著者
秋月 準也
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.11, pp.93-108, 2011

本論の目的はミハイル・ブルガーコフ作品にあらわれる1920年代から30年代の「住宅管理人」像の比較分析を通して,ブルガーコフの文学世界の一端を解き明かすことである。ブルガーコフにとって「住宅管理人」は彼の文学を日常的主題である住居と強く結びつけると同時に,幻想世界への入口としての機能も果たすようなものであった。中編小説『犬の心臓』では,居住面積の調整をめぐってプレオブラジェンスキイ教授と激しく対立していた管理人シボンデルが,教授が生み出してしまった人造人間シャリコフを積極的に援助し,彼に正式な身分証明書と教授宅に居住する権利を与える。つまり住宅管理人シボンデルの存在が,科学によって創造される人間という『フランケンシュタイン』から受けつがれる空想科学文学の代表的な主題を20年代のモスクワに組み込むことを可能にしている。また喜劇『イヴァン・ヴァシーリエヴィチ』でブルガーコフは住宅管理人をH・G・ウェルズ的な時間旅行の世界の中に描いた。タイムマシンの実験による住宅管理人ブンシャとイヴァン雷帝の入れ替わりは,20世紀のモスクワのアパートと16世紀のクレムリンの対比であり,「管理」と「統治」の対比であった。この戯曲でブルガーコフはツァーリとなったにもかかわらずロシアをまったく統治することができない管理人ブンシャを通して,アパートの管理人という革命後に生まれた無数の権力者たちが,実際には総会(общее собрание)の方針や民警(милиция)の権威に従属した存在であることを明らかにしている。また他方では,アパートを支配したイヴァン雷帝を通して住宅管理人が絶対君主としてアパートを「統治」する危険性があることも同時に示したのである。
著者
曹 建平
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.15, pp.1-18, 2015

本稿では近代満州における煙草市場の実態分析の一環として日系新聞の『満日』(マイクロフィルム)に注目し,そこに掲載された広告の内容を分析することにより煙草企業の市場販売戦略を明らかにすることを目的とする。分析にあたり,多国籍企業の英米煙草会社と日本資本の東亜煙草会社・満州煙草株式会社との広告を抽出し,広告における文字情報と図像情報から成る広告要素と広告手法に着目する。なお,史料とした『満日』は南満州鉄道株式会社が発行した『満州日日新聞』と『満州日報』との通称で,1907年に創刊され,1944年までに発行しつづけたものである。結論としては,まず,満州国期に数多くの煙草広告が掲載されたことが挙げられる。悉皆的な集計と分析をしないと正確な判断はできないが,全体的な印象としては,英米煙草会社の広告はほかのメーカーに比較すると,はるかに多いようである。これは巨大な資本力に負うことと考えられる。そして,英米煙草会社は広告にさまざまな手法を用いたりして単一銘柄を集中に広告するほか,図柄を変化させて広告効果の向上を図った。また,宣伝文のないシンプルな広告が多用され,視覚効果に訴えていた。次に,日本資本の煙草企業が新聞広告を活用していた実態が明らかになった。東亜煙草会社は早い時期から新聞に広告を出したが,掲載頻度がそれほど高くなかった。そして,日中戦争勃発前に掲載した広告はまだ普通の商品広告で,製品品質の良さや包装の美しさなどの点をアピールする余裕があったようであるが,日中戦争勃発後,戦争の相乗結果もあって消費者の愛国心を利用して国貨購入を呼びかける広告手法はその広告の基本路線となった。一方,国策会社として設立された満州煙草株式会社の広告は戦争の勃発・拡大を背景として誕生したもので,戦時宣伝や戦争支援の意味合いが見え,イデオロギーの宣伝陣地となっていた。
著者
武藤 三代平
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.16, pp.15-32, 2016

