著者
小田 匡保
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.52-53, 2013

小田(2002)に引き続き、『地理学文献目録』第11~12集を利用して、2000年代の宗教地理学の動向を検討する。
著者
山下 清海 尹 秀一 松村 公明 杜 国慶
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.503, 2008

1.問題の所在<BR> 1970年代末以降の改革開放政策の進展に伴い,中国では,海外への留学や出稼ぎなどの出国ブームが起こり,これは現在でも継続している。今日,世界の華人社会は,ダイナミックに膨張と拡散を続けており,従来の伝統的な「華僑像」ではとらえきれない新しい局面を迎えている。日本においても,1980年に52,896人であった在留中国人(中国籍保有者)は,2007年には606,889人となり,韓国・朝鮮人(593,489人)を抜いて,国籍別で初めて第1位となった。<BR> 本報告は,中国の改革開放政策実施後,日本において急増した華人ニューカマー(いわゆる「新華僑」)の日本への送出プロセスの解明を目的に進めている研究プロジェクトの中間報告である。今回の発表では,中国東北地方,特に吉林省延辺朝鮮族自治州での現地調査の成果を中心に発表する。現地調査は,遼寧省の瀋陽・大連,黒龍江省のハルビン,吉林省の長春・延辺朝鮮族自治州(州都は延吉)で,2006~2008年の毎年夏に実施し,特に延辺朝鮮族自治州での調査に重点を置いた。各調査地では,日本語学校,大学の日本語教育機関,海外留学・労務斡旋会社,日本渡航経験者,日本在留者の留守家族,日系企業などを対象に聞き取り調査,資料収集を行った。また,並行して,日本国内の華人ニューカマーからの聞き取り調査も実施した。<BR><BR>2.日本における東北出身者の増加<BR> 在留外国人統計に基づいて,日本在留中国人人口の推移をみると,華人ニューカマーが増加したのは,1978年末の中国の改革開放政策実施後,とりわけ1980年代後半以降である。在日中国人人口が増加する過程で,非常に興味深い特色は,出身地(本籍地)の変化である。<BR> 日本政府は1983年に「留学生10万人計画」を打ち出し,就学生の入国手続きを簡素化した。一方,中国政府は1986年,公民出境管理法を施行し,私的理由による出国も認めるようになった。このような日中両国の規制緩和により,中国から就学ビザや留学ビザで来日する者が急増した。<BR> 当時の中国人就学・留学生の多くは,上海市と福建省の出身であった。しかし,2007年には在日中国人(606,889人)のうち,_丸1_遼寧省16.1%,_丸2_黒龍江省10.3%,_丸3_上海市9.5%,_丸4_吉林省8.5%の順となり,遼寧・黒龍江・吉林の東北3省(東北地方)を合計すると全体の34.9%(211,951人)を占めるまでになった。<BR><BR>3.東北地方出身ニューカマーの中国における送出プロセス<BR> 2000年の中国の人口センサスによれば,中国の55の少数民族のうち,朝鮮族は人口順で13位(1,923,842人)であり,その大多数は東北地方に居住している。朝鮮語は文法や発音などで日本語と類似しており,朝鮮族にとって日本語は,外国語の中で最も学び易く,大学入学の外国語科目の試験では得点が取り易い外国語であった。1980年代後半から,就学ビザを取得して日本へ渡航できるようになると,東北地方では,特に日本語能力の高い朝鮮族の間で,日本への留学ブームが起こった。朝鮮族にとっては,最も身近な外国は韓国であるが,韓国より多くの収入が得られ,子どもの時から学校では,英語でなく日本語を外国語として学んできた朝鮮族にとって,日本は渡航希望先として第1の国であった。先に日本へ行った親類や友人を頼り,チェーン・マイグレーションにより日本へ渡航する朝鮮族が増加していった。東京の池袋駅や新大久保駅周辺には,朝鮮族が開業した中国東北料理店や中国朝鮮料理店などが集中している。延辺朝鮮族自治州の延吉郊外の朝鮮族の村では,若者の多く(男女とも)が,日本や韓国に渡航したまま帰国せず,海外からの送金によって高齢者ばかりが生活している村がみられる。<BR> 東北地方における外国企業では,韓国企業の進出が最も目覚ましいが,日本企業も韓国に次いで重要な地位を占めている。特に大連には日本企業のコールセンターやソフト関連施設が多数設けられ,日本語能力が高い人材が求められている。東北地方は,中国国内でも日本語学習者や日本留学希望者が多い地域である。日本語を習得して大連,さらには上海,深圳などの沿海地域の大都市に進出した日系企業への就職を志望する者が多い。<BR> 近年の中国国内の留学ブームを反映して,大連,瀋陽,ハルビン,長春,延吉など東北地方の主要な都市には多数の外国語学校・留学斡旋会社がある。2003年に発生した福岡一家4人殺害事件(犯人の3人の中国人留学生のうち2名は吉林省出身)以後,日本留学のビザ申請に対する日本側の審査が厳格化したため,外国語学校や留学斡旋会社では,主要な渡航先であった日本から,重点を韓国への留学や出稼ぎに切り替えている
著者
麻生 将
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.15-15, 2006

