著者
シリヌット クーチャルーンパイブーン
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.475-493, 2013

タイにおける学生運動は,言論の自由を含む1968年の憲法公布をきっかけに,様々な動きが見られるようになった。本稿では,新聞記事の分析を通じて,事例として取り上げた「反野口運動」と「日本製品不買運動」の背景や関連を考察した上で,タイにおける学生運動の展開かつ運動の成否に関わった資源や運動に貢献した政治的機会の観点から考察を進める。「野口キック・ボクシング・ジム事件」による「反野口運動」及び「日本製品不買運動」は,いずれもタイにおける日本の経済侵略に対する不満や不安感が高揚していた状況の中で起きたものである。「反野口運動」において,新聞記事を分析した結果,「ムアイ・タイ」を「キック・ボクシング」と呼んでいることや野口のムアイ・タイに対する捉え方が,タイ人の怒りを招いた一つの原因であると論じられる。また,「反野口運動」は,学生運動としての位置付けはこれまでされていないが,学生が大きな役割を果たしていたとは言える。一方「日本製品不買運動」は,タイにおける初めての本格的な学生運動であったと評価されている。運動を呼び起こした要因としては,日本のタイに対する経済侵略への不安及び不満が挙げられるが,他にも当時の独裁政権に対する不満が日本に転移して表現され,日本がスケープゴートにされたということも考えられる。両運動の関連については,「野口キック・ボクシング・ジム事件」は「日本製品不買運動」を導く口火であったと言える。「野口キック・ボクシング・ジム事件」によって,運動のモジュールを獲得した新聞と学生は,同様のパターンを用いて一個の国を攻撃対象とした大規模な「日本製品不買運動」を展開することができたと考えることもできる。運動の成否を決定する資源について,本稿では①良心的支持者による物資的援助,②社会問題改善に対する意識を強く持つ大量の学生,③小規模の運動によるにノウハウ,④タイ全国学生センターと学内における少数のセミナーグループといった学生ネットワーク,そして,⑤政治的機会の増加,といった五つの資源が運動の成否に貢献したと論じる。
著者
張 捷
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.267-287, 2012-12-26

山鹿素行(一六二二~一六八五)は,江戸時代初期の儒学者,兵学者であ り,山鹿流兵法の開祖,古学派の先駆けである。『孫子諺義』を含む『七書諺 義』は,素行の兵学思想が最も円熟した時期の著作である。本稿では,『孫子 諺義』を中心資料として,素行後期の兵学思想に考察を加えた。 『孫子』の日本伝来については,『日本書記』や『三国史記』に基づいて, 四〇八年以前に大陸から朝鮮半島へ伝わり,五二七年以前に朝鮮半島から日 本へ伝わったという新たな仮説を提出した。『孫子』の版本には,『魏武帝注 孫子』と『十一家注孫子』との二系統に分けられるが,『孫子諺義』では,『魏 武帝注孫子』すなわち『武経七書』系統を利用した可能性が高い。素行は, 訓をもって字句ごとに極めて詳細に注釈し,他学者の見解も列挙し,一定 の融通性を示している。『孫子諺義』の執筆期間は一ヶ月未満であるにもかか わらず,大量の資料を引用し詳しく解説していることから,素行の博覧強記 ぶりが伺える。素行の兵学思想は,「詭道」と「五事」の「道」についての解 釈から見える。同じ「道」の字であるが,意味・内容が異なっており,混同 しやすく,長い間兵学は儒学的観点から異端視された。素行は「詭」を奇, 権,変と解釈し,「詭道」を合戦する際に敵が予想できない勝利を制する手段 としている。素行の「士道論」,即ち武士の職分には『孫子』の「五事」の「道」 の影響が見える。武士は君主と農工商の三民との架け橋であり,忠を尽くす ことや,三民を教化することなどによって上下の心を一つにする。素行は, 伝統的な奉公の忠誠心に,儒教の人倫を実践する主張と,兵学の管理の方策 に加えて,新たな職分論を提出した。『孫子諺義』を完成した時期は,素行が 中国の文化から離脱しようと主張した時期であるが,漢文化の影響が色濃く 残っているので,晩年の著作を見ると,素行は漢文化から完全に離脱するこ とはできなかったと言える。
著者
矢板 晋
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.531-551, 2013-12-20

