著者
吉田 紀子
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.73-90, 2005-03-25

フランスでは1978年に、産業先進国で最初のポスター美術館(Musee de 1’Affiche)がパリに誕生し、その後1982年には広告美術館(Musee de la Publicite)へと改称した。本稿はこのポスター美術館設立の経緯を中心にして、ポスターをめぐる概念と制度について考察することにより、フランスにおけるポスター受容の特殊性を検証する試みである。 本稿では、ポスター美術館を傘下に収める装飾芸術中央連合(Union Centrale des ArtsD6coratifs)の議事録に基づき、まず、美術館開館に至るまでの一連の経過を明らかにする。次いで、この過程で示された芸術性を重視するポスター観が、美術館開館後、広告産業の実情に即していかに変化していったのかを分析する。最後に、1981年に成立した社会党政権による文化政策が、1982年の広告美術館への改称にいかに関与したのかを、文化省(Ministere de la Culture)発行の官報と文化相ジャック・ラング(Jack Lang:1939年~)の演説資料から検討する。 ポスター美術館の誕生は、19世紀末に形成された、自国のポスターの“高い芸術性”を強調する“アフィショマニ(ポスター・マニア)”のポスター観が、フランスにおけるボスター受容の中核であり続けるという、価値観の継承を促した。その広告美術館への改編は、芸術性の有無という評価の最優先基準が、1970年代後半における国内広告産業の成長と広告自体のマルチメディア化に伴って相対化する経過を反映していた。1980年代の政府主導の文化政策は、文化と芸術の概念を“副次的”分野にまで拡大しながらここに介入し、広告業振興の意図を持って、産業クリエーションとしての広告を優遇した。こうして、19世紀末から受け継がれたフランス特有のポスター評価は、広告というより大きな範疇に取り込まれながらも、美術館の設立と政府の文化政策を通して公に認知され、言わば制度化されたと考えられるのである。

3 0 0 0 IR 人文 第64号

出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:0389147X)
巻号頁・発行日
vol.64, pp.1-55, 2017-06-30

[随想]川向うの風景 / 大浦 康介 [1][随想]二度と行きたくない国 / 冨谷 至 [3][随想]「逃げ水」を追い続ける / 山室 信一 [6][講演]夏期公開講座「名作再読」: 出来の悪い正史--『晋書』 / 藤井 律之 [10][講演]夏期公開講座「名作再読」: マルグリット・デュラス『愛人<ラマン>』をいま読みなおす / 森本 淳生 [12][講演]夏期公開講座「名作再読」:『韓非子』を読む / 冨谷 至 [14][講演]講演会ポスターギャラリー 二〇一六 [16][彙報] <二〇一六年四月より二〇一七年三月まで> [20][共同研究の話題]「生きもの」としての共同研究班、または環世界の人文学 / 石井 美保 [25][共同研究の話題]発言と沈黙--「人文情報学の基礎研究」研究班を振り返る / ウィッテルン・クリスティアン [26][共同研究の話題]『文史通義』会読この二年 / 古勝 隆一 [28][共同研究の話題]盗掘簡を読む / 宮宅 潔 [30][所のうち・そと]ハンブルク再訪 / 永田 知之 [33][所のうち・そと]「文献屋」のフィールドワーク / 藤井 正人 [35][所のうち・そと]オデュッセウスの教訓 / 藤井 俊之 [37][その他]『日本京都大学蔵中国歴代碑刻文字拓本』に関して / 安岡 孝一 [40]書いたもの一覧 [42]
著者
林 大樹
雑誌
人文
巻号頁・発行日
no.16, pp.342-311, 2018-03