新聞をはじめとするマス・メディアがある特定の空間スケールをもって報道をし、その結果様々な社会的・地理的現象が生じるという事例は、近代社会におけるひとつの特徴とも言える。そして近代の、宗教集団と地域社会との諸関係の中で生じる諸現象においてもマス・メディア、特に地域メディアが一定の役割を果たしている事例が少なからず見られる。 こうしたことを踏まえ、本研究は1930年代に起こった美濃ミッション事件という一宗教集団と地域社会との間に生じた事件の中で、美濃ミッションをめぐる様々な言説がせめぎ合う状況、すなわち美濃ミッションをめぐる言説空間の生成に地域メディアがどのような役割を果たしたのかを考察することを目的とする。そして美濃ミッションに対する空間的排除の論理の正当化に地域メディアがどのような役割を果たしたかを考察することを目的とする。 美濃ミッションとは、アメリカ人宣教師セディ・リー・ワイドナー(以下、ワイドナーと呼ぶ)によって1918年に大垣市郭町に設立されたプロテスタントの教団である。ワイドナーは大垣市を中心とする西美濃に教会を設立し、布教活動を展開した。その中で大垣市の美濃ミッション本部での幼稚園経営の他、在日朝鮮人や寡婦、母子家庭の親子、孤児、紡績工場の女性労働者らを積極的に保護し、布教を行った。こうした社会的に排除される傾向、要素を相対的に多く持つ人々、集団と積極的に関わりを持つことで次第に美濃ミッションという教会が周囲から「異質な」存在と見なされるようになっていったと考えられる。それは美濃ミッション事件における周辺住民や様々な社会集団の行動からそのように分析されるが、詳細は別稿に譲る。 次に美濃ミッション事件について概要を述べる。1933年6月、大垣市の市立小学校に通う美濃ミッション所属の児童らが、修学旅行の恒例行事であった伊勢神宮への参拝を信仰上の理由で拒否し、修学旅行への不参加を申し出た。これに対し学校側は児童とその母親、そしてワイドナーに対して神社参拝についての「教育的指導」を行った。しかし彼らは信仰上の理由で参拝拒否を貫いた。その結果、同年6月下旬から10月まで複数の新聞社がこれを大々的に報道した。大垣市教育委員会は8月、児童らに対して小学校令第38条に基づく性行不良を理由に出席停止、停学の処分を下し、彼らはそれぞれ市外の私立学校に転校した。 この事件において美濃ミッション排撃を主題とする講演会がたびたび開催された。また暴力的な市民が美濃ミッション本部の敷地へ押しかけて罵声を浴びせ、投石を行うなど日常的な暴力行為を行った。そして大垣市内および周辺の各界関係者らは新聞紙上で美濃ミッションへの批判を展開していった。6月から9月にかけて暴徒による美濃ミッションへの焼き討ち計画があり、実行される寸前で警官がこれを止めさせたという。事件そのものは、同年9月に入ってから新聞報道も自然に減少し、次第に終息していった。 今回使用する新聞は1933年6月から10月頃の美濃大正、岐阜日報、朝日、毎日そして読売の各紙である。 報道の焦点は当初、神社参拝を拒否した信者個人に当てられていた。それが6月22日から7月6日の投書記事が連日掲載される前後から、次第に美濃ミッションそのものに報道の焦点が移っていった。ここではいくつかの記事を挙げ、そこに現れている空間スケールを読み解く。 例えば1933年7月18日の大阪朝日新聞岐阜県版と同年8月6日の美濃大正新聞にはそれぞれ「…幼稚園閉館を断行を以て帝国の版図より悪思想を駆逐せんことを期す」「…更に全国的に経過報告をして神社参拝を拒否するような思想を国内から撲滅すると同時に此際愛国的観念を強調することが最も緊要だと思う。」とある。美濃ミッションの児童そして関係者の態度はナショナルなスケールで「異質な」ものであるという報道がなされた。特に後者の記事は岐阜県選出の衆議院議員大野伴睦のインタビューであるが、このような地元出身の有力者の発言がナショナルな文脈の言説と同時にローカルな文脈での親近感や美濃ミッション排撃の信念、確信を市民に与えたと考えられる。そして美濃ミッションをめぐるナショナルスケールの「異質さ」という言説がより強固に生成されていったと考えられる。 他方、大垣市民は身近な存在であった美濃ミッションに対する恐怖や怒りといった言説を抱き、日常的暴力を繰り返していた。そしてこのことは地域メディアでたびたび報道された。 美濃ミッション事件は大垣市でのローカルな事件であったが、美濃ミッションを巡る言説はナショナルな文脈であるとともに身近な存在への恐怖、怒りといった言説であった。こうした異なる文脈の言説を地域メディアが報道することで、美濃ミッションに対する空間的排除の論理が正当化されたのである。
著者
山本 匡毅
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.4-4, 2006

第三セクター鉄道は,地域公共交通の維持・発展を目的として作られた制度である.この第三セクター鉄道という方式は,臨海鉄道などの貨物輸送を除けば,初めに岩手県にある三陸鉄道に導入され,赤字ローカル線の黒字経営を実現した.それによって第三セクター鉄道が評価されこととなった.ところがポストバブル期には第三セクター鉄道の経営に厳しさを増した.その結果,鉄道経営における第三セクター方式への疑問も出されたが,整備新幹線の建設に伴う並行在来線の維持のために第三セクター方式が活用されることとなり,このたび再び見直されることになった.本発表では,長野新幹線の開業によって開業したしなの鉄道を事例としながら並行在来線の第三セクター化を取り上げ,地域社会の持続的発展における影響について考察していくことにする.
著者
阪野 祐介
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.10-10, 2006

