著者
中野 春夫
出版者
学習院大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.14, pp.79-95, 2015

近年の『十二夜』批評においてこの喜劇はしばしば「問題劇」あるいは「暗い喜劇」に分類され、アーデン第三版の編者は「とらえどころのない劇」とまで表現している。本論は『十二夜』をシェイクスピア時代の社会的コンテクストから分析し、この劇作品がもともとどのような喜劇であったかを指摘したい。『十二夜』を上演する娯楽産業の従事者たち、『十二夜』を描いた当の劇作家、そして1602 年頃の平日昼間にグローブ座で『十二夜』を観劇していた観客たちの多くが浮浪者と認定されかねないグレーゾーンで暮らしていた。本論は『十二夜』の登場人物たちが同時代の観客の同化を促すよう浮浪者のイメージと重なりあうように作り上げられ、劇中の小唄でも浮浪者の不安が語られる現象を指摘する。 Recent Shakespeare criticism has often mentioned Twelfth Night, or What You Will as 'a problem play', 'a dark comedy', or even 'an elusive play'. This paper aims to clarify the essence of the play as an Elizabethan comedy, focusing on its own social context. English society in the 16th century produced a potentially criminal minority technically termed vagabonds or rogues through a series of so-called Poor Laws. Being what were called 'common players', Shakespeare in his 'masterless' Stratford-upon-Avon years, his players, and the audience crowded in the Globe theatre who just moved into the metropolis for regular employment lived under the legal pressure of being branded vagabonds. This paper will illustrate that the main characters of the play were molded from stock images of vagabonds so as to allow audience to identity with and feel sympathy for them.
著者
山本 芳明
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.358-336, 2007

葛西善蔵は、平野謙以来、破滅型の私小説作家の代表的存在として位置づけられてきた。しかし、これは晩年の作品を中心に考察されてきた研究の偏向によるものである。「子をつれて」で文壇的地位を確立して以降の葛西の作品世界を詳細に検討していけば、自らの破滅的な人生を忠実に描くタイプの私小説に分類できない多様な世界が浮かびあがってくる。葛西を連想させる人物の登場しない作品あり、代作あり、社会主義への関心を示すものあり、女性嫌悪が描かれたものや心境小説風のものもある。何より注目されるのは、自虐的に自己を語るように見せて他者をデフォルメして描くことによって、自己を正当化し卓越化しようとする作品だろう。また、葛西は不能や肺結核などの決定的ともいえる自己表象をその場しのぎで運用する傾向もあった。こうした一貫性のない混乱した作品世界を同時代の評者は厳しく批判していた。つまり、平野らが作り出した〈私小説作家〉としての葛西善蔵は、一貫性の欠如した作品世界と同時代の厳しい評価を不可視の領域に封じ込めることによって成立したのである。そのことは〈私小説〉言説の虚構性とその基盤の不安定さを物語っている。
著者
藤井 勉
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.12, pp.119-130, 2014-03-01

本研究の目的は、動機づけの達成目標理論における3 つの目標(マスタリー目標、遂行接近目標、遂行回避目標)と他者軽視との関連を検討することであった。遂行接近目標は、他者から良い評価を得ることによって有能感を得ようとする目標であり、学業における成績と正の関連がある(Elliot & Church, 1997)とされる。ゆえに、学業場面においては適応的な目標であると考えられるが、他者との比較を行う目標であることから、他者を見下したり、能力を低く見積もったりするといった他者軽視との正の関連が予想された。本研究では253 名の大学生を対象に、達成目標志向性、他者軽視、自尊心、暗黙の知能観、抑うつなど、複数の尺度で構成される質問紙調査を行った。構造方程式モデリングを用いて検討した結果、予測に沿って、遂行接近目標は他者軽視との間に有意な正の関連が示された。本研究の結果から、他者との比較を積極的に求めるような教示や目標設定は望ましいとは言い難い可能性が指摘された。\ Th e purpose of the present study is to examine relationships between achievement goal orientations (mastery goal, performance approach goal, and performance avoidance goal) and undervaluing others. Performanceapproach goals which focus on outperforming others predict academic accomplishment (Elliot & Church, 1997). Th us, in an academic situation, performance approach goal seems to be the one to adopt. However, because of this goal orientation, the holder pursues competence through comparing with others, so it is expected that performance approach goal has a positive association with undervaluing of others. e participants were a total of 253 graduate students who conducted this study and completed the questionnaire consisting of some rating scales (e.g., achievement goal orientations, undervaluing others, self-esteem, theories of intelligence, and depression) . Using structural equation modeling, in line with the authorsʼ prediction, the result reveals that performance approach goal is positively associated with signi cantly undervaluing others. From the examination presented in this study, it is suggested that instructions and setting goals which compel participants to compare themselves with others are\undesirable.
著者
堀越 孝一
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.179-253, 2004

