によって、醍醐天皇の藤花御覧、藤原時平の献物、参列者の和歌詠進、音楽演奏、天皇の養母藤原温子からの捧物献上という次第を知ることができるが、解釈の難しい箇所も残されている。本稿では、二つの史料を検討することにより、醍醐天皇が蔵人頭権左中弁藤原菅根を女御藤原穏子の別当に補任する意向を持っていたことを御記に記したと解釈できることを示し、この藤花宴の目的は、天皇が穏子を女御としたことを祝福し、彼女の兄の時平と姉の温子が天皇に祝意を込めた贈り物をすることであったと推測した。『日本紀略』と『大鏡裏書』は穏子の女御宣下を延喜元年三月のことと記しており、その通りに認められてきたのであるが、それが二年三月に下る可能性が出て来たのである。穏子の入内を妨げる条件は、延喜元年正月二十五日に醍醐天皇と時平が菅原道真を追放し、宇多上皇の影響力を排除することによって除去されていた。しかし、上皇が道真を救おうと参内したものの面会がかなわなかったこともあり、天皇と上皇の間の緊張関係の緩和には相当程度の冷却期間が必要であった。天皇と時平にとって、機が熟したと感じたのは延喜二年に入ってからのことで、穏子の女御宣下を実現した上で、彼女の居所飛香舎で藤花宴を催したのが三月二十日のことであったと推測する。
著者
黄 自進
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.93-121, 2010-09

蒋介石は生涯にわたって、自分の成長経験を取り上げ、国民を激励する講演あるいは訓示を行っていた。そこでよく取り上げられたのは、母の教訓と新潟県高田連隊での軍人生活であった。八歳の時に父を失った蒋介石には、いわゆる家庭教育が当然母の教訓しかなかった。高田連隊の軍人生活が母の教訓と肩を並べて論じられたことは、彼の生涯に日本での留学経験がいかなるウエートを占めていたのかを窺わせよう。こうした認識に鑑みて、蒋介石の日本留学経験、さらにその後の五回の来日経験を合わせて考察することにより、青年期から壮年期に至るまでの彼の人格形成における日本の位置づけを次のように明らかにした。すなわち、日本は青春期の彼を啓発した場所であり、また、壮年期の彼に勇気を与え、革命再起の活力を齎した場所である。こうした個人の経験から、彼は中国が日本の近代化経験を手本として学ぶべきであると考えたのであった。これは同時に、彼が同胞に対して、日本に学ぶようにと呼びかける動機ともなった。
著者
田名部 雄一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.5, pp.p135-172, 1991-10

動物の種の間には、互に外部的な共生現象がみられることが多い。ヒトと家畜の間の共生現象の大部分は、ヒトには利益があるが、他方の種(家畜)には大きな害はないが、ほとんど利益のない偏利共生(Commensalism)である。ヒトと家畜の間の共生現象のうち、相互に利益のある相利共生(Partnership)の関係にあるのは、ヒトとイヌ・ネコの間の関係のみである。 この総説では、ヒトによる他の動物種の家畜化にともなう共生関係の成立と維持について、時間的な歴史関係に従って古い順に事例をあげて述べた。イヌは、最古の家畜で、三八、〇〇〇―三五、〇〇〇年前にオオカミから家畜化された。トナカイは、約一五、〇〇〇年前に家畜化されたと考えられている。農耕の始まる前に、ヒツジ、ヤギが西アジアで、ブタが中国で家畜化された。農耕開始後、間もなく家畜化されたのは、西アジアにおけるウシと、東南アジアでのニワトリである。 農耕が完成した後には、多くの動物が家畜化され、そのおもなものは、古い順に上げると、ハト、ヒトコブラクダ、フタコブラクダ、ラマ、アルパカ、ロバ、ウマ、スイギュウ、ミツバチ、カイコ、インドゾウ、ネコ、モルモット、ガチョウ、アヒル、バリケン、シチメンチョウ、ホロホロチョウ、ヤクなどである。このうち、ラマ、アルパカ、モルモット、バリケンは、ペルーで家畜化され、シチメンチョウは、メキシコで家畜化された。他は旧世界で家畜化されている。 家畜化された場所の多くは、ユーラシア大陸で、アフリカで家畜化されたのは、ロバ、ミツバチ、ネコ、ホロホロチョウの四種にすぎない。マウスとドブネズミは、ヒトが農耕を開始した後にヒトと接触し、長い間ヒトの寄生動物(片方には害のある共生関係のある動物)であったが、近年、医学および生物学用の実験動物(家畜)となり、ヒトと偏利共生関係を持つものに変った。 歴史時代になってから家畜化された動物は少ない。ウサギがフランスで、ウズラが日本で、ミンクが米国・カナダで、キツネがソ連で家畜化されたのがその例である。一方、一度家畜化されながら、再野生化した例として、アフリカゾウとチータがあげられる。生物間の共生の真の意味と、その重要性の再確認は、種の生存とその遺伝資源の保存にも重要な知見を与えるものであり、地球上の生物界全体から、相互の共生関係を再評価する必要があると考えられる。
著者
外川 昌彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.189-229, 2016-06