_I_ はじめに 第二次世界大戦敗戦から約4年後の1949年6月,日本において,キリスト教の聖人の一人であり,日本にキリスト教を伝来させた人物として知られる聖フランシスコ・ザビエルの渡来400年を記念する行事が行なわれた。<BR> 1949年当時の日本は,言うまでもなくGHQによる占領期であった。カトリックはGHQ統治という社会的状況のもと,宗教界のおいて非常に優位な立場にあったことが推測される。そして,1949年にザビエル渡来400年祭が全国的規模で催行され,世界各国からの巡礼団の来日や,皇室関係者の参列などもみられ,当時の日本の宗教的・社会的背景の一端を垣間見ることができる。<BR> こうした文脈において,本発表では,戦後日本という時間・空間の中で,カトリックの社会的位置づけの変容や,この宗教的行事が持つ意味を検討することが目的となる。また,このザビエル渡来400年祭を通して,非継続的・一時的な宗教行事と場所の関係に注目し,宗教儀礼の場という非日常的空間が,日常の空間において現れたことが当時の社会の中にあっていかなる意味を持ち,人々の間で捉えられたかを明らかにしたい。特に,この一連の行事のなかでも,西宮で行なわれた荘厳ミサを中心として考察を進める。<BR><BR>_II_ ザビエル渡来400年祭の概要 ザビエル渡来400年祭は, 1949年5月29日~6月12日までの二週間にわたり、日本各地で公式式典が執り行われた。この式典に際し,世界各国のカトリック教会から司教レベルの聖職者等からなる巡礼団が来日した。巡礼団の内訳は,オーストラリア・シドニー大司教ノーマン・ギルローイ枢機卿をローマ教皇特使として任命し,巡礼団の団長とした。スペインからは,33名の使節団が,聖フランシスコ・ザビエルの聖腕とともに来日したほか,米国やフィリピン,インドからも使節団が日本に集結した。<BR> 公式式典にともなう巡礼団の行程は,長崎浦上天主堂廃墟前での荘厳ミサを皮切りに,鹿児島,大分,山口,広島,西宮(荘厳ミサ),高槻,名古屋,横浜,東京・麹町イグナチオ教会とめぐり,6月12日の明治神宮外苑での荘厳ミサで日程を終えた。ただし,公式式典終了後も,聖フランシスコ・ザビエルの聖腕は,「六月二四日…札幌で崇敬され、函館、青森、盛岡、仙台、福島、山形、秋田、鶴岡、新潟、金沢の各市を三週間にわたって歴訪」し,「訪問することのできなかった町においても信者は駅へ来て列車の中の聖腕を崇敬したこともあった。そして七月下旬に…静岡、岡山、松江、米子、高松、高知、姫路などで聖腕を数多くの信者に顕示し、各地で熱心な祈りの集まりが行なわれた」ことが記されている。<BR><BR>_III_ 西宮球場とメディア・イベント ザビエル渡来400年祭は,以上のように日本各地をめぐり,なかでも,長崎,西宮,東京においては荘厳ミサが行なわれた。そのなかで,西宮で行われた荘厳ミサに注目すると,会場となった西宮球場では,1937年に球場が完成して以来,様々なイベントが開催されていた。<BR> ザビエル渡来400年祭が行なわれた翌年の1950年には,アメリカ博覧会が大々的に開かれた。この博覧会は,朝日新聞社主催,外務省,通産省,建設省,文部省,日本国有鉄道,西宮後援となっているが,事実上は,GHQの全面的なバックアップによって開催された。そして,200万人という大衆動員を成功させたとされている。そこで,重要な役割を果たしたのが,朝日新聞社の積極的宣伝であったことも見逃せない。その前年に催されたザビエル渡来400年祭も同様に,メディア・イベントとして捉えることができる。ザビエル渡来400年祭は,カトリックの聖人を記念する宗教的行事であるが,先述のとおり,GHQが深く関わっており,まさに,「国家や国際機関が主催の場合にも,それが受容されていく過程では,メディアが決定的な役割を果たしていくイベント」として捉えることができよう。<BR><BR>_IV_ おわりに 以上のように,日本の社会状況が敗戦後の連合軍統治下,日本各地を尋ねた巡礼団の足跡をも含めると、当時の統治者であるGHQの政治的思惑としてのキリスト教化とカトリックの宣教・布教の欲求の合致がみられる。それは,この宗教的行事が,聖フランシスコ・ザビエルの功績を讃える意味とは別に,「平和・復興の祈り」という意味がこめられている点にも読み取ることができよう。
著者
三原 昌巳
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.21-21, 2010

「予防医学の時代」に健康増進や疾病予防を目的にした旅行(ヘルスツーリズム・医療ツーリズム)に関心が集まっている。その一つである、ここ数年で急成長した検診ツアーは、医療施設(主に病院)・旅行会社・宿泊施設(旅館やホテル)が提携することによって積極的な広報活動を行い、顧客を呼び込もうとする新しい試みである。このような動きは地理学的な観点からみると、患者の居住する地域つまり受療圏が非常に広範囲であることに加え、都市部の患者が地方へ受診に向かうという行動は従来の受療行動からすれば一般的ではないといえる。これまでの地理学では居住地と医療施設間の物理的移動に着目しながら地域医療における患者のアクセシビリティについて検討がなされてきたが、患者にとって地理的障壁はもはや存立しないのだろうか。予防医学の推進によって、医療施設までの距離や移動時間といった地理的要素は重要視されなくなったのか。こうした問題意識を踏まえ、本発表では福島県郡山市内の医療施設で実施されているPET(ペット)検診ツアーを事例にし、PET検診ツアー成立までの過程、検診ツアー参加者の特徴を述べると同時にその地理的特性を明らかにしたい。具体的な調査方法としては、現地調査を2010年6月~8月にかけて実施した。クリニック、受入れ旅館・観光協会、旅行会社3社などを対象に聞取り調査や資料収集を行った。PETは、ポジトロン・エミッション・トモグラフィー(Positron Emission Tomography/陽電子放射断層撮影装置)の略語で、日本人の3大死因のトップを占めるがんの早期発見の切り札として、近年注目される検査方法の一つである。しかし、1台数億円と言われる高額なPET(またはPET-CT)機器に加え、検査薬の製造室や空調設備までを兼備しようとすると、大規模な医療施設でさえPETの導入はしづらいものであった。このため当初は全国的にもPETを導入する医療施設はわずかで、とくに人口の多い都市部において受診予約がとりにくい状況が続いていた。検診ツアーは、このような状況を察知した旅行会社によって企画された。廉価なツアー価格設定が可能な飛行機での移動が専らで、名古屋、羽田、大阪などの空港から出発し、目的地は北海道、九州・沖縄などであった。20万円前後の価格にもかかわらず、異例のヒット商品となったと言われる。しかし2006年以降、人気は下火になり、PETを導入した医療施設には倒産する所もみられた。郡山市内の対象クリニックでは、2004年4月からPET(PET-CTを含む)を導入し、保険適用診療と自由診療のがん検査を開始した。クリニック開設以来、PET検診の周知のため、県内外各地での市民公開講座による住民向けの啓蒙活動と、PET講習会による医療提供者側への普及活動を継続的に実施している。同時に、2005年から同県二本松市岳温泉の旅館・首都圏各地の旅行会社と提携し、検診パックツアーを提供している。岳温泉は、「湯治場」の歴史を持ち温泉地として繁栄してきたが、バブル崩壊後の宿泊客減少に歯止めがかからず2004年ごろから健康保養型温泉地への転換を図った。起伏に富む安達太良山系の自然環境を活かし、主に50代以上の中高年層を対象にしたヘルスツーリズムの取組みによって地域づくりを実施している。検診ツアー受入れ旅館では、地域のこのような取組みもツアー参加者に提供しており、旅行の付加価値を高めている。申込み窓口である旅行会社は首都圏を中心に数社あり、各顧客層に応じて商品の告知と勧誘を行っている。対象クリニックではPET検診ブームが終焉した後も自由診療による患者が多く来院しており、PET機器は高い稼働率を維持している。このうち、検診ツアー参加者をみると、東京・群馬を中心に埼玉・千葉・神奈川など首都圏に居住する50~70代が多いことが分かった。検診ツアー普及初期は遠方の医療施設も選択されたが、PET導入の医療施設が増加するに従って都市部でも受診しやすくなり、交通至便な医療施設が選択されるようになった。一方、郡山市は県内で交通の要所、また首都圏からのアクセスの良さを背景に、検診時・宿泊旅館での付加サービスや検診後のケアを充実させ顧客の定着を図った。検診後のケアでは、何らかの異常が発見された場合には再検査や治療などの再診を、異常が発見されなかった場合でも健康管理のために定期的な検診を行う。このため、旅行商品として売り出されたものの、継続的な通院を必然的に伴う医療サービスの特質ゆえ居住地近郊の医療施設での受診が選択されやすいことが分かった。
著者
李 小妹
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.501-501, 2008

