著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.181, pp.11-38, 2014-03

日本における定期市は,近代化の過程で多くが姿を消したが,一方で,現在でも地域の経済活動として機能していたり,形を変えて新たに創設されるものがあるなど,普遍性をもった商いの形である。定期市への出店を生業活動としてみた場合,継続的な取引を成り立たせる販売戦略がそこには存在する。本稿では,これを生業の技術のひとつと考え,現行の定期市における具体例を用いて分析を試みた。事例としたのは,藩政期にさかのぼる歴史をもつ高知の街路市で,親子2代約60年にわたって榊(サカキ)と樒(シキミ,本稿では地元の呼称にしたがってシキビと表記する)のみを扱ってきた店である。サカキとシキビはともに歳時習俗に関わる身近な植物であり,高知では年間通して需要がある。もとは山に自生するものを切り集めて売っていたが,1970年代より中山間地域の現金収入手段のひとつとしてとくにシキビの栽培が奨励されたことから,人工栽培された良質の枝を仕入れて販売するようになった。その際,キリコとよばれる伐採専門の技術者が,山主と契約してサカキ・シキビの管理・伐採に携わる。高知では概して,コバ(小葉)とよばれる小ぶりでつやのある葉が好まれる。こうした商品価値の高い枝に育てるのは,山主の丹念な消毒作業と,キリコの技術による。一方で街路市の売り手は,さまざまな技量を駆使し,安い単価で少しでも多くの荷を捌く。この店に対しては,品物の質がよいことと良心的であることが最大の評価として聞かれ,結果として多くの常連客を抱えている。つまり,山主・キリコ・売り手の3者それぞれがもつ技の連携によって,小規模ながらも客に対して最良の品を提供する流通を成り立たせてきたことになる。また売り手にとっては,この連携を継続することが究極の目標でもあり,街路市の商売に潜在する共存への指向性が改めて浮き彫りとなった。Regular markets held on fixed days of the week or month is one of general business forms in Japan. While many were disappearing in the modernization process, some are still working as a local economic activity, and some have been newly established in a different form. If you make a living by running a stall at a regular market, you need a sales strategy to continue your business. Regarding this as one of occupational techniques, this paper analyzes a concrete example of current regular market business.As a case study, this paper focuses on a shop that has only dealt in Japanese anise (shikimi, also known as shikibi in the study area) and cleyera (sakaki) for about 60 years over two generations at the street market in Kochi, whose history dates back to the feudal period. Both Japanese anise and cleyera are familiar plants used for seasonal events and celebrations, and they are in demand at all times of the year in Kochi. People used to gather branches from trees growing wild in the mountains for sale. Since the 1970s, however, as Japanese anise cultivation was promoted as one of ways for earnings in the hilly and mountainous areas, people have sold high-quality branches supplied by tree farms. Expert loggers called kiriko have been involved in this process through management and lumbering of Japanese anise and cleyera under contract with landholders. In Kochi, in general, branches with small, shiny leaves called koba are very popular. These commercially valuable branches can be produced by landholders' careful sterilization and loggers' high techniques.On the other hand, street market vendors make use of their various skills and keep prices low to sell as many products as possible. The store in this study is most highly evaluated for its good quality and trustworthiness, so it has a large patronage. It has collaborated with landholders and loggers by combining respective skills so that the distribution system can provide customers with best products, in spite of its small scale. Continuing this cooperation is vital for vendors. In other words, the study reveals the potential orientation of street market business to a harmonious relationship.
著者
千田 嘉博
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.112, pp.427-449, 2004-02-27