本稿は、1891年に大菩提協会を創設し、世界的なブッダガヤの復興運動を組織したスリランカの仏教運動家アナガーリカ・ダルマパーラ(Anagarika Dharmapala、1864―1933)と、当時の日本人との関わりを検証している。特に、1902年に九ヶ月に渡りインドに滞在した岡倉天心が、その滞在中に関わりを深めてゆくブッダガヤ問題の背景を、浮き彫りにしようとするものである。 そのため本稿では、特にダルマパーラの仏跡復興運動と厳しく対立したヒンドゥー教シヴァ派の僧院長であるマハントや、宗教的中立性を標榜し、現地の争点には不介入の立場をとった絵領インド政府によるブッダガヤ問題への対応の経緯を検証し、ダルマパーラが仏跡復興に取り組んだ1891年から、天心がブッダガヤを訪れた1902年までの約十二年間の大菩提協会の活動の経緯を検証する。 岡倉天心のブッダガヤ訪問は、これまで主に美術史的な観点から、アジャンター・エローラなどの仏跡探訪の延長として理解され、ブッダガヤでの活動について検証する研究は限られていた。他方、ダルマパーラの日本人との交流も、これまで釈興然や田中智学らの仏教者との交流は注目されてきたが、ダルマパーラの仏跡復興運動の文脈における天心との接点については、やはりその検証は限られていた。 しかし、九ヶ月に渡るインド滞在中に、天心は三度に渡りブッダガヤを訪れており、その間に、日本人巡礼者のためのレストハウスの建設を計画し、実際に、ヒンドゥー教僧院長のマハントとの土地取得の交渉を行っていた。九ヶ月のインド滞在中に天心が三度も訪れた場所は他にはなく、それは天心のブッダガヤへの、並々ならぬ関心を物語るものとなっている。 そこで本稿では、1891年以来、大菩提協会を組織してブッダガヤ復興運動をリードしたダルマパーラの活動を縦軸に据え、マハントや英領政府、及び日本人との関わりを横軸として、ブッダガヤ復興運動に関わる岡倉天心の意図を検証する。具体的には、1891年から1902年までのブッダガヤにおける仏跡復興の運動を、本稿では次の三つの時代に分けて整理する。 すなわち、①1891年に始まるダルマパーラの大菩提協会によるブッダガヤ寺院の買い取り運動と英領政府首脳部のダルマパーラに対する認識、②日本からブッダガヤ寺院に寄進された仏像をめぐる、1895年のダルマパーラによる大塔内陣への安置とマハントによるその撤去問題をめぐる係争関係、及び、ビルマ・レストハウスへの仏像の安置をめぐる英領政府と大菩提協会の対応の問題、③新たなレストハウスの建設と仏像の安置先の問題をめぐるダルマパーラ、マハント、英領政府の三つ巴の関係と、その中で日本人のためのレストハウスの建設を計画した、1902年の岡倉天心によるブッダガヤ訪問とマハントからの土地取得の交渉の経緯である。 これまで、ブッダガヤでの大菩提協会の活動は、特に1895年の大塔内への日本の仏像の安置問題が注目されてきたが、むしろ本稿では、日本の仏像の安置先をめぐる問題を、ブッダガヤ寺院内のレストハウス問題の一部として検証する。それによって、ダルマパーラの運動の行き詰まりを打破する可能性としての、岡倉天心による新たなレストハウス建設の意義が検証される。
著者
菅 良樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.287-311, 2012-09