近年グローバル化する日本社会において,移民の子どもをめぐる教育問題 が顕在化している。そこでは,彼/彼女らが周辺化―不就学・不登校・学業 不達成―される実態がある。では,移民子弟はどのように周辺化されている のか。また,それはなぜか。さらに「日本の教育」は,どのような教育的公 正を実現すべきか。 筆者は2010年に栃木県真岡市で,2012年に同市と群馬県伊勢崎市で調査 を行った。調査対象は,真岡市の公立小中学校,国際交流協会,教育委員会, NPO法人「SAKU・ら」,伊勢崎市のNPO多言語教育研究所ICS(InternationalCommunitySchool) である。調査方法は主に半構造化面接調査と参与 観察である。 まず,周辺化の実態には大きく二つ考えられる。即ち,「親の周辺化」と「子 の周辺化」である。さらに,前者は「地域」「学校」において,後者は「学校」 「教育機会」「家庭」という空間で周辺化されている。 次に,周辺化の原因は大きく3つ考えられる。第一に,積極的ラベリング と消極的ラベリングというラベリング論からのアプローチである。第二に, 移民子弟や教員の使用言語をめぐる,言語コード論的アプローチだ。第三に, 就学段階における必須要素の欠如である。移民子弟の就学には,学校に「接 触」し,学校生活に「適応」,最後に「継続」して学校に通い続けるという3 段階が存在し,各段階で言語資本や社会関係資本などの不足がキーとなる。 最後に,移民子弟を考慮した教育的公正が必要である。「公正」とは,「平 等」の十分条件と解釈され,日本における多文化共生や多文化教育の重要な 概念である。移民子弟の教育的公正に関しては,各就学段階における公正を 実現すべきである。即ち「接触」段階では言語や文化的背景に着目した「象 徴的公正」,「適応」段階においては学習資源や人間関係を中心とする「資源 的公正」,「継続(移行)」段階では進級や進学制度における「制度的公正」の 達成が望まれる。
著者
魏力 米克拉依
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.29-50, 2011-12-26

本稿は,主に現代ウイグル語の漢語借用に見られる音韻現象を分析ものである。具体的な分析の対象は音の対応,母音脱落・融合,渡り音による再音節化などの現象であり,系統的な関連性がない両言語の間に起こる一定の音の対応及び音節構造を決定する要因について検討する。まず,背景となる漢 語借用の先行記述及び現状などから漢語借用語の典型的な音の対応を,次の5つにまとめる:1)複合母音の短縮;2)唇歯摩擦音の両唇閉鎖音化;3)漢語zi[ʦɿ] の母音同化;4)そり舌音の硬口音蓋化;5)破擦音の摩擦音化;次いで,現代ウイグル語の音韻特徴と音節構造を先行記述に基づき,借用語の音韻特徴を考えるとき,そもそも地域で話される借用元となる漢語方言を基盤として考えるべきことを示す。そして,日常的に定着している漢語からの借用データを基に,借用語の音韻構造について再検討を行う。音韻構造の中でも音の変化と音節構造に焦点を置く。そこで,結論として具体的には次のようなことを挙げる:1)母音連続を避けるため,母音脱落,半母音化などが起きる;2)唇歯音f[f]>両唇音p[p]>両唇音[
著者
堅田 諒
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.141-155, 2018-12-26

