著者
村津 蘭
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.4, pp.635-653, 2022-03-31 (Released:2022-07-20)
参考文献数
54

本論は、ベナン共和国南部のペンテコステ・カリスマ系教会のデリヴァランス・ミサにおける憑依を対象に、妖術師、在来信仰の神々が「悪魔」として現れ、現実に参与する様態を情動と想像力、記憶に着目して明らかにする。近年興隆するサハラ以南アフリカのペンテコステ・カリスマ系教会では、妖術師を始めとする在来の諸霊を悪魔とみなし、悪魔との闘いを強調する傾向が強く見られる。先行研究はその現象を政治・経済の急激な変動や、それに伴う苦悩を説明するイディオムとして理解し、身近な出来事と社会背景を接合する想像力として描く傾向があった。しかし、想像の様態を現実理解のための言説として扱うことは、現実自体が想像と様々な人間・非人間の絡まり合いの中で構成されているというダイナミクスを捨象する危険性を孕む。これらの点を踏まえ、本論は現実を形作る知覚に作用する想像力の特徴に焦点をあて、それが働く条件と過程における調整のあり方を、情動と環境の応答の中から明らかにする。それにより、悪魔・妖術との闘いという実践は、妖術師という想像を使って社会・政治の問題を説明するという単純なものではなく、想像、記憶、そして情動が応答的に動く中で妖術師や霊的存在をモノとして立ち上げるという過程であり、またその立ち現れた悪魔・妖術師が新たな現実を切り開く主体として参入することを許していく過程だと論じる。
著者
比嘉 理麻
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.044-063, 2022-06-30 (Released:2022-12-08)
参考文献数
39

本論は、沖縄県名護市辺野古の基地建設の進行に伴って、熾烈化する抗議行動の最前線で、心身に傷を負い、抗議に行けなくなった人びとが、新たに勝負できる領域を模索するなかで見出した、〈生き方としての基地反対運動〉とでも呼びうる動きを積極的に掬いあげる。現在生まれつつあるのは、狭義の政治運動におさまるものではなく、むしろ、政治の限界(代表政治と直接政治の双方の限界)を踏み越えて、〈生き方〉そのものとして展開される基地反対運動である。日本政府の暴力により、従来の運動の限界に立たされた人びとは、これまでの闘い方とは異なる形で、自らの生き方を通して変革の方途を切り出していく。それは、生活を丸ごと抱き込んだ運動の全面化であり、自らの生き方の社会運動化、とでも呼びうるものである。本論では、従来の「政治運動」で傷ついた人びとが、口にするようになった「これは、政治じゃない」という言葉に耳を傾け、基地反対運動を「非政治化」し、より広い領域を巻き込みながら、自らの〈生き方〉として展開する新たな基地反対運動を理解することを目指す。さらに本論では、ここでの生き方を、人間のみに限定せず、他の動物たちの生き方をも含み込むものとして、より広く捉える。そこから、基地建設によるかつてない規模の破壊によって、改めて交差する人間と動物たちの生を捉える視座を築いていく。
著者
中谷 和人
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.81, no.3, pp.431-449, 2016 (Released:2018-02-23)
参考文献数
40
被引用文献数
3