本稿では、近世の朝廷で、天皇や上皇、女院に仕えた〈御児〉について扱う。〈御児〉についての研究は十分ではない。〈御児〉は元服前の幼い公家の子弟が御所の〈奥〉に出仕した。筆者はまず、一八世紀前半の有職故実書『光台一覧』の記述について検討した。近世初頭に、女中や院に養われていた元服前の公家の子弟は、幕府から役料を与えられ公認され、〈御児〉として把握されるようになった。次に筆者は、〈御児〉の一覧を作成した。〈御児〉は新家、外様小番に属する家から多く選ばれるようになり、出世コースからは外れていった。但し、〈御児〉は近習小番衆やその他の廷臣よりも、天皇にとって身近な存在だった。〈御児〉は天皇・関白・武家伝奏・議奏の合意(朝議)のうえで採用されたが、その人選は奥向のネットワークによっていた。This article examines "Ochigo", who served the emperors, retired emperors, and "Nyoin" in the Early Modern Imperial Court. There is insufficient research on "Ochigo", who were children of Kuge before adults goes to "Oku" of the Imperial place. The author first examined the description in Kodaiichiran which is a book of ancient practices in the first half of the 18th century. At the beginning of the early modern era, children of Kuge who were raised by maids and retired Emperors before adult were given allowance from the Tokugawa Shogunate and were officially recognized, becoming known as "Ochigo". Next, the author created a list of "Ochigo". "Ochigo" became more popular from the house belonging to shinke and tozama-koban, it went off the career course. However, "Ochigo" were more familiar to the Emperor than kinju-koban and other courtiers. "Ochigo" was adopted on "Chogi" meaning the agreement of the Emperor, Kanpaku, Buketenso and Giso, but that personnel selection was based on the network of "Oku".
著者
武藤 那賀子
雑誌
人文
巻号頁・発行日
no.16, pp.220-186, 2018-03

「伝為家筆本」と呼ばれる河内本『源氏物語』がある。「伝為家筆本」は、金沢文庫旧蔵とされる尾州家河内本と密接な関係があると考えられる。また筆跡と書風から、その書写時期も、尾州家河内本と同じ鎌倉中期といえる。しかし、この一連の河内本『源氏物語』で伝存するのは、巻子装に改装されたものや、断簡のみで残るものが多く、その数も少ない。学習院大学日本語日本文学科は、この伝藤原為家筆の『源氏物語』「帚木」巻の写本を所蔵している。 論者は、「学習院大学所蔵『源氏物語』河内本「帚木」巻 解題と翻刻(第一軸・第二軸)」において、当該本の書誌解題と全三軸中の第一軸目と第二軸目の翻刻を行なった。本稿は、第三軸目の翻刻を行ない、また、当該本の僚本、あるいはその古筆切を紹介するものである。There is the Kawachibon-series of "The Tale of Genji" called "Den-Tameie-hitsubon". This is thought to be closely related to Bishukebon (the book that Bishu family had) which is preserved as the former Kanazawa Bunko. Also from handwriting and literature, the time to copy it can also be said to be in the middle Kamakura same as Bishukebon. However, in this series of Kawachibon-series of "The Tale of Genji", there are many things that have been renovated into winding pieces and those left only with a letter and few are few. Department of Japanese Language and Literature of Gakushuin University possesses the holdings of "Hahakigi", the second volume of Genji monogatari (Tale of Genji) copied by Tameie Fujiwara. The present writer have done a bibliography commentary and the entire reprint of this book (volume1, 2) in the "Commentary and reprint of "Hahakigi", the second volume of Genji monogatari (the possession of Department of Japanese Language and Literature of Gakushuin University)". This paper presemts entire reprint of this book (volume3) and the books or pieces of the same group.
著者
桑尾 光太郎
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.91-113, 2004