宮崎城は現在の宮崎市池内町に所在した戦国期の拠点城郭である。遺構がほぼ完全に残るだけでなく、一五八〇年から一五八七年にかけて城主だった上井覚兼(一五四五―一五八九)が詳細な日記を書き残したことで、城郭構造や城内の建物群に加え戦国期の上層クラスの武士の生活や基層信仰まで知ることができ、きわめて重要な城跡である。本稿は宮崎城に関わるさまざまな物質資料群を統合して歴史的検討を進める中世総合資料学の立場から検討を進める。検討の結果明らかになったのは以下の諸点である。⑴宮崎城は綿密に設計された南九州を代表する戦国期城郭であり、外枡形や内桝形の組み合わせなど、南九州における戦国期城郭プランの特性と到達点とを示す城跡と位置づけられる。⑵城内には武家屋敷が二十軒以上建ち並び、主郭には主殿・会所的空間、庭園、茶室を備えた覚兼の御殿があった。⑶城主の上井覚兼は計画的かつ継続的に数々の神仏を信仰しており、きわめて多くの時間を信仰に捧げていた。⑷そうした振興の拠点となった寺社は散在的分布を示し、ゆるやかな宮崎城下町の外縁部を構成した。⑸宗教センター機能の集積度が象徴した宮崎城下町の都市機能の集積度の低さは、都市機能が城と寺社とを核とした広い地域に分散・分立し、それらのゆるやかな結合によって、都市的雰囲気をもった場を成り立たせていた城下町構造と評価できる。⑹これは卓越した都市的空間的な凝集を指標とした畿内・東海型の城下町とは異なった新たな類型の戦国期城下町像を提示する。⑺宮崎城下町の都市的集積を阻んだ要因には分散・分立した寺社も要因のひとつであり、覚兼の信仰そのものも、そうした中世的社会的構造に大きく規定されたものであった。
著者
山川 均
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.113, pp.243-260, 2004-03-01

中世都市奈良を研究する上で最も基礎的、かつ重要な史料である『大乗院寺社雑事記』の分析から、中世都市奈良に住し、かつ物品の流通や生産の中核に位置した大乗院院主・尋尊の「土器」に関する認識を多角的に検討する。また、実際の発掘資料などをもとにした土器生産とその管理体制についても併せて検討を加える。以上の結果、中世の土器生産を管轄した「座」とは単に土器の生産に関わった組織ではなく、土器以外の多種の食器類などの調進にも関わったことが判明した。また、座の管理機構は中世都市奈良の内部に存在したが、土器の生産自体は都市の西部に位置する西京において行われていたことが明らかになった。すなわち中世土器の生産と流通に関する研究においては、生産地と消費地というシンプルな関係のみならず(それが都市を媒介とするものである限りにおいては)、その管理機構をも含み込んだ複眼的な視座を設ける必要がある。近年の学際的都市研究(考古学が参加するもの)の動向としては、もっぱら地理学的な意味における「領域」の検討が重視されているが、それは主に遺構論において有効な手段といえよう。遺物などの物的資料から考究すべき「都市」とは、堀その他の囲繞施設から判断される狭義の都市領域概念に止まらず、周辺領域を包括した広義の概念下において多元的に検討を加えられるべき性格を有するものと判断する。
著者
川村 清志
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.165, pp.175-204, 2011-03-31

本稿は、近代日本の地域社会において、「民謡」が生成する一事例として、「こきりこ」を取りあげる。ただし、ここで扱う「民謡」は、前近代から伝えられてきた口頭伝承の一分野ではない。「こきりこ」は、富山県五箇山地方に伝わる民謡として、全国的に知られているが、近代以後にいったん廃れたものが、戦後になって再発見されたという経緯をもつ。その後、この民謡は、地域の保存会によって歌詞や踊りの形態が整えられ、多くのイベントに出演して知名度を増していった。つまり、「こきりこ」は、「伝統の創出」、あるいはフォークロリズム的な側面を色濃くもっているといえるだろう。しかし、ここで注目しておきたいのは、このような「創出」の過程でどのような人的な資源、文献や口頭の資料、多様なメディア網が駆使されたのかということである。それら近代的な諸制度の配置のなかで、この「民謡」にどのような言説が付与され、錯綜し、さらに剥離していったのかを検証することで、「民謡」の近代を考えていくことにしたい。以下では、まず、民謡が生成する背景、あるいは資源として存在していた近世の地誌類などの文献資料と、それらを再解釈して地域の「歴史」を構成しようとする郷土史家の存在に注目する。次に再発見の過程で生じた「民謡」という象徴資本を巡る地域間での競合的な側面を明らかにしたい。逆説的なことだが、これらの競合を通じて、「こきりこ」の踊りや歌詞、由来についての言説は、一貫した歴史性や物語性を獲得していったと考えられる。そのうえで、郷土史家のような地域の側の主張に呼応する中央の研究者の視点や、両者を巻き込みながら展開していった全国規模での民謡のリバイバルを促す運動についても確認することになるだろう。
著者
岩淵 令治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.261-299, 2015-12-25