1929年(新暦)の記事群が(494)の記事からはじまると判断したわけは、「前記の年、新酒の出来は」と妙ないいまわしが見られるからで、これは新暦で「昨年、新酒の出来は」と読む。ふたつめの記事(495)に「2月12日」と日付が見える。 「セルヴェーズ」はビールで、新暦で前年の10月の記事に、パリにビール醸造業者が30軒も店を出して、それでも足りなくて、サンドニやそこらからビール売りが大勢出張ってきたと書いている(487)。ブドウ酒が不出来だったからで、ましてや年明けで、ブドウ酒が不足し、ビールの消費量が増えて、消費税がかさんだと権兵衛は嘆いている。 暮らしが権兵衛の関心事で、「オルレアンの戦い」や「リエージュ戦争」のうわさを伝える権兵衛の文章に暮らしが影を落とす。(498)の記事がおもしろい。だからか、「このころ、人がいうには、レール川縁にひとりのプセルがいた」とジャーン・ダール登場のニュースを伝えながら、「大量の食糧を運んで」とか、「なにしろ食糧がたいそう不足していて、じつに3プランもするパンを食べていた」などと、なにしろそちらの方向に関心が流れる。(503)の記事である。 1929年の9月、「レザルミノー」が「かれらのプセルをともなって」パリを襲撃した。うわさの聞き手の権兵衛は実見者となる。(519)の長々しい記事である。 ここにいたるまで、「プセル」は権兵衛の関心の外で行動している。 当時ブルッへ在住で、おそらく商人の法律代理人の仕事をしていたヴェネッィア人が、父親に9通の手紙を宛てていて、5月10日付でオルレアンの陣の成り行きを報じておいて、第2信に、6月4日付ブルターンからの幾本かの手紙の紹介ということで、「ジェネタ・ポンッェラ」に触れている。ブルターンからの回船が積んできた手紙の束に入っていたのだろう。 ブルターン方面では、すでに「ジェネタ」、ジャネット(ジャーンの指小辞)の名が知られていたらしく、7月16日付の第3信と7月27日付の第4信は、王太子が「ポンツェラと2万5千を越す軍勢をひきつれて」、ランスに入り、大聖堂で王聖別の秘蹟を授かったことを報じている。 1429年の権兵衛の日記には「ジャーン」の名前と「ランス」が抜けている。人の名と土地の名が落ちている。「むすめ」はオルレアンから来た。「むすめ」は「なにしろレザルミノーに随伴する、ひとがラプセルと呼んでいる、これが何物かは神のみぞ知るだが、くだんの女の形をした一被造物」であった。This paper offers a collation and annotaton of the items through theγear of the new calendar 1429.The first itcm 494 contains no date. But the strangc phrase"de Ia dicte annee" means" 盾?@the last year of the new calendar". In thc item 495 the writer of the journal offers the date"lc xiie jour de fevrier". Consequently he wrote the item 494 in January or in early Februar}乙 The writer of the journal has a variety of interests in daily life. This kind of interests overshadowed the descr量ption of the rumour of the siege of Orleans or the Liege waL In thc description reporting the debut of''la puceUe"in the sicge of Orleans he inserts the phrase as"曹浮?@ung homme eust bien menge pour trois blans depain ason disner" Through the items of 1429 he doesn't can"la pucelle"jeanne or jeanette, He doesn't point out the ceremony of sanctifying the dolphin(in丘ench:dalphin)as the king at Reims. Another reporter as an Vとnetian who stayed in Brugge at that time mentioned the name "zeneta"in the lctter to、his father in Venice dated 10 May and reported that ceremony in the letter dated 27 july」For the writer of the journal"1a pucelle"is but one element in the description. He took note of her rumour, because he heard it. Early September he saw her verアclosely in the army raiding Paris. He described her closel}~beacause he saw her closely. He offers her presence in the record as he hears and sees her.
著者
宮武 慶之
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.13, pp.252-223, 2015-03-01