本稿では、幕末期における大坂町奉行の動向について初めて具体的に検討し、幕臣川村修就の「家」についても論じた。使用した主な史料は、川村自筆の「日新録」と称する町奉行在任中の「日記書抜」である。この記録が、新潟市歴史文化課に残存していたことは、幕末期の大坂を考察するにあたり僥倖であったといえよう。川村は、両町奉行所での御用日、内寄合と、城代上屋敷での宿次寄合を軸に、町奉行所行政を統括していた。町奉行は宿次寄合開催日以外にも、「触書」の作成や刑罰の決定に関して城代土屋寅直と用談をしていた。川村と相役の佐々木顕發は、大坂の経済復興を期するため、城代をとおして老中阿部正弘に「伺」を立て、「取調書」作成に腐心していた。さらには、欧米列強の軍艦に対する海防費が増大するなかで、町奉行にとって大坂の富裕者からの上納金徴収が重要な責務となっていたが、この嘉永七年(安政と改元)には、プチャーチン来航問題や津波被害からの復興に取り組むことも喫緊の課題であった。このため、川村は御用日、宿次寄合などに出席できなくなっていたのである。川村は荻野流砲術免許皆伝の技能を有し、和歌や書画にも精通していた。川村家は「将軍家御庭番」の家筋で、少禄の幕臣ではあったが、修就は軍事を核に、外交、民政をはじめ幅広い分野に通暁する俊才であったので、大坂町奉行に抜擢されていたと解される。ロシア軍艦来航問題については、城代の土屋が老中の阿部に「伺」を立て、その「差図」に従い、町奉行の川村が最前線で対処していたと認識できた。その一方、被災地復興については、大坂町人の自治能力に依拠しつつも、非常時であるので、川村は「自立的・主体的」に活動していたと論じた。川村自身が大坂市中を頻繁に見廻り、復興の手順を直接指示し、その費用には、川浚冥加金が割り当てられていたことが明らかとなった。修就が同伴していた孫の清雄は、在坂時田能村直入の弟子となり画法を磨き、その後明治洋画草創期の指導者になった。日本の近代化に際し諸分野で貢献した幕臣の子弟に注目する必要があるであろう。
著者
小暮 修三
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.119-139, 2009-03

かつて、日本の沿岸各地には、裸潜水漁を行いながら生計の主要な部分を賄う人々が存在し、彼/女らは俗に「海人(アマ)」と呼ばれ、特に、男性は「海士」、女性は「海女」と表記されている。この海人の歴史は古く、『魏志倭人伝』や記紀、『万葉集』から『枕草子』に至るまで、その存在が散見される。また、海女をモチーフとした文学作品や能楽、浮世絵も数多く残されている。しかしながら、もはや裸潜水漁で生計を立てている海女の姿は、日本全国のどこにも見つけられない。 このような海女を対象とする研究は、一九三〇年代から民俗学を筆頭に、歴史学、経済地理学、医療衛生学、労働科学、社会学等において、数多く見つけ出すことができる。しかしながら、海女の表象、特にその裸体の表象に関しては、浮世絵に描かれた海女についての記述を除き、特別な関心は持たれてこなかった。 そこで、本稿では、二十世紀を通してアメリカの「科学」雑誌『ナショナル ジオグラフィック』(National Geographic)に現れた海女の姿から、性的視線を内在させるオリエンタリズムの形成について考察する。ただし、そのような過去(二十世紀)のオリエンタリズム批判「のみ」で、この考察を終わらせてしまえば、既存の反オリエンタリズム的枠組みに留まるだけの論考になってしまう。そこから、太平洋戦争前の海女に関するナショナルな表象に触れると共に、戦後の『ナショナル ジオグラフィック』における海女の表象を維持・補完していたと思われる「観光海女」の存在、及び、海女をとりまく社会環境の変化を取りあげ、オリエンタリズムと国内言説の相互関係について考察を行う。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.13-72, 2010-03

本稿において、茶の湯の家元である千家の血脈をめぐる論争を材料として、家元システムの現代的展開について考察する。 千利休の直系の子孫である三家の千家は、茶の湯の家元として現在もその存在感を示している。その千家の初期の系譜のうち、千家第三代の千宗旦の出自については、千宗旦が千道安の実子であるという説と千少庵妻・千宗旦母が千利休の娘であるという説とが、昭和三十年前後に強く主張された。その対立する見解は、表千家の機関誌である『茶道雑誌』の誌上に発表されたものが多い。これは一種の論争として、四十年代、五十年代と、新たな論者が参入しながら継続した。この背景には、現在の千家が千利休の血を引いているのかどうかという教条主義的な問題があり、それが論争を大きくしたといえる。すなわち、「利休血脈論争」と呼ぶべき性格のものであった。 現在では、千少庵妻は千利休の娘「お亀」であると一般には理解されている。しかし、結論を出すには根拠が不十分という考え方も歴史学者の間では依然として根強い。そもそも、この両説は江戸時代から存在しており、千家の系譜に関する歴史資料自体がすでに意図的に潤色されている可能性がある。 ところで、筆者の関心は、江戸時代からすでに存在している説をめぐって、なぜ昭和三十年代から論争に発展しなければならなかったかにある。近世に誕生し、発展してきた家元システムは、明治維新に伴う混乱期を乗り越え、第二次世界大戦後には、伝統文化の領域における頂点に上昇することとなる。さらに、昭和三十年以降の高度経済成長により、経済力を身につけた大衆に立脚する現代の巨大家元システムへと飛躍することに成功する。その過程において、千利休の血脈を継承していることが、家元の正統性の根拠としてあらためて主張される必要があったものと考える。
著者
権藤 愛順
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.143-190, 2011-03