高見順は、プロレタリア文学運動に参加し検挙・転向を経て、作家として注目されるようになった。高見の転向は、マルクス主義から日本賛美へ、あるいは戦争支持への転向といった、極端なものではない。高見が描く左翼くずれは、ファシズムに対する抵抗性を持続しており、その基盤は雑誌『人民文庫』にあった。本稿では、その左翼くずれの姿勢が、戦時体制の進展のなかにあってどのように変容していくかをみていく。 武田麟太郎を中心としてかつてのプロレタリア作家が集まった『人民文庫』は、「散文精神」を創作スローガンに「人民の現実」を描くことを提唱した。そして文藝懇話会や日本浪漫派を強く批判するとともに、読者との関係を重視して座談会や講演会を積極的に実施した。『人民文庫』によるプロレタリア文化運動壊滅後の粘り強い文化的抵抗は、左翼くずれ的な作家によって続けられた。高見もそのスタンスに拠って、現実を批判する視点を小説のなかに取り入れた。同時に、左翼くずれの頽廃や男女の情痴の世界から抜け出し、庶民の生活を積極的に描く作品の執筆をめざした。 日中戦争の開始と『人民文庫』の廃刊は、高見にとって大きな転機となった。戦争を「現実の大きな営み」と捕らえた高見は、「強く逞しい生活を描いた小説」の必要性を繰り返し述べた。「生活」の積極的な肯定は、左翼くずれや「散文精神」がもっていた現実に対する批判精神の解消につながっていく。そして思想犯保護観察制度に題材をとり、左翼くずれが保護観察司の力を借りて「更生の喜び」を得るという小説「更生記」を発表するに至った。批判精神という「思想」を捨てて「生活」を獲得することは、体制支持というもうひとつの「思想」に近づくことを意味していた。 けれども、こうした高見の転向は、数々の思想統制や特高警察らによる圧迫のなかで進行しており、それが本心からの転向であったか否かの評価は難しい。新体制運動から太平洋戦争にいたる時期において、国策に沿って戦争に協力する言動と、文学の独自性を守ろうとする抵抗の精神は高見に共存していたのである。Jun Takami was known as a魚mous writer in Japan, Hc joined movement of proletarian literature in 1930's. Under his arrest, he declared thc desertium of movelnent of proletarian literature, which was called Tenko. But his Tenko was not in such an extreme f')rm as an ultranationalist or supporter of wage war・丁孔kami was still against fascism on drawing story of SA YOKU-KUZ URE. His activity as writer was bascd on the magazine named/TNMJAr- Bこ照0.This paper analyzes how his attitude of describing&4}り.KU-KUZURE had been transfbrmed in the war time regime. ノINM刀〉一.8σNノζO presided by Rintaro Takeda and mainly contributed from exproletarian literature was advocated to&f7VBUN-SEISHI2>describing rcal life of people. 刀「NMI八1-B乙ηNKO moreover severly criticized the literacy consultation group or the Japan romantic school, and hcld conversazione or a lecture meeting as regards the importance of rclationship of subscribeL Its patience of protestation afモer destruction ofproletarian culture movement was continued by&fYOKひ一KUZURE wiriers.Tlkami was one of thcm, and he took the view of criticizing reality of society in his work. In consequence he was released from decadency of SAYO、KU-、lfUZURE and sought affirmatively to draw life of people. Outbreak of war against China, and discontinuation of/Zハηし4刀〉」.BUI>7(O were great turning points to Takami. He apprehended war was a real great activity done by human beings, and he repeatedly the necessity of works describing people's strong and sturdy life, His style of description was connected to dccline of&4yiOκひ「KUZURE or&4?>BUNSEISHI ハアs criticism to people's real life. Thus Takami published his work entitled KOSEIKI. The story contented that at the probation system of political offenders, &4yO、κひ一、KUZURE had got to acquire joy of regeneracアsupPorted by a probation officer・ His abandoning the ideology of critici曲and acquiring apprehension of citizen's real ordinary life was meant to be closc to another ideology of adherents of government directivitγtowards war. But as this ideological convcrsion of Takami was done under the suppression by official thought control or under opPression by the thought police, it is difficult to apPreciate whether his ideological conversion depended on his conscience or not. From the period of the New Systcm Movement to the Asia-Paci丘c War, utterances supporting war along National Policy and spirit of protestation fbr' モ盾獅唐?窒魔奄獅〟@original value ofliterature coexisted into Takami's thought.
著者
加藤 篤子
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.43-63, 2009-03