巨大都市江戸において、諸国から定期的に移動してくる各藩の勤番武士は重要な存在である。従来の研究では、勤番武士の行動は、外出、とくに遠出のみが注目され、「江戸ッ子」が創り出した田舎者イメージ「浅黄裏」、および江戸各所の名所をめぐる行動文化の担い手としての自由なイメージで語られてきた。こうした従来の検討に対して、筆者は勤番武士の日記や生活マニュアルについて、①江戸定住者によって作り出された田舎者のイメージから離れる、②勤務日・非外出日も含めた全行動を検討する、③外出については近距離の行動も視野に入れる、という視点から分析をすすめ、他者から見た江戸像や、江戸の体験(他文化)を経た自文化の発見、また彼らの消費行動に支えられた江戸の商人や地域を論じてきた。本稿では、臼杵藩の中級藩士国枝外右馬が初めての江戸勤番中に執筆した「国枝外右馬江戸日記」から行動を検討し、以下の点を明らかにした。第一に、本日記は手紙のように国元に頻繁に送られており、国元への報告という性格を明確に持っていることが特徴である。勤番武士の日記の検討にあたっては、こうした視点が今後不可欠であろう。第二に、行動についての概要を検討し、既に検討を加えた八戸藩・庄内藩の事例と比較した。その結果、他藩士と同様に、基本的には勤務と外出制限によって、居住地から二キロメートル以上離れた場所に出る日は少なく、とくに藩邸から離れた本所・深川などへはあまり訪れていないこと、ただし本事例では外出日が若干多く、また行動範囲もやや広い傾向がある点を明らかにした。第三に、勤務の内容から、外右馬の経験を検討し、自藩の大名社会における位置、ひいては幕府権力の巨大さを認識するに至った可能性を指摘した。これは政治都市・儀礼都市江戸における勤番による特徴的な経験であり、こうした情報が伝えられることによって、格式や自藩の位置が認識されていったのではないかと考えられる。勤番武士については、今後、時期、藩の規模、藩士の階層、藩邸の所在地など、異なる事例を蓄積した上で、さらに全行動を対象として比較・検討する必要があろう。
著者
山田 慎也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.95-112, 2015-02-27

本稿では,徳島県勝浦郡勝浦町のビッグひな祭りの事例を通して,地域固有の特徴ある民俗文化ではないごく一般的な民俗が,その地域を特徴付けるイベントとして成功し,地域おこしを果たしていく過程とその要因について分析し,現代社会における民俗の利用の様相を照射することを目的としている。徳島県勝浦町は,戦前から県下で最も早くミカン栽培が導入され,昭和40年代までミカン産地としてかなり潤っていたが,その後生産は低迷し,他の地方と同様人口流出が続いていた。こうしたなかで,地域おこしとして1988年,ビッグひな祭りが開催され,途中1年は開催されなかったが,以後現在まで連続して行っている。当初役場の職員を中心に,全国で誇れるイベントを作り出そうとして企画され,その対象はおもに町民であった。しかも雛祭り自体は勝浦町に特徴あるものではなく,また地域に固有の雛人形を前面に出したわけではない。各家庭で収蔵されていた雛人形を,勝浦町周辺地域からあつめて,巨大な雛段に飾ることで,イベントの特性を形成していった。さらに,町民が参加するかたちで,主催は役場職員から民間団体に移行し,開催会場のために土地建物を所有する。こうして民間主催のイベントにすることで,行政では制約が課されていたさまざまな企画を可能とするとともに,創作的な人形の飾り方を導入することで,多様な形態での町民の参加が可能となり,その新奇性からも町内外の観覧者を集めることに成功した。そして徳島県下から,近畿圏など広域の観光イベントとして成長していった。さらに,このノウハウとともに,集まった雛人形自体を贈与し,地域おこしを必要とする全国の市町村に積極的に供与することで,全国での認知も高まっていった。こうした状況を生み出す背景となったのは,実は戦後衣装着の人形飾りを用いた三月節供の行事が全国に浸透し,大量に消費された雛人形が各家庭で役目を終えたままとなっているからであり,それらを再利用する方法がみいだされたことによる。さらに自宅で飾られなくなった雛人形を観光を通して享受していくという,民俗の現在的な展開をも見て取ることができる。
著者
髙久 智広
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.89-113, 2014-01-31

