著者
川西 孝男
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.24-25, 2013

同研究は、これまでのKantorowiczなどによる皇帝フリードリヒ2世像を,聖杯騎士伝説の視点から"世界の驚異"と称される彼の目指した世界観を人文地理学アプローチを用いて新たに論じたものである。
著者
村山 祐司 尾野 久二
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2002, pp.19, 2002

<BR><B>I はじめに</B><BR> 最近,GISの世界では,計量地理学の成果と可視化技術を統合・発展させたGeoComputationが注目を集めている。この分野の研究は多岐にわたるが,重要な研究課題の1つに空間分析用のプラットホームの構築がある。その先導的役割を果たしのはSpaceStat を開発したLuc Anselinであるが,最近では,Leeds大学CCGやペンシルベニア州立大学GeoVistaなどでも精力的に研究が進められている。また,空間分析ツールの情報を集め,インターネット上で公開しているCSISS(Center for Spatially Integrated Social Science, http://www.csiss.org)の研究プロジェクトも関心を集め,世界的に高い評価を得ている。このように,人文地理学にとって有用な空間分析諸手法が次第にGISに取り込まれつつあるが,本研究は欧米の動向を踏まえ,オープンソースを利用した統合型空間分析システムを開発し,日本におけるGIS教育や地域分析に貢献することをめざしている。<BR><BR><B>II 利用ソフトウェア</B><BR> 本システムはWindowsNT/2000/XP上で動作する。 本システムを構築するにあたり活用したソフトはフリーウェアで,すべてオープンソースである。<BR>1.GIS関連<BR>GeoTools for Java(CCG開発のJava用GISエンジン), JTS(Java Topology Suite) (オーバーレイ解析モジュール)<BR>2.空間分析関連<BR>R言語・・・統計分析用言語。商用統計分析ソフトSplusのクローン。多くの拡張パッケージが存在する。<BR><BR><B>III 統合型空間分析システム</B><BR>(1)概要<BR> プログラム本体(Java言語で作成)とR言語を統合するために,本システムは以下のツールを利用している。<BR>1.JCOM・・・システム本体とRSTATサーバー間の通信ソフト(オープンソース)。<BR>2.RSTATサーバー・・・JCOMとR言語間の通信(独自開発)<BR> これらを用いることにより,GIS機能と空間分析機能とのTight なカップリングを実現した。<BR>(2) 空間分析機能<BR> 現時点で,以下の解析機能をサポートしているが,近い将来,空間的相互作用分析や空間的拡散モデルなど人文地理学の分析でニーズが高い技法やモデルを順次追加していく予定である。<BR> ・ 空間解析(バッファー),TIN,ボロノイ,凸包<BR> ・ 記述統計,多変量解析,ESDA(探索的空間分析)<BR> ・ ポイント・パターン分析,空間的自己相関分析,ニューラルネット分析<BR>(3) 実行例(空間的自己相関分析の事例)<BR> 第4図はローカルG統計量を求める画面を表示したものであり,第5図はローカルG統計量を導出した結果の地図表示の例(茨城県,市町村単位)である。<BR><BR><B>IV 展望</B> <BR> 現在,村山のサイト(http://land.geo.tsukuba.ac.jp/teacher/murayama/index.html)において,本システムを試験的に公開している。空間分析機能をより充実させるとともに,WebGIS化を果たすことが今後の課題として残されている。<BR><BR>参考文献<BR>村山祐司・尾野久二編 『地域分析のための地理情報システム─Arc/INFOを利用して─』,文部省重点領域研究「近代化と環境変化」技術資料,1993,206頁。
著者
神田 孝治
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.24, 2011

<B>I.はじめに</B><BR> 1970年代に観光ブームを迎えた与論島は、観光客と地域社会の間でコンフリクトが見られた典型的な事例であった。こうしたコンフリクトは、特に外部から付与された与論島のイメージと、そこから生じた観光客の諸実践をめぐって生じていた。この与論島は近年、映画『めがね』の舞台として注目を集めているが、そこで喚起される与論島のイメージも現地の対応も1970年代のそれとは大きく異なっている。本発表では、これらの比較を通じて、観光地のイメージとそれへの現地の対応について考察を行う。<BR><B>II. 与論島の観光地としての系譜</B><BR> 与論島は、沖縄本島の北方約23kmの距離にある、周囲約21.9kmの小さな島である。この地は1945年の終戦によりアメリカ合衆国軍政統治下におかれたが、1953年に沖縄に先駆け日本に復帰した。そのため、1972年に沖縄が日本に復帰するまで、与論島は南の最果ての地となっていた 。<BR> この与論島に行くのは簡単なことではなく、例えば1968年段階で、鹿児島から最速船で約23時間を要し、船は1日1便であった。しかしながら、1967年に財団法人日本海中公園センターの田村剛が「東洋の海に浮かぶ輝く一個の真珠」として与論島を賞讃し、翌年にNHKの「新日本紀行」で与論島が放映されると、旅行業者の活動も盛んになるなかで観光客は増加していき、1979年には150,387人の入込客数を記録した。けれどもその後、石垣島への航空機の就航、沖縄の観光開発の本格化などの影響を受け、1980年以降は観光客が漸次減少し、2009年には58,048人となっている。<BR><B>III. 観光最盛期における与論島のイメージとコンフリクト</B><BR> 1970年代の与論島の魅力について、当時の新聞記事では、日常生活を営む都市との対比によってもたらされた「自由」を若者が感じていると指摘していた。さらに当時のマスメディアはさらなる幻想を与論島に付与しており、例えば1971年の週刊誌の記事では、「ブームの与論島の聞きしにまさる性解放」と題してそこを性の楽園として描き出していた。<BR> このように外部から来る観光客の欲望の対象とされた与論島では、地元住民による反発も生じていた。なかでも先の週刊誌の記事は地元住民の大きな怒りを買い、「夜ばいだの、フリーセックスだの、週刊誌の記事はまるで"南洋の土人"扱いではないか。未開の土地を探険する文明人の発想ではないか。」(『南海日日新聞』1971.7.2)と、本土側からのまなざしが批判の対象となっていた。<BR><B>IV. 映画『めがね』による与論島観光と現地の対応</B><BR> 2007年9月に公開された映画『めがね』は、「何が自由か、知っている」をキャッチコピーとし、都会から南の島にやって来た女性が、観光をするのではなく、何もせず「たそがれる」という内容になっている。<BR> この映画は、与論島に自由を見出しており、それは1970年代の観光ブーム時と同じである。しかしながら、そのイメージは、性的な部分が強調される楽園ではなく、ゆったりとした気持ちで「たそがれる」島というものである。そして、この映画の影響を受けた主に若い女性が、与論島を訪れるようになっている。<BR> 映画『めがね』の提起する与論島のイメージや、それに憧れてやってくる観光客に対して、現地における聞き取り調査では地元住民の反発の声を聞くことはなかった。しかしながら、与論島観光協会への聞き取りでは、制作会社の意向により、そこが与論島であると積極的に宣伝することができないとのことであった。また、そうした宣伝を行うことは、インターネット等を利用して自分で情報収集してやって来る観光客に対しては逆効果であるとも考えており、いくつかの情報提供を行い、またそれによる観光振興への期待は高いものの、映画で与論島をアピールすることはするつもりがないとのことであった。<BR> 地元住民への聞き取り調査では、与論島ブーム時のような観光地化に対する反発は今でも根強い。そうしたなかで、映画『めがね』の喚起する与論島イメージやそれにともなう静かなブームは、地元住民にとっては受け入れやすいものだといえるだろう。しかしながら、それが産み出す与論島のイメージとその魅力は、観光への否定に基づいており、そのなかで映画の舞台であることを積極的に発信できないというジレンマも産み出している。与論島では、観光と地域がどのように関わるかという課題が、イメージの問題を中心に、形を変えながら現在でも続いているといえる。
著者
豊田 哲也
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2002, pp.29, 2002