本研究は,中国・シンセンにある「錦繍中華」,「中国民俗文化村」と「世界之窓」という三つのテーマパークにおいて,新しい都市空間がいかなる過程で作りあげられているのかについて考察する。これらのテーマパークは,中国国内で初めて作られた同類の観光施設として,中国の文化観光開発事業をリードし,経済開発の産物と見本であると同時に政治文化の発信地でもある。テーマパークがもつこのような経済的,政治文化的特性は,シンセンの都市空間のそれを反映している。そのうえ,市場経済化とグローバル化の中で成長したシンセンは,グローバル時代における中国都市の都市空間の変容と,都市空間を生きる人々とのかかわりのダイナミックな変容実態を,他のどの都市よりも先見的に,よりよく反映している。本研究において,これらのテーマパークの建設経緯,展示内容および展示手法について検討し,「見せ物の場所」と「生きられる空間」といった二つの視座から,開発側である中国政府と華僑資本家および「ユーザー」である観光客や少数民族の若い労働者による「空間の生産」がいかなるものかを明らかにした。 まず,「見せ物の場所」としてこれらのテーマパークは,中国および世界の歴史文化といった大きなテーマの下で,「社会主義的国民国家」と「市場経済の発展ぶりおよび生活の向上」を見せ,経済発展を正当化する手段であると同時に,愛国主義教育といったような政治宣伝の場でもある。 また,アンリ・ルフェーブルの「表象の空間」とエドワード・ソジャの「第三空間」の概念を用いて,これらのテーマパークが「見せ物の場所」であると同時に「生きられる空間」でもあると確認した。具体的に三つの場面を挙げながら論じる。場面_丸1_:「錦繍中華」において,観光客であるシンセン住民がテーマパークを自らの所有物でもあるように他の町から来た観光客に紹介する時の,彼らの表情や振る舞い型や使った言葉と話す口調から,彼らがこの空間に付与された意味を自分たちの住民としてのシンセン・アイデンティティとも言うべき主体性の発揮が見られる;場面_丸2_:「中国民俗文化村」に百人以上の少数民族の若者が働いている。彼らはテーマパークのすぐ近くにある社員寮に住み,テーマパークを中心に生活している。テーマパークの中での活動と言えば,観客にパフォーマンスしたり民族文化を紹介したりするような労働だけでなく,売店やレストランで自ら消費者になって見せる身から見る身に変身するのである。こうした「生産」と「消費」の間に移行する身体は,見せ物の場所を生きられる空間へと変えている。場面_丸3_:「世界之窓」で80歳の闇ガイドに出会った。彼は「75歳以上の老人が入場無料」という規則で毎日テーマパークに来ている。目的は観光ではなく,観光客にテーマパークを案内することで案内費を稼いでいるのだ。彼のようなテーマパークに雇われていないガイドをここにおいて「闇ガイド」と名付け,彼らによって「世界之窓」という空間が一種の抵抗空間として生産されている。つまり,シンセンのテーマパークは,観光客や少数民族の若者や闇ガイドのおじいさんのような住民や「ユーザー」の空間であって,彼らの諸活動によって抵抗の空間,または「生きられる空間」に練り上げられている。 国民国家のアイデンティティと民族文化は,常に変化しており,確立される必要性に迫られている。従って,それらが空間と時間の枠組みのなかで再生産され,再確認されるプロセスは,わたしたちの周りに絶えず展開されている。万里の長城が5000年の中国歴史文化を象徴するように,シンセンは経済発展がもたらした現代性を象徴する。シンセンの都市空間は,いわばひとつのテーマパークのような存在であって,そのテーマというのが,「グローバル化」であり,中国の改革開放の成功(「社会主義体制」と「市場経済様式」との接合)である。中国が社会主義の政治体制と資本の自由化との間に,その矛盾と戦いながら自らの発展の道を探りつつあると同様に,中国の人びとは,矛盾に満ちた都市に放り出された身をもって,都市を自分たちの需要に合わせながら作り変えている。こうした表象され,実践され生きられる空間には経済発展に巻き込まれている社会的諸主体間の関係性が生き生きと作られ,また現されてもいる。わたしたちが今日及び近未来の中国の都市空間と中国社会を理解するのに,こうした関係性としての空間を第三空間的想像力で考察することはきわめて有意義であろう。
著者
高崎 章裕
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.14-14, 2011