これまで幕藩制社会における官僚制の問題は、将軍や幕閣といった政権担当者の交代や改革に伴う幕府の機構改革の側面から論じられることがほとんどであった。しかしそうした改革や政権交代には必然的に積極的な人材登用とともに前政権が行った政策の批判的継承と前政権の諸政策を担った諸役人の処分や否定も付随する。このように考えると、幕府の官僚組織を編成する側の論理もさることながら、その構成員たる幕臣たちが、組織内での地位の上昇・下降をどのように捉えていたのかを明らかにすることが、組織の実態を明らかにするうえでは欠かせない作業となってくる。そこで本稿では武士の立身出世を題材にした出世双六のうち、「江戸幕臣出世双六」「御大名出世双六」「御役替双六」の三点を検討素材として、史料としての有効性を測りつつ、幕府の官僚組織における出世を、幕臣たちがどのように捉えていたのかを考察した。本稿では、まず第一節において、「江戸幕臣出世双六」と「御大名出世双六」の比較からこれらの双六には、職制上の階梯を昇っていくことだけではなく、それに伴う禄高の上昇や御目見以下から以上、あるいは旗本から大名への家格の上昇、また殿席や官位・官職の上昇、さらには武家としての継承・繁栄までを組み込んだ出世観が示されていると位置づけた。また、この二つの双六の特徴として、まずそれぞれの場に応じた上役や関係諸職との間で交わされる付届けの贈答関係、即ち交際のあり様がより重視されており、それは出世・昇進とは不可分の関係にあったこと、またその結びつきの強弱はこれらの双六では付届けの数によって示されているが、その多少は職階の上下以上に、それぞれの職務内容や権限がより大きく作用する構成となっていることを指摘した。またこれら二つの双六は「振出シ」や「家督」のマスにおいては、サイコロの出目というある種の運命によって振り分けられる武家としての身分的階層が、現実世界と同様に御目見以下の最下層に位置する中間から、最も上層の万石以上まで大きな幅をもって設定されており、そうした各家に歴史的に備わった家格=身分的階層が出世・昇進と密接な関わりを持っていることがゲームを通じて実感される構成となっている。その一方で、佐渡奉行が側用人や伏見奉行に飛躍するような実際にはあり得ない抜擢人事の要素をも組み込んでいて、しかもそれが両双六において採用されていることから、これらの双六にみられる特徴は、幕臣の出世に関し、当時共有されていた認識を示すものではないかと本稿では位置づけている。また、本稿で検討した三つの双六では、サイコロを振るごとに単純に地位が上昇していく仕組みではなく、降格や処分を意味する設定が実態に即した内容で組み込まれている点が重要ではないかと考えた。そのことにより、どの役職や場に、どのようなリスクがあるのかということも知ることができるからである。なかでも第二節においては「御役替双六」に設定された「振出シ小普請」と「一生小普請」に注目した。これは三〇〇〇石以下の無役を意味する一般的な小普請と、処分や粛正によって貶される咎小普請という、幕府の官僚組織の特色の一つである小普請の両義性を明確に提示するものである。特に「一生小普請」については、当該双六の作成時期として比定される享保期から天明期にかけての勘定奉行・勘定吟味役、大坂町奉行の動向を追い、「御役替双六」における「一生小普請」の設定が、一八世紀半ばにおける上記三職就任者の処分・粛正と小普請入りの実態を反映したものであることを指摘した。同時代に生きた幕臣やその子弟たちは、「御役替双六」の「一生小普請」と諸職の対応関係をみただけで、現実にあった政権担当者の交代やそれに伴う政策方針の転換、前政権担当者や関連諸役の粛正などを想起したであろう。こうした出世双六は、本来、幕府の官僚組織のあり方を論じる上では二次的・三次的史料に分類されるものではある。また、概ね実態を反映する形で構成されてはいるものの、それぞれの双六には製作者の意図や認識が組み込まれている。しかし、これらの双六において再現される立身出世のプロセスは、現実世界を強く照射するものでもあり、一次的史料に即して批判的に検証したことで、有効な研究素材になりうることを明らかにできたのではないかと考える。
著者
朝岡 康二
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.543-562, 2003-10-31