ミシェル・フーコーの生権力(生政治)論は、我々の生をとりまく今日の社会政治的布置を批判的に記述・分析するための有効な視座を提供してきた。しかし他方で、フーコー自身は、生がそうした特定の権力布置から絶えず「逃れ去る」ものであることも鋭く指摘していた。本論ではこの指摘を踏まえつつ、デンマークの障害者美術学校「虹の橋」に所属していた一人の男性生徒のドローイングに焦点をあて、その「線を描く」という営みが、いかに現在支配的なそれとは異なった生存の仕方(生き方)を可能とするかを追究していく。1980年代以降デンマークで進められてきた脱施設化の過程は、決して障害者の単なる「自由解放」ではなかった。むしろ、その延長線上に近年実施されたある全国プロジェクトの例から浮き彫りになるのは、かれらの自己決定や参加を、いかに 客観的で標準化された形式のもとで監視し、コントロールするかという問題である。そしてそのさいに活用される方法こそ、「監査」と呼ばれる新しい統治技法にほかならない。だが、自己と他者の統治、そして自らの生の形式化は、必ずしも監査の実践を通じてのみなされうるわけではない。そこで取り上げるのが、虹の橋に長年在籍しつつも、2012年に急逝したセアンという男性の事例である。先在する経験の模倣や再現ではなく、むしろ、その真の「所有」を通じて自己自身の変容へと向かうセアンの線描画制作、そしてその作品の中にたどられた「物語」に随うという他者の営みがつくりあげてきたのは、監査におけるそれとは根本から異なった、美学的でかつ倫理学的な自己の自己自身に対する関係、自己と他者のあいだの関係である。本論ではこれを、プロジェクトで作成される「図」と、セアンが描く「作品」との比較を通じて明らかにすることで、今日支配的な社会政治的布置の内部で「線」が切り開く生の新たな可能性について探究する。
著者
奥野 克巳
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.76, no.4, pp.417-438, 2012-03-31 (Released:2017-04-17)

マレーシア・サラワク州(ボルネオ島)の狩猟民・プナン社会において、人は「身体」「魂」「名前」という三つの要素から構成されるが、他方で、それらは、人以外の諸存在を構成する要素ともなっている。人以外の諸存在は、それらの三つの要素によって、どのように構成され、人と人以外の諸存在はどのように関係づけられるのだろうか。その記述考察が、本稿の主題である。「乳児」には、身体と魂があるものの、まだ名前がない。生後しばらくしてから、個人名が授けられて「人」と成った後、人は、個人名、様々な親名(テクノニム)、様々な喪名で呼ばれるようになる。その意味において、身体、魂、名前が完備された存在が人なのである。人は死ぬと、身体と名前を失い、「死者」は魂だけの存在と成る。これに対して、身体を持たない「神霊」には魂があるが、名前があるものもいれば、ないものもいる。「動物」は、身体と魂に加えて、種の名前を持つ。「イヌ」は、イヌの固有名とともに身体と魂を持つ、人に近い存在である。本稿で取り上げた諸存在はすべて魂を持つことによって、内面的に連続する一方で、身体と名前は多様なかたちで、諸存在の組成に関わっている。諸存在とは、身体と魂と名前という要素構成の変化のなかでの存在の様態を示している。言い換えれば、諸存在は、時間や対他との関係において生成し、変化するものとして理解されなければならない。人類学は、これまで、精神と物質、人間と動物、主体と客体という区切りに基づく自然と社会の二元論を手がかりとして、研究対象の社会を理解しようとしてきた一方で、複数の存在論の可能性については認めてこなかった。そうした問題に挑戦し、研究対象の社会の存在論について論じることが、今日の人類学の新たな課題である。本稿では、身体、魂、名前という要素の内容および構成をずらしながら諸存在が生み出されるという、プナン社会における存在論のあり方が示される。
著者
片岡 樹
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.85, no.4, pp.623-639, 2021 (Released:2021-07-06)
参考文献数
55

本稿は、愛媛県菊間町(今治市)の牛鬼の事例から、神と妖怪との区分を再検討することを試みる。菊間の牛鬼は、地域の祭礼に氏子が出す練り物であり、伝説によればそれは妖怪に起源をもつものとされている。牛鬼は祭祀対象ではなく、あくまで神輿行列を先導する露払い役として位置づけられているが、実際の祭礼の場では、神輿を先導する場面が非常に限られているため、牛鬼の意義は単なる露払い機能だけでは説明が困難である。祭礼の場における牛鬼の取り扱いを見ることで明らかになるのは、牛鬼が公式には祭祀対象とはされていないにもかかわらず、実際には神に類似した属性が期待され、神輿と同様の行動をとる局面がしばしば認められることである。また、祭礼に牛鬼を出す理由としては、神輿の露払い機能以上に、牛鬼を出さないことによってもたらされうる災厄へのおそれが重視されている。つまり牛鬼はマイナスをゼロにすることが期待されているのであり、その意味では神に似た属性を事実上もっているといえる。これまでの妖怪論においては、祀られるプラス価の提供者を神、祀られざるマイナス価の提供者を妖怪とする区分が提唱されてきたが、ここからは、事実上プラス価を提供していながら、公には祀られていない存在が脱落することになる。牛鬼の事例が明らかにするのは、こうした「神様未満」ともいうべき、神と妖怪の中間形態への分析語彙を豊かにしていくことの重要性である。
著者
田中 雅一
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.82, no.4, pp.425-445, 2018 (Released:2018-10-18)
参考文献数
67