本論考ではハイデッガーのDenken、つまり「存在を思索する思考」に対するハンナ・アーレントの批判的観点を、哲学的範囲で考察してみたい。アーレントは周知のように生涯にわたり大哲学者ハイデッガーの哲学的弟子であり続けた。事実、ハイデッガーの80 歳(1969 年)に寄せた文では、アーレントは、ハイデッガーの思考に称賛と敬意を捧げている。存在の思索こそをハイデッガーの生来の住処とみなし、20 世紀の精神的相貌を決定するに与ったのはハイデッガーの哲学ではなくて、その純粋な思考活動であるとする。したがってそこではアーレントの批判的観点は明らかではない。 しかしアーレントの没後、70 年代後半に刊行された『精神の生活』の「思考」の巻において、ハイデッガーの思考に対するアーレントの批判的観点が明確に浮上する。『精神の生活』はカントの批判哲学の新たな解釈なのだが、それに依拠してアーレントはハイデッガーの思考における「意味と真理の混同」を問題視する。そこに基本的仮象と誤謬があるとする。アーレントによればその根拠は精神と身体を持つ人間の逆説的な存在にある。In this paper, I try to clarify Hannah Arendt's criticism of Heidegger's "Thinking"(Denken), which is the elemental activity of his Philosophy. It is well known that she remained a student of Heidegger's all her life. She did honor to Heidegger and appreciated his "Being-Thinking"(Seins denken)on his 80th birthday in 1969. She doesn't seem to have been critical at that time. In fact, Arendt criticized Heidegger clearly in her final work, The Life of the Mind, in "One/Thinking", which was published posthumously in 1975. On the basis of Kant's Philosophy, she problematizes Heidegger's confusion of 'Meaning of Being' with 'Truth of Being'. She says "the need of thinking is not inspired by the quest for truth but by the quest for meaning." Therefore, from Arendt's point of view, there is a basic fallacy in Heidegger's "Thinking". As the ground of Heidegger's confusion, Arendt points out that the human being, itself, is conditioned by both the body and the mind, paradoxically.
著者
望月 正道
出版者
鹿児島県立短期大学
雑誌
人文 (ISSN:13410520)
巻号頁・発行日
no.36, pp.一-十, 2012-08-31
著者
竹田 志保
出版者
学習院大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.14, pp.286-265, 2015

本論は、一九三九年に『東京日日・大阪毎日新聞』に発表された吉屋信子「女の教室」について考察したものである。本作では、日中戦争を背景として、七人の女性医師たちの人生が描かれている。本作における〈戦争〉とは、それまで男性たちに占有されていた仕事の場を、新たに女性たちが担っていくことを可能にするものである。さらに、女性の〈本能〉を惑わせる男性たちが〈戦死〉することによって、女性たちは高次の精神を獲得し、分断された女性同士の絆も回復する。〈東亜新秩序〉の〈聖戦〉のイデオロギーと合致した女性動員を提示しつつも、女性たちの新しい社会を望む彼女たちの欲望は、国策の範囲を超えて、男性のいない世界を夢見るという危険な結論に至っている。〈戦争〉に抑圧を解除する契機を見出してしまうことの困難について論じた。 This paper discusses Nobuko Yoshiya's "Onna no Kyoshitsu (The Classroom of Women)", which was penned in 1939 and published in the Tokyo Nichi Nichi Shinbun-Osaka Mainichi Shinbun. In this work,she depicted the lives of seven female doctors during the Japan-China War. In the war experienced in this work, a place that had previously only been ocupied by men, women take his place for being incharge.Furthermore, through the death of men that seduce women, the feminine instinct is not disturbed; the women achieve a higher order of spirit, and the bonds between the women that had been broken are recoverd. This matches the ideology of the mobilization of women and the crusade for a 'New Order in East Asia'. But her desire for a new society of women is beyond the scope of National policy and reaches a dangerous conclusion by dreming of a world without men.This paper discusses the ploblem of what would find hope in 'war' to be free from repression.
著者
上村 幸雄 Yukio Uemura
出版者
学習院大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.6, pp.247-291, 2008-03-28

これは2006 年6 月24 日に東京の学習院大学において(付記参照)、また2007 年1 月27、28 の両日に沖縄県那覇市の沖縄大学で開かれた沖縄言語研究センター(OCLS)の月例研究会での2度の講義の記録であり、呼気圧・呼気流に関連しながら以下のことが述べられている。(1)呼吸一般、(2)発話時の呼気、(3)喉頭下の気圧と、喉頭の筋肉的制御、(4)声道における母音・子音を発する際の調音運動とのかかわり、(5)結論、および今後の研究への示唆 筆者が以前に国立国語研究所で行なった実験音声学的研究(国研報告60、同100)から、Ⅹ線映画フィルムトレース図、動的人工口蓋図、その他各種の調音的、音響的な資料が引用、提示されている。また、主題に関連して、日本語、およびいくつかの言語のフォネーム、およびいわゆる超分節的なフォネームの研究方法に関する補足説明が加えられている。
著者
前田 直子
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.131-144, 2006-03-25

