1 0 0 0 IR 人文 第62号

出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:0389147X)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.1-51, 2015-06-30

[随想]たぬきそば / 金 文京 [1][講演]夏期公開講座 : 絶滅と創造の想像力 / 瀬戸口 明久 [5][講演]夏期公開講座 : くずし字で読む朝鮮の歴史 / 矢木 毅 [7][講演]夏期公開講座 : 周公の祈り --書経・金縢 / 浅原 達郎 [10][講演]講演会ポスターギャラリー 二〇一四 [12][彙報] [16][共同研究の話題]第一次世界大戦研究から「現代・世界」への問いかけ / 山室 信一 [20][所のうち・そと]アフガニスタンの地図 / 稲葉 穣 [24][所のうち・そと]二つのレクイエム / 小関 隆 [26][所のうち・そと]春歌としての文化相対主義 / 田中 雅一 [29][所のうち・そと]白と黒のエチュード --「クビライの動物園」より / 宮 紀子 [32][所のうち・そと]Uボートに乗って / 宮宅 潔 [34]書いたもの一覧 [38]
著者
有川 治男
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.5-44, 2004

本論文は、現在の美術史研究において一般的になっている「ゴッホ=種播く人」という解釈に対して、「耕す人としてのゴッホ」という視点を新たに提示するものである。 画家としてのゴッホを「新しい芸術の種播く人」として捉える見方は、既にゴッホ自身が残した数多くの手紙の中に見られるが、そのようなゴッホ像は、そののちの評論家、研究者たちによって支持され、強化されてきた。本論ではまず、そのような象徴的芸術家像がどのように形成されてきたかを、アルル時代の2点の《種播く人》の作品分析、ゴッホ自身の言葉による検討、そして研究史を辿ることによって、跡付ける。その際、《種播く人》に典型的に表明されたゴッホの「色彩の象徴主義」にも言及し、また、「種播く人」というモティーフが絵画史の中で負ってきた意味合い、とりわけミレーの《種播く人》とそれに関する言説の中で形作られてきた「種播く人」のイメージ全般にも注目する。 そのような前提のうえで、次に、そのような象徴的意味合いを負う《種播く人》に対して、同じくアルル時代に制作された《耕された畑》を例として挙げ、ゴッホの制作にとって重要なもうひとつの側面、すなわち、技法的側面に注目する。ゴッホは、英雄的な身振りをもって画中に堂々と登場する「種播く人」に自らの姿を重ね合わせただけではなく、広大な大地の上、黙々と農作業にいそしむ「耕す人」の小さな姿にも、また、画家としての自らの姿を見ていた。それは、「芸術の種播き」という象徴的身振りにとどまらず、筆によってキャンヴァスに絵具の筋を定着させてゆくという実際の制作行為に対応するものであった。 ゴーギャンに対して提示された、もう1点の《種播く人》や、サン=レミ時代の《耕す人のいる畑》などの検討をも踏まえ、絵具のタッチでカンヴァスに畝を刻み込んでゆくゴッホの「耕す人」としての自己表現が、また、当時の前衛美術の有力な担い手としてゴッホが強く意識していたゴーギャンやスーラに対する、自己差異化の有力な手段であったことも確認して、本論を閉じる。The creative activities of Vincent van Gogh have becn ordinarily interpreted in symbolic terms as that of"the sower","the sower of the new spiritual art". The artist himsclf was aware of his、vocation as such and represented the figure of the sower as the disguised selfi)ortrait repeatedly in his paintings throughout his life. The author of this article gives attention to anothcr side of the activities of the painter, "Van Gogh, the plowman", and surveys the usage of the motive of the plowman(the peasant working with plow or harrow)in Van Gogh's oeuvre and the reference to the plowman in his letters.When Van Gogh said,"I am plowing on my canvases as thc peasants do on their fields", he meant not only the symbolic role of thc artist, the creator, but also the practical activities of the painter, the worker. He likens the strokes of paint on canvases to the fhrrows op fields. The article also suggests that the image of the artist as the plowman was strategica11y adopted by Van Gogh to differentiate himself丘om othcr avantgarde artists, especially from Paul Gauguin and Georges Seurat.
著者
山本 政人
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.8, pp.119-128, 2009

