著者
侯 乃禎
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1-10, 2018-12-26

『善の研究』と『場所的論理と宗教的世界観』は,西田幾多郎の最初期と最後期の論文である。この二つの論文の刊行時期は三十年以上離れているが,「宗教を説明する」という一貫した主題を持っている。本稿はこのことを手がかりにして,その二つの論文を比較し,それらの内在的な関係を明らかにしたい。まず,『善の研究』の第四編において,「純粋経験」という原理にしたがって宗教を説明する方法には,哲学と宗教を混同する危険があることを示す。次に,『善の研究』を『場所的論理と宗教的世界観』と比較し,この二つの論文の異同を明らかにする。最後に,『場所的論理と宗教的世界観』において西田は,宗教の独自性を保ちながらそれを説明するために,「逆対応」という概念を用いて,宗教自身の論理に主眼をおいていることを示す。
著者
モルナール レヴェンテ
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.209-228, 2017-11-29

今村昌平は「テーマ監督」である。すなわち今村の作品群はその時期々々において特定のトピックや主題を軸に構成されていることを示す。主題におけるそういった反復は,監督自身によって「ねばり」と呼ばれた。その表現を借りれば,最初の「重喜劇」とみなされる『果しなき欲望』(1958年)以降, 今村は売春・強姦・近親相姦という3つのテーマにねばっていた。作品ごとに重点の置き方は異なるが,1968年までの全ての娯楽映画(『にあんちゃん』を除き)において,いずれもその主題は3つのテーマのなかから少なくとも2つ以上は選び取られているといえる。 1964年制作の『赤い殺意』は藤原審爾の東京を舞台に可愛い印象の女性が強姦されるという小説を原作にテーマのみを借りた,今村昌平ならではの映画作品である。強姦を主題に近親相姦的な要素も加えて物語の舞台を監督の憧れた地方,東北へもっていった。主人公の貞子は,仙台の郊外において農地を所有する高橋家の若妻である。強盗に犯されてしまったあと強くなってゆき,彼女をまるで女中のように扱いしていた姑との上下関係を逆転させ家の権力者に上昇する。 本論文では社会学と作家の志向から離れて,いくつかの新しい観点を導入する上で作品そのものに絞って分析を行なう。変化する立場において彼女自身が如何に変貌し,どのような行動をとるかという二点をめぐって『赤い殺意』を考察する上で今村昌平が「重喜劇」と呼んだ60年代の作品群と関連付けて結論を述べる。
著者
遠山 景広
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.417-436, 2013

社会的共通資本は,主に産業基盤を中心として考察の対象となり,中でも社会インフラの整備は経済的な理由を優先して進められてきた。社会的共通資本が注目された高度成長期には,社会インフラの整備は国民の生活と経済力という2つの意味から全体社会を向上させるとされ目標の1つに挙げられていた。個人の生活の充実は,産業への寄与と結びつけられた上で全体社会へと還元されると見做されたため,議論には主に経済的な視点が反映されてきたのである。1950~1960年代の社会的共通資本の配分は高度成長期の特性を表し,産業基盤に8割,生活基盤に2割と振り分けられており,産業基盤の偏重傾向を示すものとされる。現代では,社会的共通資本に期待される役割は生活基盤に重点が移行している。生活基盤としての側面については,1970年代の都市化に対しシビル・ミニマムとして議論され,生活権という観点から個々の生活における最低限が論じられた。今日は,育児や介護の社会化など個々の生活を考慮した,社会的共通資本の提供段階に目を向ける必要性が高まっている。しかし,これまでの議論は主に制度の設定や資本の設置による経済学的な意義や効率についての指摘にとどまり,利用段階での提供者と利用者に観点を移した議論はまだ少ない。これは,高度成長期には社会的共通資本の設置が不十分で,どのような視点から資本整備を進めることができるか,いわば設置の正当化に焦点が残っていたことも影響している。しかし,現代の社会的共通資本に求められるのは,個人の利用を前提として個々の社会的行為が関与する機能から政策を評価する段階にあると考えられる。本稿では,社会的共通資本を産業基盤と生活基盤の2面から検討し,生活基盤における新たな人間関係を形成する機能を考察する。
著者
趙 熠瑋
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.339-358, 2013-12-20