接続助詞「し」には「並列」と「理由」の2 用法があると言われている。しかし、両者の関連、あるいは、「並列」することがなぜ「理由」を表すことになるのかについては、これまで明確に説明されてこなかった。本稿は、「並列」の「し」が用いられている文脈を分析することにより、「並列」の「し」は、単なる事態の並列ではなく、すでに並列の段階で、話者の主張・判断の理由や根拠を並べているものであることを示す。「し」にはこのように「因」を並べる場合があり、これが「理由」の「し」に連続していくと考えられる。また「し」は「因」を並列させるだけでなく、「果」を並列させる場合もある。「し」は「因」または「果」を並べて、話者の主張・判断を補強する機能を果たしている。こうした「し」の意味・用法を探るためには、テキストレベルでの分析が必要であり、これは他の複文・従属節の分析においても今後、期待されることである。
著者
江口 匠 Takumi Eguchi
出版者
学習院大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.14, pp.59-77, 2016-03

接続助詞「て」には多くの用法が存在するが、その逆接を表す場合については十分な分析がなされていない。逆接用法の存在は指摘されているものの、例えば「文脈から判断される」程度の記述で、その構文的条件、意味的派生過程に関する考察はほとんどなされていない。そこで、本稿では「て」の〈逆接〉を統語規則・語彙的制約から3 分類し、構文的条件を明らかにすることを試みた。それに併行して、類義形式と捉えられ得る「が・けれど」「のに」と比較し、それらとの相違と「て」の〈逆接〉の独自性について考察した。〈逆接〉を表す「て」は以下の3 つに整理できる。①シテ節とその主節とで一つの慣用句的表現として成立する「X してX しない[ふり/顔]をする」構文で表され、X には「知る」「見る」「聞く」が用いられる。既に知覚した事態にもかかわらず知覚していないように装うことで、〈逆接〉として解釈されることから《偽装》型と名付ける。②「X していてY する」構文で表され、X に「知る」「わかる」、Y に動作動詞が用いられる。動作の対象にとって不都合だと承知の上で行動を起こすことで、〈逆接〉らしさが生まれることから《敢行》型と呼称する。③指示表現や数詞が共起し、「X してY しない」「X してY するのか」「X してY する[補文標識]Z である」(Zは評価を表す述語)の3 構文のいずれかで表される。一般論と現実の状態・属性とが相反することで〈逆接〉と捉えられ、その有り様に対して話者が意外・不満の感情を抱くことから《意外性》型と呼ぶ。以上3 つとも、構文的・意味的に一定の型があることがわかった。The conjunction “te” has many usages. It is said that contradictory conjunction “te” is decided from the context, however its syntactic and semantic feature don’t become apparently.Therefore, I classified the contradictory conjunction “te” into three types from vocabulary terms and syntactic rules. Besides, through comparisons of synonyms with “te” as contradictory conjunction, “ga” and “noni”, I emphasize the characteristic of it.The first type involves, «pretending». It is represented by the following sentence structure:“XshiteXshinaihuriwosuru”. Verbs such as “miru”, “kiku”, or “shiru” are placed where there is an X. From that we pretend to not recognize a situation, though we were recognized, I named it «pretending». The second type involves an, «intentionally act». It is represented by sentence structure: “XshiteiteYsuru”. Verbs such as “siru” or “wakaru” is placed where there is an X,and a different verb is placed where there is a Y. From that we take action on the agreement that it is inconvenient for an object of an agent. I called it «intentionally act». The third type involves a, «comparing». It is that demonstrative or numeral co-occur contradictory conjunction “te”, and it is represented by sentence structure: either “XshiteYshinai”, “XshiteYsurunoka” or“XshiteYsuru [toha, nante or noha] Zdearu”. From that a reality contradict a condition is generally supposed, I named it «dissatisfied». Finally, this paper introduced that “te” as contradictory conjunction has three types which is syntactically and semantically different.