本稿はスペイン・バルセロナにおける公的な博物館群の社会的な位置付けやその表象機能を紹介するとともに,これらの博物館群のひとつを構成するバルセロナ民族学博物館の特徴を示し,同時に,そこに収蔵されている日本関係コレクションの持つ意味の検討を行ったものである。同博物館の日本関係コレクションは,収集を行ったエウドラド・セラ・グエルの名を借りて,ここでは仮に「セラ・コレクション」と称することにする。同コレクションは決して古いものではなく,1960年代のいわゆる民芸ブームの中で収集された民芸品(あるいは観光記念品)であり,美術的な価値という点から評価するならば,貴重であるとは,必ずしも言い難いものである。しかし,見方を変えるならば,戦後の観光文化(なかでも地方都市の文化表象としての)を具体的に示すものとして興味深い資料であるし,また,当時のヨーロッパの一般的な観点からの「日本文化」であると言う点から言えば,また別の意味を導き出すことができる。近年のヨーロッパにおける大衆的な日本ブームと繋がるものだからである。さらに,このコレクションを集めた意図・過程・集めた人物などを検証していくと,その成立の背後に戦後のバルセロナのブルジュワと芸術家の集団があることがわかり,その持つ意味を知ることができるし,あるいは,明治・大正・昭和に跨るヨーロッパと日本を繋ぐ複雑な人的関係の一端も明らかにすることができる。そのキーパーソンがエウドラド・セラ・グエルなのである。本稿においてこれらの諸点が充分に解明されたというわけではない。いわば手掛かりを得たに過ぎないのであるが,それでも,次の点を知ることができた。それは,バルセロナにおけるセラを中心とする広範な人的関係に加えて,セラと日本を結ぶ(したがって,「セラ・コレクション」の背景となる)人的関係に,住友財閥の二代目総理事であった伊庭貞剛の一族がおり,「セラ・コレクション」はこの一族の広範な海外交渉史の一面を示すものでもある,ということである。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.200, pp.37-60, 2016-01-31

難波は古代都城の歴史において外交・交通・交易などの拠点となり,副都として機能していた。外交路線の対立(韓政)により蘇我氏滅亡が滅亡し,難波長柄豊碕宮(前期難波宮)が大郡などを改造して造られた。先進的な大規模朝堂院空間を有しながら,孝徳期の難波遷都から半世紀の間は同様な施設が飛鳥や近江に確認されない点がこれまで大きな疑問とされてきた。藤原宮の朝堂院までは,こうした施設は飛鳥に造られず,この間に外交使節の飛鳥への入京が途絶える。これに対して,藤原宮の大極殿・朝堂の完成とともに外国使者が飛鳥へ入京するようになったことは表裏の関係にあると考えられる。こうした問題関心から,筑紫の小郡・大郡とともに,難波の施設は,唐・新羅に対する外交的な拠点として重視されたことを論じた。前提として,古人大兄「謀反」事件の処理や東国国司の再審査などの分析により,孝徳期の外交路線が隋帝国の出現により分裂的であり,中大兄・斉明(親百済)と孝徳・蘇我石川麻呂(親唐・新羅)という対立関係にあることを論証した。律令制下の都城中枢が前代的要素の止揚と総合であるとすれば,日常政務・節会・即位・外交・服属などの施設が統合されて大極殿・朝堂区画が藤原京段階で一応の完成を果たしたとの見通しができる。難波宮の巨大朝堂区画は通説のように日常の政務・儀礼空間というよりは,外交儀礼の場に特化して早熟的に発達したため,エビノコ郭や飛鳥寺西の広場などと相互補完的に機能し,大津宮や浄御原宮には朝堂空間としては直接継承されなかったと考えられる。藤原宮の朝堂・大極殿は,7世紀において飛鳥寺西の広場や難波宮朝堂(難波大郡・小郡・難波館)さらには筑紫大郡・小郡・筑紫館などで分節的に果たしていた服属儀礼・外交儀礼・饗宴・即位などの役割を集約したものであると結論した。
著者
水澤 幸一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.45-73, 2014-01