本研究では幼児がどのように因果的な話を産出するかを検討した。5 ~ 6 歳の幼児46 名に3枚の絵カードを見せ、話を作ることを求めた。幼児に呈示した絵には具象的なものと非具象的なものとがあった。幼児へのインタヴューの結果、具象的な絵では、5 歳児の38%、6 歳児の56%が因果的な話を作ることができた。しかし非具象的な絵では、ほとんどの5 歳児が話を作ることができなかった。話を作ることができた子どものうちの何人かは接続詞や副詞を使用したが、それらの使用は5 歳児ではほとんど見られなかった。これらの結果から、因果的な話の産出はディスコースの発達に支えられており、子どもは6 歳までに「起承結(発端・展開・解決)」という物語構造を獲得することが示唆された。
著者
堀越 孝一
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.163-207, 2002-03-25

「パリの住人の日記」は15世紀前半、パリで暮らした人が書き残した日記である。名も素性も知られていない。日記とは呼ぶが、その実、出来事の回想、一年を振り返っての感想文など、覚え書きふうの記述も目立つ。唯一たしかな15世紀後半の書体の写本がヴァチカン図書館に保存されている。フォリオ版の紙187枚を綴じた冊子であって、最終ページが9行で終わっている下の余白に筆生マシオの署名が見える。ほぼ同時期にやはりパリで暮らし、「ヴィヨン遺言詩」と総称される詩集を残した文人がいたが、その詩集が収められている詞華集のひとつで、パリの国立図書館の分館であるアルスナール図書館が保存する詞華集の最終ページにジルベー・クークィ、ジャン・マシオ、クロード・マシオの三つの人名が見える。ヴァチカン写本の「マシオ」は、このジャンかクロードかが同一人と思われる。日記の一番古い日付の記事は1405年9月のもので、一番新しいのは1449年10月の記事である。ブルグーン家とオルレアン家の張り合いが、オルレアン侯ルイの闇討ち事件(1407)を切っ掛けに党派の争いに展開し、そこにイングランドのランカスター王家が、またそろノルマンディーに兵を入れる(1415)。日記はそのあたりからパリの暮らしの日常と非日常を記録し始める。かれは二十歳代の若者だったろうか。四十年後、老人のかれは、サンマーティン大通りのモーブエの水場のあたりに、仮舞台が組まれていて、「平和と戦争の物語」が演じられていたと実見報告する。これが残された一番最後の記事であって、なにかかれはかれの日記は「平和と戦争の物語」だといいたげではないか。"Pari no jUnin no hikki"(in French, it is called customarry''Journal dlun bourgeois de Paris")is the journal of a person who lived in Paris in the first half of the fifteenth century. Neither its writer's name nor his social status is known to us, Only one verified manuscript is preserved in the Vatican Library. Its calligraphy points to the second half of the fifteenth century. The book contains 187 folios and on the last page one can see the signature"maciot", most probably the name of its scribe. About one generation earier, there also lived in Paris a poet who left a series of poems called collectively"Testament Villon". On the last page of the anthology of poems which contains"Testament Villon", preserved in the Arsenal Library of Paris, one can see three names, Gilbert Coquille, Jean Maciot and Claude Maciot. The Vatican"Maciot"is most probably one of these two"Maciots". The earliest dated item in the journal has the date of November 1405, the newest one October 1449. The feud between the house of Bourgogne and that of Orl6ans escalated into a partisan struggle on the murder of Louis, the duke of Orleans(1407). The royal house of Lancaster of England re-opened the French War and occupied Normandy(1415). The writer of the journal began his business. Conceivably he was in his twenties at that time. Pa『s6 quarant ans(after forty years), the now oldman reports that, on the temporary stage by the "fbntaine de maubue"(outlet of city water nicknamed maubue),"on fist une tsbelle histoire depaix et deguerre"(one presented a very beautiful history of peace and war). One reads it in the last item in the journal. As if he wanted to say that his joumel itself is a history of peace and waL