<B>1.研究の目的</B><BR> 約40種類にのぼると言われる日本の香酸柑橘(酢みかん)のうち、徳島県特産のすだちは大分県のかぼすと並ぶ代表的なもので、年間生産量7千tと全国の97%を独占している。最大の柑橘である温州みかんの生産は1960年代に西日本各地で急拡大を遂げたが、生産過剰や輸入自由化による価格低下に直面し産地の大幅な再編を迫られた。もともと温州みかんに不適な気候条件の中山間地域で始まったすだちの栽培は、技術革新による周年出荷の実現で安定した収益の確保に成功し、1980年代にはみかんからの有力な転換作物として生産量の増加を見た。本研究では徳島市の南西に隣接する神山町と佐那河内村を事例地域に取り上げ、産地形成の過程を跡づけながらその生産構造を明らかにする。<BR><B>2.産地形成の過程</B><BR> すだち生産の開始から拡大、成熟に至る経過はおおむね10年ごとに以下の4つの時期に区分され、栽培面積の推移は典型的なロジスティック曲線を描く。<BR> <U>第1期</U> 徳島県におけるすだち栽培の歴史は江戸時代に遡るが、1956年に神山町鬼籠野地区で養蚕業や甘藷栽培の行き詰まりを打開すべく農家有志が栽培に取り組んだのが、商業的生産の始まりである。1960年代には消費宣伝と販路拡大を図りながら、同町におけるすだち生産は徐々に増加した。<BR> <U>第2期</U> 1970年代に入り、低温貯蔵技術の開発やハウス栽培の導入によってすだちの周年出荷体制が確立される。9月に出荷される露地すだちのkg単価が100円前後であった当時、長期貯蔵ものや加温ハウスものは1500-2000円の高値で取り引きされ、生産農家の収益性を大幅に高めた。<BR> <U>第3期</U> 温州みかんの価格低迷と生産調整が本格化する中で、1979年に県はすだちへの転換支援政策に乗り出す。1981年2月の大寒波でみかんの木が大量に枯死するなど大打撃を被ったのを契機に、佐那河内村など周辺産地ですだちへの転換が進んだ結果、栽培面積は10年間で2.5倍に急拡大した。<BR> <U>第4期</U> 1990年代なると、新興産地の成長にともなう競争の激化、長期不況による業務向け需要の伸び悩みなどのため市場は飽和気味となり、すだち栽培面積は約600haで頭打ちとなった。<BR><B>3.事例地域の生産構造</B><BR> 2000年におけるすだちの栽培面積は、神山町126ha(徳島県全体の21.2%)、佐那河内村109ha(同18.3%)で、県内で1位と2位を占める。また、販売農家のそれぞれ60%と75%がすだちを栽培している。<BR> 神山町鬼籠野地区はすだち栽培の先進地で、長い経験を持つ栽培農家の技術水準は高い。1戸あたり栽培面積は零細だが、密植による集約的な経営で補っている。貯蔵用冷蔵庫の設置は早かったが、気候が冷涼なためハウス栽培はふるわない。中心集落である東分・中分・西分では米や野菜との複合経営が多いのに対して、山間部には一の坂集落のようにすだち栽培に特化した集落も見られる。<BR> 後発産地である佐那河内村では、温州みかんからの改植や高接による転換園が多く、1戸あたり経営面積が大きい。1970年代はハウスすだちの産地として成長したが、1983年以降は採算上の理由から貯蔵の方が多くなっている。鬼籠野地区に近い北山集落は、みかんからすだちへの転換がドラスティックに進んだ例で、情報や人の交流がこうした動きを促進する役割を果たしたと考えられる。<BR> このように、神山町と佐那河内村はすだち産地として対照的な性格を示しながらも、出荷時期などで機能的な補完関係を有している。また両者に共通する産地形成要因として、行政や農協による支援体制のほかに徳島市への近接性を指摘できる。すなわち、意欲ある生産農家は機動的な個人出荷で利益を追求しうる一方、通勤兼業を選んだ農家が加工向けの粗放な露地栽培を続けることも可能なためである。しかし、近年はいずれのケースでも就業者の高齢化が進んでおり、後継者の不足とあいまって今後の展開は楽観を許さない状況にある。
著者
磯部 作
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.7, 2006