荻生徂徠は江戸幕府最盛期に伊藤仁齋と竝される古學派の儒學者である。荻生徂徠については、これまで多くの研究が積み重ねられてきた。特に、丸山眞男の『日本政治思想史研究』は後の徂徠研究に多大な影響を與えた。丸山氏は徂徠の近代性を強調し、「朱子學的思惟式とその解體」、「徂徠學の政治性」、「徂徠學における公私の分裂」などを論點として捉えた。ほかに、平石直昭、子安宣邦、吉川幸次郎の各氏も々な角度から徂徠の反朱子學という點を論じた。しかし、吉川幸次郎氏が「徂徠學案」に示したように、徂徠の學術も人生も一定不變ではなく、幾つかの段階を踏んで所謂徂徠學が形成された。1714年、徂徠49歳の頃、『園隨筆』が刊行され、1717年、『辨名』、『辨道』、『學則』が刊行された。1718年、53歳の頃、徂徠の「四書」注釋の集大成作『論語徴』が完成した。これまでの研究によれば、徂徠は基本的に朱子學を批判する立場で自らの儒學論を展開した。果たして徂徠の學術人生は終始變わらなかったのであろうか。それとも、時期によって徂徠の考えにも變化があるのであろうか。本稿では、執筆時期を異にする徂徠の著作の吟味を通じて、徂徠學の中心的概念と思われる「道」について、時間經過を辿って證した。その結果、徂徠の反朱子學的な學説に變化の過程があったことが判明した。
著者
チェスパ マリアンナ
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.205-223, 2013

本稿は,イタリア語における過去時制に属する近過去形と遠過去形の相関 関係を明らかにすることを目的としている。伝統的な説明によると,過去時 制である近過去形と遠過去形のあいだには相違点がなく,その使い分けが話 者による選択であるとされている。つまり,話者の視点によって遠過去形が 近過去形の代わりに,あるいは近過去形が遠過去形の代わりに用いることが できるとされている。これは話者にとってその事象が過去の一時点であるな ら話者は遠過去形で描写するのに対し,その事象の効果が現在まで持続する なら近過去形で描写するという区別である。しかし,様々な原因が影響を与 えているため,その「置き換え」が不可能である場合も多く,また両方の時 制が可能であるが解釈が同じではないという場合もある。これはおそらくそ れらの2つの時制の本質の制限に関するものである。本稿はいつその「置き 換え」が可能であるか,いつ不可能であるかまたなぜ制限があるかというこ とに関して述べるものである。分析の結果,遠過去形における用法は幅が狭 いのに対し,近過去形における用法は非常に幅が広いということが明らかに なった。よって,近過去形と遠過去形の区別が重要な点であり,これに基づ いて時制の一致のルールを見直すこともできる。
著者
堅田 諒
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.18, pp.141-155, 2018

本稿ではジョン・カサヴェテス『フェイシズ』(Faces,1968)の作品分析をおこなった。従来の研究では,作家の伝記的事実ばかりが強調され,個々の画面に基づいた「ショット」や「カメラの運動性」の分析はなおざりにされてきた。したがって本稿では画面から出発し,作品のもつ豊饒さに接近したい。第1章では,本作の最も支配的なショット形態である「顔のクロースアップ」の機能と効果を分析した。カサヴェテスの顔=クロースアップは,物質性や触覚性,カメラの機械的な運動性が発露する場であり,とりわけ観客の能動的な見る意志を刺激する。第2章では,身体に目をむけた。『フェイシズ』における顔は,雄弁に何かを語ろうとするものの(たとえば人物の感情),結局何も語らないものであり,一方,身体はその寡黙さゆえに,図らずも主題があらわれる地点となる。「中年と若者」「中年の欲望」などの主題と身体はかかわる。第3章では,空間とコミュニケーションの観点から,顔/身体それぞれを考察した。一階と二階はそれぞれ異なる性質をもち,とくに一階では身体が後景においやられ,反対に顔が前景化することを明確にした。第4章では,映画ラストシーンの階段という中間的な狭間の空間と身体の関係を分析した。この特異な空間に座るリチャードとマリアを分析することにより,映画のいくつかの諸相,空間や時間性の混淆が生じることを明らかにした。階段というカサヴェテス的トポスでは,両極性が混在し,とりわけ身体において過去と未来の時制が呼びよせられ,同時的共存を果たしている,というのが本稿の論旨である。
著者
張 捷
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.12, pp.267-287, 2012