本講演の目的は、ここで<格子>と<波>と名付ける二つの社会関係のモードを論じ、それら がどのような形で国家による統治やナショナリズムに関わるのかを考察することである。一方に、 <格子>モードとして、生者を「生ける屍」に変貌させるアーカイヴ的統治が認められる。それは、 たとえばベルティヨン・システム、現地人の身体計測、アウシュヴィッツにおける収容者の管理方 法という形で現れている。他方に、<波>モードとして、隣接性と身体性の密な人間関係が想定で きる。そこでは、おしゃべりあるいはオラリティ、風や水などが重要な役割を果たす。つぎに、ナ ショナリズムとの関係で<波>モードが特徴的な小説とアート作品を取り上げる。まず、ナショナ ルな物語に回収されることに抗する個人的な経験を水や音、意味の取れない発話などで表現する沖 縄の作家、目取真俊の小説を考察する。つぎに、死者を追悼するモニュメントに対比する形で、風、 ロウソクの炎、影、ささやきなどを利用するボルタンスキーの作品を紹介する。そこでは名前をつ けること、心臓音を集めるといったアーカイヴ的活動が重要になっている。ボルタンスキーの作品 はアーカイヴァル・アートの代表と評価されているが、それは国家によるアーカイヴ的統治に寄与 するというよりは、撹乱するものとして位置付けることが可能である。さらに、自己アーカイヴ化 とも言える私的蒐集活動に触れる。
著者
加瀬澤 雅人
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.2, pp.157-176, 2005-09-30 (Released:2017-09-25)

近年、アーユルヴェーダは世界的な医療となりつつある。南アジア地域固有の医療実践であったアーユルヴェーダは、今日では世界各地に拡大し、それぞれの地域で新たな解釈が加えられ実践されている。インドにおいてもアーユルヴェーダがグローバル化した影響は大きい。多くの患者が海外からインドに訪れるようになり、南インド・ケーララ州では、このような患者のための滞在施設が乱立し、アーユルヴェーダは一大産業となりつつある。世界とのかかわりのなかで、インドのアーユルヴェーダ実践は変容し再構成されているのである。しかし、アーユルヴェーダがグローバルな産業として発展している現状について、インド現地のアーユルヴェーダ関係者の不安もある。海外でアーユルヴェーダが医療ではなく「癒し」術として広がり、その一方でアーユルヴェーダの生薬や治療法にたいしては先進国の企業によって特許が取られていく。このような状況は、インドのアーユルヴェーダ医師や製薬関係者の海外進出を阻み、アーユルヴェーダを彼らの関与できない方向へと転換している。こうした状況のなかで、アーユルヴェーダの知識・技術に関する権利を国家的に保護し、インド主導で医療・産業としての可能性を世界規模で広げていくために、近年ではこれらの知的財産・技術をインドの「ナショナルな資源」として位置づける動きが生まれつつある。
著者
松田 素二
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.78, no.1, pp.1-25, 2013-06-30 (Released:2017-04-03)
被引用文献数
4