本稿ではジョン・カサヴェテス『フェイシズ』(Faces,1968)の作品分析をおこなった。従来の研究では,作家の伝記的事実ばかりが強調され,個々の画面に基づいた「ショット」や「カメラの運動性」の分析はなおざりにされてきた。したがって本稿では画面から出発し,作品のもつ豊饒さに接近したい。第1章では,本作の最も支配的なショット形態である「顔のクロースアップ」の機能と効果を分析した。カサヴェテスの顔=クロースアップは,物質性や触覚性,カメラの機械的な運動性が発露する場であり,とりわけ観客の能動的な見る意志を刺激する。第2章では,身体に目をむけた。『フェイシズ』における顔は,雄弁に何かを語ろうとするものの(たとえば人物の感情),結局何も語らないものであり,一方,身体はその寡黙さゆえに,図らずも主題があらわれる地点となる。「中年と若者」「中年の欲望」などの主題と身体はかかわる。第3章では,空間とコミュニケーションの観点から,顔/身体それぞれを考察した。一階と二階はそれぞれ異なる性質をもち,とくに一階では身体が後景においやられ,反対に顔が前景化することを明確にした。第4章では,映画ラストシーンの階段という中間的な狭間の空間と身体の関係を分析した。この特異な空間に座るリチャードとマリアを分析することにより,映画のいくつかの諸相,空間や時間性の混淆が生じることを明らかにした。階段というカサヴェテス的トポスでは,両極性が混在し,とりわけ身体において過去と未来の時制が呼びよせられ,同時的共存を果たしている,というのが本稿の論旨である。
著者
ダリン トーマス
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.229-252, 2016-01-15

本稿では,北海道諸方言の韻律的を明らかにするための一歩として北海道 の4つの方言(札幌・網走・小平・七飯)を対象に,それぞれの方言におけ る和語名詞のアクセントを記述し,指摘できるパターンを分析した。 その結果,話者が若いほど全国共通語と一致するアクセントを使う傾向が あきらかになった。つまり,北海道方言においてアクセントの共通語化が進 行中である。この傾向は2モーラ名詞のアクセントにおいて最も顕著である。 第II類語(冬,川,石など)では,本来のアクセント(平板型)が共通語と 一致する尾高型に置き換えられつつある。また,北海道方言のIV・V類語(味 噌,海,肩,秋など)では,2モーラ目の母音の性質によってアクセントが 変わる現象があるが,この特徴は40代以下の話者に観察されなかった。さら に,調査によって共通語化の程度が異なることも分かった。要するに,札幌 や網走に比べて,道北地方の小平町と道南地方の七飯町ではアクセントの共 通語化の進歩が遅れているようである。 3モーラ名詞のアクセントにおいて個人差が大きく,一貫した傾向は指摘 できなかったが,札幌・網走の方言の名詞の一部において話者の年齢と関わ るアクセント変化が観察された。ただし,ある特定の語彙において,若年層 の話者でも共通語と異なるアクセントを使う傾向があった。
著者
宮本 花恵 宮本 花恵 宮本 花恵
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.23-43, 2016-12-15

本稿では、北海道大学附属図書館蔵伝貞傳手記『大臼山御由来《慈覺大師御難行記》』(以下、『御由来』)を紹介する。 「大臼山」とは、伊達市にある大臼山道場院善光寺(以下、ウス善光寺)をさす。本資料は一般に知られている函館市中央 図書館蔵『蝦夷地大臼山善光寺縁起』とは別本である。一丁裏には、「明治四拾年六月二十日膽振國有珠町住/吉田家採訪史 料/(享保年代津軽本覚寺住佛師貞傳記之)」とあって、明治四〇年(一九〇七)六月二〇日、吉田家蔵本を書写されたもの とわかる。また、「享保年代津軽本覚寺住佛師貞傳記之」とあることから、これが享保期に津軽本覚寺の仏師貞傳が記したと する伝承があると了解される。本資料は、北海道庁寄託本であって、そもそも『北海道史』編纂のために収集された写本群 である。そのため表紙にも「北海道史編纂掛」の印が押されている。 本資料を手記したとされる良舩貞傳(一六九〇〜一七三一)は、訪蓮社と号し、享保期に津軽で活躍し、昆布養殖の産業 指導をしたとの伝説が残る僧侶である。さらに蝦夷地へ渡道し、ウス善光寺を中興したとされる伝承をもつ。蝦夷地への仏 教伝播を考察するうえで、貞傳の信仰は勘案されるべき問題である。また本資料によって、恐山と有珠山、津軽海峡を挟ん だ広域な霊場の形成が示唆される。これは下北半島と蝦夷地の人的往来に因んだものと考える。貞傳と慈覚大師円仁を軸と した恐山・有珠山の親和性が注目され、また同時代的なウス善光寺の略縁起作成など、両地域における人的移動の増加が宗 教的需要を生み出していったとも考えられる。 本稿では、北海道における貞傳信仰の実態を考察するうえで、『御由来』の翻刻が必要であると考え、報告するにいたった。 よって『御由来』の翻刻及び詳細な解説を付して、貞傳信仰研究の基礎資料と位置付けたい。
著者
モルナール レヴェンテ
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.109-123, 2018-12-26