江戸時代を通じ溝口家は新潟新発田を中心とした下越地方を治めた。歴代藩主は文芸や茶の湯に親しんだため、多くの道具を所蔵した。それらの道具の大半は明治三七年の売立およびそれ以前の個人取引で流出した。溝口家の売立目録は確認されていない。調査により松山喜太郎(一八三六─一九一六)による「つれづれの友」を息子・米太郎(一八七〇─一九四二)が写した写本の存在を確認した。「つれづれの友」には溝口家の売立に関する記述があり、この点から当時の周縁を明らかにする。本稿では筆者のこれまでの調査から美術品の移動とそれに関係する人物の関係、溝口家の当時の家政状況などを明らかにした。調査により溝口家の道具流出は当時の当主であった溝口直正の意向と次女・久美子の輿入れも関係していることが判明した。明治期の溝口家のコレクションの大半が流出する点を明らかにすることができれば近世大名家の道具流出の実態の一例を溝口家においてみることができるものと考える。
著者
小林 初夫 安部 清哉
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.12, pp.173-225, 2014-03-01

本研究は、2011 年3 月11 日の東日本大震災で、避難生活を強いられた小学校児童・中学校生徒が受けたであろう言語面への影響についてアンケート調査を実施し、言語形成期にあたる児童生徒が受けた言語の面での有形無形の影響を、部分的にでも記録しようとするものである。児童生徒が、避難生活前後において、各自の言語や周囲の言語の変化について、どのように受け止め、どのように感じたのか、主にその言語意識の側面に関する質問への選択回答形式と自由記載形式によってアンケート形式で調査した。調査対象は、福島県南相馬市の小学校3 校、中学校1 校で、2012 年2 ~ 3 月の間に学校別に実施し、小学生計57 名、中学生計91 名、合計148 名の回答を得た。それを、小・中別、中学の学年別、男女別、避難先の遠近別ほかの観点から分類して集計し、それぞれについて若干の分析と考察を行った。調査ということそのものの“ 難しさ” もあったが、幸い児童生徒の皆さんおよび関連諸方面のご理解とご協力をいただき、小さな調査ではあるが、前例のほぼない言語意識の記録を残すことができた。回答からは、避難生活後、友達の言葉が変化したと感じた児童生徒は、小学生で29%、中学生で41%、平均で39%あり、言語形成期にある児童生徒の5 分の2 以上が、何らかのかたちで言葉への影響を被ったであろうことが推定された。また、複数選択回答式質問への避難先別平均回答率の相違からは、言葉がより異なる県外への避難を経験した児童生徒の方が、福島県内避難の児童生徒の場合よりも、より強く言葉(地域言語)を意識するようになった様子が読み取れた。\ 本研究は、「震災原発等による避難生活が言語形成期の児童生徒に及ぼす影響に関する調査研究」(学習院大学人文科学研究所の平成24 年度特別共同研究プロジェクト、代表:安部清哉)の研究成果の一部である。\This research was based on a survey about the impact on the language of elementary and junior high school students who were forced to live as refugees in local or di erent prefectures after the earthquake on March 11, 2011. Th e survey was conducted in a questionnaire form that asked students, who were in a the formative period for personal language, about how they felt there had been changes in their or other peopleʼs language since living as evacuees. Three elementary schools and one junior high school in Odaka, Minamisoma City in Fukushima were surveyed. The total response was one-hundred forty-eight including fty-seven elementary school students and ninety-one junior high school students. Th e period of survey was from February 2012 to March 2012. Th e response was aggregated for the study by lementary/junior high school, school year, gender, and the distance of their relocation. is is an unprecedented record as a language survey of elementary and junior high school students in uenced by the Great East Japan Earthquake. From the survey responses, students noticed that their friendʼs personal language had changed after living as evacuees: 29% of students noticed in elementary school, 41% in junior high school, and the average proportion is 39%. It appears that two fths of students in the formative period of personal language development had their language a ected in some way by their lives as evacuees.
著者
下川 潔
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.29-52, 2006-03-25