現代世界が経験している激動は、人類学者のフィールドとそのフィールドで暮らしている人々に直接的な影響を与えている。内戦と殺戮、開発と環境破壊、移民と排除、貧困と感染症の蔓延、といった「問題」は、たんなるローカルな「問題」にとどまらず、グローバルな依存関係のなかで「地続き」に現象する。また人類学者自身が、暴力的衝突や内戦に巻き込まれたり、環境破壊や大規模開発、あるいは環境保全や開発反対運動に関わったりすることは、今やフィールドの日常となりつつある。こうした状況に直面した人類学は、これまでのフィールドにおける中立性と客観性を(建前上)強調する立場から、対象への関与と価値判断を積極的に承認する立場へと移行していくことになる。現代人類学は「人権尊重」「地球環境保全」「民主的統治」などをグローバル化時代の普遍的価値基準として承認し、異文化への介入を試みてきた。だがこのような普遍主義的傾向の肥大化は、さまざまな疑問や反作用を生み出している。その核心は、フィールドへの「関与」「介入」を正当化する論理の根本は何かという問題だろう。本論は、この「普遍主義」の勃興の様相を明らかにした上で、それがもつ必然性と危険性を検討し、相対主義的な世界と新たに登場した普遍主義的な世界認識をこれからの人類学はどのように位置づけ関係させるかについて考察を試みる。ただしその試みは、普遍主義的思考を拒否して、相対主義を復活させるという単純なものでも、その逆に相対主義的思考を放逐し普遍主義的価値基準を学的核心にしようというものでもない。本論文の目的は、この二つの世界認識を現代人類学はいかにして接合し、錯綜する現実に対処する方向性を定めるのかについて日常人類学の生活論に基づいた一つの回答を提出することにある。
著者
近藤 有希子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.058-077, 2019 (Released:2019-09-04)
参考文献数
47

本論では、虐殺後のルワンダにおいて、和解し統合されたシティズンシップを創り出す装置として、虐殺記念週間におこなわれる集会や虐殺生存者基金に着目して、そのなかで方向づけられる人びとの倫理的な応答のあり方を検討する。それらの装置は、凄惨な紛争によって分断された人びとを等しく「ルワンダ人」として包摂する試みのもとに適用されてきた。他方で、そのとき形成される「国家の歴史」においては、トゥチだけを「生存者」、つまり「真のシティズン」として認定し、フトゥを一様に「加害者」、つまり「二級のシティズン」として位置づける効果を孕んでいる。そこでは愛する者の死を悼み、自身の壮絶な体験を嘆くことができるか否かという点で、格差をともなう承認の配置がおこなわれており、人びとの感情が規律化される事態が生じていた。 このような状況下にあって、村のなかには「トゥチの生存者」というカテゴリーに依拠して、その生存を確保させる者もいる。彼女たちの哀悼は、公的な場においてしばしば「国家の歴史」に一致した、およそ流暢な語りのなかに見出される。他方で、村に暮らす大半の人びとが虐殺時にはなんらかの脅威に曝されており、善悪に二分できない「灰色の領域」にあった。このような「国家の歴史」にはあてはまらない経験を生きる者たちの、決して語り慣れることのない発話は、かれらが代替不可能な個別の記憶とともに生き延びようとするときに現出している。 このとき地域社会のモラリティは、多くの者がみずからの経験に対して「言葉をもたない」ことにおいて開示されていた。なぜなら、統制されえない身体化された記憶、「語りえなさ」の発露としての情動こそが、体験の一般化を拒否する沈黙の作用とも重なりながら、個々人のかけがえのない経験を感知して、それに付随する痛みへの想像力の回路を開くからである。ここに、避けがたくともに生きる人びとの倫理的な応答性が導かれていた。
著者
大野 加奈子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.72, no.2, pp.165-187, 2007-09-30 (Released:2017-08-22)

