著者
北郷 彩
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.1-23, 2013

『トピカ』A 巻においてアリストテレスは,推論を用いた対話形式の議論を弁証術的推論として方法化することを試みている。本稿の狙いは,「共有見解」や「検証吟味」等のキーワードによってアリストテレス独自の仕方で特徴づけられる弁証術的推論が,そもそもいかなる技術として構想されているかを,各々の概念の分析を通じて考察することである。弁証術的推論は,共有見解を前提命題とする推論であることにおいて,他の種類の推論すなわち論証や詭弁的推論等から区別される。共有見解は多数の人によってそう思われることどもという仕方で,例えば厳密に真として確立された知識とは異なる次元で特徴づけられる。この特徴の故に弁証術的推論は,一つには特定の諸原理によって基礎づけられていない命題を扱うことができ,推論一般の規定に従って挙げられる推論の種類に幅を持たせている。もう一つには,弁証術的推論においては肯定と否定の命題対の双方が推論の前提命題の候補となることができ,その各々の推論の導く結果を検討することが可能である。これらの特徴の故に,命題の検証吟味という弁証術に固有の役割が実現する。すなわち,諸学問領域における原理は,その領域の第一のものであるが故に,領域の内部から検討を与えることが不可能であるが,共有見解に基づく弁証術的推論を用いるならばそうした個々の原理に属さない共有見解からそれらの原理について検討を加えることが可能となる。そうした検証吟味の方法化は,具体的には命題の確立と覆しの方法化によって実現が試みられる。命題の確立と覆しを論拠づける諸観点はトポスと呼ばれ,プレディカビリアと呼ばれる文-下位構成要素と,カテゴリーの分類の各々の特徴を基礎として構成されている。これらが成立条件を満たしているか否かを検討することによって,命題が適切に確立されているか,或いは覆されるべきかの検討が可能となる。
著者
矢板 晋
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.433-455, 2012-12-26

外国人子弟が日本の教育に関する場面において不利益を被る,すなわち周 辺化(marginalize)するのはなぜか。この点について,栃木県真岡市に着目 し,ラベリング論,言語コード論,文化的再生産論,社会関係資本論による アプローチを試みた。 データは,筆者が2010年8~9月に栃木県真岡市で行った調査に基づく。 調査対象は真岡市内の市立小学校2校,市立中学校1校,教育委員会,真岡 市国際交流協会(MIA),NPO団体2つである。調査方法は学校の日本語教 室やNPO主催の地域日本語教室での参与観察,各担当教員やNPO団体の代 表者,教育委員会,国際交流協会に対する構造化面接調査と半構造化面接調 査である。 同調査によると,外国人子弟の周辺化には以下の4つの要因が考えられる。 第一に,積極的ラベリングと消極的ラベリング,つまり,外国人に対する偏 見と「日本人と同様」に扱うラベリングである。第二に,児童生徒の限定コー ドとしての日本語の不習得と教師の使用言語の無差別性である。外国人子弟 が日本において普段の生活に必要な限定コードを習得できていない点や,教 師が授業で用いる言語に限定コードや精密コードを区別していない点が確認 された。第三に,「接触」「適応」「継続」の各段階における必須要素の欠如で ある。外国人子弟が日本の教育現場に定着するには,まず学校と「接触」し, 次に学校生活に「適応」,最後に「継続」して学校に通い続けるという3段階 が存在する。その各段階でアイデンティティや言語資本,社会関係資本が不 足する現状がある。第四に,外国人子弟の教育をめぐる社会関係資本の「限 定」「陥没」「拒絶」である。すなわち,社会関係資本が日本人同士あるいは 外国人コミュニティ内に「限定」して存在する場合,またはうまく外国人が 日本人と接触できたとして,その日本人どうしの関係が「陥没」している場 合,さらに外国人側がホスト社会との関係を「拒絶」する場合が確認された。 2012年8月下旬に再度真岡市を訪問した際には,「接触」段階における社会 関係資本の「陥没」の改善が見られた。今後もこうした社会・文化的側面か らの解決が重要となるだろう。
著者
中井 朋美
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.229-245, 2017-11-29