山鹿素行(一六二二~一六八五)は,江戸時代初期の儒学者,兵学者であ り,山鹿流兵法の開祖,古学派の先駆けである。『孫子諺義』を含む『七書諺 義』は,素行の兵学思想が最も円熟した時期の著作である。本稿では,『孫子 諺義』を中心資料として,素行後期の兵学思想に考察を加えた。 『孫子』の日本伝来については,『日本書記』や『三国史記』に基づいて, 四〇八年以前に大陸から朝鮮半島へ伝わり,五二七年以前に朝鮮半島から日 本へ伝わったという新たな仮説を提出した。『孫子』の版本には,『魏武帝注 孫子』と『十一家注孫子』との二系統に分けられるが,『孫子諺義』では,『魏 武帝注孫子』すなわち『武経七書』系統を利用した可能性が高い。素行は, 訓をもって字句ごとに極めて詳細に注釈し,他学者の見解も列挙し,一定 の融通性を示している。『孫子諺義』の執筆期間は一ヶ月未満であるにもかか わらず,大量の資料を引用し詳しく解説していることから,素行の博覧強記 ぶりが伺える。素行の兵学思想は,「詭道」と「五事」の「道」についての解 釈から見える。同じ「道」の字であるが,意味・内容が異なっており,混同 しやすく,長い間兵学は儒学的観点から異端視された。素行は「詭」を奇, 権,変と解釈し,「詭道」を合戦する際に敵が予想できない勝利を制する手段 としている。素行の「士道論」,即ち武士の職分には『孫子』の「五事」の「道」 の影響が見える。武士は君主と農工商の三民との架け橋であり,忠を尽くす ことや,三民を教化することなどによって上下の心を一つにする。素行は, 伝統的な奉公の忠誠心に,儒教の人倫を実践する主張と,兵学の管理の方策 に加えて,新たな職分論を提出した。『孫子諺義』を完成した時期は,素行が 中国の文化から離脱しようと主張した時期であるが,漢文化の影響が色濃く 残っているので,晩年の著作を見ると,素行は漢文化から完全に離脱するこ とはできなかったと言える。
著者
余 迅
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.159-171, 2016-12-15

『王先生』は、1928年から1937年にかけての10年間に、著名漫画家の葉浅予(1907-1995)が創作した連環漫画作品である。中国漫画史においては、連載期間が最も長い連環漫画と考えられてきた。『上海漫画』の第一号にはじめて姿を現し、徐々に漫画界の注目を浴び、広範な大衆の間で熱狂的な人気を博した。先行研究ではしばしば、『王先生』が「官僚の世界の腐敗を暴露し、下層社会の人民に対する同情を表現した」と指摘されたが、本来の主旨、及び表現論のアプローチからの分析などはまだ十分とは言えない。本論は、二つの部分から構成されている。論文の前半では、まず、『王先生』がジョージ・マクマナスの漫画『親爺教育』からどのような影響を受けたかについて考察した。当時の上海において、英字新聞『大陸報』(China Press)に掲載された『親爺教育』(Bringing up Father)は非常に人気があった。葉浅予は読者を引きつけるため、この漫画を模倣し、中国初の長編漫画を創作した。しかし、この『王先生』は単純な模倣作品ではなく、新たな「上海漫画」として生成されたことを本稿では明らかにした。また葉浅予が『親爺教育』における「妻の尻に敷かれる夫」の話から出発し、テクストの空間を広げ、私的空間から公共空間への流動性を示していたことも発見できた。後半では、王先生を例として取り上げ、表現論のアプローチにより、草創期の中国連環漫画と映画の相関について考察した。また、「逃走-復帰」の主題をめぐり、『王先生』から感じられる人物の「動き」についても検討した。 その結果、草創期の中国連環漫画では、映画からの影響が顕著に見られる。「映画の撮影」や「映画の鑑賞」に関する取材が行われただけではなく、映像文法がコマの間に投入されるため、そこに緊密な繫がりが感じられる。また、漫画家たちは、多くの視点から、ある事件が発生した過程を表すため、連続のコマを読むとき、読者に「運動」の意味を感じさせる。
著者
石川 まりあ
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.69-80, 2016-01-15