約120年前に誕生したシネマと同時に,映画の理解を促すための,後ほど映画理論と呼ばれた研究分野が生まれた。その研究分野を総合的に考察した巨大な著作『Film Theory』では,トマス・エルセサーとマルテ・ハーゲネルは映画理論の最優先すべき問題を1つの問い掛けで次のようにまとめた。「映画とその観客の間には,どういった関係があるのか」。 映画と観客の関係性を把握し説明するために,作家や作品,ジャンル,あるいは映像などを中心とする分析は,むろんのこと非常に重要である。しかし,その関係をより科学的に記述することのできる理論は,90年代までに現れていない。と2人の著者が主張する。要するに映画理論で初期時代から絶えず言語学,美術史学,哲学および精神科学などが参考として確実に利用されているとはいえ,その点に関する理解はまだ不十分であるというのが現実であるという。 本稿では,1つの路線,すなわち現象学に基づく映画理論(Phenomenological film theory)からの提案に絞って観客と映画の関係性が孕む諸問題に触れたい。該当路線の先駆者であるヴィヴィアン・ソブチャックは,『The Address of the Eye』という先行研究で認知心理学の見方から出発して観客の立場を徹底的に再定義し,映画を観る行為を多感覚的体験として論じあげた。本稿でこの理論を包括的にまとめることは難しいとしても,ソブチャックの他に現象学的路線の2人の代表者,ローラ・U・マークスとジェニファー・バーカーによるテキストを精読した上で,今後の研究課題の出発点を俎に載せたい。
著者
趙 陽
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.205-223, 2014-12-20

『恐怖分子』(1986年)は「台湾ヌーヴェルヴァーグ」の旗手エドワード・ヤンの初期作品である。この映画は彼の集大成作品『ヤンヤン夏の想い出』(2000年)へいたる軌跡において,きわめて重要な転換点をなしている。本稿は先行研究ではほとんど分析されていない映画におけるフレームの問題に注目する。まずは自由に運動する映画のカメラという側面から出発し,本作で使われた三つのカメラの水平運動に注目する。これらのカメラの水平運動は映画の物語に寄り添いつつ,そこから独立していく。映画のカメラは人為的なコントロールから逸脱する無機的な運動を行い,その果てにある対象を切り取る。本稿はこのような水平運動するカメラのショットを分析するために,写真と関連付ける。なぜならその動きは明らかに写真的な運動だと言っていいからである。しかし『恐怖分子』のカメラは,写真機にただ附随しているに過ぎないというわけではない。本稿は『恐怖分子』の静止した映像としての写真に対する批判を明らかにするために,『欲望』という作品を参照する。『欲望』では写真機の停止=切り取りが重視されており,『恐怖分子』は写真機の運動自体を重視し,さらにその無機的な運動という性質を写真以上に貫いていく。『恐怖分子』において,切り取られた対象はやがて解体されていく。最後に,カメラの水平運動をめぐる分析を踏まえた上で,本稿は一枚の顔写真の頭部を映したショットを取り上げる。それは複数の印画紙によって構成されている登場人物の一人の不良少女の顔である。画面外から入る風によって,写真用紙は吹き飛ばされそうになる。本稿の観点から見れば,画面外から入る風がカメラの水平運動そのものである。このショットにおいて,カメラの画面外に向ける無機的な運動は映像の内部に発生する運動に変わっていく。この映像の内的な運動こそが,映画のフレームのもう一つの側面に当たる。具体的なショットの分析によって,映画特有のカメラの運動と映像の運動の性質が見えてくる。そしてエドワード・ヤンは映画を作りながら,映画というメディアに強い自意識を持っている映像作家であることが明らかになるだろう。
著者
平野 葵
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.105-116, 2014-12-20