これまで明治政治史を論及する際,榎本武揚は黒田清隆を領袖と仰ぐことで,その権力基盤を維持しているものとされてきた。箱館戦争を降伏して獄中にあった榎本を,黒田が助命運動を展開して赦免に至った一事は美談としても完成され,人口に膾炙している。そのためもあり,黒田が明治政界に進出した榎本の後ろ盾となり,終始一貫して,両者が「盟友」関係にあったことは疑いを挟む余地がないと考えられてきた。はたしてこの「榎本=黒田」という権力構図を鵜呑みにしてよいのだろうか。榎本に関する個人研究では,明治政府内で栄達する榎本を,黒田の政治権力が背景にあるとし,盲目的に有能視する論理で説明をしてきた。榎本を政府内でのピンチヒッターとする一事も,その有能論から派生した評価である。しかし,榎本もまた浮沈を伴いながら政界を歩んだ,藩閥政府内での一人の政治的アクターである。ひたすら有能論を唱える定説が,かえって榎本の政府内での立ち位置を曇らせる要因となっている。本稿では榎本が本格的に中央政界に進出した明治十年代を中心とし,井上馨との関係を基軸に榎本の事績を再検討することで,太政官制度から内閣制度発足に至るまでの榎本の政治的な位置づけを定義するものである。この明治十年代,榎本と黒田の関係は最も疎遠になる。1879年,井上馨が外務卿になると,榎本は外務大輔に就任し,その信頼関係を構築する。これ以降,榎本の海軍卿,宮内省出仕,駐清特命全権公使,そして内閣制度発足とともに逓信大臣に就任するまでの過程において,随所に井上馨による後援が確認される。この事実は,従来の政治史において定説とされてきた,「榎本=黒田」という藩閥的な権力構図を根本から見直さなければならない可能性をはらんでいる。
著者
許 春艶
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.15, pp.39-49, 2015

本稿は漢訳洋書の一つである『全体新論』の医学用語の受容について考察したものである。『全体新論』は近代中国においてはじめて西洋医学を紹介した生理学入門書であり、イギリスのロンドン会に所属する宣教医ホブソンにより漢文で著され、咸豊元年(一八五一)に出版された。『全体新論』出版後、日本へは嘉永末年(一八五四)ごろに伝わり、安政四年(一八五七)年に翻刻された。明治期に入ると、二種の和訳書である『全体新論訳解』が出版された。『全体新論』は日本に伝わったあと、当時の知識人に広く学習された。和刻本と和訳書の刊行は幕末明治初期の日本医学に影響を与えた。近年、『全体新論』をめぐる日中医学の語彙交流に関する研究成果が蓄積されたが、『全体新論』に見られる医学用語がどのように受け入れられたのかに関する研究はほとんどなされていない。そこで、本稿は、『全体新論』における「〜骨」を対象に、二種の『全体新論訳解』と明治初期の医学用語集に受け入れられた状況を考察する。とくに、ホブソンの造語である「坐骨」「蝶骨」に注目し、それらの日本における受容状況を分析する。
著者
唐 雪
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.15, pp.123-134, 2015

太宰治の「古典風」は一九三七年一〇月から一二月にかけて執筆された未発表の旧稿「貴族風」を書き直した短編小説である。一九四〇年六月の『知性』第三巻第六号の創作欄に掲載されたのち、単行本『女の決闘』(一九四〇・六、河出書房)に収められた。第一創作集『晩年』(一九三六・六、砂子屋書房)、後続の『虚構の彷徨』(一九三七・六、新潮社)、『二十世紀旗手』(版画荘文庫4、一九三七・七、版画荘)に収録されたテクスト群は、いずれも独特な手法を取り入れた異色作である。しかし、その後、諸般の事情のため、発表作品は少なく、作家としての活動は停滞していたかのように見える。ほぼ二年の沈黙を破ったのは、一九三九年五月に竹村書房から刊行された書下ろし短編小説集『愛と美について』によってである。その沈黙の間に書かれた「古典風」は正面から取り上げて論じられたことがほとんどなく、先行研究も極めて少ない。均整の取れた文学の反措定としての小説を生涯にわたって生産し続けた太宰は「古典風」で何を実践しようとしたのか。本稿は「貴族風」を視野に入れ、テクストに見られる象徴性の問題などを念頭に置きつつ、あらためて「古典風」の構造上の特徴を考察する。同時に、前期のテクスト群との比較を通して、「古典風」の再評価および太宰文学における位置づけも試みたい。
著者
寺山 千紗都
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.12, pp.1-16, 2012