2 0 0 0 OA 人文 第53号

出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:0389147X)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.1-66, 2006-06-30

[随想] (私の)名前、日本の就学前教育と子供の力

2 0 0 0 OA 堀杏庵年譜稿

著者
鈴木 健一 Ken’ichi Suzuki
出版者
学習院大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.17, pp.79-94, 2019-03

近世初期、藤原惺窩に学んだ儒学者たちが漢学の世界を領導した。なかでも林羅山はひときわ抜きん出た存在だったと言えるが、羅山のみが屹立していたわけではない。堀杏庵(一五八五〜一六四二)も、尾張徳川家という権威と結び付き、医の要素を大きく有した点が独自で、かつ羅山ともよく連携し、この時代の漢学界を盛り立てるのに大きく貢献した。それらの点によって、杏庵にも高い評価が与えられるべきであろう。本稿では、そのような問題意識に基づき、Ⅰ仕官以前(天正十三年〜慶長十六年)、Ⅱ浅野家への仕官(慶長十六年〜元和八年)、Ⅲ尾張徳川家への仕官(元和八年〜寛永十九年)という三期に分けて、杏庵の人生を年譜形式によって概括する。特に、若い時期の医師としての修業過程や、羅山との親交、第Ⅲ期、尾張徳川家に仕官した、四十歳前後からの儒学者としての名声の高まりなどが注目に値しよう。
著者
張 守祥 shou Xiang Zhang
出版者
学習院大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.10, pp.51-68, 2012-03-28

かつて日本の実質的な支配地であった「満洲国」における日中両民族間の言語接触を対象とした研究は今日までほとんど存在しない。当時の言語接触の実態はどのようなものだったのか。また、それはどのような特徴を持っていたのか。これらは不明な部分が多く、言語接触の観点からも非常に興味深い課題である。本研究では、軍事郵便絵葉書を資料として、「満洲国」の接触言語の使用状況、語彙、音韻、文法のジャンル毎に考察し、満洲国における言語接触の実態と特徴を明らかにしようとするものである。考察した結果、語彙の引用、人称代名詞を中心とする「デー」の拡大使用、音韻上の変化特徴、助動詞としてのアル、助詞、準体助詞、形式名詞の省略など、ピジンの特徴に当てはまるものもあれば、当てはまらないものもある。21 世紀になった現在、「満洲国」時代の経験者の多くは他界している。この意味で、本研究は当時の言語接触の一側面を把握するには役立つものだろう。
著者
竹田 志保
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.14, pp.286-265, 2016-03-01

本論は、一九三九年に『東京日日・大阪毎日新聞』に発表された吉屋信子「女の教室」について考察したものである。本作では、日中戦争を背景として、七人の女性医師たちの人生が描かれている。本作における〈戦争〉とは、それまで男性たちに占有されていた仕事の場を、新たに女性たちが担っていくことを可能にするものである。さらに、女性の〈本能〉を惑わせる男性たちが〈戦死〉することによって、女性たちは高次の精神を獲得し、分断された女性同士の絆も回復する。〈東亜新秩序〉の〈聖戦〉のイデオロギーと合致した女性動員を提示しつつも、女性たちの新しい社会を望む彼女たちの欲望は、国策の範囲を超えて、男性のいない世界を夢見るという危険な結論に至っている。〈戦争〉に抑圧を解除する契機を見出してしまうことの困難について論じた。 This paper discusses Nobuko Yoshiya’s “Onna no Kyoshitsu (The Classroom of Women)”, which was penned in 1939 and published in the Tokyo Nichi Nichi Shinbun-Osaka Mainichi Shinbun. In this work,she depicted the lives of seven female doctors during the Japan-China War. In the war experienced in this work, a place that had previously only been ocupied by men, women take his place for being incharge.Furthermore, through the death of men that seduce women, the feminine instinct is not disturbed; the women achieve a higher order of spirit, and the bonds between the women that had been broken are recoverd. This matches the ideology of the mobilization of women and the crusade for a ‘New Order in East Asia’. But her desire for a new society of women is beyond the scope of National policy and reaches a dangerous conclusion by dreming of a world without men.This paper discusses the ploblem of what would find hope in ‘war’ to be free from repression.
著者
下宮 忠雄
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.67-94, 2003-03-25