本稿では、明治期のわが国における感情移入美学の受容とその展開について、文学の場から論じることを目標とする。明治三一年(一八九八)~明治三二年(一八九九)に森鷗外によって翻訳されたフォルケルト(Johannes Volkelt 1848-1930)の『審美新説』は、その後の文壇の様々な分野に多大な影響を与えている。また、世紀転換期のドイツに留学した島村抱月が、明治三九年(一九〇六)すぐに日本の文壇に紹介したのも、リップス(Theodor Lipps 1851-1914)やフォルケルトの感情移入美学を理論的根拠の一つとした「新自然主義」であった。西洋では、象徴主義と深い関わりをもつ感情移入美学であるが、わが国では、自然主義の中で多様なひろがりをみせるというところに特徴がある。本論では、島村抱月を中心に、「新自然主義」の議論を追うことで、いかに、感情移入美学が機能しているのかを検討した。感情移入美学の受容とともに、<Stimmung>という、人間の知的判断、認識以前の本源的な「情調」に対する関心が作家たちの間にひろがりをもつ。そして、文学表現の場で、<Stimmung>をいかに表すかという表現の方法も盛んに議論されている。本稿では、感情移入美学がもたらした描写法の一つの展開として、印象主義的な表現のあり方に着目し当時の議論を追っている。さらに、感情移入美学と当時の「生の哲学」などの受容があいまって、<生命の象徴>ということが、自然派の作家たちの間で盛んに説かれるようになる。<生命の象徴>ということと感情移入美学は切り離せない関係にある。感情移入美学が展開していくなかで、<生命の象徴>ということにどのような価値が与えられているのかを論じている。また、感情移入美学の大きな特徴である主客融合という概念は、作家たちが近代を乗り越える際の重要な方向性を示すことになる。ドイツの<モデルネ>という概念と合わせて、明治期のわが国の流れを追っている。
著者
合庭 惇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.79-93, 2007-05

幕末から明治初年にかけての時期は、欧米の科学技術が積極的に導入されて明治政府によって強力に推進された産業革命の礎を築いた時代であった。近代市民社会の成立と印刷技術による大量の出版物の発行との密接な関連が指摘されているが、近代日本の黎明期もまた同様であった。本稿は幕末から明治初年の日本における近代印刷技術発展の一断面に注目し、活版印刷史を彩るいくつかのエピソードを検証する。
著者
栗田 英彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.239-267, 2013-03-29

大正期に一世を風靡した心身修養法に岡田式静坐法がある。創始者の名は岡田虎二朗(一八七二―一九二〇)という。彼は、静坐実践を通じて内的霊性を発達させることができると述べ、日本の伝統も明治以降の西洋文明輸入政策も否定しつつ、個人の霊性からまったく新たな文化や教育を生み出そうとした。こうした主張が、近代化の矛盾と伝統の桎梏のなかでもがいていた知識人や学生を含む多くの人々を惹きつけることになったようである。これまで、岡田の急逝をきっかけに、このムーブメントは急速に消えていったように記述されることが多かった。しかしながら、実際にはその後もいくつか静坐会は存続しおり、その中の一つに京都の静坐社があった。静坐社は、岡田式静坐法を治療に応用した医師・小林参三郎(一八六三―一九二六)の死後に、妻の信子(一八八六―一九七三)によって設立された。雑誌『静坐』の刊行を主な活動として、全国の静坐会ネットワークを繋ぐセンター的な役割を果たしていた。
著者
小川 順子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.73-92, 2006-10

本論の目的は、美空ひばりが銀幕で果たした役割を考察することによって、チャンバラ映画と大衆演劇の密接な関係を確認することである。戦後一九五〇年代から六〇年代にかけて、日本映画は黄金期を迎える。当時は週替わり二本立て興行が行われており、組み合わせとして、現代劇映画と時代劇映画をセットにするケースが多かった。そのように大量生産されたチャンバラ映画を中心とした時代劇映画のほとんどは、大衆娯楽映画として位置づけられ、連続上映することから「プログラム・ピクチャア」とも呼ばれている。映画産業を支え、発展させ、もっとも観客を動員したこれらの映画群を考察することには意義があると考える。そして、これらの映画群で重要なのが「スター」であった。そのようなスターの果たした役割を看過することはできないであろう。本論では、戦後のスターとして、あるいは戦後に光り輝いた女優として活躍した一人であるにもかかわらず、「映画スター」としての側面をほとんど語られることがない「美空ひばり」に焦点を当てた。そして、彼女によってどのように演劇と映画の関係が象徴されたのかを検証することを試みた。