長きに渡り法によって隔離の対象とされ、偏見と差別に晒された歴史を持つハンセン病という病が殺人の動機として焦点化される『砂の器』は、同時代の推理小説を「社会派」一色にした松本清張を代表する長編作品である。社会派とは、推理小説におけるリアリズムや社会に対する問題提起性を重要視した清張の発言と作風に影響を受けた作品の一群のことであり、その社会派推理小説の金字塔とも呼ばれるこの作品は、日本の社会に現存していた疾病差別の実態を明らかにしているとして、現在も高く評価されている。しかし、推理小説における〞解決〝という点に着目してこの作品を見直してみると、作品の最後で明かされる推理には、真である保証も論理性も欠落していることが明らかになる。動機の保持者がすなわち犯人と名指されるこの作品は、推理された動機が、殺人という行動を起こすに足ると読者が認めるという行動を通して読者自身が〞解決〝する推理小説、と考えることもできるが、このような『砂の器』の推理小説としての〞特徴〝は、ハンセン病に対する「差別」を読者の内に構成するという仕掛けとして機能する可能性を浮上させる。感染力も微弱であり、戦後すぐの時点で日本でも外来治療が可能と医学的に認められていたハンセン病に対し、日本は、『砂の器』の連載が開始された一九六〇年になっても、依然隔離と優生手術の必要が明記された「らい予防法」が保持し続けており、世界から批判の対象となっていた。マスコミも隔離を支持していたという当時の日本にあって、読売新聞という全国紙でハンセン病による悲劇を綴った清張の功績は大きい。しかし、ハンセン病を殺人の動機として推理小説の構造に組み込んでしまったことで、さらに、その推理小説の解決を読者に委ねてしまったことで、『砂の器』はどのような事態を読者に呼び起こし得るのか。ハンセン病に対する「差別」の歴史と合わせながら、この作品がもたらした効果の二面性について考察を行った。
著者
坂本 真惟
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.14, pp.1-14, 2014

1529年からの神聖ローマ皇帝カール5世によるイタリア凱旋巡行のために,イタリア各地ではその地の最高の芸術家を動員して,その祝祭に備えた。イタリア中部の都市シエナも例外ではなく,カール5世来訪を歓迎するために,政府は多くの芸術家に作品制作を依頼していた。その中で最も重要であったのが,ドメニコ・ベッカフーミ(1486-1551年)によるシエナ市庁舎コンチストーロの間(Palazzo Pubblico,Sala del Concistoro)の天井画である。これまで先行研究では,本作品に示された思想的な源泉を探ることが中心に論じられることが多く,その図像に関する考察は十分とは言い難い。そのため,本稿ではそれまでのシエナ美術との比較を通して,本作品にシエナ美術の伝統とベッカフーミの新しい工夫の双方が示されていることを指摘する。具体的には«スプリウス・カッシウスによる打ち首»と«アエミリウス・レピドゥスとフルウィウス・フラックスの和解»の二場面を取り上げ,「斬首の図像」,「抱擁の図像」,「背景の建築モティーフ」に注目する。以上の議論を通して,本作品がシエナ美術の伝統を踏襲しながらも,新たな工夫を加えて描かれ,そのことによって古代ローマにさかのぼるシエナの系譜と,政治・芸術の面での繁栄を誇った13-14世紀シエナの黄金時代の再来を示していると結論づける。
著者
李 雅旬
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.111-124, 2016-12-15

川端康成『美しさと哀しみと』は雑誌連載当時、加山又造の挿絵が六十六葉も添えられていた。それらが非常に好評であったにもかかわらず、これまでの『美しさと哀しみと』論ではほとんど考慮に入れられてこなかった。また、初出の結び方について、同時代評にも先行研究にも批判の声が絶えなかったが、その原因はいったいどこにあるだろうか。さらに、『日本の文学』の第三十八巻『川端康成』(中央公論社、一九六四・三)に収録される際に結末の部分は書き加えられた。この加筆をめぐってどう解釈すればよいか。この小論の目的は、『美しさと哀しみと』の物語内容と挿絵とを合わせて分析し、とりわけ最後の一葉、およびそれに関連する小説の結末を再検討することにある。つまるところ、初出の結末は古賀春江の「煙火」に描かれた画面に向かって進んでいたのであり、川端所蔵の美術品は隠された形で物語の展開に関与していたのである。なお、結末の加筆に関しは、時間論的観点から、加筆によってテクストに余韻が無くなったという批判的な解釈を導き出す。
著者
余 迅
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.14, pp.187-203, 2014