1 0 0 0 OA 人文 第62号

出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:0389147X)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.1-51, 2015-06-30

[随想]たぬきそば / 金 文京 [1]
著者
谷川 多佳子
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.12, pp.41-60, 2013

ライプニッツ(1646-1716)はデカルト(1596-1650)より50 年後にドイツで生まれた。17世紀後半のヨーロッパは、アカデミーや学問のさまざまな分野でデカルト主義が大きく浸透していた。ライプニッツはデカルト哲学に強い関心をもち、若い頃のパリ滞在期には熱心にデカルトの稿を収集した。しかしライプニッツの哲学は、デカルトとは異なる多様な視点を有し、デカルト主義を超える業績をさまざまな領域で示していく。以下、本稿では次の3 つの問題設定から、ライプニッツ哲学の特徴、独自性を、とくにデカルト哲学との対比、ライプニッツのデカルト主義批判を通して明らかにしていく。(1)力学における力の保存の問題について、デカルト、マルブランシュへの批判を通してライプニッツは形而上学や生命論にもつながる「力」の概念を確立する。(2)1695 年以降、『新たな説』から『モナドロジー』にいたるモナド論で、とくに魂と表象について、デカルトとの大きな差異があらわれる。(3)魂と生命について、当時の生物学や医学との関連を探りつつ、ライプニッツの生命論の意味を考察する。 Leibniz(1646-1716) was born in Germany 50 years after Descartes(1596-1650). In the late 17th century of Europe, Descartes' philosophy and science pervaded the academic world and various other elds. Leibniz had a strong interest in Cartesian philosophy in his youth, eager to collect the drafts of Descartes when he stayed in Paris for about three years. In the formation of his philosophy, Leibniz had a variety of di erent perspectives, and exhibited them in various areas, exceeding the Cartesian sciences. From the three problems set out below, we try to clarify the original features of the philosophy of Leibniz, in contrast with Cartesian philosophy.(1)Power conservation in mechanics: Leibniz established the concept of power by criticizing Descartes and Malebranche.(2)Reading "Monadology"(1714) and "New theory"(1695), we study the problem of representation and soul, and thus show the di erence between Descartes and Leibniz.(3)Life and soul: while exploring the relationship between biology and philosophy at the time, we consider the meaning of the life theory of Leibniz.
著者
宮武 慶之
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.13, pp.252-223, 2014

江戸時代を通じ溝口家は新潟新発田を中心とした下越地方を治めた。歴代藩主は文芸や茶の湯に親しんだため、多くの道具を所蔵した。それらの道具の大半は明治三七年の売立およびそれ以前の個人取引で流出した。溝口家の売立目録は確認されていない。調査により松山喜太郎(一八三六─一九一六)による「つれづれの友」を息子・米太郎(一八七〇─一九四二)が写した写本の存在を確認した。「つれづれの友」には溝口家の売立に関する記述があり、この点から当時の周縁を明らかにする。本稿では筆者のこれまでの調査から美術品の移動とそれに関係する人物の関係、溝口家の当時の家政状況などを明らかにした。調査により溝口家の道具流出は当時の当主であった溝口直正の意向と次女・久美子の輿入れも関係していることが判明した。明治期の溝口家のコレクションの大半が流出する点を明らかにすることができれば近世大名家の道具流出の実態の一例を溝口家においてみることができるものと考える。In the Edo period, the Mizoguchi House governed the Shibata-Niigata district. In Meiji 37, items from the Mizoguchi House were sold off. However, very few records from those days remain. A writer discovered Tsurezure-no-tomo, which is a document articling the sale of items in the Meiji Era. Tsurezure-no-tomo was written by Ginsho-an, Kitaro Matsuyama. In a part for a main subject, the background out of which the tool of Mizoguchi house flows Tsurezure-no-tomo into reference is discussed.
著者
宮武 慶之
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.13, pp.252-223, 2014