本稿では、戦国期城館の実年代を探るための考古学的手段として、貿易陶磁器の中でも最もサイクルの早い食膳具を中心に十五世紀中葉~十六世紀中葉の出土様相を検討し、遺跡ごとの組成を明らかにした。まず、十五世紀前半に終焉をむかえる三遺跡をとりあげ、非常に器種が限られていたことを確認し、次いで十五世紀第3四半期の基準資料である福井県諏訪間興行寺遺跡の検討を行った。そして兵庫県宮内堀脇遺跡や京都臨川寺跡、山科本願寺跡、千葉県真里谷城跡、新潟県至徳寺遺跡等十二例と前稿で取り上げた愛媛県見近島城跡、福井県一乗谷朝倉氏遺跡などを加え、当該期の貿易陶磁比の変遷を示した。その結果、十五世紀代は青磁が圧倒的比率を占めており、十五世紀中葉の青花磁の出現期から十六世紀第1四半期までの定着期は、一部の高級品が政治的最上位階層に保有されたものの貿易陶磁器の主流となるほどの流入量には達せず、日本社会にその存在を認知させる段階に留まったと考えられる。そして青花磁が量的に広く日本社会に浸透するには十六世紀中葉をまたねばならなかったが、その時期は白磁皿がより多くを占めることから、青花磁が貿易陶磁の中で主体を占める時期は一五七〇年代以降の天正年間以降にずれ込むことを明らかにできた。器種としては、十六世紀以降白磁、青花磁皿が圧倒的であり、碗は青磁から青花磁へと移るが、主体的には漆器椀が用いられていたと考えられる。なお、食膳具以外の高級品についても検討した結果、多くの製品は伝世というほどの保有期間がなく、中国で生産されたものがストレートに入ってきていたことを想定した。As an archaeological means to explore the different time periods of tower houses during the Warring States period, this study examined aspects of the archaeological finds of the mid-15th to mid- 16th centuries with a focus on dining tableware that had the shortest life cycle among trade ceramics, and clarified the composition for each archaeological site.Firstly three sites dated to the end of the early 15th century were studied, and it was confirmed that the types of ware were very limited, followed by studies of the Suwama Kogyoji Temple site in Fukui Prefecture, which is a standard reference material of the 3rd quarter of the 15th century. Then, to indicate the transition of trade ceramics in the relevant period, 12 sites were examined, including Miyauchi Horiwaki in Hyogo Prefecture, Rinsenji Temple and Yamashina Honganji Temple in Kyoto Prefecture, Mariyatsu Castle in Chiba Prefecture, Shitokuji Temple in Niigata Prefecture, in addition to Michikajima Castle in Ehime Prefecture, and Ichijodani Asakura Clan Ruins in Fukui Prefecture, both of which were discussed in the previous paper.As a result, it was found during the 15th century, celadon porcelain accounts for an overwhelming percentage of finds. In the settlement period, from the first appearance of blue and white porcelain in the mid-15th century to the 1st quarter of the 16th century, some quality ware were owned by the highest political class, and the inflow levels of this type of porcelain ware did not reach those of the mainstream of trade ceramics, but it can be considered that its existence was generally known throughout Japanese society.It was not until the mid-1500s that increasing quantities of blue and white porcelain were found widely spread throughout Japanese society, but white porcelain dishes account for a higher percentage of finds; this clarified that the period in which blue and white porcelain accounts for the majority of such archaeological finds was extended to after the 1570s.From the 16th century, the main type of ceramic ware overwhelmingly found, were white porcelain, and blue and white dishes; china bowls shifted from celadon to blue and white porcelain, but it can be considered that lacquered bowls were more commonly used.Moreover, high-grade articles other than tableware were also examined, and the result shows that many articles had not been owned or passed on for generations as claimed, and it is assumed that ware produced in China was introduced directly.
著者
西谷 大
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.136, pp.267-333, 2007-03-30