近年、「水産業・漁村の多面的機能」が重視され、「交流などの『場』」を利用した体験漁業などが行われている。「水産業・漁村の多面的機能」とは、食糧資源供給に加え、自然環境保全、地域社会形成維持、居住や交流の「場」の提供する役割などがある。漁村は水産業が基本であるが、他産業も存在していることなどのため、「漁村地域」として捉え、その多面的機能も地域性を踏まえることが重要である。 水産業・漁村地域体験は、多面的機能の「交流などの『場』」を利用して、食糧資源供給や、自然環境保全、地域社会形成維持などの役割を体験することであり、それらを有機的に結合することが重要である。 2003年調査の第11次漁業センサスによると、全国の全漁業地区2,177のうち漁業体験が行われた漁業地区は31.2%であり、漁村体験が行われたのは8.0%である。それを都道府県別にみると、千葉県や和歌山県などの大都市周辺や、九州・沖縄などが多い。また、漁業・漁村体験の実施主体は漁協や市町村が多い。 沖縄県は全国でも有数の漁業・漁村体験が行われている。漁業地区でみても、沖縄本島中部の読谷村と恩納村が全国12位にランクされており、沖縄県内各地で水産業・漁村地域体験が行われていて、行政も水産業・漁村地域体験を推進している。沖縄県では、地域の漁業や伝統漁法を活かすとともに、亜熱帯の気候や、サンゴ礁やマングローブなど、地域の環境を活かした水産業・漁村地域体験が行われている。東シナ海に面していて沿岸海域にはサンゴ礁がある読谷村では、水産業・漁村地域体験として、役場と漁協などにより、漁業の中心である大型定置網、サンゴ礁でのアンブシ漁、モズク採り、魚の裁き方、漁具作りなどの体験が行われている。沖縄県では周年にわたって水産業・漁村地域体験をすることが可能であるが、修学旅行は5月や10月などが多い。また、修学旅行でも、小学校は沖縄県内から、中・高は沖縄県外からが多い。 佐賀県鹿島市七浦は漁業体験回数が全国第3位で、地先には有明海の広大な軟泥干潟があり、地区の全戸が加入する「七浦地区振興会」が結成され、300人以上の地区民が出資して会社を作り、干潟体験や、干潟物産館、干潟レストラン、直売市などを経営している。干潟体験は、潟スキーや潟上綱引きなどのミニ・ガタリンピックを行うもので、干潟環境教室なども行われている。2004年度では、九州を中心に、関西などからの小中学生の修学旅行生など15,941人が干潟体験をしていて、1,346万円の売り上げをあげており、直売市やレストラン、物産館などを含めて、全体で約2億円を売り上げている。 水産業・漁村地域体験は、水産業や漁村地域がなければ成り立たない。このため、水産業をはじめとして、漁村地域の環境や風俗・文化などを存続させることがなによりも重要である。また、体験漁業などを行い、体験資源などを解説できる人材の育成も必要である。水産業・漁村地域体験のメニュー開発などにあたっては、地域の自然環境や漁法などの地域性を活かすことが重要であり、漁法や集客の季節性、大都市などからの時間距離なども考慮しなければならない。 水産業・漁村地域体験は、まだ十分とは言えない場合もあるが体験料収入などをもたらし、水産業・漁村地域に付加価値をつけるとともに、体験漁業は少量の漁獲でも成立するため、過度の漁獲努力や乱獲を回避することができるうえ、体験者が地域内に宿泊することなどにより地域振興にも寄与する。さらに、体験者は水産業や漁村地域への理解が深まり、魚食文化の普及などに繋がる。このため、水産業・漁村地域の多面的機能を活用して、水産業・漁村地域体験を行うことは重要で、地域性などを十分考慮した取り組みが求められている。
著者
月原 敏博
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.54, 2010

地域環境と学校との関係を考えるために,福井県内の小学校校歌の歌詞(172校歌,165校分)を収集・分析した。その際,歌われている地域環境の要素のほか主体を含む景観の構図につき,歴史的変化も視野に分析した。 校歌で歌われる環境要素は,自然要素,歴史・文化要素,産業要素に細分できるが,自然要素では「白山」「九頭竜川」などの具体の山川や海が多く歌われており,可視性が重視されるとみなされた「白山」の場合を除き,学校から近距離にあるものが歌われていた。歴史・文化要素では寺社と城の名が多く,郷土史に関わる人名や神名も一部に現れていた。産業要素では農業関連の表現が多く,漁業関連の表現がそれに次ぎ,第二次・第三次産業に関わる表現はほとんど見出せなかった。 制定年に注目すると,「われら」や「ぼくたちわたしたち」といった児童自身を指す主体的要素の表現や,そうした主体要素と環境要素で構成される地域と,国家や世界など,地域を超える時空間との関係性の描き方には大きな歴史的変化が見られた。特に戦前・戦中と戦後とではそれらには大きな差があり,戦前・戦中に制定された校歌では国家や天皇に奉仕する忍耐強い姿勢が礼賛される傾向があったのに対し,戦後制定の校歌では「理想」「世界」「平和」「科学」「自由」などが対照的に現れ,校歌はそれが制定された時代を映す鏡でもあったことが判明した。 地域環境との関係では,近年では統廃合による学校数の減少によって歌われる具体の地域環境が減少傾向にあるが,地域環境を歌う際には抽象度において様々なレベルがあることも注目された。すなわち,近年に作られた校歌では,地域の環境を固有名で歌わず抽象的に表現する例が増えており,山川などの固有の地名が現れないために学校名を隠すと全国どの地域でも通用するような校歌さえ出現していた。このことも,歌われる地域環境の減少傾向を加速していることが判明した。
著者
谷 謙二
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.44-44, 2004

戦後長らく郊外から東京都区部への通勤者は増加を続けてきたが,1990年代後半にはその減少が観察された。その要因として,1)高度経済成長期に就職し,東京に通勤していた世代が退職する年齢層に到達し始めた,2)新卒者の地元就業率の上昇,3)大都市圏外からの人口流入の減少および都心周辺部での分譲マンションの供給の増加により,郊外への住み替えが減少,4)中高年層のリストラ,などがあげられる(谷,2002)。本研究では特に2)に着目し,郊外に居住する男性若年者の就業先がどのように選択されているかをアンケート調査の結果をもとに検討する。 東京大都市圏の30km圏以遠においては,中高年層では東京へ通勤する者が多いが,若年層では地元や郊外核での就業者が多いという地域が広がっている。本研究では埼玉県上尾市を事例地域として選定し,アンケート調査を行った。上尾市は人口約22万人で,さいたま市の北側に隣接し,JR上尾駅から東京駅まではJR高崎線・山手線で約50分の位置にある。上尾市では,第1図に見られるように,中高年層では県外に通勤する男性が多いが,20~30歳代では県内で就業する者が多いという特徴が見られる。 アンケート調査に際しては,上尾市内から無作為に16町丁を選択し,その町丁に居住する1970年代生まれの男性1942人を対象とした。住民基本台帳の住所をもとに2003年10月に調査票を郵送し,230人から有効回答が得られた(有効回収率11.8%)。調査項目は,生年・学歴・婚姻状態・勤務先・情報入手手段・居住歴等である。 発表では、この調査結果を基に就職に際しての情報入手経路等を検討する。
著者
中西 僚太郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.2, 2009