本稿は、村上春樹『ねむり』の主人公「私」と、作中で「私」が読むレフ・トルストイの『アンナ・カレーニナ』に登場する女性たちとを、母/娘/妻としての側面を中心に比較・検討することによって、これまで女性表象に関して批判されることの多かった村上作品における、『ねむり』の位置づけ及び評価を行うものである。『ねむり』の語り手であり、息子を持つ専業主婦の「私」が直面する母性愛の揺らぎと沈黙、そして彼女が迎える暗い結末は、社会が敷いた暗黙の規範から逸脱してしまった女性の、その出口のない苦悩と恐怖とを表している。村上春樹の初期作品では、視点人物の男性には見抜けない不透明な沈黙として女性の問題が描かれており、問題そのものよりもその不可視性の深刻さを提示する傾向にあった。しかし近年の作品では、女性視点を導入し、女性に対する家庭内暴力や性暴力や、妊娠・出産などの母性に関わる問題を、可視的に描く方向へと変化している。この小説では、語り手である女性が、自身の母性愛の揺らぎを吐露しており、『ねむり』(当時は「眠り」)が発表された時期やその前後の作品の傾向から、前述の変化の転換点に位置する作品として捉えることができる。しかし手法の変化を経つつも、村上作品は処女作『風の歌を聴け』から近年の長編小説である『1Q84』『色彩を持たない多崎つくるや、彼の巡礼の年』に至るまで、初期から現在まで継続して母娘関係や母性にまつわる物語を描いてきたのであり、そしてこの『ねむり』という小説は、不眠や悪夢という極めて非現実的な設定を用いることによって、母/娘たちが抱える非常に現実的な問題を抉り出した、現代社会のアレゴリーとして機能しているのである。
著者
坪田 織江
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.63-82, 2013-12-20

本稿は,1960年代から80年代までのアメリカのパブリック・アートの具体 的事例の検討をもとに,芸術の公共性についての一見解を得ることを目的と する。この時期のパブリック・アート事例としてとりわけ象徴的なのは,1981 年にニューヨークに設置されたリチャード・セラによる彫刻作品『傾いた弧』 である。本作品をめぐり撤去論争が巻き起こり,その後の連邦政府によるパ ブリック・アート政策に影響を与えた。本稿ではこの論争に注目し,一般市 民と作品との関わりの観点から,芸術の公共性について分析・考察を行う。
著者
閻 慧
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.14, pp.55-70, 2014

本稿は宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の改稿に関して考察するものである。周知のように、「銀河鉄道の夜」は、数回の改稿を経ることにより、多彩な容貌を持っているテクストである。その多面性を捉えるため、各次稿の間の改稿過程をどのように受け止めるかは、無論重要な問題となる。従来の研究においては、「銀河鉄道の夜」の改稿問題が焦点となっているもののうち、初期形〔三〕と後期形との間に行われる改稿を中心に論じるのが圧倒的多数である。つまり、テクストの初期形〔一〕から初期形〔三〕までに行われる改稿はこれまで看過されたきらいがある。そこで本稿では、新校本全集に収録された「銀河鉄道の夜」のテクストを参照し、まず初期形内部の変容を把握し、ついで初期形から後期形までの改稿について考察する。まず、初期形〔一〕と〔二〕の特徴について考えてみる。両者において、質的な差異は殆どない。ブルカニロ博士の全能性と実験という枠組みに注目すれば、初期形〔一〕と〔二〕をブルカニロ博士の実験記録として見なすことができる。次に、初期形〔二〕から初期形〔三〕まで、作中の現実世界に関する加筆に注目し、ジョバンニを苦しめる現実状況および彼が持っている逃走願望を読み取る。そこで、ジョバンニが焦点化されることによって、初期形〔三〕を彼の逃走物語として読むことができる。続いて、後期形における労働するジョバンニの設定が誘発した鳥捕りとの関係の変化、またジョバンニの父の帰還とカムパネルラの水死についての改稿を中心に、分析を行う。それによって、変容する後期形の姿が明らかになり、ジョバンニの行方の未定着によって、「銀河鉄道の夜」という作品の未決性が見出される。以上のように、「銀河鉄道の夜」が実験記録から未決の物語までの改稿プロセスを考察する。それと同時に、初期形〔一〕から後期形まで貫通している、ジョバンニの切符、金貨、牛乳などのモチーフの役割・意味についても吟味する。「銀河鉄道の夜」の物語に潜在する未決性、また共通するモチーフの多義性の分析によって、新しい読み方を示唆する。
著者
大野 裕司
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.6, pp.35-53, 2006