葉霊鳳(1904-1975)は、創造社の中堅社員として、よく海派文学の代表者と考えられているが、日本で書かれた葉霊鳳に関する論文は、筆者の知る限りでは非常に少ない。葉霊鳳研究を推進するため、本論文は、中国における葉霊鳳への評価を、20~30年代、80~90年代、21世紀以後に分けながら、彼に対する評価が否定的なものから、肯定的なものへと変わってきていることを紹介した。中国では、魯迅によって、「年若くみめ美しくして、歯白く唇紅くなる」という否定的な評価が与えられてから、それが葉霊鳳評価のよりどころとなった。80~90年代、葉霊鳳の作品が再評価され、特に性愛小説や書評などが高く評価された。しかし、「反逆者」・「売国奴」という人々の心に残された深いイメージが、日本における葉霊鳳研究にも影響を及ぼした。また、あくまでも題材的に社会性があるかどうかという点が葉霊鳳を評価する際の基準となっていることは、現在に至るまで変わっていない。葉霊鳳は、小説家であると同時に、優秀な画家である。近年の海派小説研究は、葉霊鳳作品におけるデカダンス、また西洋文学の受容に注目しているものの、葉霊鳳と絵画との関係については本格的に論じていない。よって、本論文の後半で、葉霊鳳と絵画の関係について少しだけ触れ、蕗谷虹兒の受容をめぐって、葉霊鳳小説における絵画的要素「フレーム」に着目し、テクストの再考を試みた。葉霊鳳小説の中には、フレームの形態との類似が看取できた。また、フレームによって、語り手と登場人物、現実と幻想が切断され、不思議な「夢世界」が生み出された。
著者
高 啓豪
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.35-47, 2013

個人の身体は、他者とのつながりによって初めて社会性を持つ。これを体現した言葉のひとつに「貞操」があると思われる。この言葉は、極めて私的な領域のものでありながら、公での評価によって初めて意義を持つという、両極端の意義を具有している。本発表では、明治時代の上野で起きた戊辰戦争と内国博覧会を背景に描いた芥川龍之介の「お富の貞操」を貞操のテクストとして取り上げ、語り手・芥川龍之介が駆使した貞操のレトリックを再考し、読み解いていきたい。物語の場所は明治元年と明治二十三年の上野というトポスである。同一の場所ながらも、そこに付与される意味合い・ニュアンスが時代推移によって変わる特徴的な作品として、近代化が表象され可視化されるのである。そこから戊辰戦争という戦時中における非戦闘員である女性に加えられるレイプという形の暴力問題、婦人貞操問題、ひいては日本の近代化などの問題を、身体論の視点から考える。物語のタイトル「お富の貞操」に鑑みて、作品の主人公がお富であることはたやすく思いつく。本作は、お富の持ち前のおおらかな性格が、家庭を幸福へと導く物語であることとの読み解き方が多かった。しかし、語り手芥川が、本作品を第三人称で描いているため、物語においてもう一人の登場人物新公にも同様の重みが置かれていることは見過ごされがちである。新公の立身出世が語られる結末があるからこそ、そこには描かれていないテクストとして、新公の改心談が対等的に存在すると思われる。そこで、本作品と芥川が題材を得たとみられるストリンドベリィの「令嬢ジュリー」(一八八八年)との比較を皮切りに、登場人物の男女の位相、男性の持つ上昇志向などを併せて論じたい。また、近代化では個人の自覚が要請されるが、結局のところ、本作での「近代化」は明治政府による国家の傘下に厳重に管理され、内国博覧会という形で収束されるメタファーとして描かれていると思われる。本発表は、一九二〇年代に発表された「お富の貞操」という作品を取り巻く言説の中から、近代化の中で貞操という概念は如何に確立され、国家の中においてどう機能しているかを考察する。「貞操」は女性のためにあるものか、男性のために作られた制度か。これは、身体・セクシュアリティのアプローチを通して考えると興味深いものである。
著者
鈴木 仁
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.1-23, 2016-01-15