この小論はデンマーク語とドイツ語の対照文法の試みである。英語とドイツ語の対照文法はめずらしくないが、デンマーク語とドイツ語は、私の知る限り、まだない。デンマーク語(言語人口500万)とドイツ語(言語人口1億)はどちらもゲルマン語族の言語だが、系統的にはデンマーク語は北ゲルマン語(=ノルド語)に属し、ドイツ語は英語・オランダ語と同様、西ゲルマン語に属する。距離の近い言語の比較は、共通点が多いから、つまらないとも言えるが、それだけに、むずかしいとも言える。主要な相違点を4点あげる。(1)音韻的相違:ドイッ語は第2次子音推移(second consonant shift)を経たが、デンマーク語にはそれがない(デdag"day"、ドTag)。デンマーク語は、他のノルド語(スウェーデン語・ノルウェー語など)と同様、子音の同化(assimilation)が強力に起こる(デdrekke"drink",ドtrinkenにおいて、前者drekkeはdrenkeのnkがkkになっている)。(2)形態論:ドイツ語では述語的形容詞は語尾変化しない(das Haus ist groB"the house is large", die Hauser sind groB"the houses are large")が、デンマーク語は、他のノルド語と同様、性・数の変化をする(上記の例はhuset er stor-t, husene er stor-e)。ドイツ語はwer(誰が)、 wem(誰に)、 wen(誰を)の格変化を保持しているのに対し、デンマーク語は、スウェーデン語やノルウェー語と同様、hvem(誰が、誰に、誰を)に融合してしまった(格の融合case-syncretism)。その際、与格(dative)が生き残った(英語whom, him, themの一mと同じ)。また、ドイッ語はmir(私に)、 mich(私を)、 dir(君に)、 dich(君を)のように与格と対格を区別して残っているが、デンゼーク語はmig(私に、私を)、 dig(君に、君を)のように、同形になってしまった。その際、対格が生き残った(-gはゴート語mik, Pikのkにあたる)。(3)総辞論:デンマーク語では、英語と同様、対格の関係代名詞が省略されている(ドイツ語、オランダ語、フランス語などでは、このようなことは起こらない)。studenten, jeg kender"the student Iknow", huset, han bor i''the house he lives in"など。(4)語彙:典型的なノルド語の単語にgammel"01d", hest"horse", ild"丘re",φ1''beer", gφre"do"などがあり、ドイツ語はalt, Pferd,Feuer,・ Bier, tunで、まったく異なっている。 The paper deals with Danish and German in a contrastive framework. When we compare two languages, it may be easier, in some respects, for linguistically distant languages like Japanese and Enghsh, and more dif丘cult for closely related languages like English and German. What about Danish and German, both of the Germanic family~Historically, English and German are nearer than Danish and German, since English and German are in the West Germanic group, while Danish is in the North Germanic(Nordic)group. Materials are largely taken from Hans Christian Andersen's Eventyr(Fairy T吾les)and their German translation. Among the differences between Danish and German may be mentioned(1)phonologically, stronger assimilation in Danish(drikke"drink"from*drinke, German trinken, lille"little"from *litle, both in regressive direction),(2)grammatically, agreement in gender and number in predicative a(ljectives (huset er stort ''the house is large", husene er store ''the houses are large"), where the a(ljectives in German are not declined, nominative-dative-accusative syncretism in favor of the dative(hvem"who, whom"),where German has wer-wem-wen, and of the accusative(mig"me", dig"thee")for German mir-mich, dir-dich,(3)syntactically, omission of the accusative relative pronoun(studenten, jeg kender"the student I know"), where German has der Student, den ich kenne,(4)lexically, typically Nordic words(gammel"old", hest"horse", ild"fire",φ1"beer", g¢re"do")for German alt, Pferd, Feuer, Bier, tun.
著者
安部 清哉
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.19, pp.43-83, 2021-03