日本の陰陽道研究の成果として、近世以来、混亂のあった禹歩と反閇の關係について、禹歩は、反閇を構成する呪術の一つに過ぎず、反閇はその他の呪術をも含む一連の儀式であることが明らかになった。また、近年の若杉家文書『小反閇作法并護身法』(1154年) の發見と公開(村山修一編『陰陽道基礎史料集成』東京美術、1987年)によって、これまで江戸期の資料に據るほかなかった反閇の儀式次第について、平安期に実際に行われていたと考えられる陰陽道の反閇を知ることができるようになった(ただし、小反閇は、數多くある反閇儀式の一つに過ぎない)。 近年の陰陽道研究の成果として特に重要なことは、陰陽道における反閇は、中國における「玉女反閉局法」に由来するということを明らかにしたことであろう。しかしながら、これまでの陰陽道研究において、玉女反閉局法は、小坂眞二氏らによる『武備志』、酒井忠夫氏による『太上六壬明鑑符陰經』の紹介があるに過ぎず(玉女閉局法はこの二書意外にも、數多くの遁甲式占の書などに記載される)、またその紹介も、部分的なものである。筆者は先に、秦代の出土資料である睡虎地秦簡『日書』に見える、出行の凶日にどうしても出行しなくてはならない時に行う儀式(この儀式には禹歩を伴う)について檢討し、また、この儀式の明清時代に至るまでの變遷についても言及した(「『日書』における禹歩と五畫地の再検討」『東方宗教』第108號、2006年)。その際、玉女反閉局法の儀式次第が見える最も古い文獻『太白陰經』を紹介し、かつ該書に載せる玉女反閉局法には禹歩が見えないことを指摘した。筆者前稿では、紙數の都合により玉女反閉局法については十分な紹介と検討を行うことができなかった。そこで、本稿では、玉女反閉局法を考察するに當たって、最も古いものである『太白陰經』に見える玉女反閉局法について、これと内容的にほぼ同一の『武經總要』の玉女局法を用いて初歩的な校勘を試み、また後世の玉女反閉局法の基礎となったと考えられる『太上六壬明鑑符陰經』と『景祐遁甲符應經』の玉女反閉局法についても初歩的な校勘を試みる。
著者
秋月 準也
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.93-108, 2011-12-26

本論の目的はミハイル・ブルガーコフ作品にあらわれる1920年代から30年代の「住宅管理人」像の比較分析を通して,ブルガーコフの文学世界の一端を解き明かすことである。 ブルガーコフにとって「住宅管理人」は彼の文学を日常的主題である住居と強く結びつけると同時に,幻想世界への入口としての機能も果たすようなものであった。中編小説『犬の心臓』では,居住面積の調整をめぐってプレオブラジェンスキイ教授と激しく対立していた管理人シボンデルが,教授が 生み出してしまった人造人間シャリコフを積極的に援助し,彼に正式な身分証明書と教授宅に居住する権利を与える。つまり住宅管理人シボンデルの存在が,科学によって創造される人間という『フランケンシュタイン』から受けつがれる空想科学文学の代表的な主題を20年代のモスクワに組み込むこ とを可能にしている。 また喜劇『イヴァン・ヴァシーリエヴィチ』でブルガーコフは住宅管理人をH・G・ウェルズ的な時間旅行の世界の中に描いた。タイムマシンの実験による住宅管理人ブンシャとイヴァン雷帝の入れ替わりは,20世紀のモスクワのアパートと16世紀のクレムリンの対比であり,「管理」と「統治」の対比であった。この戯曲でブルガーコフはツァーリとなったにもかかわらずロシアをまったく統治することができない管理人ブンシャを通して,アパートの管理人という革命後に生まれた無数の権力者たちが,実際には総会(общее собрание)の方針や民警(милиция)の権威に従属した存在であることを明らかにしている。また他方では,アパートを支配したイヴァン雷帝を通して住宅管理人が絶対君主としてアパートを「統治」する危険性があることも同時に示したのである。
著者
呂 晶
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.161-178, 2016-01-15