I はじめに 本研究では、沖縄県北部の名護市辺野古区への移設が計画されている普天間飛行場代替施設の建設問題と沖縄県国頭郡東村高江のヘリパッド移設問題をめぐる環境運動を取り上げる。これまでの沖縄における基地移設問題は、日本とアメリカが形成する安保体制に基づく、そして時には安保を越えた米国主導の世界国際システムを維持するための要としての米軍基地の存続が、沖縄に厳しくのしかかってきた。そのため、政治学や国際関係論の議論が必要不可欠であった。他方で、基地収入などによる外部依存経済体制の沖縄の地域構造を、沖縄の自治や内発的な発展の模索を目指した研究がおこなわれてきた。 しかしながら、基地問題を含めた沖縄の環境問題研究については、多くの場合、保護・保全という側面ばかりが強調されてきた。それは、沖縄の豊かな環境や生物多様性が乱開発や基地建設に脅かされることで、「現場」における緊急な保護・保全の対応が求められたからである。言い換えれば、市民が「現場」での対応に追われたことで、環境と地域住民のローカルな関係性が評価されることは少なく、グローバルで普遍的な価値を見出す視点が重要視されてきた。 そこで、本研究では、辺野古と高江の座り込み運動を事例とし、空間スケールの視点から分析を行うことで、運動の展開過程とそれらの環境運動がそれぞれの地域とどのような関係性を持っているかを明らかにすることを目的とする。II 辺野古をめぐる反対運動の展開 1996年の「沖縄に関する特別行動委員会」の最終報告で宜野湾市の普天間飛行場の全面返還が発表されたことで、辺野古沖への移設問題に対する反対運動が展開されることとなる。翌97年1月には、辺野古区民を中心に27名が参加して、「ヘリポート建設阻止協議会」が結成され、この協議会は後に、通称「命を守る会」としての役割を担うこととなる。それ以降、地元集落だけではなく、名護市民の動きが急速に活発化し、4月には「ヘリポート基地を許さないみんなの会」、5月には「ヘリポートはいらない名護市民の会」が結成され、市民投票推進協議会結成への足がかりとなる。 1997年12月21日の市民投票結果は、条件付き反対を含めて過半数が反対、無条件反対のみで過半数を占めた。反対派の市民グループとしては、「命を守る会」の他に、旧久志村北部の「二見以北十区の会」、名護市西部とくに市街地女性を中心とした「ヤルキーズ」(命どう宝ウーマンパワーズ)、名護市東部を中心に活動した「ジャンヌの会」などが中心となって活動を行った。中でも「ジャンヌの会」の呼びかけで沖縄をつなぐ全国的なネットワークが形成され、5月8日から10日に、東京大行動を行った。県内20団体、124人の沖縄女性が参加した。市民投票の1年後には、「新たな基地はいらないやんばる女性ネット」が形成された。 2000年以降になると、ジュゴン保護関係団体や世界自然保護基金日本委員会(WWFジャパン)などによる自然保護運動が沖縄の反基地運動・平和運動において無視できない大きなうねりを生み出した。III 高江をめぐる反対運動の展開 沖縄本島北部の山や森林など自然が多く残っている地域は、やんばると呼ばれ、東村高江はそのやんばるの中に存在する。人口は150名、そのうち中学生以下が約2割を占めている。先述の1997年のSACO合意により、北部訓練場の約半分を返還する条件として、返還される国頭村に存在するヘリパッドを、東村高江へ移設することが計画されている。現在でも東村には15か所のヘリパッドが存在しており、そこへ新たに6か所のヘリパッドの建設が予定されている。 高江の住民は2006年にヘリパッド反対の決議を行い、計画の見直しを要請してきた。2007年7月2日、防衛局は工事を着工したことで、その日から高江住民は座り込みによる工事阻止行動を続けている。2007年8月24日に、「ヘリパッドはいらない住民の会」が設立されているが、高江集落の規模から考えてみても、その中心となっている住民はわずか数世帯である。しかも、2008年11月、国は座り込みが工事の妨げになっているとして、住民ら15名に対し、通行妨害禁止の仮処分を那覇地裁に申し立てるなど、座り込みを維持するためには、支援団体によるサポートが不可欠である。その中心を担っているのは、奥間川流域保護基金のメンバーを中心とした沖縄・生物多様性市民ネットワーク、沖縄平和運動センターなどが、現地での座り込みのサポートを行ったり、防衛局への異議申し立てなどを行っている。 報告では、辺野古・高江をめぐる座り込み運動の空間スケールおよび、運動主体の関係性について比較をおこなうことで、現在運動の置かれている状況の分析をおこない、運動が抱えている課題について検討していく。
著者
コルナトウスキ ヒェラルド
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.92-93, 2013

Doug Saundersによる「アライバル・シティ」概念を枠組みにして、建設現場などで負傷した(主にバングラデシュ出身)移民労働を巡る社会的課題、特に補助金・医療・住宅問題の背景を明らかにする。
著者
岡本 憲幸
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.11, 2006

地域文化は社会的・政治的文脈によって構築され,「伝統」や「真正性」といった概念が付随する。このような地域文化をとらえる視点として,「フォークロリズム」や「文化の消費」などが挙げられる。このように,地域文化は様々な要因によって流用され,再文脈化されるが,研究対象とされる地域文化は成功している事例が多く,維持困難な事例を採り上げる必要がある。本発表では,維持困難な地域文化として「郷土玩具」を採り上げる。郷土玩具概念は,明治期に失われていく江戸文化への再評価の過程で登場したもので,愛好家のまなざしによって構築されたものである。郷土玩具の研究は,主に愛好家を中心に行われており,概念形成を論じた民俗学の研究も見られるが,地理学においてはこけしの地場産業研究が行われるぐらいであり,本発表は郷土玩具を文化的側面から捉えたい。対象とする郷土玩具は,岡山県美作地方に伝わる泥天神を事例とする。この地方には,津山,久米,勝央の各泥天神が集積しており,地域全体の郷土玩具が捉えられる。また,この地方の泥天神は,天神である菅原道真とゆかりがある点,戦前までは雛節供の際に男児に泥天神を贈る風習が存在していた点が特徴として挙げられる。戦後,製作中断から再興し,自治体などの指定や表彰を受けた泥天神もあるが,風習の衰退などにより,維持が困難な状態にある。泥天神の文脈に欠くことのできない風習に対して,製作者たちは泥天神と風習とのつながりが希薄なことを認識し,風習の文脈に「伝統」を感じていない。そして,風習が衰退した美作地方から,製作者は泥天神の販路を地域外へと拡大させている。また,泥天神の大きさを小型化したり素材を変えたりもしている。製作者たちはかつての泥天神を維持することに「伝統」を感じておらず,様々な変化は容認しつつも現在に泥天神を継承していることに「伝統」を感じている。こうした製作者の意識は,かつての泥天神の文脈から分離し,新に創出された「伝統」へと再文脈化したものといえる。製作者たちは,自治体による泥天神への指定の影響から,泥天神を「郷土」に遺す努力をしている。一方,自治体のほうは,泥天神の保存を製作者と地域住民に託しており,また地域住民のほうは,風習が衰退して泥天神に関わる機会が少ないことから,泥天神の保存に対して積極的ではない。このような状況で,製作者が「郷土」に感じている点は,1つ目に泥天神が同じ「郷土」で製作される必要性,2つ目に同じ「郷土」で製作されているから,継承の断絶があっても「真正性」が失われないという2点である。このことから,「郷土」は泥天神の「伝統」の再文脈化を保証する役割を担っている。
著者
山口 覚
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.505, 2008