近年有力視されている解釈によれば、ヒュームは、グロチウス、ホッブズ、プーフェンドルフ、ロックらの近代自然法学の伝統に依拠しつつも、その伝統を批判的に継承し、経験的方法を一貫して用いることによって世俗的自然法学としての正義論を確立した、と言われる。しかし、ヒュームが何をどの程度まで近代自然法学の伝統に負っているか、また逆に、彼の自然法思想がいかなる点でどれほど独創的であるかは、実はまだあまり解明されていない。そこで本論文では、ヒュームがいかなる正義概念を用いたかという一つの限定された観点を採用し、その観点からヒュームと近代自然法学の伝統との連続性と断絶を検証する。それによって、ヒュームがこの思想伝統から多くの思考の素材を得ながらも、独創的な正義概念を作り出したということを明らかにする。また、彼がその正義概念を採用することによって、近代自然法学の貴重な遺産の一つが失われてしまったことも示す。 本論文の1 節から3 節までは、ヒュームがいかにグロチウスの正義概念を継承し、それを変容させたかを彼らの主要著作に即して明らかにする。ヒュームは、グロチウスから正義概念の核──正義とは、他人のものに手を出さないこと(alieni abstinentia)であるという見解──を学びとった(1 節)。しかし、彼はグロチウス正義概念の基礎にある完全な権利という概念を捨て、正義は権利を前提としないと考えた(2 節)。さらにヒュームは、配分的正義を本来的な正義の領域から追放したグロチウスの戦略を基本的に継承しながらも、一般規則の問題として考察する限り、配分的正義も正義の一部分をなすと考えた(3 節)。4 節と5節は、ヒュームの正義概念の独創性を考察する。彼の正義概念は、正義を規則遵守として明確に位置づけた点、また正義の対象を外的な財産だけに限定した点で独創的である(4 節)。この正義の対象の限定は伝統的な正義の対象の縮小化を意味するが、ヒュームは「三種の異なる善」に関する議論によってこの縮小化を正当化する。この議論は誤った前提や推論にもとづいているが、これによってヒュームは、近代自然法学が正義の領域内で保護しようとした生命、人身の自由、人間の尊厳などの価値を、法の平等な保護の外へと排除してしまう。
著者
南雲 千香子
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.10, pp.69-84, 2012-03-28

本稿では近代日本語研究の一環として、明治期に大量に日本へ流入した専門用語、その中でも法律用語に焦点を絞り、漢語の観点から考察を行った。その事例研究として、現在の法律用語に大きな影響を与えている箕作麟祥訳『仏蘭西法律書・訴訟法』を取り上げ、箕作麟祥がどのように法律用語を漢語訳していたかを明らかにすることを目的とした。 『仏蘭西法律書・訴訟法』の漢語から箕作麟祥が作った、あるいは法律的な意味を加えたと思われる漢語を選別し3 グループに分類した。その中から典型的な特徴を現している4 つの語を取り上げ、詳しく語の成立を見た。その結果を基に、『仏蘭西法律書・訴訟法』の漢語を改めて5グループに分類した。『仏蘭西法律所・訴訟法』よりも用例を遡ることが出来ないもの、あるいは『仏蘭西法律書・訴訟法』以外で用例を見ることが出来ないもの、日本や中国の古典籍などで使用されている語を法律用語として使用しているものが『仏蘭西法律書・訴訟法』の漢語の大半を占めていることがわかった。このことから、主に箕作麟祥自身が新たに語を作る、あるいは古くから存在している語を転用して、法律用語へ当てはめる方針を取っていたことが明らかになった。
著者
村上 佳恵
雑誌
人文
巻号頁・発行日
no.16, pp.49-61, 2018-03

近年、日本語教育では、ある一つの形式が初級で一度扱われると、その形式に異なる用法があるにもかかわらず、その形式はすべて既習の項目として扱われてしまうということが問題視されている。では、初級で一度学んだ形式をどのように再度取り上げていけばよいのだろうか。本稿では、初級で一度学んだ形式を機能別に整理し、同じ場面で使われる形式を一緒に扱うことを提案する。 以下では、「逆立ちができた。」のような「実現可能」を例として取り上げる。この文は、「子供のころ、逆立ちができた(=逆立ちをする能力を持っていた)」という「過去時の潜在的な能力を表す」という解釈のほかに、「昨日初めて、逆立ちができた(=逆立ちをした)」という「過去時に実際に逆立ちをした」という解釈がある。後者が「実現可能」と呼ばれる用法である。まず、コーパスを用いて実現可能の用例が少ないことを明らかにする。そして、実現可能が必須である場面を明らかにし、その場面では、無意志動詞と有対自動詞が使われるのが普通で、実現可能は、無意志動詞と有対自動詞の穴を埋めるものであることを述べる。そして、そのために実現可能の用例が少ないことを指摘する。それを踏まえ、日本語教育においては、無意志動詞、有対自動詞、実現可能の3 つを動作主が自分の動作について動作を行う時点では、「できるかどうかわからなかったがやってみた。そして、どうなったかを述べる」という場面で一緒に扱うことを提案する。
著者
フィットレル アーロン
雑誌
人文
巻号頁・発行日
no.16, pp.276-241, 2018-03