本稿では、中古の和文資料である『篁物語』の写本のうち、より古態をとどめていて、14世紀半ば以前の形態を保持する可能性がある「末尾有空白系統本」(安部(2020))の一写本である彰考館本の甲本を取り上げ、その最末尾1文の特徴、および、使用仮名字母の使用開始時期について検討する。 結論としては、"末尾有空白系統本"では最末尾1文は、本文部分が成立した後の別段階(*後日、後人、後代、また、同一人物か別人かも含む)に追記されたこと、甲本ないしその遡及する系統の写本は、字母「新(し)」「遅(ち)」「半(は)」「累(る)」が使用可能になった、およそ1000年前後頃以降のものであり。甲本の上限は10世紀以前には溯らないこと、を述べた。具体的に検討した問題点は以下の通りである。 (1)本文部分とは異なる特徴を持ち、本文部分成立ののちの後補部分と安部(2020)にて推定した最末尾の1文(「又あらじかし【新】/かやうにおもひて文つくるひとは」)を取り上げ、ア、字母「新」の使用、イ、1文内での改行個所での1文字分の余白の問題 (2)写本中の字母「遅」「半」「累」などの使用頻度の少ない変体仮名字母について、仮名史上における使用時期の問題 併せて前稿・安部(2020)にて、それまで未公開であった京都大学人文研究科図書館所蔵本「篁物語」を影印で発表したのに引き続き、京都大学人文研究科の許可のもと、「小野篁集」の影印(複写)を資料として提示する。当該写本自体は、書陵部本の写本(孫本)の位置にあるものでしかないが、『篁物語』の諸写本研究が、甲本の仮名字母レベルやその空白・改行箇所の余白に至るレベルまで重要な意味を持つ段階になったことに鑑み、また、宮内庁書陵部本に忠実な写本と推定される京都大学本「小野篁集」全文をここに掲載する。
著者
竹田 志保
雑誌
人文
巻号頁・発行日
no.16, pp.240-221, 2018-03

吉田秋生による漫画『櫻の園』(一九八五年)と、中原俊監督による映画化作品(一九九〇年)は、名門女子高校の演劇部を題材として、〈女子〉たちの友情と、彼女たちの〈性〉をめぐる葛藤を描いて、双方が高い評価を受けた。本論は、両作の比較検討から、近年の〈女子〉をめぐる欲望について考察したものである。両作は、成長期の〈女子〉の表象としてリアリティをもって迎えられる一方で、〈女子〉への幻想を強化するものでもあった。他者から一方的にまなざされることへの抵抗を示す登場人物を描きながらも、その抵抗自体が性的に消費されてしまうという本作の矛盾は、〈女子〉表象についての重大な問題提起をしている。漫画版はそれを「見せない」手法によって表現したが、映画版は窃視的なカメラによってそれ自体をフェティッシュ化してしまっていることを指摘した。

2 0 0 0 IR 人文 第60号

出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:0389147X)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.1-53, 2013-06-30

[随想]ルートの想い出 / 麥谷 邦夫 [1][随想]寺山修司と故郷の想像力 / 藤井 俊之 [4][講演・夏期公開講座]ザジと三人の少女 : レーモン・クノー『地下鉄のザジ』 / 久保 昭博 [9][講演・夏期公開講座]西鉄電車を歩く : 松本清張『点と線』 / 安岡 孝一 [11][講演・夏期公開講座]文学の中のレゲンズタウフ : 『イタリア紀行』と『鉄道事故』 / クリスティアン・ウィッテルン [14][講演]講演会ポスターギャラリー二〇一二 [17]彙報 [21][共同研究の話題]「イスラムの東・中華の西」と中国ムスリム / 中西 竜也 [25][共同研究の話題]王と酒 / 藤井 正人 [27][共同研究の話題]中国の「社会経済制度」なるもの / 村上 衛 [29][所のうち・そと]敷居と金槌 / 石井 美保 [31][所のうち・そと]油槽船チフリスと出会う / 伊藤 順二 [33][所のうち・そと]「玩物喪志」雑感 / 稲本 泰生 [35][所のうち・そと]名前を聞かれて百万遍 / 土口 史記 [37]書いたもの一覧 [40]
著者
宮武 慶之
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.19, pp.1-17, 2021-03

江戸の材木商・冬木屋上田家は多くの優れた道具を所蔵したことで著名であるものの流出後の所有者についての研究では松平不昧(一七五一│一八一八)が述べられるに過ぎない。流出後の冬木屋道具の所蔵者は江戸時代後期の茶の湯文化史や美術史で重要な位置を占めると考えられるが、その実態や移動に関しては検討の余地がある。本稿では冬木屋からの道具流出に関係した本屋惣吉親子すなわち了我(一七五三生)、了芸(一七九〇生)に着目する。その理由は二代了芸による箱墨書が冬木屋道具の移動に関する資料となりうるからである。特に坂本周斎(一六六六│一七四九)による『中興名物記』(別に千家中興名物記とも)に所載される冬木屋道具の中には了芸による箱墨書が確認できる。さらに売立目録の図版中の了芸の箱墨書からかつて冬木屋が所蔵した道具に関する記述を確認した。これらを資料として活用することで、冬木屋道具の移動と了芸との関係性を明確にする。