本稿は中国雲南省紅河哈尼族彝族自治州の金平県で抽出できた,者米谷グループと金平グループの2つの市グループについての特質を明らかにすることを目的としている。これまで金平県でたつ6日ごとの市の考察から,市を成立させる条件として「余剰生産物の現金化と生活必需品の購入」,「徒歩移動における限界性」,「市ネットワークの存在と商人の介在」,「商品作物の処理機能」,「交易品としての食料と食の楽しみ」,「店舗数(市の規模)と来客数の相関」の6つ条件を提示した。さらに市という場としての特質として「小商いの集合による商品数の創出と多様な選択性」や,「生産物の処理の自由度と技術の分担による製品の分業創出」,「市のもつ遊びの楽しみ」などにも目を向ける必要があると論じてきた。ところが市を者米谷グループと金平グループという2つの地域に分けて考察してみると,者米谷グループの市システムは,生業経済の色合いが濃厚で,地域住民がある程度は市を馴化する,あるいは主体的に利用することが可能であるという性格をもつ。それに対して,金平グループの市システムは,町・都市の論理や移動商人が物資の移動を握り,地域の農民が主体的に市を活用する論理が通用しなくなっている。地域経済の動態を解明するために交易という地域ネットワークに焦点をあてた場合,市が誕生し市システムが発達していくなかで,定期市システムは,ある段階までは地域社会の生業経済を安定的に維持する方向に働き,農民たちの主体的な生業戦略を促進させる。いわば「生業経済に埋め込まれた定期市」といった段階があるのではないか考えられる。一方,各地域の市システムがネットワーク化されていく段階で,市の性格は「市場経済を促進する定期市」へと変化していくのではないかと推測される。
著者
濱田 琢司
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.197, pp.265-294, 2016-02

明治時代から大正初期にかけて,百貨店は,多くの新たな流行を作り出す,「尖端的」な場であった。百貨店は,高い文化的価値を持つ空間だったのである。そうした価値の生成・維持のために,百貨店が活用したことの1つに,美術があった。日本に美術館が定着するよりも早く,いくつもの美術展覧会が百貨店で開催された。このことは,百貨店の文化的価値を高める要因の1つとなったのである。一方,大正時代中期から昭和初期になると,美術に関するいくつかの新興の団体が,展覧会の会場として百貨店を活用することを通して,団体の知名度と権威を高めていった。本論では,民芸運動という,大正末期に発生した工芸についての新興の文化運動を事例に,この運動のメンバーが百貨店をどのように活用していたのかを検討することで,近代日本における工芸(とくに手工芸)の文化的消費と百貨店との関係を考察する。その際に民芸運動が持つ2つの側面と百貨店との関わりをそれぞれ検討する。2つの側面とは,民芸運動メンバーの芸術家としての活動と民芸運動の啓蒙活動としての側面とである。前者については,明治後半に百貨店に設置された美術部との関わりを,美術部の草創期から重要な役割を担った1人である富本憲吉や,濱田庄司ら運動同人の個人作家らを事例に検討する。また後者については,民芸運動を推進する団体である民芸協会が主催した,1920年代の後半から30年代にかけての展覧会を取り上げて,百貨店との関わり等について検討する。それによって,1つには,新興の文化運動の一事例としての民芸運動が,どのように百貨店を捉え,活用しようとしていったのか,もう1つには,工芸という付加価値商品の百貨店を通しての(広い意味での)文化的消費の有り様がどうであったのかということの一端とを明らかにする。From the Meiji period to the early Taishō period (from the late 19th to the early 20th century), department stores were extremely fashion-forward, creating new trends one after another. These stores were a place of high cultural values. They utilized art as a means to keep their status. A number of art exhibitions were organized by department stores before museums were established in Japan. This was one of the factors to boost the cultural value of department stores. From the mid-Taishō to the early Shōwa period (from the early to mid-20th century), some emerging art-related organizations used department stores as venues for exhibitions to raise their recognition and reputation. This paper presents case studies of the Folk Crafts Movements that emerged as one of cultural movements at the end of the Taishō period. In particular, this paper examines how the members of these movements used department stores in order to reveal the relationships between department stores and the cultural consumption of crafts (especially handicrafts) in modern Japan. The analysis of the relationships especially focuses on the following two aspects of folk handicraft movements: (i) the activities of artists as members of the movements and (ii) the enlightenment activities of the movements. The former aspect is analyzed through a case study of the connections between the artists and the art sections established at department stores around the 1900s. The case study takes a close look at Kenkichi Tomimoto, an artist who played an important role in the art sections from their beginning, and individual artists who joined the movements, such as Shōji Hamada. Meanwhile, the latter aspect is analyzed through a case study of exhibitions held by Mingei Kyōkai, a folk craft association involved in the movement, and its relationships with department stores in the late 1920s to the 1930s. Through these analyses, this paper reveals the following two points: (i) how the Folk Crafts Movement, as one of emerging cultural movements, saw and used department stores; and (ii) how crafts (value-added products) were consumed through department stores (patterns of "cultural" consumption in a wider sense).一部非公開情報あり
著者
林部 均
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.160, pp.1-28, 2010-12-28