カレン・ラッセルの短篇〝Reeling for the Empire"(2013)は,歴史的事実 とファンタジーの混じりあう,一種怪奇的な作品である。舞台は,殖産興業 によって近代化を推し進める明治日本。官制の製糸工場に集められた貧しい 少女たちは,帝国の斡旋人に騙されて奇妙なお茶を飲まされ,みずからの腹 で絹糸を生産する蚕と人間の「あいのこ」に変身させられてしまう。設定の 奇想性をおけば,その筋立て上は,工場に拘束され搾取されるヒロインが抵 抗の道をみいだし,自由の獲得をめざすという,古典的な主題が目を惹くか もしれない。ただし,伝統的なフェミニズムの枠組みを援用しつつも,ラッ セルは,「過去の選択」をめぐるより普遍的な問題を描きだしているのではな いだろうか。自らの悲惨な境遇を決定づけてしまった労働契約の瞬間を悔み, 自責に苦しむ主人公キツネの姿からは,取り返しのつかない過去といかに向 きあって生きていくか,という根本的な主題が浮かび上がる。それを考える 手がかりとなるのは,物語の中核をなす「糸繰り」(reeling)のモチーフに織 りこまれた,過去-現在-未来の関係性である。女工たちが日々を費やす糸 繰り作業の一方方向の回転運動は,時間の不可逆性とリンクし,二度と過去 には戻れないという絶望を生む。しかし,この力学を通常の糸繰り作業なら ば故障とみなされる「逆回転」へと反転させたとき,「間違った方向」である はずのその現象こそが,過去との関係においては有効な生存戦略となる。キ ツネと仲間の女工たちは,糸繰りをつうじて,三つの過去との向きあいかた を試行する―
著者
朱 依拉
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.323-338, 2012-12-26

吉田喜重映画の中では,演技する俳優が登場しない,街の風景や室内のセッ トだけが映る,いわゆるストーリーの展開に関係しないシーン,または画面 の中に俳優がいるにもかかわらず,周りにある何かの存在があまりにも目立 ちすぎたせいでストーリーの展開が邪魔されるシーンが,しばしば撮られて いる。観客はそれらのシーンを目の当たりにする時,よく画面の内部から一 種の不安定さ,頼りなさに気をとらわれる。筆者は画面全体に漂っているこ のような安定しない状態を「不穏な空気」と名づける。 「不穏な空気」の成因として,まず考えられるのは,映画または映画監督の 絶対的な優位性を崩壊させる有効な方法とされる「もの」=他者の導入であ る。吉田喜重映画に見る他者の導入は主に二種類に分けられている。一つは, 世界の無秩序さの露呈によるものである。もう一つは,映像内部からの告発 によるものである。 また,「不穏な空気」の二つ目の成因とされるのは,吉田喜重映画における 混在状態である。吉田喜重映画によく見る混在状態は,テーマ的な混在とい う形でよく現れてくるが,そればかりとは限らない。実際,監督の映画には, 同一事物の持つ二つの性質が同時にスクリーンの上で露呈される混在も,し ばしば見られている。 そして,見る者に不安を感じさせる特権的なものを「眼」として風景の中 に設置することによって,一見普通な風景ショットに緊張感または不安を吹 き込んだことも,「不穏な空気」の一つの成因である。 本稿は,吉田喜重映画における「不穏な空気」の成因を考察することを目 的とする。ただし,考察の対象となるのは,音声や照明などの要素を含まず, 「もの」のある風景のみである。
著者
齊田 春菜
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.18, pp.51-66, 2018