本稿では、同音反復で心情部と連結する序詞の翻訳について考察し、『古今集』、『新古今集』、『百人一首』のこの修辞法を使用している和歌、合計四十七首を検討する。最初に、序詞の本質と機能について確認し、同音反復式の序詞と心情部との関係は基本的に同音によるとはいえ、心情の背景を作ってそれと内容的にもつながると述べる。これを証明するため、考察の対象となった序歌の序詞に見られる歌語の同時代の用例を検討し、それぞれの歌語のイメージと詠まれ方を押さえて、各歌での心情部との関わりについて確認する。次いで、検討の対象とした和歌の英訳と独訳を分析し、翻訳方法を十四種に分けたうえで、それぞれを紹介し、問題点を提示した。次に、西洋詩で日本古典和歌の序詞と類似する修辞法を探求し、そこで、心情の表明を自然描写で導入するような構成を持つ詩に注目した。最後に翻訳案を提示して、数首の和歌の試訳(ハンガリー語)を行った。以上の多方面からの検討を踏まえ、同音反復式の序詞を持つ歌の翻訳方法として、序詞と心情部の順番を保持しつつ、文法的につなげないこと、また同音反復は同音を持つ語の近接、または同語の反復によって反映させることを提案した。In this treatise, we consider translations of waka prefaces (a rhetoric of waka poetry) that are connected to the meaning of the whole poem and feature sound repetition, from 47 selected waka poems. These examples have been pooled from Kokin Wakashū, Shin-Kokin Wakashū and Hyakunin Isshu. At first, we seek to determine the essence and function of the waka preface and point out that, though the landscape depicted in these prefaces connects with the meaning implied by the sound repetition, it also helps to establish the background for the meaning of the poem. To demonstrate this, we examine the expressions in other contemporaneous poems to grasp the imagery that was commonly relied upon. Next, we analyze English and German translations of the 47 poems and divide the methods of their translation into 14 groups; we introduce the 14 methods and point out their issues. Subsequently, we seek some rhetorical devices in Western poetry which can be considered similar to the prefaces in waka poetry, and pay attention to the poems which have an introduction featuring a landscape or other natural features to create a background to express the poet's intention. At last, we suggest a possible method of translation and provide some examples (translation into Hungarian). We propose, as a translation method of the waka poems with preface connecting to the meaning of the poem with sound repe tition, to keep the word order of the preface in an attempt to match the meaning in the poem, and we argue against introducing conjunctions. Likewise, the sound repetition could be reproduced by selecting similarly sounding words or by word repetition in close proximity.
著者
兪 三善
雑誌
人文
巻号頁・発行日
no.16, pp.163-181, 2018-03

アーネスト・サトウの『会話篇』(1873)には感動詞が多く出現している。これらの感動詞は幕末(1862 年)に来日したアーネスト・サトウが見聞きして採集した幕末明治初期の江戸語・東京語と考えられる。本稿では『日本国語大辞典 第二版』での用例と比較をして、『会話篇』の感動詞の重要性を検証した。『会話篇』には、①室町時代の謡曲や狂言にあらわれている感動詞も少なからず収録されていること、②上方の作品に使われている感動詞も受け継がれていること、③特に滑稽本と人情本にあらわれている感動詞が多数収録されていること、④明治期の言文一致体を用いる作家の作品の感動詞と一致するものが多いこと、などが確認できた。『会話篇』の感動詞は明治期の早い用例であり、明治以前の口語が現代の口語へとつながっていく様を知ることができる貴重な記録であった。Interjections appearing in Kuaiwa Hen (Conversation) are thought to have been aspects of the language of Edo/Tokyo from the late Tokugawa and the early Meiji periods that were heard and collected by Ernest Satow, who visited Japan at the end of the Tokugawa period (1862). The significance of these interjections, in terms of the Japanese language and their etymological history, has been commented on in the Nihon Kokugo Daijiten 2nded. as: It is also worth noting that the interjections in Kuaiwa Hen 1. include interjections from joruri (ballad dramas), including Yōkyoku (Noh songs) and Kyogen (comedies) from the Muromachi period, as well as from kokkeibon (comic novels) and ninjobon (love stories); and 2. include many examples that match interjections in works by Meiji period authors who wrote in colloquial style. The interjections in Kuaiwa Hen are examples from the early Meiji period, and they are the valuable records by which we can recognize the way the spoken language prior to the Meiji period was connected to the modern spoken language.
著者
高橋 博
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.115-130, 2004

