- 著者
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張 集歓
- 出版者
- 北海道大学文学研究科
- 雑誌
- 北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
- 巻号頁・発行日
- no.15, pp.19-34, 2015
本稿は,1930年代の中国華南地域において活動していた南京中央政府に対抗する政治派閥の西南派の政治姿勢を,対中央攻撃期,模索期,接近期の三つの異なる対立関係期に照合しながら,当該時期の地方政治人物及び中国政治の特質に対する検討を試みたものである。西南派の活動の軸となるものは,彼らがずっと掲げてきた「反日」「倒蒋」および「剿共」の三つの並行の政治主張であったが,政治主張は常に眼前の政治情勢に対応できるよう,シフトを繰り返されていた。対抗期の初期から中期において,彼らにとって蒋介石の南京中央政府の威圧こそが最大の敵であり,焦眉の急であったため,「抗日」の姿勢も,「抗日をしない」南京中央政府への攻撃の側面を持つことになる。その一例として,胡漢民に代表された西南派の日本の侵略に対する認識は,蒋介石と同等のものであり,同時代の中でも相当冷静で鋭い判断を下されていたのにもかかわらず,南京中央政府への対抗の基盤を強化するため,短い期間ではあったが,接近してきた日本側との「提携」が企図されていたことも確認できた。このように,当時の西南派及び西南政権は,必要となれば脅威の順位が下位にある敵とのある程度の「提携」も辞さない境地に置かれていたことの裏づけと言える。また,国内においては,西南派は初期から華北の軍事指導者らと連絡を取り合い,「華北の改造」を通じて反蒋運動を推し進めていた。同様の意図に基づいて,彼らは十九路軍が上海戦から撤退して福建に進駐すると,広東という人と地域のネットワークを駆使し,最大の反蒋連盟ともなり得る西南大連合の結成を推し進めていたが,同盟相手の福建の急進及び共産党提携に失望した彼らに,切り崩しを図る蒋介石は接近したのである。そして,数度にわたる蒋介石の譲歩と接近に対して,西南派は徐々に対抗姿勢は軟化していく。言い換えれば,彼らは,それまで情勢に応じて自らの政治主張をシフトさせてきたが,向かう方向は常に一定していた。それは,つまり中央政権への返り咲くことであった。