1999年に実施された権限委譲によってスコットランドは一定の自治権を得た。スコットランドは1つの国家としての体裁を整えつつあり,独立論も強まっている。しかし外交や軍事とともに移民政策の権限はロンドンのウェストミンスター議会が保持しており,移民政策の実務は内務省が担当している。こうした権力の二重構造にあるイギリス/スコットランドにおいて,アサイラム・シーカー(庇護申請者)がいかに遇されているのかを報告するのがこの発表の目的となる。 アサイラム・シーカーとは,出身国での受難から逃れ,1951年のジュネーブ条約で規定された「条約難民」としての認定を受入国に求める人々のことである。しかしながら,ジョルジョ・アガンベンが言うように,難民やアサイラム・シーカーを「例外状態」として生殺与奪を欲しいままにすることこそが近代国民国家の主権を保障する。よって相当数のアサイラム・シーカーは難民認定されず,国外退去を勧告されるのである。 内務省入国管理・国籍局のもとで2000年に設立されたNASS(National Asylum Support Service)は,アサイラム・シーカーに対して強制分散政策(policy of compulsory dispersal)を採っている。難民認定の審査期間中,アサイラム・シーカーは各地の地方自治体の所有する公営住宅に配分されるのである。これは,できるだけ早く認定難民をイギリス社会に定着させるという建て前のもと,ロンドン周辺へのアサイラム・シーカーの集中を避け,余剰公営住宅のある自治体に負担を分散させるためのものである。その最大の居住地となっているのがスコットランドのグラスゴーである。しかしスコットランド政府は,「自国」内部にいるアサイラム・シーカーを直接支援することも排除することもできない。 アサイラム・シーカーが難民認定されなかった場合には国外退去が命じられる。しかし強制分散政策ではイギリス社会に一定の根を張ることが意図されており,実際にそうなるケースも多い。こうして退去が命じられても残留し続ける者が多数となる。それに対抗して内務省の権限で実施されるのが「朝駆け」(dawn reid)を含む強制退去である。スコットランドでは政府(行政府)を含めてその手法に対する批判が多い。そのため,2007年には「新戦術」として,朝駆けによって拘束されたアサイラム・シーカーがスコットランドにあるダンガヴェル拘留センター(Dungavel detention centre)ではなく,イングランドのヤールズウッド(Yarl's Wood)拘留センターにまで極秘に移送されたケースも確認されている。 スコットランド政府は,「自国」内部でのロンドン/内務省による排除の手法を批判しつつも直接には何もなし得ないため,アサイラム政策を含む移民政策の権限委譲を求めることになる。しかし,もし権限委譲がなった場合には,アサイラム・シーカーの処遇は少しでも良好なものになるのであろうか。
著者
藤田 佳久
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.18-18, 2009

<B>1 目的</B><BR> 本研究の目的は、20世紀前半期の満州に漢人が集中的に流入したさいの、中国本土のうちの流出地、満入先、流入時期、流入者の特性、流入地域の拡大とその背景について明らかにするところにある。<BR><BR><B>2 方法</B><BR> 方法としては、その時期に集中的に満州地域へ調査の足を伸ばし、漢人の満州移動状況を観察、調査した東亜同文書院学生による記録を利用した。<BR> 東亜同文書院は1901年、上海に開学し、終戦の1945年までの半世紀にわたって中国との貿易実務者を養成するビジネススクールとして存続し、中国調査研究の発展によりそのアカデミックさが認められ、大学へ昇格した。徹底した中国語教育とともに、1907年から本格的な中国および東南アジアの「大旅行」調査が行われ、その成果とともに書院の大きな特徴となった。<BR> 「大旅行」は最高学年で実施され、学生たちの自由な調査旅行テーマと旅行日誌が記録された。各学年1班2~5人ほどの10~20班が組織され、3~5ヶ月間徒歩による調査が行われた。その総コース数は700に達し、とりわけ旅行日誌は毎日の旅行コースと沿線状況、会った人々、料理などが生き生きと描かれ、近代中国の様子を十分にうかがい知ることができる。<BR> 満州事変直後の2年間、民国政府は中国国内旅行をめざす書院生へのビザの発給を中止し、書院生は心ならずも満州地域にフィールドを設けざるを得なかった。それ以前にも満州各地の調査を行った班もいくつかあったが、この2年間の調査でほぼ満州全域を同時に把握できることになった。その記録の中に漢人の満州への移動がみられることになり、それを本研究のベースとした。<BR><BR><B>3 まとめ</B><BR><B>(1)</B> 満州は満州族の聖地として位置づけられ、清国時代、とりわけ19世紀までは漢人の満州入りは禁止されてきた。しかし、19世紀後半以降、満州がロシア勢力の南下によって保全がおびやかされるようになると、清朝政府は領域の一部を漢人の農業移民に開放し、ロシア南下の防禦にしようとした。<BR><B>(2)</B> この動きは、民国期になるとさらに活発になり、多くの漢人が満州へ入るようになった。当初は夏季中心の出稼であったが、次第に入植定着する農民が増え、1920年代にはそのピークを迎えた。こうして毎年100万人もの漢人が入植し、遊牧の民・満州族の牧地を手に入れ、満州族を周辺へ追いやる形で南満さらに中満へと入植地を拡大し、一部は北満へも入植した。<BR><B>(3)</B> 彼らの出身地のほとんどは山東半島のある山東省である。これは山東省の将軍がこの時期に隣接省との戦争をつづけ、農民は兵士として徴用され、また食料や家畜を徴発されたこと、また折しも災害が発生するなど、山東居民の条件が悪化したことがあった。それが海を渡れば目と鼻の先、そして次第に日本による満州経営による労働力需要が彼らを引き受け、また満鉄も船と鉄道を彼らのためにほとんど開放したりした。
著者
石野 聖
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.46, 2011