近世の朝廷内部の機構・制度の研究は、1980年代以降多くの進展が見られ、近年は地下官人の研究や史料の翻刻作業が活発である。だが、近世の女官の制度(上な位いよしりの尚か侍み・典侍・掌侍・命婦・女蔵人・御差・御末・女嬬・御服所等と称した)はまだ考察の余地が多く、河鰭実英著『宮中女官生活史』(風間書房、1963年)公刊以降、新たな進展が見みなかまられたと言えない。したがって本稿では三仲間(御末・女嬬・御服所の総称)を取り上げ、その近世後期における基礎的事実や人事・職務内容などにっいて検討したい。第1章では三仲間の定員・序列・年齢や採用などについて、歴代天皇の代替わりにおける動向も含めて検討する。三仲間の採用には、親類書・里請状・寺請状が必要であり、これらは親類書の審査とともに執次(各御所に設置の宮廷会計を掌る口向諸役人の最上席。江戸幕府任命の禁裏附武家の監督下にあった)の管理下にあった。三仲間の採用で親類書の審査が免除される理由として、実家が殿上人の家柄であることがその一つに考えられるが、なお検討を要する。三仲間の人事は天皇の崩御と譲位とでは大きく異なり、1779年(安永8)後桃園天皇崩御の例では三仲間頭と称する御末・女嬬・御服所の上首(阿茶・茶阿・右京大夫)を始め多数が薙髪して暇をとるが、1817年(文化14)光格天皇譲位の例では殆どが仙洞に移ることから、仕えた天皇との人的関係の強い人事であった。 第2章では三仲間の職務内容について検討する。安永年間(1770年代)には三仲間頭のうち、右京大夫が大御乳人の代役として、仙洞と幕府との連絡を行っている例がある。また、中宮御所の三仲間の事例であるが、光格天皇の譲位決定の御祝などの場合に、三仲間頭は中宮の女官からの使者として諸方に派遣されていた。中宮居住の皇子の移転の際の供と見送りのために、御所や中宮から三仲間の一人が派遣されることもあった。だが、中宮や御所および東宮は三仲間の上位の女官を「女中衆」と呼び、三仲間の職責の軽さが故であろう理由に拠り、三仲間と上位の女官とを、女官全体の序列間の中でも類をみないほど明確に区分していた。典侍・勾当内侍・伊予(命婦の上首)三頭と呼ばれ天皇代替わりでも御所に残ったのに対して、光格天皇譲位にて三仲間のうち女嬬と御服所が残されることはなかったのは、その職責の軽さを示すものかもしれない。"0-sue","Nyo-jyu"and"Go-fuku-dokoro", low-ranking posts of innner palace were collectively called"Mi-nakama"in the latc pre-modern age. The reason why we need to study"Mi-nakama"is a stagnation of studies comparing with those on the other posts. Accordingly,this article describes the personnel affairs of"Mi-nakama", the contents of those women's job, and so on.The.adoption of''Mi-nakama"was c・ntrolled by"T()ritsugi"・ apPointed by Tokugawa shogunate, with the judge of their''Shinrui-gaki(the paper oftheir family)". In the case of the succession to thc throne, the most working women of"Minakama" remained in thc Court togcther with the second one. But in the case of the emperor's death, most of them had their hcads shaved. One of"Mi一 nakama-kashira", the top rank in the"Mi-nakama"job was the messenger in the case of happy event in the Court, and the attendant with the prince.ln this way, "Mi-nakama"was related to the emperor intimately, but the responsibility was not always heaVy.
著者
加藤 篤子
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.8, pp.43-63, 2010-03-28

本論考ではハイデッガーのDenken、つまり「存在を思索する思考」に対するハンナ・アーレントの批判的観点を、哲学的範囲で考察してみたい。アーレントは周知のように生涯にわたり大哲学者ハイデッガーの哲学的弟子であり続けた。事実、ハイデッガーの80 歳(1969 年)に寄せた文では、アーレントは、ハイデッガーの思考に称賛と敬意を捧げている。存在の思索こそをハイデッガーの生来の住処とみなし、20 世紀の精神的相貌を決定するに与ったのはハイデッガーの哲学ではなくて、その純粋な思考活動であるとする。したがってそこではアーレントの批判的観点は明らかではない。 しかしアーレントの没後、70 年代後半に刊行された『精神の生活』の「思考」の巻において、ハイデッガーの思考に対するアーレントの批判的観点が明確に浮上する。『精神の生活』はカントの批判哲学の新たな解釈なのだが、それに依拠してアーレントはハイデッガーの思考における「意味と真理の混同」を問題視する。そこに基本的仮象と誤謬があるとする。アーレントによればその根拠は精神と身体を持つ人間の逆説的な存在にある。
著者
下宮 忠雄
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.159-178, 2004