近代の日本では,近世の絵図・地図作成を背景として,新たな意匠の絵図・地図が多数作成された。その代表例としては,大正・昭和初期の吉田初三郎とその門下による一群の鳥瞰図があげられるが,明治・大正期にはそれとは異なる意匠をもつ鳥瞰図が,市街地や温泉地,景勝地,社寺を対象に数多く作成された。それらは当初は銅版,後には石版印刷による対象の精緻な描写を特徴とする鳥瞰図であり,図の名称から「真景図」と総称することができる。本発表では,景勝地の「真景図」の事例として,主に松島と厳島を取り上げ,同時期の案内記や写真帖と比較しながら,刊行状況や作成主体,作成意図,図面構成,構図,描写内容などの資料的検討と考察を行う。その上で,「真景図」を活用した当時の景観(風景)研究や観光研究の可能性を探ってみたい。
著者
折橋 幸代
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.23, 2004

本発表では、高齢者の外出行動パターンの特徴を明らかにするため、第2回および第3回の「富山高岡広域都市圏パーソントリップ調査データ」を分析する。富山県は全国的にも高齢化が進んでいる県のひとつであり、2025年には高齢化率が30%を超えると推計されている。なお、トリップとは「何らかの目的を達するために行われる空間移動」である。分析の結果、外出率は加齢に伴って減少するが、平均トリップ数は65歳以上75歳未満の前期高齢者が非高齢者よりも多いことがわかった。就業者ほど1トリップ当たりの平均トリップ所要時間が長く、どの年代も20分程度である。平均トリップ所要時間は2時点を比較してもほとんど差がない。代表交通手段は、男女とも加齢に伴い徒歩トリップが増加し、自動車トリップが減少する。非就業者が多い高齢者は、通勤・帰宅ラッシュ時を避けてトリップが発生し、午前と午後の2回ピークがある。なかでも午前10時台に発生する全トリップのうち3割が高齢者のトリップである。2時点を比較すると、高齢者の非外出パターンは減少している。高齢者の特徴としては、「私用・帰宅」パターンが2割以上を占め、通学・通勤・業務関係のパターンが少ない。平均トリップ数は、非高齢者よりも前期高齢者のほうが多くなる要因を探ることが今後の課題である。
著者
山口 覚
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.27, 2011

本発表では,主に1984年制定の尼崎市都市美形成条例を対象として,その運用例や,市の財政難などにともなう運用上の変化を確認する。同条例は「狭義」の景観行政に関わるものであり,今回の発表ではその部分に焦点を当てる。ただし「まちづくり」全般と関わる「広義」の景観行政にも必要に応じて言及する。 その際には,行政(や研究者)による「都市」表象との関係にも留意する。自市をいかなる「都市」と見なすかによって,その時々の行政の在り方は変容する。都市景観行政は「都市」それ自体が置かれた複雑な流動的状況や,その時々のトレンドにに左右される「都市」表象を色濃く反映するのである。 より具体的な事例の内容としては,1980年代以降における尼崎市の狭義の景観行政の整理,旧尼崎城下町の一角を占める「寺町」を中心とした景観行政の注力とその変化,それを裏付ける市財政における景観行政の位置づけの変化などを取り上げる。脱工業化,バブル崩壊,阪神大震災の影響といった広範なコンテクストの変化の中で様々に変化してきた景観行政は,「市民派」市長のもとで決定的に弱体化されていき,自他ともに「市民」と認めるであろう寺町住民と行政との間で「寺町マンション建設問題」という形でのコンフリクトを生じせしめるに至る。この間に尼崎市は,「独自の歴史を有する個性ある都市」との表象から,「大阪大都市圏における住宅都市」というようにその表象を大きく変容させている。 都市景観行政論を幅広い都市論の中に置き直して再考することが最終的な目標となるが,この発表それ自体では,尼崎市都市美形成条例に関する詳細な事例の紹介を中心におこないたい。
著者
松原 光也
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.47, 2003

LRT(Light Rail Transit)は歩行者や公共交通を中心とした都市計画(パーク&ライド等のTDM施策やトランジットモール)に基づいて設置された軌道系中容量交通機関である。これを導入することにより、中心市街地活性化や環境対策、福祉対策に役立った。本論はヨーロッパで導入されているLRTの特徴と、実際に日本で走っている路面電車との相違点を明確にすることにより、これから日本でLRTを導入する上での問題点を提示した。 福井市で2001年秋に行われたトランジットモール社会実験の結果及び、著者が独自に行ったアンケート結果を踏まえて、都市交通に対する住民の意識を調査した。福井市役所の調査では商店街に来る人は増加し、約12%の人が自家用車から路面電車利用に転換した。商店街店主は車が通らないと売上が少ないと考えているのに対し、市民はトランジットモールに対して好意的であった。筆者のアンケート結果で、福井鉄道に乗ったことがない人が約3分の1おり、あまり利用されていないことがわかった。ところが、その印象については好意的な意見が多く、市民の愛着が感じられた。利便性については、運転本数についての不満が一番多かった。その機能を生かすため、増便や発着時間の調整、共通乗車券の発行、低床式車両の運行などの改善策が望まれる。 利便性が向上すれば自家用車から公共交通利用に転換する可能性がある。LRTの整備費用を負担する住民が計画に参加する方がよい。行政側は情報開示や社会実験を通じて、市民が活動できる場を提供する。各段階で他都市の例を参考にしながら問題点を明確にし、協議を重ねていく必要がある。
著者
貴志 匡博
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.45, 2011