本稿は,円地文子の「老女もの」の初期作品にあたる「蛇の声」を少女表象から検討を試みるものである。これまで研究史において「蛇の声」を含む一連の円地の「老女もの」は,老女のセクシュアリティに注目した読解が中心であった。しかし,一方で見落とされがちであるのは,これらの円地の作品で描かれる老女たちが少女と関係があったり,重なったりしていることである。また、円地の伝記的な事実が,少女イメージを検討する上で重要であると考える。円地は,主に戦終直後から一九五〇年代前後に「少女小説」を数多く執筆していた。この「少女小説」は,管見の限りにおいてあまり重要視されていないように思われる。そのため円地の作品において少女は,老女と同様に重要な表象であるにもかかわらず,円地の「少女小説」や少女はいまだに十分に論じられているとは言い難いのである。そこで,これまでは十分な検討と意義付けをされてこなかった「蛇の声」におけるもうひとつの重要な表象である少女についての表現を掘り起こし,それによって「蛇の声」の新たな側面を明らかにしたい。 少女表象から検討することにより「蛇の声」は,少女の中に「老い」を,老女の中に「若さ」をみるというイメージの喚起によって,いわゆる「老女もの」に少女という要素が組み込まれて行く萌芽的な作品と位置づけることができるのである。したがって,少女は円地の一連の「老女もの」において見逃すことのできない重要な表象であると結論づけた。
著者
武 倩 劉 冠偉
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.18, pp.49-61, 2018

『本草和名』(918年頃)は日本現存最古の本草薬名辞典である。唐の勅撰本草『新修本草』を範にとり,『食経』等によって増補され,千種以上の薬用動植鉱物を収録している。漢名を見出し語に,下に別名,万葉仮名和訓,産地を注記する体裁をとっている。漢名に和名を対照させたことが本書の大きな特徴で,国語国文学や博物学など幅広い分野の研究に貢献できる。本稿は,『本草和名』データベースに基づき,本書に記載されている薬用動植鉱物の漢名と和名について,考察を行った。考察に当たって,「松本書屋本」を底本に用いたが,「万延元年影写本」との間にある異文も合わせて提示した。『本草和名』は本草書にある薬の性味・効能・採取時節などに関する記述を省略するものの,薬の名称をなるべく多く蒐集しようとする特色がある。この点について、先行研究では断片的に指摘されているものの,詳しい検討はこれまでになされていなかった。そこで本研究では,本書所載の漢名を見出し項目の漢名と項目内の漢名に分けて検討を行った。まず,見出し項目を『新修本草』の編次に対照し,項目数を再計算した。そこから項目内の漢名を,データベースの活用によって,形式上分類・計量することが出来た。更に漢名列記の形式として「一名~」と「無標記」が最も多く,その他の形式には「並列式」「定義式」「部位別式」「地域別式」の四種類があると指摘した。これらの成果は,本書における漢名列記の形式を分析した初めての研究として注目に値する。本書に記載されている和名は,平安時代の語彙と音韻を反映する重要な語学資料である。関連する文献との比較調査によって,これからの国語学の研究に貢献することが期待される。本研究では,手始めとして,本書の和名に対しては,その注記率や万葉仮名使用状況を統計した。今後は,本データベースの改良に励むと共に,他文献データベースとの連携を図り,調査を進展させたい。
著者
馬 穎瑞
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.129-148, 2016-12-15

日常会話では,われわれは疑問文を用いて,聞き手に自分の知らない情報を求めたり,何らかの依頼を表したりしている。情報要求は疑問文発話によって生じる言語的要求で,依頼などによって生じる行動要求は非言語的要求である。そして,情報と依頼は,いずれも疑問文による発話の内容を指している。発話内容とは違うレベルから考えてみると,話し手が疑問文を用いて発話することは,一種の言語行動である。その言語行動自体によって生じる聞き手への言語的要求は,話者交替の要求である。話し手が疑問文を用いて聞き手に回答を求めるという言語行動は,従来の談話分析では発話権の委譲として捉えられ,聞き手が話し手から委譲される発話権を受けとることになる場合,話者交替が起こる。しかし,従来の先行研究では,発話文の形式を話者交替の形成に関連づけて詳細に論じるものがほとんど見当たらない。そこ で,本稿は,話者交替の形成に関わる理論知識と先行研究を踏まえながら,話者交替における聞き手の捉え方を提示する。そして,本稿の考察対象を限定し,話者交替の要求を有している疑問文発話の言語形式の分析を通じて,それらにおける話者交替の要求性の強弱を考察する。考察資料は,比較的に文脈がわかりやすく,かつ文末イントネーションの上昇・非上昇を聞き取れるテレビドラマのセリフを文字化して用いる。考察の結果,話者交替の要求の有無は聞き手の捉え方に関わるため,従来の先行研究と異なる本研究の聞き手の捉え方を規定する必要があることがわかった。そして,疑問文発話における話者交替の要求性の強弱は「疑問詞」「文末形式」「文末イントネーション」という疑問文の3つの言語形式要素によって決められることもわかった。
著者
劉 琳
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.109-124, 2016-01-15