本稿では、日本の伝統文化とされる「書」について、現在見られる日本の書道界のシステムをそこで活動する一般修練者の立場から記述して提示し、茶道やいけ花の家元制度と比較してその特徴を考察する。日本の書は、本来情報伝達手段であり実用的なものであったが、日本の近代化の中で実用的価値が薄れ消滅の危機を迎えた。「芸術」「伝統文化」へその存在価値を求めた書は、義務教育への参入を通して日本人の誰もが書を経験するものとなり、日展をはじめ出品数2万点を越す全国規模の大型展覧会の開催といった活動を通し、現在の日本の書とそれを支える書道界を作り上げた。日本の書道界では、日展を権威のヒエラルヒーの頂点とした、全国規模の大型展覧会での受賞歴により階梯を登るシステムが形成されている。そのシステムを家元制度と称し、西山松之助が『家元制度の展開』で書道界(会)について述べている。書道界(会)のシステムを家元制度との比較から考察し、そこに働く力学を探る。書道界(会)は家元制度的な組織運営形態をとっているが、代々続く家元や継承すべき型は存在せず、書道界で地歩を築き上昇するための方策として家元的制度を採用していること、またそうすることで書道界全体が日本の「伝統文化」の中に位置づけられるのを目指す意図があったことを示す。
著者
宇田川 妙子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.75, no.4, pp.574-601, 2011-03-31

親子関係および親族関係は、現在、家族の多様化や生殖技術の発達などを背景に、多くの関心が集中し論争の場になっている。一方、人類学では、それ以前からすでに多くの議論が重ねられていたものの、周知のとおり、1970年前後からその研究は衰退の道をたどってしまった。原因の一つは、シュナイダーの議論に代表されるように、その研究姿勢に生物学的な関係を本質的とみなす前提が隠されており、その背景には西洋的な親族観が存在しているという批判であった。その後の親族研究も、1990年代以降「復興」したとはいえ、いまだ従来の西洋的な枠組みを脱したとはいい難い。むしろ、その批判・脱構築を急いだせいか、逆に西洋的枠組みの再生産につながってしまった観も否めない。こうした現状に対して本稿は、具体的にはイタリアの事例を用いながら「親子関係の複数性」という視点を導入して、親族研究そのものをより根源的に再考していこうとするものである。我々は通常、父と母は一人ずつであるという一元的な親子観になじんでいる。イタリアでも通常は、子供の親はその子を生んだ男女であるとみなされ、一元的かつ生物学中心主義的な観念はひろく普及している。その典型が2004年に成立した補助生殖医療法である。しかしその一方で、オジオバがオイメイの面倒をみるなど、子供の生活には、親以外にも様々な役割をする、非親族も含めた大人たちが常日頃から様々な形で関わっており、それらの関係が親子関係と共存しながら、その一元性を相対化しているように見える。もちろん、こうした複数的な親子関係はイタリアに限らない。ただし本稿が注目したいのは、親を父母一人ずつとみなす一元的な親子観が生物学的な生殖をモデルとしていることに気付くならば、これこそ西洋的な親族観の最も端的な象徴であり、ゆえに複数的な親子関係とは、その親族観をより根源的に相対化し、親族研究が「復興」後も抱えている根深い問題をあぶりだす有効な視点の一つになるのではないかという点である。そこからは、従来の系譜関係偏重の研究では看過されがちだったシブリング関係の意義や重要性など、新たな議論の糸口も浮かび上がってくるだろう。本稿では最後に、そうした新たな論点をいくつか具体的に指摘していくことによって、今後の親族研究の展開に資することとしたい。
著者
岩谷 彩子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.3, pp.441-458, 2009-12-31 (Released:2017-08-18)

本稿は、インドの移動民ヴァギリが想起し語る夢を事例として、日常的に変容を続ける自己の営みを探求する試みである。従来の人類学的な夢研究では、テクスト化された夢を当該社会の集合表象として分析する研究や、危機に陥った自己が新しい世界観や時間構造のもとで自己を語りなおし、社会のなかで再構造化される契機として夢をみなす研究が提出されてきた。これに対して本稿では、語りや解釈を逃れる夢のイメージの持続が反復的な夢の想起をうながしている状況に着目した。ヴァギリ社会には「神の夢を見たら儀礼をする」という言説があり、多くの夢は儀礼を契機に想起されている。しかし、夢は必ずしも安定的に想起され語られるわけではない。本稿では同一個人に時間をあけて同じ夢を語ってもらい、その語りの変容について考察した。そこで明らかになったのは、第一に、ヴァギリの夢に繰り返し立ち現れる内/外を行き来する運動イメージの重要性である。この運動のイメージが夢の解釈を握る重要な基点となっており、そこから夢を見る主体がおかれた状況の変化に応じるかたちで、夢に現れる身体感覚や表象のあり方に変化が見られた。第二に、夢の想起と語りは、常に自己をとりまく他者との関係に依存しているという点である。夢を反復想起して他者に語る過程で、類似したイメージの夢が異なる主体間で反復されていた。また、語りに夢のイメージを意味づける観点が導入されたり、語りそびれた部分が残ることで夢のイメージが保持されていた。このように他者との関係において夢として想起され語られた運動イメージと身体感覚の持続と消失が、その後の夢とその語りを自己にもたらしていた。自己は予測不可能な他者との出会いと想起の機会に依存し、語りつくせない夢のイメージに導かれている。本稿では、そのような自らにずれを生じ続ける自己を〈身体-自己〉として例証した。それは、自己がメタモルフォーシスする持続的な過程なのである。
著者
吉田 航太
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.3, pp.385-403, 2018 (Released:2019-05-12)
参考文献数
31
被引用文献数
1