1.はじめに<BR> 本研究は,近年の都市に近い農村における若年既婚者のUターンに注目し,その属性と傾向を明らかにするものである。これまでのUターンに関する研究は,農村地域を対象としたものがほとんどなく,対象地域の人口が数十万人規模の研究が多い。 これまでのUターン研究では,20歳代でのUターンが多いとされ,就職と学歴に注目した研究が展開されてきた。例えば,山口ほか(2010)などの研究がある。しかしながら,30歳代といった若年のUターンは結婚後に家族を伴ってなされること事が多く,子どもの存在が集落に活気をもたらすなど,無視できない点も多い。<BR><BR>2.対象地域と調査手法<BR>県庁所在都市より高速道路を経由して2時間の地にある農村地域として,兵庫県多可町加美区を対象とした。多可町は,2005年に加美町,中町,八千代町の3町が合併した。町役場を中町におき,旧町はそれぞれ地域自治区となった。そのうちの加美区の人口は,7204人(国勢調査2005年)である。本研究はこれまでの研究のように高校同窓会名簿によるアンケートではなく,加美区に居住する全世帯に対するアンケート調査に基づいている。この調査は神戸大学経済学研究科と多可町とのまちづくりむらづくり協定,加美区各集落の役員方の協力によってなされた。配布と回収は2009年8月のお盆休みに集落の区長を通じて配布し,町役場へ郵送回収する方法をとった。世帯主から世帯主本人と配偶者,その子に関する移動歴を尋ねる形の調査票を用いた。これにより,農村地域を対象とした全世代的な調査を行った。なお,本研究においてUターンの定義を,加美区出身者が加美区外に転出し再び加美区に戻ることと定義する。調査票は1912票を配布し,うち510票(回収率26.7%)を回収した。うち世帯主で加美区出身者は424人である。<BR><BR>3.結婚後Uターンの特徴と実像<BR>紙幅の関係上ここでは世帯主だけの分析結果をしめす。加美区出身で在住の世帯主419人のうちUターン者数は179人であった。加美区出身者の約4割は他出経験があり,6割近くは他出経験が無いことになる。そのうち移動経歴が正確に把握できた149人において,結婚後のUターン者が67人で半数近くを占めている。未婚者のUターン(以下,未婚Uターン)と既婚者のUターン(以下,結婚後Uターン)では,Uターンのなされるピークが異なっていることがわかる。未婚Uターンのピークは20歳代前半で,結婚後Uターンのピークは30歳代前半である。本研究では以上の点を踏まえ,20・30歳代の結婚後Uターンに注目する。20・30歳代結婚後Uターンを高校と大学の学歴別にみると,学歴によってUターンのなされる時期が異なっていることがわかる。20歳代前半のUターンでは大学卒業者の未婚Uターンが4割を占める。これに対し,30歳代前半では,高校卒業者の結婚後Uターンが約5割,大学卒業者の結婚後Uターンが約3割を占めている。Uターンを誘発させるには,年齢以外にも学歴などの属性に注意を払う必要があると思われる。<BR>次に,就業についてみる。20・30歳代の結婚後Uターン者の4分の1は,教員,公的企業職員を含む公務員系であった。Uターン前後での職業の変化をみると,家業継承とみられる変化が目立つ。正規会社員から家業継承とみられる自営業や会社役員へ約2割が変化している。そのため,Uターンに際し転職を経験している人が多くなっている。本調査を分析した山岡ほか(2011)でもUターンの理由として,イエの継承に関する回答が多かったことがわかっており,職業の変化にも家業継承を確認できる。また,少数ながら20歳代後半と30歳代後半のUターン者で教員,医療,美容師といった専門職もみられ,専門的な技能を身に付け出身地にUターンした事例も見られる。Uターン前の居住地も就業地に対応して兵庫県や大阪府に集中している。兵庫県内居住者を詳細にみると,約3割が多可町周辺市町であった。結婚直後は周辺市町に居住し,その後加美区へ戻るケースと考えられる。これは一般的なUターンのイメージとかけ離れるが,実際のUターンにはこのような移動パターンが存在する。<BR>加美区内において,30歳代結婚後Uターン者の地理的分布を見る。加美区北部の旧杉原谷村で,30歳代結婚後Uターン者が高い割合の集落が集中している。加美区北部の旧杉原谷村は,同じ加美区でも交通アクセスの不便な地域として住民から認知されている。このような地域では本来Uターン者の割合が低くなることが予想される(貴志;2009)。このような結果の背景として,既に行った加美区内の全集落調査から,集落内での行事との関係が考えられる。世代を超えた交流をもたらす祭りなどの行事は集落への愛着を高め,将来のUターンを盛んにしている可能性が高い。
著者
金 どぅ哲
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.14, 2006