『殺人の追憶』という映画では,規定されたはずのものが混ざり合ってしまうことで,境界線があいまいになる。そのために,事柄がその間に落ちていくこと(本論文ではそれを「中間性」とする)が全体を貫いている。中間性は,予告され,画面の中に配置されており,映画の進行とともに,物語上の中心や二項対立をも融解させ,すべてを引き込んでいく。この進展を表出させるのは,事件を追う二人の刑事と,不在となっている犯人である。事件の捜査を担当し中心となっている二人の刑事は,はじめ物語的にも,画面内的にも中心に位置づけられ,単純な二項対立をなす。しかし,二人は互いの要素が混ざり合ってしまい,画面的にもその中心性が裏切られるために,中間性へと落ちていく。事件の中で一貫して不在であることで,観客の関心を引き,中心となる犯人像は断片だけが描かれ,それが統合できないことにより,にわかに怪物性を帯びた特権化されたものとしておかれていく。しかし,映画のラストにおいて,犯人が予想とは真逆の「普通」であったことが判明するとき,中間性におち,交換可能な位置となる。すべてが中間性に落ち込んでいくことは,映画の映像自体が根源的に孕んでいる中間性に関わっている。映像はそれ自体が,真/偽の中間に位置している。そのために,映っているものが真実かどうかは曖昧であるし,真実ではない存在からも,「真実」らしさをはく奪できないのだ。『殺人の追憶』においては,主として観客が犯人にもつイメージが逆転することによって,この中間性が観客の誤認や独善に結びつくということを告発している。中間性は,韓国という〈場〉が持つイメージにも関わっていると考える。韓国は,地理的,文化的,政治的など,混ざり合ってしまうことがその根底に関わっている。そのことを考慮すれば,本作は,韓国という〈場〉そのものをミニマムな視点で描いた作品ともいえるだろう。
著者
呉 琳
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.99-113, 2016-12-15

本研究の目的は,現代日本語における基幹慣用句を選定することである。「基幹慣用句」とは,林(1971)が提唱した「基幹語彙」にのっとった概念で,調査された言語資料の中で,多方面にわたって高頻度で用いられている慣用句の集合を言う。本研究の調査対象は,佐藤(2007)と橋本・河原により選定された926句(延べ936句)の慣用句である。調査資料は,『現代日本語書き言葉均衡コーパス(BCCWJ)』の書籍サブコーパスである。この書籍データは,図書館で利用される日本十進分類法(NDC)に従い,0.総記,1.哲学,2.歴史, 3.社会科学,4.自然科学,5.技術・工学,6.産業,7.芸術・美術,8.言語,9.文学,n.分類なしの11に下位分類されている。つまりは,書籍データにおけるジャンルごとの各慣用句の使用度数が調査可能である。その結果を基にして,慣用句がいくつのジャンルにわたって出現するかを広さの指標,使用度数の多少を深さの指標として設定し,複数のジャンルにわたって高頻度で使用される慣用句を基幹慣用句として選定する。
著者
時 渝軒
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.135-149, 2016-01-15

大江健三郎の『取り替え子』に対して、これまでの先行研究は主にテクストの中核を据える「アレ」に解釈を加え、分析してきた。だが、事実との関連性であれ、超国家主義の暴力であれ、いずれの解釈も作中で言及された過去の作品と本作とのつながり、つまりセクシュアリティの問題を見逃している。共同了解を前提とする「アレ」はテクストにおいて、「嘘」の仕掛けにほかならない。焦点人物である古義人は「友情」というイデオロギーで自分の吾良に対する同性愛指向を隠蔽している。その隠蔽を暴くために、もう一人の焦点人物千樫の視点が導入されたわけである。一方、ホモソーシャルな機構である錬成道場のホモフォビアによって、古義人と吾良の摸擬同性愛関係が暴力の形で排除された。テクストで不分明である「アレ」は要するに、吾良のセクシュアリティと古義人のホモセクシュアリティを起点とし、ホモソーシャルな社会の暴力をクライマックスとする出来事の全体である。このように、過去の自作における身体的な同性愛表象から脱皮し、身体への欲望を媒介とする想像上の同性愛表象こそは、『取り替え子』というテクストの達成と言えよう。この過程において、同性愛表象 を扱った過去の作品が招喚されたり、改訂されたりすることで、読者が先行作品を通じて積み重ねた「アレ」=「大江文学における同性愛表象」が書き直されたのである。
著者
Marianna Cespa
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.169-187, 2012-12-26