江戸時代を通じ溝口家は新潟新発田を中心とした下越地方を治めた。歴代藩主は文芸や茶の湯に親しんだため、多くの道具を所蔵した。それらの道具の大半は明治三七年の売立およびそれ以前の個人取引で流出した。溝口家の売立目録は確認されていない。調査により松山喜太郎(一八三六─一九一六)による「つれづれの友」を息子・米太郎(一八七〇─一九四二)が写した写本の存在を確認した。「つれづれの友」には溝口家の売立に関する記述があり、この点から当時の周縁を明らかにする。本稿では筆者のこれまでの調査から美術品の移動とそれに関係する人物の関係、溝口家の当時の家政状況などを明らかにした。調査により溝口家の道具流出は当時の当主であった溝口直正の意向と次女・久美子の輿入れも関係していることが判明した。明治期の溝口家のコレクションの大半が流出する点を明らかにすることができれば近世大名家の道具流出の実態の一例を溝口家においてみることができるものと考える。
著者
有賀 夏紀
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.222-210, 2015-03

本稿は、「神道集」巻三「稲荷大明神事」におけるダキニ天信仰の考察をとおして、本書の儀礼テキストとしての側面を論じるものである。本文を検討した結果、つぎのような特徴が明らかになった。まず、本章段は密教の修法であるダキニ法の思想を取り込み、それを対句表現などの修辞を用いて構成していること。その際、中心の辰狐王菩薩と囲繞する眷属たちの尊容を列記することで、儀礼の本尊図像を連想させるような叙述になっていること。さらに、現世の利益とともに後生の救済を強調していることの三点である。これら修辞がほどこされた叙述は、表白や願文に通じるものであり、辰狐王菩薩と眷属たちの描写は、本尊図像を前に読み上げられるといっそう効果的である。また、後生守護の功徳は、法会の場で聴衆をつよく惹きつけるものとなる。このように、本章段はダキニ天信仰の要素を、仏事法会の場の言辞としてふさわしいかたちで享受しているのである。This paper is a study of the ritual aspects of Shinto-shu (神道集) through investigation of the Dakini faith (ダキニ天信仰) as it is presented in the Shinto-shu text "Inari-daimyojin-no-koto"(稲荷大明神事).Several characteristics are detected. First, this book reflects the notion of the Dakini-hou (ダキニ法), which is a ritual of esoteric Buddhism, comprised of the rhetoric of antithetical phrases. Second, it implies Buddhist iconography, which was used in religious rituals, by describing the images of Shinko-ou-Bosatsu (辰狐王菩薩) and his followers. Third, it emphasizes the divine grace of this life and the relief to come after death. These findings remind us of hyobyaku (表白) and ganmon (願文), and the passage of Shinko-ou-Bosatsu and his followers would be truly impressive especially when they were read in front of Buddhist iconography.To conclude, this text willingly accepts the elements of the Dakini faith in Buddhist rituals.
著者
有賀 夏紀
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.13, pp.222-210, 2014

本稿は、「神道集」巻三「稲荷大明神事」におけるダキニ天信仰の考察をとおして、本書の儀礼テキストとしての側面を論じるものである。本文を検討した結果、つぎのような特徴が明らかになった。まず、本章段は密教の修法であるダキニ法の思想を取り込み、それを対句表現などの修辞を用いて構成していること。その際、中心の辰狐王菩薩と囲繞する眷属たちの尊容を列記することで、儀礼の本尊図像を連想させるような叙述になっていること。さらに、現世の利益とともに後生の救済を強調していることの三点である。これら修辞がほどこされた叙述は、表白や願文に通じるものであり、辰狐王菩薩と眷属たちの描写は、本尊図像を前に読み上げられるといっそう効果的である。また、後生守護の功徳は、法会の場で聴衆をつよく惹きつけるものとなる。このように、本章段はダキニ天信仰の要素を、仏事法会の場の言辞としてふさわしいかたちで享受しているのである。This paper is a study of the ritual aspects of Shinto-shu (神道集) through investigation of the Dakini faith (ダキニ天信仰) as it is presented in the Shinto-shu text "Inari-daimyojin-no-koto"(稲荷大明神事).Several characteristics are detected. First, this book reflects the notion of the Dakini-hou (ダキニ法), which is a ritual of esoteric Buddhism, comprised of the rhetoric of antithetical phrases. Second, it implies Buddhist iconography, which was used in religious rituals, by describing the images of Shinko-ou-Bosatsu (辰狐王菩薩) and his followers. Third, it emphasizes the divine grace of this life and the relief to come after death. These findings remind us of hyobyaku (表白) and ganmon (願文), and the passage of Shinko-ou-Bosatsu and his followers would be truly impressive especially when they were read in front of Buddhist iconography.To conclude, this text willingly accepts the elements of the Dakini faith in Buddhist rituals.
著者
下田 誠
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.107-136, 2008