「ジプシー語研究のために」はEA. Pott, E Miklosich, N. Boretzkyなどに基づいてジプシー語の特徴を述べたものである。ジプシー語を最近はロマニー語ということが多い。近年、International conference on Romani linguisticsのような国際的な学会も誕生している。ロム(Rom)はジプシーの自称で、「人間」の意味である。彼らは紀元1000年ごろ、インド西北部から移動を始め、ヨーロッパ各地に入り込んだ。その言語は本質的にインド語であるが、放浪の途上で、いろいろな言語から単語や表現を借用した。「考える」(denkawa)のような基本的な単語もドイッ語から借用した。 私自身は、バスク語、コーカサス語などと並んで、ジプシー関係の辞書・参考書を30年ほど前から収集してきた。Miklosich(ミークロシチ)の現物をオランダのJan de Rooyから入手したときは小躍りしたものだ。英文科図書室には長い間お世話になったが、GeorgeBorrow全集は本当にありがたかった。本論はオリジナルな研究とはいえないが、一つの特徴づけ(characterization)のつもりである。This paper gives a synopsis of the Gypsy language based largely on the works by FA.Pott, F.Miklosich and N.Boretzky. The language, caUed Romany in linguistics(from rom, the self-designation of the Gypsy),is north-westcrn Indian量n origin, but has adopted a large number of words丘om Greek, Armenian, Rumanian, Serbo-Croatian and Russian. The word pal(pen pal)comes from Gypsy phral"brother"(Sanskrit bhrata"brothcr").The number of speakers is estimated at seven to eight minion, half of them in Europe, ofwhom two-thirds live in East European countries. Alnong grammatical characteristics is the disappearance of the infinitive and its syntactic device as in Balkan languagcs. A sample of texts is given togethcr with notcs, translation and a glossary.
著者
中野 春夫
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.14, pp.79-95, 2016-03-01

近年の『十二夜』批評においてこの喜劇はしばしば「問題劇」あるいは「暗い喜劇」に分類され、アーデン第三版の編者は「とらえどころのない劇」とまで表現している。本論は『十二夜』をシェイクスピア時代の社会的コンテクストから分析し、この劇作品がもともとどのような喜劇であったかを指摘したい。『十二夜』を上演する娯楽産業の従事者たち、『十二夜』を描いた当の劇作家、そして1602 年頃の平日昼間にグローブ座で『十二夜』を観劇していた観客たちの多くが浮浪者と認定されかねないグレーゾーンで暮らしていた。本論は『十二夜』の登場人物たちが同時代の観客の同化を促すよう浮浪者のイメージと重なりあうように作り上げられ、劇中の小唄でも浮浪者の不安が語られる現象を指摘する。 Recent Shakespeare criticism has often mentioned Twelfth Night, or What You Will as ‘a problem play’, ‘a dark comedy’, or even ‘an elusive play’. This paper aims to clarify the essence of the play as an Elizabethan comedy, focusing on its own social context. English society in the 16th century produced a potentially criminal minority technically termed vagabonds or rogues through a series of so-called Poor Laws. Being what were called ‘common players’, Shakespeare in his ‘masterless’ Stratford-upon-Avon years, his players, and the audience crowded in the Globe theatre who just moved into the metropolis for regular employment lived under the legal pressure of being branded vagabonds. This paper will illustrate that the main characters of the play were molded from stock images of vagabonds so as to allow audience to identity with and feel sympathy for them.
著者
北原 靖明
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.292-270, 2009-03

一九二七年バルバドス生まれのラミングは、トリニダード出身のセルボンやナイポールらと並んで脱植民地時代の西インドを代表する作家のひとりであるが、日本では訳書もなく殆ど知られていない。彼は、西欧による西インド植民地を表象するものとしてシェクスピアの戯曲『テムペスト』をしばしば引用する。この作品に登場するプロスペロー/キャリバンの関係こそ、植民者/植民地被支配者の関係を示唆していると考えるのである。 いっぽう、西インドの脱植民地化の比喩としてラミングが採り上げるのが、ハイチに残る「魂の儀式」である。水底に閉じ込められた死者の魂を解放するこの儀式が、西インドの脱植民地運動に対比される。 本論は、『テムペスト』主題と「魂の儀式」をキーワードとして、①ヨーロッパーアフリカー西インドの三角貿易を結び付けた、いわゆる「中間航路」の光と影、および②ラミングの植民地脱植民地に関わる歴史認識を解析し、ラミング文学の本質に迫ることを企図している。George Lamming, who was born in 1927 in Barbados, is one of the representative postcolonial writers from the West Indies, together with S. Sevon and V.S. Naipaul, both Trinidad-born, though Lamming is almost unknown to the Japanese readership, and none of his books has been translated into Japanese yet. Lamming often cites The Tempest by Shakespeare as symbolic of West Indian colonialism under European powers. He assumes that the Prospero/ Caliban relationship corresponds to that of the colonizer/colonized. In the meantime, Lamming considers that the traditional ceremony of the souls in Haiti metaphorically suggests the decolonization of the West Indies. To liberate the soul of the dead caught in the bottom of water in the ceremony is compared with the decolonization of the West Indies. The present essay aims at analyzing the plus and minus of the so-called 'Middle Passage' which links the triangle trades between Europe, Africa and the West Indies, as well as Lamming's conceptions of history on colonization and decolonization, thereby approaching the essence of Lamming's works.