本論は、昭和期に内地で広まった郷土教育運動を背景に、「外地」樺太における郷土研究・郷土教育の活動をまとめた。内 地では、文部省により昭和五年度からの十二年度までに、師範学校への研究設備施設費の補助や、講習会の開催が実施され、 民間団体の郷土教育連盟による普及啓発が、各地の学校、教職員に影響を与えた。そこには、明治期からの地方(郷土)研 究の実績を教育への実践に取り入れ、郷土愛からの愛国心涵養の目的があった。「外地」である樺太は、教育行政を樺太庁が担っており、文部省の補助は適用されていないが、教職員は独自の郷土教育活動を模索している。他の「外地」が、郷土教育において重要視された「地域性」と、愛国心涵養を目指した「同化」との矛盾を抱えているのに対し、住民の九割以上が日本人(内地人)である樺太では、内地と同じく日本人子弟を対象とした教育政策がとられていた。だが、日本人移民の入植が広がることで新に社会が形成された樺太には、内地のような「郷土史」や、郷土研究の蓄積を有しておらず、郷土教育では樺太の「郷土像」を作り上げることが課題となる。本論は、第一節で樺太における郷土研究と郷土教育の活動についてまとめ、第二節では郷土教育の教授方法の一つである「郷土読本」について、編纂の記録や残された資料を事例に取り上げた。第三節では郷土史としての樺太史の研究と顕彰、教育への導入について、豊原中学校・樺太庁師範学校の校長となった上田光の発言、事績から、「郷土像」の形成過程を考察している。
著者
梅木 佳代
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.15, pp.35-67, 2015

本稿は,エゾオオカミ(Canis lupus hattai)に関する従来の研究動向を概観し,個々の論点における現状の到達点と問題点を整理することを目的とする。日本国内にかつて生息していたエゾオオカミおよびニホンオオカミ(Canis lupus hodophilax あるいはCanis hodophilax)は,どちらも明治時代に絶滅した。これら在来のオオカミに対する関心は高く,明治時代以来さまざまな形で情報の発信と蓄積が行われてきた。しかし,その内容や成果の全体が整理されまとめられたことはない。本稿では明治時代から現在までに刊行された日本のオオカミについて記述がある文献を収集し,そのうちエゾオオカミに言及する213件の文献を分析対象としてその研究史を検討した。これらの文献の内容から,従来の知見の多くが限られた事例に基づいて提唱されたものであること,その妥当性の評価が行われていないことが示された。エゾオオカミに関する研究・議論においては,北海道内にオオカミが生息していた期間の記録や情報,そして確実な標本資料の双方が非常に少ないことが常に議論の前提とされてきた。しかし,専門的・学術的な議論の中ではそうした前提をふまえた「仮説」として提示された記述が,繰り返し参照されるうちに定説と化している。また,限られた情報に基づいて提唱された知見が一般化される一方で,エゾオオカミに関する情報や資料を体系的に収集し,情報を質・量ともに拡充しようとする試みはごく一部にとどまっている。今後のエゾオオカミに関する研究では,既存の知見の妥当性の評価が求められると同時に,検討対象とするべき情報や事例の数を増やすことが優先的に目指されるべきである。
著者
大谷 伸治
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.11, pp.1-16, 2011