I はじめに 本研究は旧韓末(朝鮮時代の末期)の代表的な学者で啓蒙思想家である張志淵の地理思想を中心に、韓国における伝統的な地理思考と近代的な地理思想との接点を探ることを目的とする。張志淵(1864~1921)は、韓国初の民間新聞である「皇城新聞」の創刊者および主筆として、日韓保護条約(1905)を痛烈に批判した社説「是日也放聲大哭」で有名であるが、一方では旧韓末の代表的な儒学者・史学者としても大きな足跡を残している。それだけに今日にも張志淵は言論人の草分けとして、また儒学者・史学者として韓国で広く知られている人物であるが、彼の地理学的な業績と近代地理学への影響についてはあまり知られていない。そこで、本稿では、張志淵の思想的背景に注目しつつ、彼の著書である「大韓新地誌(1907)」を中心に韓国における近代地理学の黎明期の特徴を明らかにするとともに、韓国の近代地理学に及ぼした影響について検討したい。II「大韓新地誌」の内容と特徴 張志淵は韓国の3大地理書の一つと呼ばれる丁若鏞の我邦疆域考 (1811年)を増補した「大韓疆域考(1903)」や「大韓新地誌 (1907)」などを著するなど、地理学と地理教育にも少なからず功績を残した。張志淵は「大韓疆域考」の序文で、「いま地理を論ずるためには、歴代の疆土の沿革をまず調べなければならず、・・・歴史の一部分を補充しようとする・・・」とし、地理学を歴史の一部と見なす伝統的な地理思考を示している。しかし、4年後に刊行した「大韓新地誌」の序文では、「今日、我々に最も緊急な問題は地理の不在である・・・地理学が発達しないと、愛国心もない・・・近年我が国では新学問を論ずる人々が世界各国の地理と事情だけを一生懸命議論するのみで、真の我が国の地誌を研究するものはほとんどいない。また、学校では教科書で地理を教えていると言っているものの、完全無欠な教本がなく地理に関する常識がはなはだ浅い。これは我々の大きな欠点である・・・」とし、新学問としての地理学の必要性を力説している。この時期、彼は地理教育を通じて愛国心や民族意識を向上させることを試みており、その方法として近代的な学校教育を取り、実際にいくつかの民族学校の校長に努めるなど、教育運動にも関わっていた。「大韓新地志」は、1907年に学部(統監部)の検定を受けたが、内容が不純であるという理由で1909年に検定無効となった。しかし、当時としては比較的に科学的な内容構成であり、優秀な地理教科書であったため、1907年初版の発行以来1年半後に再版を発行するほど人気が高かった。「大韓新地志」は韓国地理を地文地理、人文地理、各道の3部構成で叙述しており、近代地理学的な地誌体系を取っている。また、「大韓新地志」田淵友彦の「韓国新地理」を参考にした痕跡があるとの意見もあるが、伝統的な地誌を基本に近代的な韓国地理の体系を樹立したと評価できる。例えば、従来韓国では風水地理の影響を受けた「白頭大幹」あるいは「白頭正幹」という表現が用いられてきたが、「大韓新地志」で初めて「白頭山脈」という表現が登場する。また、「大韓新地志」の挿入図には、方位や縮尺、海岸線や航路の距離、礦山・港口・鐵道などの凡例のように近代地理学の概念や表現が用いられている。「大韓新地志」の目次からも分かるように、「大韓新地誌」には「山経」などの伝統的地理思想に基づいた項目もあるが、近代地理学の体系を受容している項目が多く、近代的な地誌としての体系を整えていると言える。III 終わりに 韓国における近代地理学の黎明期に波瀾万丈な人生を過ごした張志淵の地理観を要約すると、次の3点が指摘できる。第一に、開花思想の影響で、日本から導入されはじめていた近代地理学的な概念を受容し、伝統的な地理観からの脱皮を試みた。第二に、儒学者としての生い立ちの影響で、地理を歴史の一部としてとして捉える認識が残っていた。第三に、地理学を愛国啓蒙の手段として捉えていた。最後に、このような張志淵の地理観にみられる特徴のうち、地理学を愛国啓蒙の手段として認識は、独立後の韓国の地理学にも影響を及ぼしてきたことを指摘しておきたい。すなわち、韓国では少なくとも1980年代まで地理学を「国学」として捉える風潮が色濃く残っていたが、その原因は海外研究が自由にできなかった社会経済的な要因もあるが、韓国のおける近代地理学が愛国啓蒙の手段として出発したことと大いに関わっているからである。参考文献張志淵(1907)『大韓新地志』、廣學書舗。具滋赫(1993)『張志淵』、東亜日報社。カン・スンドル(2005)「愛国啓蒙期知識人の地理学理解:1905~1910年の學報を中心に」、大韓地理学会誌、40-6、595-612。金基植(1994)『韓・日合併を前後した韓国地理教科書に表れた国家意識の分析』、韓国教員大学修士論文。
著者
阿部 志朗
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.60, 2009

島根県西部石見(いわみ)地方で19世紀半ばから生産されてきた陶器「石見焼」の、三斗~六斗の容積の水甕(「はんど(はんどう)」)は、古くは北前船と総称された日本海海運で、さらに大正時代の山陰線の全通以後は鉄道貨物として、おもに日本海沿岸地域を中心に全国的に広く普及した。これまでその流通・分布の実態について報告されたことはほとんど無かったが、北海道~北陸の北前船寄港地の資料館や旧家で石見焼の水甕が現存することを先に報告した(阿部 2008)。それらの水甕には出荷向けの石見焼特有の刻印や墨字が印されていることが分かった。これらの印を参考に「石見焼」の産地同定や、近世・近代における石見焼の流通過程について考察する。方法として「石見焼」の水甕の有無について兵庫県以北の日本海沿岸の市町村に対するアンケート形式の調査とそこから得られた回答をもとにして実施した現地調査をもとに、近世末~近現代の石見焼の分布と流通の実態を把握する。アンケート調査では、兵庫県~北海道の日本海および津軽海峡に面した多くの市町村から石見焼らしい水甕が「ある」という回答と、写真資料も届けられた。それらの水甕の底面にある刻印や墨字から、石見地方で生産されたことが断定できる「石見焼」と石見焼の特徴が強い「石見系」の水甕に分類した。この分類を踏まえ、本州~北海道の「石見焼」および「石見系」の水甕の分布を概観すると、いわゆる北前船寄港地として知られる諸港とその周辺に刻印や墨字を含む古いものが存在すること、能登半島など半島先端部には「石見焼」が多いが半島の基部にはほとんど見つからないこと、青森県の日本海沿岸・津軽半島では存在が確認できたが、下北半島周辺ではほとんど見られないこと、などから日本海側ルートで船(北前船)で流通したことが考察できる。一方、稚内市~函館市までの日本海沿岸の市町村(島嶼部と積丹半島を除く)で行った現地調査では、ほぼすべての市町村で「石見焼」「石見系」水甕の存在が確認できた。とくにニシン漁関連の施設にはすべて「石見焼」水甕があり、飲み水用として六斗サイズの大物が用いられていたことが分かった。また、調査の中で大型で茶色の水甕だけでなく、小型の白い甕にも「石見焼 ○製」の刻印があるものが多数見つかった。このような刻印の甕類が多いのは、同じ沿岸部でも移住・開拓の時期が早い地域である。島根県西部は鉄道の開通が大正時代の後半に下るため、それまでの製品は船で運ばれ、徐々に鉄道輸送に移行する。石見焼の水甕は古いものは「入れ子状」のセット販売、戦後の新しいものは単品での販売・輸送というように製法・形状の変化よりも輸送形態や販売方法の変化が顕著であるが、北海道では本州にあるような明治中期までの「石見焼」は松前、江差以外ではほとんど見つからず、北に行くほど単品販売の形態の新しいものが多く現存することが分かった。北海道での移住・開拓の進展と石見焼流通時期とも少なからず関連するようにも考えられるが、この点についてはさらに精細な検討が課題である。
著者
片平 博文
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.20, 2005