筆者は2008 年8月26 日に上海博物館所蔵青銅兵器の調査を実施した。上海博物館は銘文を持つ戦国時代(紀元前5世紀半ばから紀元前221 年)製造の青銅器を多数所蔵する。 今回、総合的な金文著録である『殷周金文集成』(全18 冊、中華書局、1984 年~ 1994 年)に収録されている15 件の有銘青銅兵器について調査を実施した。本稿はその調査報告である。この15 件は戦国七雄の中でも中原に位置した戦国三晋諸国(韓・魏・趙)において製造された青銅兵器(以下、三晋兵器と略称)である。 2007 年4月、『殷周金文集成(修訂増補本)』(全8冊)が刊行された。本書は『集成』の修訂増補版であるが、とりわけ戦国青銅兵器部分について面目を一新する内容となっている。本調査は新版の性格と出版の意義を改めて示すことになった。本稿では実見した15 件の青銅兵器銘文の分析を基礎に、『集成』収録の三晋兵器全体(141 件)について旧版との移動を確認した。 検討の結果、新版では60% を超える新模本の作成が見られ、近20 年の戦国青銅兵器研究の成果をふまえた時期区分の精密化や新しい研究の積極的な採用など見られることを指摘した。本書は今後の戦国文字・戦国史研究の展開にかかせない必備の金文著録といえる。This article describes our investigation report which was carried out on bronze weapons at the Shanghai Museum, on 2008/08/26. The Shanghai Museum has a collection of numerous bronze weapons (of the San Jin 三晋), created during the Warring States Period in China. With the provision of scientifi c research expenses and also of support from all concerned, we were able to gain access to collections normally inaccessible. As a result of our investigation, we succeeded in confi rming the erroneous/missing world and phrases in Shiwen 釈文(The Chinese University of Hong Kong Institute of Chinese Studies,2001),which is supposed to contain the same contents as Yinzhou Jinwen Jicheng (Zhong Hua Book Co.1983 ~ 1994).The result of our investigation reveals the characteristic features of Yinzhou Jinwen Jicheng (revised and expanded edition)(Zhong Hua Book Co,2007), and also the signifi cance of its publication.
著者
広瀬 淳子
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.119-152, 2011