『日本書紀』は日本最古の編年体史書,六国史の第一として古くから尊重さ れてきた。日本の正史にふさわしいものとするために,『日本書紀』全書三十 巻は歌謡部分を除き,当時日本周辺の朝鮮半島諸国や中国で共通して使用さ れた正式な漢文によって記述された。『日本書紀』に関する解釈・研究には, 長い伝統がある。この書が完成された翌年(721年)から早く当時の宮廷にお いて「日本書紀講筵」と呼ばれる『日本書紀』の本文を読み解く講義が行わ れた。そして,『日本書紀』に関する研究の蓄積として,『日本書紀』の諸古 写本に存する訓点・日本書紀私記類・日本書紀の注釈書など,長く伝えられ ている。このように,『日本書紀』の本文を読み下す長い伝統から生まれてき たもの,即ち『日本書紀』の諸古写本に存する訓点のことを日本書紀古訓と 言う。日本書紀古訓は『日本書紀』の本文を解釈する重要な典拠である。そ して,古い日本語の実態を知る上で重要な手懸かりの一つであるため,従来 重要視されてきた。 『日本書紀』の現存する諸伝本の中,巻二二と巻二四を有する伝本は比較的 多い。本稿では日本書紀古訓形容詞の実態,特に各伝本における異同を考察 するために,巻二二と巻二四を有する平安時代,室町時代及び江戸時代の代 表的な『日本書紀』の古写本,版本を用いる。考察内容は,各伝本から収集 した古訓形容詞のデータに基づいて付訓状況・語数・使用語彙などを統計し, 各伝本における同一漢文に当てられた古訓を比較し,その共通面と相違面を 検討することである。考察を通して日本書紀古訓の形容詞は,どのような性 格を有するものか,明らかにしたいと思う。また,日本書紀古訓形容詞の様 相,異なる伝本において古訓形容詞語彙使用の実態及びその相違などを解明 することも本稿の目的である。
著者
胡 琪
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.241-250, 2013-12-20

「為人民服務」は中国語でよく使われているフレーズとして、広く知られているが、このフレーズに出た「服務」という言葉が日本語から中国語に流入した言葉、いわゆる日本語借用語であることは、あまり知られていないであろう。 「服務」の語源を遡ってみると、高名凱・劉正埮『現代漢語外来詞研究』(1958.文字改革出版者)では、「服務」は日本語からの借用語とされている。その後に出版された高名凱・劉正埮『漢語外来詞詞典』(1984.上海辞書出版社)でも、「服務」を日本語起源と明記している 。しかし、日中両言語における「服務」の使用状況をみると、日本語ではあまり使用されていないのに対し、中国語ではHSKの甲級語彙 に収録され、頻繁に使用されている。日本で造られた「服務」は日中両言語で異なる展開を遂げたのは何故であろう。筆者はかつて日本語における「服務」という言葉の出現とその背景について考察を行ったことがある(胡.2013)。本稿はそれの続きとして、中国語における「服務」という言葉の流入と受容の実態を解明する。
著者
リツ テイ
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.1-14, 2016-12-15