1 0 0 0 IR 人文 第56号

出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:0389147X)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.1-58, 2009-06-30

[随想] 北白川の建物雑感 / 曽布川 寛 [1][随想] おしゃべり / ミカイル・クシファラス [5][講演・夏期公開講座] 悪名高き正史―沈約「宋書」と魏収「魏書」― / 藤井 律之 [9][講演・夏期公開講座] カフカスのとりこ―トルストイ以後のカフカス山岳民の表象 / 伊藤 順二 [10][講演・夏期公開講座] 読まれなかった古典―大唐西域記― / 高田 時雄 [12][講演・開所記念講演会] 病原菌と千里眼―微生物学史のひとこまから / 田中 祐理子 [13][講演・開所記念講演会] 韓国の世界遺産・宗廟の歴史 / 矢木 毅 [15][講演・人文科学研究協会賞受賞記念講演] 中国抗戦時期木刻運動の一側面―日本占領下の木刻運動 / 三山 陵 [16]彙報 [19][共同研究の話題] 「中国社会主義文化」としての孫文崇拝 / 小野寺 史郎 [32][共同研究の話題] 共同と共有 / 藤井 正人 [33][共同研究の話題] 「元典章」と案牘 / 岩井 茂樹 [34][共同研究の話題] 比叡山で遭難しかけた話 / 水野 直樹 [36][所のうち・そと] 国際シンポジウム 変化する人種イメージ / 竹沢 素子 [38][所のうち・そと] ヴァイシャーリーにて / 向井 祐介 [39][所のうち・そと] 分かつことのできない友人―「テロ攻撃」にたいするオリシャのことば― / 小池 郁子 [40][所のうち・そと] リロコボイ / 浅原 達郎 [42]書いたもの一覧 [44]
著者
南雲 千香子
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.10, pp.69-84, 2011

本稿では近代日本語研究の一環として、明治期に大量に日本へ流入した専門用語、その中でも法律用語に焦点を絞り、漢語の観点から考察を行った。その事例研究として、現在の法律用語に大きな影響を与えている箕作麟祥訳『仏蘭西法律書・訴訟法』を取り上げ、箕作麟祥がどのように法律用語を漢語訳していたかを明らかにすることを目的とした。 『仏蘭西法律書・訴訟法』の漢語から箕作麟祥が作った、あるいは法律的な意味を加えたと思われる漢語を選別し3 グループに分類した。その中から典型的な特徴を現している4 つの語を取り上げ、詳しく語の成立を見た。その結果を基に、『仏蘭西法律書・訴訟法』の漢語を改めて5グループに分類した。『仏蘭西法律所・訴訟法』よりも用例を遡ることが出来ないもの、あるいは『仏蘭西法律書・訴訟法』以外で用例を見ることが出来ないもの、日本や中国の古典籍などで使用されている語を法律用語として使用しているものが『仏蘭西法律書・訴訟法』の漢語の大半を占めていることがわかった。このことから、主に箕作麟祥自身が新たに語を作る、あるいは古くから存在している語を転用して、法律用語へ当てはめる方針を取っていたことが明らかになった。This paper will examine legal terms in the Meiji era from the perspective of Sino-Japanese relation as part of a study on modern Japanese languages. As a case study, legal terms in Furansu-Hôritsusho-Soshôhô(仏蘭西法律書・訴訟法)were translated into Sino-Japanese by Rinshô MITSUKURI. First, I classified Sino-Japanese into three categories according to their source. Second, I selected four words in each category and researched the history of them. On the basis of this research, I classified Sino-Japanese again in greater detail. This classification revealed that Rinshô MITSUKURI created a new Sino-Japanese to translate Furansu-Hôritsusho-Soshôhô and used terms had which existed from ancient times as legal terms.