本稿は学習院大学に埋もれていた華族会館旧蔵洋書についての調査報告である。 明治2 年の布達により新たに華族と称されるようになった旧諸侯(大名)と公卿(公家)たちによって明治7 年に設立された華族会館は、明治10 年に学習院を創立した際、図書館を作る目的で収集していた資料のほとんど即ち和漢書9,159 冊及び洋書1,614 冊を学習院へ寄贈した。 その事実を裏付ける『華族会館寄贈図書目録』が学習院大学図書館書庫に眠っていた。 そのなかの洋書目録は日本語で記載されているため、表示された書名等を手掛かりに原書をすべて同定することは不可能であった。そこで、学習院が明治30 年以前に受入れた洋書のなかで明治10 年(1877 年)までに出版されたものを選び出してその蔵書印等を調査した結果、836 冊の華族会館旧蔵洋書を確認した。そうしてリストを作成すると、明治初期の新しい国造りに向けたコレクションが浮かび上がった。その多くは勝海舟をとおして徳川宗家から寄贈されたものである。Kazoku Kaikan, the Peer's Club established in 1874 by peers, former feudal lords and high court nobles, planned to have its library, and collected books. In 1877 Kazoku Kaikan founded the school named Gakushuin for the children of its members and transferred most of its book collections, 9,159 Japanese and Chinese books and 1,614 Western books to the library of the school, and became the patron of the library. This transfer and the history of individual book became traceable by the recent discovery of the catalogue, prepared in 1879 and written in Japanese under the title of Kazoku Kaikan Kizo-tosho Mokuroku, of the transferred books, within the Gakushuin University Library. The author found out 836 Western books bearing the ownership stamps of the Kazoku Kaikan in the Gakushuin University Library collection, by investigating the books published before 1877, and accepted by Gakushuin Library before 1897. These books were published in the United States of America, Great Britain, France, Germany, etc., and turned out to be a leading collection to promote modernization of Japan in early Meiji Era. Most of the literatures were contributed by the Tokugawa Shogunal Household by the arrangement of KATSU Kaishu. The story about the Japanese and Chinese books donated by the Tokugawa Shogunal Household was described before(No. 8 of this journal).

1 0 0 0 IR 人文 第51号

出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:0389147X)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.1-70, 2004-06-30

[随想] 蜘蛛の糸 / 森時彦[夏期公開講座] 霊魂の行方 : たましいの古代と現在 / 小南一郎[夏期公開講座] ヴェーダ祭式にみえる生と死の観念をめぐって / 井狩彌介[夏期公開講座] 皮膚ともぐさの間にあるもの / 東郷俊弘[夏期公開講座] 問い直される生命観 : 現代の生命科学が提示するもの / 加藤和人[開所記念講演会] 日本民俗写真史ノート / 菊地暁[開所記念講演会] 中国古代法が語るもの : 張家山漢簡≪二年律令≫からみた漢代の社会 / 宮宅潔[開所記念講演会] 図像からみた古代メソポタミアの王権 / 前川和也[退官記念講演] 他者認識の思想史 / 阪上孝[退官記念講演] 私の数量経済史研究 / 山本有造[退官記念講演] 改革者としての薩摩藩 / 佐々木克[退官記念講演] インド学の共同研究ことはじめ / 井狩彌介[彙報] おくりもの / 訃報 / 人のうごき / 海外での研究活動 / 外国人研究員 / 招聘外国人学者 / 外国人共同研究者 / 外国人研究生 / 漢字情報研究センター講習会 / お客さま[共同研究の話題] 気懸かりな「江戸の虫たち」 / 遠藤彰[共同研究の話題] 線装本の情報と記憶 / 武田時昌[共同研究の話題] 私が班長になった理由 / 菊地暁[共同研究の話題] ためにならないはなし / 藤井律之[所のうち・そと] ある史料調査の思ひ出 / 谷川穣[所のうち・そと] 中古ピアノとクラビノーバ / 岡田暁生[所のうち・そと] 大文字 / 小関隆[所のうち・そと] 産学軍協同パラダイス / 藤原辰史[所のうち・そと] 羊男の話す英語 / 池田巧[所のうち・そと] 大海に溺れて / 佐野誠子[所のうち・そと] <人文科学協会奨励賞>理化学年代と「考古学的年代」 : 山内清男の限界 / 穴沢咊光書いたもの一覧
著者
塩谷 清人
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.206-197, 2005