1.はじめに 発表者が勤務していた中学校の1年生全員を対象に、3学期の学年行事である『実力テスト』において日本の白地図に都道府県の正確な位置と名称を答えさせる問いを出題した。47すべての都道府県についての問題である。その結果を元に、次の2点に注目してみた。(1)都道府県ごとの正答率の対比―解答については、正確な漢字で書いているか平仮名か。誤答については、他県名を書いているか誤字か空白か。(2)今回の正答率と定期テストの得点率との対比―「この分野は得意」という生徒が散見されたため、小学校6年時の担任が社会科専攻かどうかを調べた。以上から、地理的分野の学習(県名認知を例に)において、現在の教育現場では具体的にどのような指導が必要なのかを考察する。2.白地図テスト実施までの流れ 発表者が勤務していた中学校は、大阪府門真市にあるE中学校(公立)である。この中学校では、S小学校、K小学校、H小学校(いずれも公立)の3小学校の卒業生を受け入れている。 毎年1月に、中学1・2年生の学年行事として、『実力テスト』を国語・社会・数学・理科・英語の5教科において実施している。それぞれ既習の範囲内で各教科50分出題される。中学1年生の社会科では、主に世界地理と日本地理(地形図)の出題が中心である。 試験対策については、基本的には『実力テスト』と銘打っているので、通常の定期テストのように事前に範囲を指定し、課題等を渡しておいて受験させるという流れではない。しかしながら、白地図問題が含まれるため、冬休み用課題として47都道府県をすべて記入するプリントを配布しておいた。 3学期開始後、課題の自己採点を行うための解答を生徒へ配布した。その際、「次の実力テストに、都道府県名を答える問題を出題する。」ということを明言しておいた。3.テスト結果について テストは大問6問で、世界地理(全地域)、日本地理(地形名)、都道府県の白地図で構成される。白地図問題の解答条件では、○(=正解)とするには、一定の基準を設けている。まず、**府、**県など漢字できちんと答えること、平仮名は一部でも△(=減点)、誤字は×(=誤答)として扱った。府・県などが抜けた場合は、漢字が正確でも×とする。このような条件で、47都道府県すべてを出題した。 受験者は、1学年6クラス204名であった。平均正答数は47問中、23.2問(49.4%)であった。 県別正答率でみると、北海道、青森、大阪、沖縄、岩手の順で高く、地方別では北海道を除くと、近畿地方、東北地方、中国地方の順に高い。逆に県別誤答(不正解)率でみると、茨城、栃木、福岡、神奈川、新潟の順で高く、地方別では、関東地方、四国地方、中部地方の順に高い。 誤答率の高い県の記述例をみると、茨城では「茨木」「?(誤字)城」、栃木では「群馬」「?(誤字)木」、福岡では「大分」や他県名の記述が多かった。また、平仮名での解答が多かった県は、岐阜、新潟、鹿児島、栃木、埼玉である。これらは、小学校の国語科で習得しない漢字を含んでいる県名である。 今回の「都道府県名を答える問題」が社会科の他分野に比して得意かどうか、正答率対比の値を算出して調べてみた。もとより社会科の得意な生徒もいるので単なる正答率で比較するのではなく、47問の大問正答率を年間5回の定期テスト得点率(平均)で割ることによって値を求めた。その結果、学年平均の値は0.92であったが、それを上回る生徒数は102名であった。 引き続きこれらの値を利用し、出身小学校と旧担任(6年時)との関係を調べると、旧担任ごとの正答率対比の値にばらつきがみられる。これは、社会科を専門とする担任の指導による影響も考えられる。4.考察 白地図問題を実施し、全都道府県を答えさせることによって、各県の正確な場所、名称の記憶について各生徒の県名認知の現状が把握できた。誤答の主な原因としては、正しい漢字が書けないことと、他県との誤認である。それぞれ、特定の県に集中している。 普段の学習には消極的だが、県名を答えるなら得意という生徒が少なからずいることがわかった。小学校時に受けた指導が影響しているかどうかは、具体的な聞き取りなどで調査しており、発表時に報告したい。
著者
米家 泰作
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.30-31, 2013

20世紀前半に朝鮮半島と中国東北部を周遊した日本人の旅行記約200点に着目し,旅行の形態や規模,訪問地,目的について基礎的検討を示す。
著者
古賀 慎二
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.2-2, 2005

2005年、京都府は『事業所・企業統計調査』を「事業所の形態」別に「業種」、「従業者規模」、「本所・支所の別」、「開設時期」、「業態」がクロスで把握できる独自集計を行った。本研究は、この『独自集計データ』を利用して、「事務所・営業所」形態の事業所を実質上の「オフィス」とみなし、景気後退期にあたる1990年代後半期における京都市のオフィス立地変化の特徴を、これまで分析できなかった業種別の変化から明らかにしたものである。1990年代の後半期は、バブル経済崩壊の影響で事業所数や従業者数が全国的に大きく減少した時期にあたる。京都市もその例に漏れず、ほとんどの業種で事業所・従業者が減少した。なかでも「繊維・衣服等卸売業」、「繊維工業」など京都を特徴づける業種での減少が著しく、その活動拠点はCBD(三条から五条の烏丸通沿道)に集約化される傾向が明らかとなった。オフィス集積地区(オフィス従業者100人/ha以上の地区)が京都市中心部(丸太町通・鴨川・JR京都線・堀川通で囲まれた地区)において全体的にコンパクト化するなか、修正ウィーバー法でオフィス集積地区の業種構成を検討すると、京都のオフィス街のいわば代名詞であった「室町繊維問屋街」は急速に縮小し、近年台頭してきた情報・専門・事業サービス業オフィスが中心部の核心地区や京都駅周辺で拡大しつつある状況が認められた。
著者
北川 眞也
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.39-39, 2003