本稿は現代日本語とイタリア語の時制の相違点や共通点に関して論じるも のである。言うまでもなく,言語が異なると文法も異なるため,用語法が厳 密な部分とそうではない部分があるように見えるが,どの言語もあらゆる言 語に翻訳することが可能であり,それらの言語間の異なる時制形式を説明す ることも可能であるということが本稿の前提である。本稿ではかなり相違が あると思われているイタリア語と日本語の時制形式とその関係について述べ ながら,2つの言語をどのような視点からどう一般化して捉え,どのような 諸手段で表現しているか,またこのような言語的時間の本質がどのように有 機的に発話行為に繫がっているかに関しても考えていく。 本稿で取りあげるのはイタリア語と日本語の現在時制と過去時制の本質と その用法であり,特に複文における用法である。日本語に時制はないという 立場と日本語の時制は曖昧であるという立場をとる学者がいるが,本稿では 日本語にも時制があると考える。従来の様々な外国語教育研究の結果による と日本語を母国語とする学生にとってはイタリア語の時制が複雑であるのに 対し,イタリア語を母国語とする学生にとっては日本語の時制が曖昧のよう である。おそらく,イタリア語には日本語にない時制の一致のルールがある からだと考えられる。このルールによるとイタリア語は主節の動詞が過去形 のとき,従属節の動詞はその影響を受ける。一方,日本語ではこのような時 制の一致の制限はないが,動詞が動作動詞か状態動詞かによって,その文の 時制(またはアスペクト)を決める上での力関係が違ってくる。 次に,イタリア語の過去時制に属する近過去と遠過去の相関関係について 述べる。その際には,例文を挙げながら,それらの時制の「代用」の一般的 な傾向が適切かどうかに関しても考えていく。
著者
高橋 希衣
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.181-204, 2013-12-20

Aus der Sicht der Beschreibung und Erklarung von Universalit at und Sprachspezifit at werden zur Zeit sehr aktiv Forschungen betrieben,sprachtypologisch nicht verwandte Sprachen kontrastiv zu untersuchen. Jedoch muss man feststellen, dass sich die Forschungen in der deutsch-japanischen kontrastiven Phonetik und Phonologie nicht entsprechend dynamisch entwickeln wie der allgemeine Trend; dies betrifft besonders die noch immer uneinheitlichen phonetisch-phonologischen Kana-Aussprachebezeichnungen in deutschjapanischen Worterbuchern, die anstatt unter Verwendung des IPA (Internationales Phonetisches Alphabet) haufig mit alteren und unnaturlichen phonetischen Notationen dargestellt werden. Im vorliegenden Beitrag wird ein neues System fur die phonetischphonologische Beschreibung von Kana-Aussprachebezeichnungen fur deutsche Laute vorgeschlagen. Als grundlegendes Prinzip wird bei der Systematisierung der Kana-Aussprachebezeichnungen die Treue zu den originalen Lauten des Deutschen verfolgt. Dar uber hinaus soll diachronisch berucksichtigt werden, dass als ein Teil der deutschen Sprache auch die praktizierten und akzeptierten Formen der Standardaussprache einem standigen Wandel unterliegen.
著者
趙 恵真
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.195-211, 2016-01-15

本稿では,前期現代語における日韓漢語動詞の形態的特徴を明らかにした上で,現代の日韓漢語動詞とはどのような相違点がみられるかについて対照考察を行う。日韓両言語には,漢語の後部にスルとhadaがそれぞれ結合して使われる場合が多く,この場合,「漢語+スル」と「漢語+hada」には比較的整然とした対応関係が見られる。このような「漢語+スル」と「漢語+hada」の形態を本稿では「漢語動詞」と呼び,日韓両言語それぞれをスル形,hada形と称する。しかし,語彙によってはスル形とhada形が対応しない場合がある。例えば,日本語ではスル形でしか現れないものが,韓国語においてはhada形の他に「doeda(なる)」,「sikida(させる)」,「chida(打つ)」,「danghada(負う)」,「gada(行く)」などの動詞が漢語と結合して現れる場合がある。このような事実をふまえつつ,前期現代語における日韓両言語の漢語動詞の形態的特徴について考察を行った結果,現代語とは異なる形態的特徴及び対応関係がみられることが明らかになった。また,対応関係からA,B,C,D,Eの5パターンに分類できた。Aパターンは現代語と前期現代語においてスル形とhada形が対応する場合である。日韓両言語においてもっとも生産的な形態であるといえる。Bパターンは日本語の現代語と前期現代語ではスル形で現れるが,韓国語の現代語ではhada形以外の形態を取る場合である。Bパターンは韓国語の前期現代語においてhada形以外にどのような形態を取るかにより,さらに4つに下位分類できる。Cパターンは前期現代語では日韓両言語とも漢語動詞として現れない場合である。Dパターンは日韓両言語とも前期現代語では漢語動詞で現れたものが,現代語では漢語動詞として現れない場合であり,Eパターンは韓国語の前期現代語でのみ漢語動詞で現れる場合である。
著者
稲吉 真子
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.147-159, 2016-01-15