本稿は、昭和戦前期に国民精神文化研究所で「日本政治学」の確立に従事した藤澤親雄の思想について論じるものである。これまでの藤澤を取り上げた研究は、藤澤=独善的な日本主義者という固定観念が強いあまりに、藤澤の言説をいくつか引用するだけで、自由を否定する単純な反近代・反動復古主義者と評価してきた。しかし、藤澤は主観的には、個人の価値や民主主義等の西欧近代的なものを根本的に否定したことはなく、自由主義・個人主義が果たした歴史的意義を認め、その良さを残しながら、危機を乗り越える新しい原理を日本の国体に見出し、それを体系化しようとしていた。また、それはすべてが日本主義的・民族主義的に論じられたわけではなく、西洋諸思想との関連を有しており、「道」「産霊」といった日本的・東洋的な用語を冠していながらも、その目的意識や内容は、彼が批判した矢部貞治の衆民政論と非常に類似していた。すなわち、藤澤と矢部のデモクラシーに対する見方は根本的に違ったが、自由主義・個人主義を克服し、あらゆる対立矛盾を統合する天皇を中心とした民族共同体の構築を目指すという構造的な面において、両者は一致していた。したがって、藤澤の「日本政治学」は、単にファシズム体制を正当化するために唱えられたとするのは正確ではなく、当時さかんに叫ばれた近代の危機に対する政治学的な処方箋の一つであり、彼の意図に反し、当時の日本における代表的な政治学者の一人である矢部貞治の西欧的なデモクラシー論と親和性をもつものであった。また、藤澤が、天皇機関説のみならず、天皇主権説をも否定していたことや、天皇からの恩恵的な権利だとはいえ、「臣民に食を保証する権利」という生存権に類するような権利を認めるべきだと考えていたことも興味深い事実であった。しかし一方で、天皇の権威に服することで日本人はすべて自由であり、天皇にまつろはぬ者には強制力を行使してもかまわないと、国体・天皇に対してあまりに盲目的であった点において、藤澤の「日本政治学」はやはり問題であった。
著者
工藤 遥
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.453-474, 2013

子育て家庭の孤立や育児不安の拡がりを背景に,日本では「子育てサロン」と呼ばれる地域子育て支援拠点づくりが全国的に進められている。地域に住む乳幼児の親子が集う場である子育てサロンは,育児に関する情報提供や相談等を行うフォーマルな子育て支援機関であるが,大都市では,母親同士が「ママ友」等の育児ネットワークを形成し,インフォーマルな育児援助を交換する場・機会としても機能している。本稿では,少子化と核家族化が顕著な大都市である札幌市で実施した質的調査をもとに,子育てサロンおよびその内部における母親同士の育児援助の機能を,「子育てサポートシステム」の視点から検討した。この分析枠組みでは,乳幼児の母親の子育てを支える育児援助は,制度的支援と関係的支援の2つのサポート構造と,3つのサポート機能(直接・間接・複合サポート)および2つのサポート側面(道具的・表出的サポート側面)でとらえられる。制度的支援としての子育てサロンは,運営形態により,センター型,児童館型,地域主体型,常設ひろば型に4分類できる。各類型の子育てサロンでは,保育や発達教育,リフレッシュ支援といったフォーマルなサポート機能が異なっている。また,施設内部で母親同士が相互に行うインフォーマルな関係的支援のサポート機能も,それぞれ異なる特徴や段階がみられる。また,子育てサロンにおける集まりの一部では,母親同士の互助の進展と並行して,育児ネットワークや小集団の形成がみられ,集まりの3つの段階(coming,keeping,working)を経て,「支えあい」の福祉コミュニティへと発展する可能性もうかがわれる。ただし,「子育ち」の視点に立てば,家庭内および子育てサロンの内部における第一・第二の母子孤立を解消し,子どもの発達に重要となる性別・世代混成的なコミュニティを目指した子育て環境づくりが望まれる。
著者
金城 達也 寺林 暁良
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.469-489, 2012-12-26

本稿は徳之島における生業活動の組み合わせとその変遷を整理し,そのな かでのソテツの位置づけを明らかにすることを目的とした。 歴史的に見た場合,徳之島の生業は稲作を主体に成り立っていた。同時に サトウキビの生産も重要な位置にあり続けた。また,イモや野菜類は自家用 の作物として栽培され,食糧が十分に手に入らない時代には主食のひとつと して重宝されていた。しかしながら現在においては水稲作付は自家用を除い てほとんど営まれなくなった。 そのような状況のなか,徳之島ではソテツの広がる景観が残されてきた。 畑地などの空間にソテツが配置されてきた意味も,こうした生業複合のなか で位置づけられる。同時に,徳之島におけるソテツの意義は現在の利用のな かでも位置づけなおすことができる。 その結果,徳之島の人々が歴史的に複合的に生業を組み合わせることで生 活をなりたたせてきたことが明らかになった。そのうえで,現在の徳之島に おけるソテツ景観が人々の多様な生業活動の結果として形成されてきたこと を指摘し,二次的生業(Second major subsistence)としてのソテツの可能性 について議論した。
著者
深山 洋平
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.12, pp.31-46, 2012