イギリスは名誉革命が終った17世紀末からは、王権が抑制され、近代議会制度が急速に成長していく。いわゆるトーリーとホイッグという二大政党の色分けがはっきりしていくのもこの時代である。両党は政策の広報活動としてジャーナリズムを利用した。「出版物許可法」失効(1695)を機に新聞、雑誌が一気に出版された。当時のその現象を「ペーパー戦争」と呼ぶ。文学者たちもその動きに巻き込まれた。デフォーとスウィフトが政治的に活躍したのはちょうどその時期だった。 この時代を代表するこの二人の作家は直接には面識がない。まだ宗教と政治との関係が色濃い時代で、トーリーと英国国教会、ホイッグと非国教徒の結びつきは強かった。デフォーは非国教徒で当然ホイッグと見られていた。一方スウィフトは英国国教会の聖職者であるがホイッグ党に友人が多かったため、当初ホイッグ系と見られていた。その二人がロバート・ハーリーという政治家のもとで一時期執筆活動をした。ハーリーはもともとホイッグだったが首相(1710 年~ 1714 年)時代はトーリー党を率いて組閣していた。そこで二人はそれぞれホイッグからトーリーへ変節したと非難される。 当時スペイン継承戦争が延々と続いていて、その終結をめぐって二大政党ではげしく論争があり、ハーリーはその早期停戦を目指してフランスと秘密交渉をし、その結果が公表された。この論戦でデフォー、スウィフトはハーリーの意向にそってそれぞれ論文を書いた。それが『金のかかるこの戦争を早急にやめるべき諸理由』と『同盟諸国の行状』である。彼らはほぼ同時期に同じ趣旨のものを書いたが、二人が相談しあったということはない。その結果、この二論文は両者の特徴がよく出たものになった。デフォーは、ハーリーの御用ジャーナリストであったから、その立場からホイッグ系の戦争継続支持者を説得する内容になる。スウィフトは辛らつな筆致で有名な作家で、自由な立場だったから当然ホイッグ側を猛烈に攻撃していく。結果的にスウィフトの論文のほうが多大の影響を与えて、ユトレヒト条約締結の方向へ一挙に進む。 二つの論文とそれを書いた作家の背景を知ることで、時代と作家、思想などさまざまな面が見えてくる。After the Glorious Revolution in 1688, Great Britain developed the modern parliamentary system, limiting monarchical power. The Tories and the Whigs fiercely competed for the ruling power. Both parties tried to take advantage of journalism to promote their beliefs. After the expiration of the Licensing Act(1695), many newspapers and magazines were published. Almost all writers were involved in this, known as "the paper war". The political activities of Daniel Defoe and Jonathan Swift coincided with this movement. Defoe and Swift did not know one another personally, but both supported the policies of Tory politician Robert Harley, then the Prime Minister, who wanted to end the War of the Spanish Succession quickly. Both Defoe and Swift, who had been regarded as Whigs, were accused of conversion. Under the direction of Harley, each man wrote articles on the issue without knowing about the other's writings. Defoe wrote Reasons Why This Nation Ought to Put a Speedy End to This Expensive War, and Swift wrote The Conduct of the Allies. Each article is quite distinct from the other: Defoe tried to persuade the Whigs to end the war, while Swift aggressively assaulted them. Swift's article persuaded the public and parliamentary opinion, and the parties involved in the war signed the Treaties of Utrecht. A comparison of these articles and their backgrounds reveals that both writers wrote under certain pressures but they nevertheless conveyed distinct opinions and exemplified the complexities of the political circumstances.

1 0 0 0 OA 人文 第59号

出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:0389147X)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.1-53, 2012-06-30

[随想] 記憶媒体 / 森 時彦 [1]
著者
真澄 徹
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.8, pp.129-148, 2009

心理臨床家にとって、自分自身の心理過程を検討することはクライエントを理解することと同様に極めて重要である。「セラピスト・フォーカシング」はセラピストがある事例を担当するうえでの自分自身のフェルトセンスに触れることによって、体験過程の推進が生じるのを促す方法である。本研究は、セラピスト・フォーカシングの1 セッションを提示し、初心心理臨床家にとってのセラピスト・フォーカシングの意義について、セラピストは「何を」「どのように」してその過程で体験していくかを考察し、その上でセラピスト・フォーカシングとスーパービジョンの組み合わせについて検討した。その結果、セラピスト・フォーカシングがフォーカサーとガイドとの2 者関係の相互作用によって事例の理解を促すという点と、セラピスト・フォーカシングによりセラピストが体験過程に触れることにより、スーパービジョンに主体的に望むことができるという点が示唆された。

1 0 0 0 OA 人文 第10号

出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:0389147X)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.1-32, 1974-09-01