本論文は、インドネシア東ジャワ州スラバヤ市で日本人技術者が開発した廃棄物堆肥化技術の事例を通じて、インフラ/バウンダリーオブジェクトというテクノロジーの二つのモードの差異を明らかにするものである。スーザン・L・スターのインフラストラクチャーの議論はバウンダリーオブジェクト論と連続性があり、前者は後者の発展型とされる。しかし、両者の間には解釈の対象としての象徴と、実践の対象としての道具という断絶が存在しており、インドネシアでの開発事業で 新たに誕生した生ゴミ堆肥化技術の事例の分析からこのことを明らかにする。スハルト政権崩壊後に発生した埋立処分場の反対運動をきっかけに、スラバヤ市は深刻なゴミ問題に悩まされた。これに取り組む開発プロジェクトが開始され、日本人技術者が開発したコンポスト手法がひとつのテクノロジーとして結実するに至った。このテクノロジーはスムーズに開発に成功したが、その後のインフラ化で困難に直面している。この事例から、スター的な協働のネットワークが長期の時間性に耐えなければならないという問題を抱えていること、テクノロジーが確固とした象徴的価値を獲得しなければならないことを議論する。
著者
佐々木 重洋
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.80, no.2, pp.242-262, 2015-09-30 (Released:2017-04-03)

本稿の目的は、エヴァンズ=プリチャード(以下、E-P)の思考の軌跡と、彼が示していた問題意識と手法をあらためて批判的に再検討し、その知的遺産と検討課題を現在に再接続させることにある。本稿では、民族誌や論考、講義録や書簡から読み取ることができるE-Pの構想のなかでも、人間の知覚と認識、その作用に影響を与えるものとしての社会、それも決して閉じた固定的なシステムではなく、人間関係の動態的な諸関係としてのそれとは何かをモンテスキューにさかのぼりつつ自省し続けた点と、民族誌と人類学の主要な仕事としていち早く解釈という営為を強調した点にとくに注目し、その背景を再検討した。アザンデの妖術やヌアーの宗教を扱った民族誌においては、当時の西欧的思考の枠組みに対する疑義ないし違和感が表明されていたが、E-Pとその後進たちの遺産は、そこに「インテレクチュアル・ヒストリー派」としての省察がともなうかぎり、主知主義批判、表象主義批判や言語中心主義批判、主客二元論批判や心身二元論批判としても、今なお私たちにとって着想の源泉たり得る。さらに、共感や友情を強調したその人文学的経験主義からは、絶えず自己に立ち返り、自らが影響を受けている知的枠組みと社会背景に対する自省を保ちつつ、調査する者と調査される者のあいだの共約不可能性を乗り越えようとする姿勢を継承でき、それはフィールドワークと民族誌を取り巻く思想的、物理的環境が大きく変わりつつある今こそ、あらためて参照に値することを指摘した。今日、E-Pに立ち返って考えることは、モンテスキューを脱構築しつつ、人類学的思考が哲学や社会学はもとより、法学や政治学、経済学などと未分化の状態であった時点に立ち返って考えることにつながるものでもあり、今後の人類学が人文学とどのように関係すべきかという点も含めた人類学の知のあり方を模索するうえで一定の意義があると考える。
著者
岡野 英之
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.019-038, 2019 (Released:2019-09-04)
参考文献数
37