ヘルマン(Geoffrey Hellman)は2003年の著作〝Does category theoryprovide a framework for mathematical structuralism?"(Hellman,2003)において,マックレーン(Saunders Mac Lane)による数学の圏論的基礎付け(MacLane& Moerdijk,1992)とアウディ(Steve Awodey)の圏論を用いる構造主義(Awodey,1996)を誤って結びつけた。彼がどのように誤ったかは,アウディの圏論を用いる構造主義の実際を見ることで理解できる。さらにアウディの構造主義に特徴的な「図式」の概念(Awodey,2004)に対してヘルマンは数学的真理の所在と射のみの立場の一貫性の観点から疑問を呈している(Hellman,2009)。前者の問いは図式の指示の観点から実際に問題であり,後者の疑問は不適切な問題設定であると思われる。
著者
村松 哲夫
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.11-28, 2011-12-26

東日本大震災のような大規模な災害が発生した場合,復旧・復興に向けた中長期的支援と同時並行的に短期的支援,すなわち,生活必需品,医療資源を可及的速やかに被災地に送らなければならない。実際,政府は自衛隊に災害派遣命令を出して,行方不明者の捜索に当たらせると共に,現地に物資を 運ばせた。一方,民間企業も独自に物資を被災地に送った。しかし,結果として,被災民に物資が十分に届いたとは言えなかった。これで特に困るのは慢性疾患患者である。日常的に服用している薬が入手できず,服用が途絶すれば,疾患の悪化は時間の問題である。 被災地域以外では,物資が十分にあり,生産余力も十分にあるのにもかかわらず,被災地に物資が届かないのは,官民共同のロジスティクスが構築できないからである。 このようなときは,政府が率先して民間に頭を下げて協力を要請すべきである。そして,それにかかる費用は政府が責任を持って支弁し,後に国民は相応の負担を甘受すべきである。その上で,官民共同のロジスティクスを早急に構築し,被災者に大量の物資を供給すべきである。そうすれば,生活必需品,医薬品も送れる。これによって,一般被災者だけではなく,慢性疾患患者も安できる。特に後者は必要な薬を入手,服用でき,それによって,疾患の悪化をある程度抑えられる。これは,中長期的に見ると,医療費の抑制に繫がり,そこで節減できた医療費を復興財源の一部にも充てられる。 今回のような轍を踏まないために,政府,地方自治体,企業,国民は,災害への備えを怠るべきではない。
著者
ファルトゥシナヤ エカテリーナ
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.49-67, 2010-12-24

外国文学と比較した際に顕著となる日本文学の特徴として、エッセーというジャンルが盛んであることと、早い段階に女性作家が登場し、今日まで一定の地位を保ち続けていることが挙げられる。本論文では、日本の女性作家のエッセーにおけるモノの描写に着目し、モノの描写がとりわけ顕著に見られるふたりの女性作家、幸田文と向田邦子を取り上げる。ふたりの作家のモノに対する関わりを分析することで、昭和の女性作家のエッセーの特質となる共通点を明らかにし、さらにふたりの相違点にも注目したい。 幸田文の作品からは『かけら』、『髪』、『雛』を取り上げる。向田邦子については、エッセー集「父の詫び状」から『子どもたちの夜』、『ねずみ花火』、『卵とわたし』、『隣りの神様』を取り上げる。
著者
森下 義亜
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.375-389, 2012-12-26