私たちが暮らす社会には,あらゆる場所に,あらゆる姿をした広告が存在 している。広告を目にせずに,一日が過ぎるということは,まずないと言っ ても過言ではないであろう。そして,私たちは生まれたときから,大量の広 告に囲まれてきており,誰もが広告を水や空気のような「存在して当たり前 のもの」と受け止めていると見ることができるように思われる。また,広告 は多種多様な媒体によって伝達されているが,本稿は,印刷媒体を使った広 告を中心に扱い,それらの広告におけるキャッチコピーを考察の対象にする。 なお,キャッチコピーの形式に注目すると,中には平叙文,疑問文,命令 文などのような文の体裁をなすものもあれば,「羊の数だけ感動があるニュー ジーランド」のような文の体裁をなさない広告表現もある。本稿では,後者 のような広告表現を非述定文と呼び,統語論と語用論の観点からこの種の広 告表現について考察する。考察の結果,広告における非述定文には,名詞か らなるものと感動詞からなるものの二種類があることがわかった。そして, 用例のほとんどは,前者の名詞からなる非述定文であることもわかった。広 告における名詞からなる非述定文は,普通の非述定文と比べて,その構造が 複雑となっており,連体修飾構造を持ったものが多い。また,広告における非述定文の発話機能に間していうと,名詞からなる非述定文は《感情表出》と《情報提示》を表すことができ,感動詞からなる非述定文の発話機能は《感情表出》であると考えられる。
著者
梅木 佳代
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.35-67, 2016-01-15

本稿は,エゾオオカミ(Canis lupus hattai)に関する従来の研究動向を概観し,個々の論点における現状の到達点と問題点を整理することを目的とする。日本国内にかつて生息していたエゾオオカミおよびニホンオオカミ(Canis lupus hodophilaxあるいはCanis hodophilax)は,どちらも明治時代に絶滅した。これら在来のオオカミに対する関心は高く,明治時代以来さまざまな形で情報の発信と蓄積が行われてきた。しかし,その内容や成果の全体が整理されまとめられたことはない。本稿では明治時代から現在までに刊行された日本のオオカミについて記述がある文献を収集し,そのうちエゾオオカミに言及する213件の文献を分析対象としてその研究史を検討した。これらの文献の内容から,従来の知見の多くが限られた事例に基づいて提唱されたものであること,その妥当性の評価が行われていないことが示された。エゾオオカミに関する研究・議論においては,北海道内にオオカミが生息していた期間の記録や情報,そして確実な標本資料の双方が非常に少ないことが常に議論の前提とされてきた。しかし,専門的・学術的な議論の中ではそうした前提をふまえた「仮説」として提示された記述が,繰り返し参照されるうちに定説と化している。また,限られた情報に基づいて提唱された知見が一般化される一方で,エゾオオカミに関する情報や資料を体系的に収集し,情報を質・量ともに拡充しようとする試みはごく一部にとどまっている。今後のエゾオオカミに関する研究では,既存の知見の妥当性の評価が求められると同時に,検討対象とするべき情報や事例の数を増やすことが優先的に目指されるべきである。
著者
王 玉輝
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.173-186, 2016-12-15