『日本後紀』以降の六国史や『小右記』『権記』『殿暦』などの公家の日記等によれば、平安時代を通じて、平安京は数多くの洪水に見舞われてきたことがわかる。これらの史料類から把握できる洪水の多くは、「都城両河洪水」などの記述からも明らかなように、東の賀茂川や西の桂川が溢れたことによって生じたものと考えられる。洪水の中には、賀茂川と桂川とが同時に溢れたケースや、賀茂川が溢れることによって発生したケースなどがある。ところが、頻繁に平安京を襲った洪水の中には、賀茂川や桂川以外の河川によって引き起こされたと考えられるケースも認められる。このような洪水は、天安2年(858)5月のほか、長和4年(1015)7月、寛徳3年(1046)5月、永久元年(1113)8月、長承3年(1134)5月などの記述にもみられ、東堀川や西洞院川などの小河川が、11_から_12世紀になってもしばしば溢れていたことがわかる。 これら小河川から溢れた水は、どこから来たのだろうか?それを解く手がかりとして、『日本三代実録』貞観16年(874)8月の記事が注目される。そこには、台風と思われる大風雨によって賀茂川・桂川などが溢れ、内裏や京内に甚大な被害の出たことが記されている。京外でも、與渡の渡口や山崎橋付近に大きな被害が出たことが知られる。注目すべきはそれに加えて、平安京の北部にあたる栗栖野(西賀茂)や鷹峯付近の被害状況がとりわけ具体的に記述されているということである。この記事からは、貞観13年(871)の大雨や同16年の大風雨によって、栗栖野や鷹峯付近は大被害を受け、しかも同時に京内も橋が流出するほどの被害が出ている。この事実は、両地域の被害に関連のあることを示唆するものと考えられる。以上の分析を受けて史料類を検討した結果、栗栖野・鷹峯付近と左京の小河川とを結んでいたと考えられる水系の存在が確認された。
著者
荒又 美陽
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.26-26, 2006

パリのマレ地区は、1962年に制定されたマルロー法によって街区全体が保護の対象となっており、マルロー法後の変化と整備の手法に研究の焦点が当てられてきた。しかし、マレ地区の保存事業は1960年代に初めて手がけられたわけではない。地方行政レベルでは、1940年代から調査や整備案の策定が行われていた。国の事業は、地方行政の政策を引き上げる形で実施されたのである。では、フランスはなぜこの17世紀の街区を選び取ったのだろうか。本報告は、地方行政時代のマレ地区の保存事業に携わっていた建築家アルベール・ラプラドの足跡から、フランスという国家によるマレ地区保存の背後にある思想について考察する。<BR> ラプラドは、1883年に地方都市ビュザンセに生まれ、1907年にボーザールを卒業した。1915年に第一次大戦のなかで負傷して軍隊を離れ、建築家アンリ・プロストについてフランスの保護領であったモロッコの都市計画に携わった。伝説的な総督であるユベール・リオテの下、いくつかの都市の建築を設計したが、特にカサブランカの都市計画に関わったことは、ラプラドのその後のキャリアに大きな影響を与えた。<BR>当時のカサブランカは、近代化の波の中で、内陸部から多くの労働者が集まってきていた。彼らが住むためのニュータウンを設計するのがラプラドの仕事であった。彼は、ラバトやサレの町で「伝統的な」建造物をスケッチし、そのデザインをニュータウンの新しい建造物に採用した。建築家にとってはモロッコの伝統への最大限の敬意であったが、政治的には別の意味も持っていた。リオテはモロッコの「伝統的な」都市を保護しながら、その外側にヨーロッパ入植者用の「近代的」都市を建設する方針を取っていた。ニュータウンに伝統的なデザインを用いることによって、支配・被支配の関係は視覚的に明らかなものとなっていたのである。<BR>パリに戻ったラプラドがパリ中心部の保存を訴えるようになったのは1930年代のことである。当時のパリでは、不衛生な街区を取り壊して再建する政策が進められていた。このうちの一つ、第十六不衛生街区が現在のマレ地区の南部に位置していた。ラプラドをはじめとする一部の知識人はこの事業に反対し、1940年代に入って取り壊しの方針を撤回させた。その後、この街区は保存しながら再生することになり、ラプラドはその計画者のひとりとなった。<BR>ラプラドが担当したのは第十六不衛生街区の一番西側の一部分、サン・ジェルヴェ教会の周辺であった。彼は街区の内部の建造物を取り壊し、ファサードを修復して、古きパリを思わせる区画を作り上げることに成功した。ここから行政の信頼を得、ラプラドはマレ地区全体の調査・整備計画を任されることになった。<BR>彼はマレ地区についても膨大なスケッチを残している。そこにはファサードの形状やスケールだけではなく、階段やバルコニーなどの細かな意匠が描かれている。写真は、主に航空写真が使われている。それは、18世紀の古地図を下に、見えない部分まで含めて街区を修復するための手段であった。ラプラドは、貴族の時代に造られたマレをまさに再現しようとしたのである。<BR>1962年にマルロー法が採択されると、国はマレ地区の整備のために三人の建築家を指名し、行政に一方的に通知を行った。ラプラドは、その後も審議会などに呼ばれてはいるものの、実質的にはマレ地区の整備から離れることになった。しかし、国が指名した建築家は、70年代の半ばまではラプラドの方針をほぼ踏襲していた。彼の街区整備手法や考え方は、マレ地区に大きな影響を残したのである。<BR>ラプラドが手がけた二つの都市計画は、状況がかなり異なってはいるものの、いくつか共通点も見ることができる。それは、歴史性に重点がおかれており、周辺の「通常の」地区とは違うという認識に基づいて整備が行われており、そのなかで無名の職人が作り上げた「伝統的な」デザインに大きく配慮されていたことである。マルロー法の審議の中で、文化大臣アンドレ・マルローは、傑作のみではなく過去の事物全てが国民の遺産だという考えを示した。ここには、国民とその過去が一対一で結びついているという信念が見られる。それを象徴的に表すのが、無名の職人たちが作り上げた街区なのである。<BR>1960年代のフランスは、対アルジェリア戦争によって植民地支配を維持できなくなり、冷戦構造の中でアメリカの側に組み入れられていった。ド・ゴール率いる新政府は、フランスのアイデンティティを強く打ち出す政策を実施していた。ラプラドは、マレを保護するために、「アメリカ人が見たいというのはフランスの建築だ」といっている。カサブランカのニュータウンがフランス入植者地区と対比的な関係にあったように、時代の要請を受けて、パリのマレ地区はアメリカとの対比において「フランス」を示す場となったのである。
著者
末永 雅洋
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.47-47, 2011