1990年代前半のイタリアは激動のときであった。冷戦期の「第一共和制」と呼ばれる政体が崩壊し、既成政党の消滅や経済危機などに直面した。イタリアはグローバル化する世界において、その位置付けを見失った状況にあったのである。それゆえ「イタリア」をめぐって、さまざまな言説が生み出された。政治のレベルでは、新政党が「第二共和制」を構築していくこととなったが、その中でもっとも「イタリア」を問題化したのは、北部に自治を求める北部同盟という政党であった。北部同盟は、既存の政治システムを批判し、国家の連邦制改革を訴えることで、1990年代前半に躍進した。だが1996年には北部をイタリア内のリージョナルな場所から、それとは異なる「パダニア」というナショナルな場所として表象し、分離を目指した。しかも1996年の総選挙で過去最高の躍進をみせ、中央に対する不満を募らせるイタリア経済の中心である北東部から多くの支持を得た。一方で、1996年はイタリアのEUの通貨統合へ向けての国家改革の端緒とも言える。通貨統合への参加が危ぶまれていたイタリアにとっては、かなりの困難が予想されていた。国内からの北部同盟の分離への訴えと、国外からのヨーロッパ統合の圧力は、いずれもしばしば近代性の欠如として特徴付けられるイタリアを「普通の国」へと適合させていくための挑戦と考えられる。発表では、北部同盟による地理的スケールの政治が、イタリアの政治に及ぼす効果に注目する。なぜならこの表象によって、ユーロをめぐる重要な時期にイタリア北部の意味が問題化されるからである。他の政治勢力が、この北部同盟の「パダニア」・ナショナリズムからどのようなことを読み取ったのか。そしてそれが「イタリア」の言説にどのように節合されたのかということを明らかにする。またここから、グローバル化の中で活躍する「イタリア」へ向けての道のりの困難さが伺えるだろう。
著者
グエン ティー ハータイン 野間 晴雄
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.508, 2008

農地転用は都市化の一側面から生じる一過程あり,社会経済発展の結果である。近年、ベトナムは年率3.05%(1995-2006)の急激な都市化を経験した。しかしながら,スプロール化が生じているのに,現状では,政府の方策は都市化を抑えることも,正しい方向への農地転用を動機付けすることも,住民を満足させることもできない。ハノイ市郊外のメッチー社(Me Tri commune)はそのような問題が顕在化する典型地域である。本稿の目的は,この地域で都市化おける農地転用の影響を評価することである。<BR> メッチー社では2000年以降現在まで,急激な農地転用によって,農民は以下のようなさまざまな問題に直面している。次々に林立する高層建築やオフィスビルの景観とは対照的に,この地域の伝統的な生業であったブン (<I>bun</I>)といわれる米麺づくり,コム(<I>com</I>)といわれる未熟な糯米をハスの葉にくるんだハノイ名物の菓子づくりは衰退し,農民が以前の職業に取って代わる工業やサービス業での新規就業機会をみつけることは困難で,不安定で危険な仕事に従事せざるを得ない状況にある。さらに立ち退きによって得た補償金で,農民はこぞって所得に不似合いな高価な家を購入し,モーターバイクや携帯電話を所有するようになった。<BR> 農地転用における望ましい方法としてわれわれは以下の4点を提起したい。1) 農民に 一時的な補償金ではなく,代替の土地を与える,2) 職業訓練コースのため受講料の支給ではなくの受講証を発行すること, 3) 農地転用や廃止の前に労働の移転計画を考える, 4) 仕事を与えるのみならず,伝統的な生業が可能な場所を農民のために確保する。<BR>
著者
香川 雄一
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.46-46, 2004

栃木県旧上都賀郡鹿沼町の「歳入歳出決算書」と「町会会議録」を中心とした行政資料を読み解くことによって、地方財政をめぐる政治過程が予算から決算に至るまでの金額の更正に、いかにして作用しているかを明らかにする。町制を施行した直後の明治20年代には1万人に満たなかった鹿沼町の人口は、大正期に入ると1万5千人を越えるようになる。鹿沼町では明治23年に鉄道の日光線が開通し、帝国製麻株式会社の主力工場も存在していたため、一時的な増減はあるにせよ、人口は増加傾向を示していた。とくに大正期は工場の増設による工業化を主導として、町の内部に都市化をもたらすことになった。大正9年の国勢調査による職業分類別人口を見ても、商業を抑えて工業が第一位部門となっている。工場労働力の流入など、人口が増えることによって必要となるのは住宅である。一方で若年人口の増加は義務教育体制下にあって、学校の増改築を不可避のものにすることになった。 鹿沼町における学校建設費用による財政規模の急変は決算額の推移によって裏付けられる。明治28年度は学校建設のための寄付金によって、歳入額が前年度の倍以上となる。明治35年度と36年度は校舎建築費と復旧費で決算総額が再び急増する。42年度以降も毎年多額の学校建設費が予算化され、翌年度以降の歳出増加を導いている。大正期に入っても前半はそれほど変化していないが、大正9年度以降は急激に財政規模を膨張させる。これもやはり小学校改築費用のためであり、町債によって準備された金額が大正10年度には多額の繰越金として歳入に組み込まれ、歳出では小学校改築費に使われた。学校の改築や新築といった建設費用に町の財政が苦心していたことはひとまず確認できた。財政規模の拡大により、町有財産を充実させてきたのも事実である。財政に取り組む政治過程が行政施策の方向性を定めてきたことが理解できる。