本稿は、中国映画における分身の表象およびその歴史的展開について、欧米の映画理論とその他の諸言説に関わらせながら史的に考察することを課題とする。まず中国映画史を軸に、一九四九年までの民国期、一九四九年から文化大革命が幕を閉じる一九七六年までの共和国期、文革後から今日に至る改革開放期という、中国近現代史の流れに沿った三つの部分に分けつつ、中国映画における分身表象のそれぞれの相貌を捉え、その歴史的展開を描き出す。次に、中国の第四世代の監督黄蜀芹による『舞台女優』(人鬼情、1987)を取り上げる。本稿では、「重層的な鏡像と分身」、「反復と分身」、「フェミニズムと分身」といった諸点に絞りつつ、同作品を具体的に考察するが、このことを通して、中国映画史の研究分野において分身論の視点による映画史の再構築を目指したい。
著者
大野 裕司
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.35-53, 2006-12-20

日本の陰陽道研究の成果として、近世以来、混亂のあった禹歩と反閇の關係について、禹歩は、反閇を構成する呪術の一つに過ぎず、反閇はその他の呪術をも含む一連の儀式であることが明らかになった。また、近年の若杉家文書『小反閇作法并護身法』(1154年) の發見と公開(村山修一編『陰陽道基礎史料集成』東京美術、1987年)によって、これまで江戸期の資料に據るほかなかった反閇の儀式次第について、平安期に実際に行われていたと考えられる陰陽道の反閇を知ることができるようになった(ただし、小反閇は、數多くある反閇儀式の一つに過ぎない)。 近年の陰陽道研究の成果として特に重要なことは、陰陽道における反閇は、中國における「玉女反閉局法」に由来するということを明らかにしたことであろう。しかしながら、これまでの陰陽道研究において、玉女反閉局法は、小坂眞二氏らによる『武備志』、酒井忠夫氏による『太上六壬明鑑符陰經』の紹介があるに過ぎず(玉女閉局法はこの二書意外にも、數多くの遁甲式占の書などに記載される)、またその紹介も、部分的なものである。 筆者は先に、秦代の出土資料である睡虎地秦簡『日書』に見える、出行の凶日にどうしても出行しなくてはならない時に行う儀式(この儀式には禹歩を伴う)について檢討し、また、この儀式の明清時代に至るまでの變遷についても言及した(「『日書』における禹歩と五畫地の再検討」『東方宗教』第108號、2006年)。その際、玉女反閉局法の儀式次第が見える最も古い文獻『太白陰經』を紹介し、かつ該書に載せる玉女反閉局法には禹歩が見えないことを指摘した。 筆者前稿では、紙數の都合により玉女反閉局法については十分な紹介と検討を行うことができなかった。そこで、本稿では、玉女反閉局法を考察するに當たって、最も古いものである『太白陰經』に見える玉女反閉局法について、これと内容的にほぼ同一の『武經總要』の玉女局法を用いて初歩的な校勘を試み、また後世の玉女反閉局法の基礎となったと考えられる『太上六壬明鑑符陰經』と『景祐遁甲符應經』の玉女反閉局法についても初歩的な校勘を試みる。
著者
劉 暁苹
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.179-194, 2016-01-15

日本語では,未完結の形を通して表現することによって,様々な伝達の効果を目指すストラテジーの一つである未完結の発話が選好されている。本稿は,形式上は未完結でありながら,意味機能が完結しているような従属節のみで終わる発話を言いさし文と定義し,新たな構文としての言いさし文の形成過程と構文特徴を明確にする。 まず,先行研究に基づき,従属節のみで終わる発話の用語を整理した上で,言いさし文という表現の使用を規定し,その定義づけを行う。そして,構文形成の要因によって,言いさし文を「意味論的な省略による言いさし文」「語用論的な省略による言いさし文」「付加による言いさし文」の三種類に分けた上で,本稿の考察対象を「意味論的な省略による言いさし文」に限定する。 最後に,意味論的な省略による言いさし文は,表現の慣習化や文法化によって生まれたものが多いので,典型的な定型表現の例として,「なければならない/なくてはならない」の省略による「なきゃ/なくちゃ」言いさし文,「ないとならない/いけない/だめだ/困る」の省略による「ないと」言いさし文,「たら/ばどう」・「たらどうしよう」・「たら/ばよかった/いいのに」の省略による「たら/ば」言いさし文,「って言った/聞いた」の省略による「って」言いさし文を詳しく考察する。