イナゴ採集・調理・食の文化は東北・関東地方等で今も残っているが、2011年3月11日に起こった東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故によって近隣地域のイナゴの食文化に影響が出てきている。福島県の須賀川市立白江小学校やいわき市立夏井小学校では児童の放射線に対する影響を懸念して従来から行われていたイナゴ採集行事が中止された。長年イナゴ採集を行っていた郡山市在住の男性も、今年度は福島県中通り地方では採集活動を行えないため、さらに西の会津地方でイナゴ採集を行うことを決心している。福島第一原子力発電所事故は、福島県内のイナゴ採集従事者に大きな影響を与えた。戦後の食生活の変化によってイナゴ食慣行は衰退していったが、福島第一原子力発電所の事故はその流れをより一層加速させるものだと予想される。群馬県吾妻郡中之条町では昨年と同様、地域振興の一環としてイナゴの採集イベントを予定しているが、こうした取り組みはこれからのイナゴ文化にどのような機能を果たしていくのかが注目される。本発表では、イナゴの食慣行があり、かつ学校教育や地域振興の一環として取り入れている地域の取り組みを紹介し、現代的課題と今後の展望を考察する。
著者
松尾 容孝
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.32-32, 2010

1.研究の目的日本最大の民有林業地帯であった奈良県吉野地方の川上村、その拡大地天川村、新興地(限界地)野迫川村を対象地に、現代における林業の衰退・縮小に伴う再編、山村地域の動態を検討した。2.林業の衰退(1)潜在的対応策 林業の衰退への対応策として、林業経営、複数業種への就業、生産基盤の物理的改善(林道整備、育苗、作業用機械、生態系)、政策的支援などが考えられる(予稿集 図1)。(2)日本林業の衰退と吉野林業の地位1970年代、杉立木代金は、全国平均で1m3あたり約19000円のであったが、2009年には約2500円と七分の一の価格に下がっている。需要材積も減少している。また、吉野材の杉は、2005年頃まで都道府県別で上位3番目ぐらいまでに位置する高級材であったが、2008年には9位、2009年には19位に下がっている。現代は需要の停滞・縮小期で、立木価格が低下し、通常ではこれまでの植林投資を回収できない。林業地帯は再編・縮小期にあり、流通が規定する傾向がいっそう強くなっている。また、吉野では伐出労賃が高いため、相対的に林業諸条件が厳しく、不振の度が大きくなる。3.吉野林業地帯の再編(1)吉野林業地帯における居住・就業実態の推移と林業への関与の状況天川村と野迫川村のすべての世帯・人口について、1982年と2009年に職業や世帯構成等を調査し、生活・生産における林業への関与の状況を比較検討した。林業への関与は大幅に縮小し、廃村化を肇とする深刻な状況が振興している。野迫川村では、全就業機会事態が非常に限られた状況になっているし、天川村の西部地帯も深刻である。(2)先進地川上村:山林地主、山守、林業関連業者の動向、さぷり育成林業山村としての構造的特色:山守、社会的分業、素材業、市売市場 は、山守の減少や林業関連業種の縮小が振興している。そのようななか、消費ニーズの開拓により既存の構造の脱構築をめざす山守が「さぷり」を立ち上げて活動中である。林業地帯として存続するために、従来の仕組みの一部を山守自身が解体・再編を目指している。(3)拡大地天川村:山守・林業関連業者の動向育成林業による地域の組織化が微弱で、既存の構造の消極的受容にとどまり、ほとんどの山守や地元林業家は、個別に林業外での対応をはかっている。(4)限界地野迫川村 山林地主の構成が中核地や拡大地とは異なる、模倣的成長地であったが、模倣自体が困難な状況にある。森林資源を活用して従来紀伊半島に見られた森林産業が現代的に蘇る状況が皆無ではないが、新たな森林産業による地域形成にも長年を要するため、現在は縮小が進行していると言えよう。4.吉野山村地域の動態(1)日本山村の人口増減パターン日本の山村地域における近代以後の人口の推移には3~4タイプがあり、紀伊半島や東海地方の外帯山村は、明治期以後昭和中期まで増加率が最も高く、逆に1955年前後以降減少率が最も高いタイプ。(2)3か村における住民の職業と居住の動向 持続可能な再生産の閾値を上回る生活様式を築けるのか?住民の居住動向を通じて今後の地域像と現下の問題状況を検討する。詳細は当日に譲るが、次の点が指摘できる。_丸1_村民の二箇所居住が3か村で顕在化している。農業の比重が低く日常的な土地管理を必要としない地域でこの傾向は強い。_丸2_社会的分業は縮小し、生活は単純化している。_丸3_天川村と野迫川村については、30年前と昨年、住民の職業と居住動向の全戸調査を行った。天川村では、資産保有世帯がキャンプ場を営み、資源利用の競合が生じ、一部世帯が個別に再生産を実現している。野迫川村では、就業機会に乏しく、3大字(4集落)以外の廃村化と地域資源の村外資本家による掌握が進行している。_丸4_新たな存在価値と一体性志向がポジティブな地域動態にとって必要である。「さぷり」等の取り組みが新たな生活様式・地域像を構築するか否かは現時点では不明瞭である。_丸5_離村住民の土地所有等や未利用地の増加は、充填した生活空間の形成を阻害する共通の地域問題になっている。教育・保健衛生の水準や知識・技術を用いた行動機会の可能性も今後の農山村の存続にとって重要性を高めよう。
著者
山崎 孝史
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.15-15, 2011

橋下徹大阪都知事が代表となる「大阪維新の会」が提唱する「大阪都構想」について、橋下知事と平松邦夫大阪市長との意見交換会の討議内容をコーディング分析し、関西における大都市圏ガバナンスのゆくえについて、リスケーリングの政治という概念から考察する。
著者
村田 陽平
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.29-29, 2005

最近の人口地理学において,2007年頃から増加する「団塊世代」の定年退職者が老後をどこで生活するのかという問題は、注目すべき課題の一つになっている。そこで本研究では,積極的に移住政策を進め,退職後の移住地として脚光を浴びる北海道伊達市の現状を報告する。伊達市は,道央胆振支庁に位置する人口約3万6千人の地方都市であるが,北海道においては温暖な気候を持つことから,「北の湘南」とも呼ばれている。この伊達市では,2003年度の基準地価上昇率(住宅地)で全国1位を記録したように住宅地開発が盛んに進められており,道内のみならず全国から多くの移住者が集まっている。本報告では,このような移住を大きく支えている伊達市の「伊達ウェルシーランド」構想という政策の現状を紹介したい。