哲学史には多くの善と美の緊密な観点がある。それらは異なる前提をおい ているにもかかわらず,どの観点においても善と美は緊密な関係があるとい う結論が得られる。 当時の理論の核を構成した概念の対象は,現代ではいささか単純に見える けれども説得力がある理由の影響を受ける。われわれは理念と神の存在を信 じず,また理性自身の強さがすべての道徳と審美に干渉できるということを 信じない。現代では,形而上学的な概念が含まれた理論は「独断論」として 否定される。以前の重要な概念の連結作用の欠如がある場合に,善と美の関 係をどう処理すればよいかは熟考に値する問題である。善と美が密接に繫 がっているという観点は認識方面の錯覚や他の形で説明できるのか。あるい は,善と美は別の二つの概念であるのか,それともその中身に密接な関係が 含まれているのか。「独断」的に作られた統括的な概念が失敗に終わっている のなら,われわれはこの問題に新たな視野と研究方法を求めなければならな い。そこで,以下では主に認識論(主にピアジェの認識論の主張について) と言語哲学の視点から,善と美との間に不可分の関係があるという立場を論 証する。
著者
張 馨方
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.83-94, 2017-11-29

『類聚名義抄』は日本平安時代に成立した部首分類の漢和字書であり,原撰本系と改編本系が存する。原撰本系には,図書寮本が唯一の伝本であり,引用の典拠を明記した漢和字書である。改編本系には,現在,高山寺本・観智院本・蓮成院本・西念寺本・宝菩提院本などが知られる。観智院本は唯一の完本であり,そのほか,高山寺本・蓮成院本・西念寺本・宝菩提院本はいずれも零本である。 原撰本系に比べて,改編本系の諸本には漢字字体の増補という特徴が認められる。ただし,これまでの改編本系諸本についての研究では,漢字字体を主眼とした調査は成されていなかったといえる。 『類聚名義抄』では漢字字体を「掲出されるもの」と「注文に含まれるもの」に分けることができる。本稿では,注文中の漢字字体の記載に注目し,原撰本系図書寮本と改編本系観智院本・蓮成院本とで対照可能な「法」帖の「水」「冫」「言」の三部を調査対象とし,改編本系の改編方針の解明を目指して,原撰本系図書寮本と改編本系観智院本・蓮成院本との記載を比較分析する。その検討の手順を具体的に述べると,まず,図書寮本・観智院本・蓮成院本の三本それぞれにおいて注文中の漢字字体の記載状況を調査し,次に,原撰本系図書寮本と改編本系観智院本・蓮成院本とを比較対照して注文中の漢字字体の記載について考察・分析する。
著者
多田 圭介
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.12, pp.1-29, 2012

本稿は,M.ハイデガー(1889-1976)の主著『存在と時間』(1927)の思想を,「ロゴス」という観点から捉えなおした全6章からなる論文の第1章である。全6章を貫く主題は,『存在と時間』の体系構想を,アリストテレスの『ニコマコス倫理学』第6巻における「魂のロゴスを持つ5つの部分」の解釈として読むことにある。この問題意識から『存在と時間』を解釈した先行研究としては,ヴォルピやキシールなど,複数が挙げられる。それらと本稿の立場を分かつポイントは以下である。まず第一には,『存在と時間』という書物の主導的目的を明らかにすること,第二には,その目的に鑑みて,1944年夏学期講義における「ロゴス論」までを,その目的を完遂するために『存在と時間』の立場を維持しようとしたものとして再検討することにある。それでは,『存在と時間』の主導的目的とは何か。一言で述べるなら,哲学的根本諸概念としての「ウーシア」の根底に「恒常的現前性」という時間様態を見出すこと,さらに,それを非本来的時熟に基づくものとして「解体」し,それを統べる本来的時間の動性を語ろうとしたこと。このように言えるだろう。以上が全6章の概要である。本稿では,その内の第1章として,上記の議論の遂行に礎石を据えるために,『存在と時間』の「方法論」を提示する。ことに,「方法節」とも呼ばれる『存在と時間』序論第7節を検討する。第7節では,「現象学」という概念が,「現象」と「学(ロゴス)」とに分けられ,その方法的役割から個別に定義される。本稿の主題が「ロゴス」であるがゆえに,「学(ロゴス)」が定義される第7節Bが中心となる。そこでハイデガーは,言表の「真」とそれに先行するアイステーシス・ノエーシスの「真」について語る。そしてその両者を現象学の「予備概念」にすぎないとし,その「真」と区別された現象学の「理念」を示唆している。第1章は,これらの事象連関を解きほぐし,第2章以下で,アリストテレスの『形而上学』第9巻第10章,および『ニコマコス倫理学』第6巻を視野に入れるための導入をする。