アフリカ諸国の紛争を扱った政治人類学および政治学の研究において、社会の統治過程に見られるパトロン=クライアント関係の分析は重要な課題の1つとなってきた。これらの議論では、パトロンとクライアントとの間に取り結ばれるインフォーマルな人間関係が統治のツールとなっているという理解が前提となっている。政治学ではパトロン=クライアント関係に対して議会制民主主義と官僚制が対置され、両者を導入することにより、統治の場からパトロン=クライアント関係を払拭できると考えられる。では、官僚制や民主主義が組織運営に導入されると、パトロン=クライアント関係を支えるモラリティは失われるのだろうか。本稿では、内戦後のシエラレオネでバイクタクシー業を統括する全国規模の職業団体「全国商業モーターバイクライダー協会」(以降、「全国バイク協会」と略称する)を取り上げ、その日常業務について考察する。内戦末期に隆盛したバイクタクシー業では、その管理・運営においてある種のパトロン=クライアント関係が重要な役割を果たした。しかし、民主主義と官僚制に基づく組織運営を求める国際社会の潮流ともあいまって、全国バイク協会が設立される際には、官僚制的な仕組みや役員選挙制度が導入された。ただし、これによって従来のパトロン=クライアント関係が払拭されたというわけではない。ライダーたちは、官僚的で非人格的な業務を行うべきである執行役員に対してクライアントシップをもって接する。それに対して執行役員もパトロンシップをもって応えようとする。全国バイク協会の日常的な活動から見えてくるのは、執行役員がパトロン=クライアント関係のモラリティと官僚制のロジックの両者を翻訳しながらライダーとの関係性を築いていることである。
著者
星野 晋
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.77, no.3, pp.435-455, 2013-01-31 (Released:2017-04-10)

病むことに苦しむ患者を前にして、医師は対象を客観化し科学的にアプローチすることと人間として気遣うことという、二つの相矛盾する要求にさらされる。医師たちはどのようにこの二つの要求の折り合いをつけているのだろうか。医学教育において、この難問に正面から向き合うことになる最初の体験が肉眼解剖実習である。医学的には「人体の構造と機能の関連を理解する」ことを目標とする解剖実習は、実際の遺体を扱うという感情の起伏をともなう非日常的体験であり、医師になることが強く自覚される機会であるため、職業的アイデンティティが形作られるイニシエーションと位置づけられる。実習が進むにつれ、感情を排除し対象を医学的人体としてとらえる「解剖実習モード」が形成され、医学生たちは「日常生活モード」と自在に切り替える術を身につける。その過程で、解剖の対象はヒトでもモノでもない「ご遺体」としかいいようのない何かになっていく。かつては医学的人体であることを強調するドイツ語由来の「ライヘ」という表現が用いられていたが、「ご遺体」という独特の言い回しが一般化した背景には、解剖体が引き取り手のない遺体から献体によるものに変わったことも影響していると推察される。このことにより、学生は喪服を着て火葬に参列するなど、遺体をヒトとして扱うことへの要求は以前よりも増しているといえる。ところで、解剖実習モードへの切り替えの技術は、臨床における医師のまなざしや態度につながっていく。医師は「臨床モード」と「日常生活モード」を切り替えながら、二つの要求に対応するようになる。そして医療の対象はヒトでもモノでもない「患者」となる。近年医学教育や臨床過程において、これまで現場で経験知として学ばれ、実践されていたことがらは、可視化され標準化され、評価システムに組み込まれる傾向にある。教育や臨床の現場において、このことが一方で現実とのギャップを生み、他方で専門職のタスクを不必要に増大させていることが危惧される。こうした現状にあって、イニシエーションであり、古典的ともいえる体験学習スタイルを保持している肉眼解剖実習は、再評価されてしかるべきであると筆者は考える。