コミュニティは社会学の鍵概念の一つであり,さまざまに理解・解釈され ながらも,古くて新しい研究テーマとして社会学研究の伝統を占めてきた。 同概念は近年,再び多方面で用いられている。現代都市では,高齢者の社会 的孤立などの種々の課題への対処のためにコミュニティ概念の有効性が認識 されているからである。しかし地域社会での施策が多様化・増加するにもか かわらず,コミュニティの減退や喪失が危惧されているという逆説的現状が あり,高齢者については孤独死・孤立死の問題も起きている。これを踏まえ, 本稿では地域社会でのコミュニティ形成が困難な要因を探ることを目的とす る。 そのためにまず,社会学におけるコミュニティ概念の理論研究の内容を整 理する。そこから読み取れるのは,コミュニティの解放による個人主体の社 会的関係の多様化がみられる一方で,地域社会での集合的なコミュニティの 形成・再生が困難になっているという,現代都市コミュニティの課題の本質 である。 この課題にはコミュニティ形成を目的とする地域社会構造も関連してい る。コミュニティ形成の起点となるのはアソシエーションであり,本研究の 調査地である札幌市では町内会・自治会,および市民活動団体が混在してい るが,近年の同市のコミュニティ形成施策によって,両者が協働する枠組み が整備された。しかしながら現段階では市民活動団体は地域社会システムを 担うまでにはなっておらず,事例としてとりあげる白石区においては,その 枠組みの中心となっているのは町内会・自治会である。その運営や活動はお もに高齢者が担っており,社会参加の観点での意義は小さくない。 しかし低下する加入率や活動参加率から,コミュニティ形成の枠組みが形 骸化している面が指摘できる。また人口構成や町内会・自治会加入率の高低 などの地域特性によらず,全市一律のコミュニティ形成の枠組みとなってい ることも課題の一つであると考えられる。今後の調査では,同枠組みをどの ように活用し,急速に高齢化する札幌市におけるコミュニティ形成をいかに 実現するかを研究する必要がある。
著者
郭 莉莉
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.12, pp.391-412, 2012

現在,アメリカとフランスを除く先進諸国は,軒並み低出生率を示している。日本でも「少子化対策」が時代のキーワードになって久しい。ひのえうまの1966年の合計特殊出生率1.58を下回り,1989年に1.57が記録され,「1.57ショック」と騒がれた1990年以降,日本政府によるさまざまな少子化対策はほとんど毎年行われてきたものの,効果が薄く,合計特出生率は1.30台の低い水準で推移してきた。次世代人口が縮小すると,公共財である年金,医療保険,介護保険などが危うくなる。一方,中国では,1979年から30年余り続けられてきた「一人っ子政策」により,現在でも出生率の低下が激しく,子ども数が急減した結果,子ども1人が両親2人と祖父母4人を扶養する負担を背負っている「421問題」が浮上した。併行して家族構造が空洞化しつつあり,大都市では高齢化も急速に進んできて,それに伴う介護問題が深刻になってきた。このように,「少子化する高齢社会」(金子,2006)の動向は,世界の先進国と中進国を問わず大きな社会問題になっている。近年,日本では少子化を克服した先進国フランスの実情が広く知られるようになったために,その改善方法に学ぶ気運が高まっている。国民負担率と出産文化の違いに代表されるように,少子化に悩んでいる日本と克服したフランスでは制度や国民性なども相違はもちろんあるが,フランスにおける育児家族への支援の優良事例を検討することは,日本で少子化対策を新たに創造するうえで参考になると思われる。支援学の観点からすれば,子育て支援には金子が提唱した自助,互助,共助,公助,商助の5類型がある(金子,2002)。本稿では,日中両国の少子化の現状,原因,影響などを考察したうえで,子育て環境として,家族からの支援(自助)と行政からの支援(公助)に焦点を当てて,論じてみる。日本と中国は東アジアに所属し,欧米と比べ婚外子率の低さに代表されるように,婚姻・家族をめぐる文化や生活習慣,共有するといわれる儒教的価値観などの面において,多くの共通点があるように思われる。日本の「少子化する高齢社会」の現象は,中国にとっても近未来に生じる可能性が高い。少子化対策に関して,20年余りの試行錯誤を重ねてきた日本の経験に鑑み,欧米諸国と比較するという国際化の前に,まず東アジアに日本の経験を正確に伝えるという国際化を図ることが先決であろう。