「も」の基本的な用法である「累加」とは,「同じカテゴリーに属するとい う判断(同一範疇判断)を示すこと」である。しかしながら,その用例を見 てみると,同一範疇の判断がつきにくい,もしくは同一範疇のものが文脈上 に存在しない場合も多くある。「も」の同一範疇を判断する基準としては,統 語的同一範疇判断と語用的同一範疇判断があり,その内どちらかが必要とな るが,語用的同一範疇判断についてはある種の推論を必要とすることが多い ため,統語的同一範疇判断と比較し,同一範疇判断がつきにくいと言える。 同一範疇判断がつきにくいか否かについては,類命題の有無が大きく関与し ており,それぞれの用例を類命題との関わりから考察する必要がある。 なお,類命題がないものに関しては,類命題以外にどのような同一性に基 づき「も」を使用しているのかについて,新たなる観点を導入して検討する 必要があるが,それについては,「世界知識」という観点を導入し,話し手の もつ「世界知識」に基づき発話がなされているタイプとして分類することが できる。 また,数量をとりたてる「も」についても,類命題がないタイプとして位 置づけることができるが,これについては,「まで」,「しか(ない)」,「は」, などの,他のとりたて詞との対応関係から,「も」の特徴を明らかにしていく。 以上のように,本稿では,「も」の基本的な用法とそれ以外の用法について, 統語論的観点から整理した上で,新たなる観点を取り入れつつ,語用論的観 点からの考察を試みる。
著者
宮澤 優樹
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.73-84, 2016-12-15

ホラー作家として知られるStephen King(1947-)のThe Body(1982)は,作家がホラー小説を書くことについて自己言及的に表現している。この作品は小説家を語り手として,行方不明の同級生の死体を発見しようとした幼い頃の経験を描いている。その冒頭で,これから始まる物語は「言葉では言い尽くせない大切な経験」だと語り手は宣言する。対象を言語化するのが困難であることを認めることは,そのこと自体が自身の作家としての存在意義に疑義を提示するように見える。だが語り手は,言葉にしづらいことがらを,誰もが見聞きしたことのあるホラー小説のクリシェを用いて表現することによって,その対象が恐怖の形をとって体験可能なものに置き換えている。こうして,言葉に言い尽くせぬものは体験される。このことを小説家志望の幼い語り手を通して表現した上で,King はさらに,小説家として大成したのちの語り手の目線で物語を回想させることにより,物語にメタ的な視点を導入している。冒頭で「言葉では語り尽くせないものだ」と述べられた体験は,事実プロット上で幼い語り手たちにとって決して口にしてはならない秘密となった。だが作家は,成長した語り手がそうするように,その秘密を語らなければ小説を執筆することができない。ホラー小説のクリシェの形にして語り尽くせぬ対象を暴露することが,King にとっての創作なのである。Stephen King 作品における倫理性や文学史との連続性はすでに研究されつつあることだが,ジャンル作家としての位置づけからか,やはりいまだKing 作品が積極的に評価されているとは言いがたい。本論は,作品論の視点から,これまで言及されることのなかったKing の作家としての自己意識を指摘する。
著者
呂 晶
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.161-171, 2014-12-20

広告表現の解釈プロセスを考察する際,それを形式と意味という二つのレベルに分けて考えなければならないと思われる。本稿では,前者を「形式処理」,後者を「意味解釈」とそれぞれ呼ぶことにする。広告表現の形式処理は,その下位分類として,表意復元と逸脱修正が挙げられる。表意復元は,形式的不完全な広告表現を詳細化によって完全な文形式に復元する作業である。逸脱修正は,統語規則に違反するもの(逸脱)を正しい表現に修正することである。なお,広告の意味解釈に際して,受信者は,まず,広告表現の文意味を理解する。そして,文脈から得られたいろいろな情報を用い,発話レベルで意味解釈を行う。広告の解釈では,既存の文脈情報が極めて少ないので,文脈創成というプロセスが行われている。文脈創成によって架空の文脈を作り出し,それを既存の文脈と合わせて,広告解釈に充足な文脈を揃える。その後,文脈情報を用いて,幾つかの段階を経て得られた推論は推意である。この推意は,結局,受信者の知識記憶に収蔵されると考えられ,必要な時に知識文脈として働き,受信者の行動に影響を与えると考える。