藤原京は,わが国はじめての条坊制を導入した都城といわれている。そして,その造営にあたっては,複雑な経過があったことが,『日本書紀』の記述や近年の発掘調査から明らかとなりつつある。ここでは,条坊制のもっとも基本となる要素である条坊がいつ施工されたのかについて,具体的な発掘調査をもとに検討を加えた。その結果,もっとも遡る条坊施工から,もっとも新しい条坊施工まで20~30年の年代幅があることが明らかとなった。もっとも遡る条坊施工は,天武5年(676)の天武による「新城」の造営に対応することは問題ないとして,もっとも新しく施工された条坊がどういった性格のものであるのかをあらためて検討した。それは,もっとも新しく施工された条坊の施工年代が,明らかに藤原宮期まで下がるからである。この事実について,藤原京は大きな都城であるから単なる造営段階の工程差とも解釈は可能であろう。しかし,ここでは,あらためて藤原京の造営過程,そして,発掘調査で確認される実態としての藤原京を検討していくなかで,大宝元年(701)に制定・公布された大宝令による改作・再整備の可能性を指摘した。それは,もともと王宮・王都のかたちには,その時々の支配システムが如実に反映されているという考古学からの王宮・王都研究の基本原則にもとづく。この原則にたつかぎり,藤原京は天武・持統朝の造営であり,持統3年(689)に班賜された浄御原令の政治形態を反映した都とみなくてはならない。そして,大宝元年の大宝令の制定・公布により,もともとから存在する藤原京と新しい法令との間に齟齬が生じることとなり,その対応策として,改作・再整備がおこなわれたと考えた。また,『続日本紀』慶雲元年(704)の記事も,そのような文脈の中においてはじめて解釈が可能ではないかと考えた。いずれにしても,これまでの藤原京の研究は,大宝令を前提に,その京域などの研究が進められてきた。しかし,藤原京の造営は,それを遡ることは確実であり,その前提こそ見直さなければならないのではないかと問題提起をおこなった。
著者
伊藤 純郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.147, pp.241-267, 2008-12-25

長野県東筑摩郡『神社誌』は、柳田国男および文部省国民精神文化研究所哲学科助手堀一郎、東京高等師範学校講師和歌森太郎の指導・助言により、東筑摩教育会が昭和一八年度から実施した『東筑摩郡誌別篇』氏神篇編纂事業のなかで作成されたもので、東筑摩郡内の一七一社におよぶ氏子を有する神社である氏神一社ごとに「総記」「神職」「祭」「神社をめぐる氏子生活」「祝殿」の五項目に関する氏子の語りを、東筑摩教育会教員が記録した「神社誌」である。東筑摩郡『神社誌』が平成一八年三月に刊行された国立歴史民俗博物館基幹研究「戦争体験の記録と語りに関する資料論的研究」の『翻刻資料集』二に収録された理由は、『神社誌』が国立歴史民俗博物館基幹研究資料報告書一四『戦争体験の記録と語りに関する資料調査』と同じく「戦争体験の語り」に関する貴重な記録であること、および『神社誌』が戦時下の氏神が果たした機能、戦時下の氏神信仰と祭祀の諸相、氏子制度・隣組・部落会、学校など氏神を支える社会的基盤を考察できる「戦時中に書かれた記録」であることによる。本稿は、右のような問題意識をふまえ、東筑摩郡寿村(現松本市)『神社誌』を対象に、八冊におよぶ寿村『神社誌』の記述を、『戦争体験の記録と語りに関する資料調査』と『神社誌』における話者の語り方の位相に着目しながら、役場・学校所蔵資料などの記録(資料)と語り(記憶)の視点から検討する作業を通じて、『神社誌』の資料論的意義を考察したものである。戦時下の氏神に関する氏子(個人)の語りは、どのようなプロセスをへてムラ(集団)の語りとして記述され、東筑摩郡『神社誌』という記録(資料)に結実したのだろうか。
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.459-472, 2017-03

本稿は、民俗儀礼を起源とする俳句の季語を文芸資源と捉え、その形成の過程を論じようとするものである。七五三という儀礼は実は新しく、都市的な環境のなかで成立したものである。そして特に現代では古い状況から新しい状況へと変化することを示す儀礼というよりも、人生の階梯を晴れ着などで示す表層的な儀式という性格が顕著である。そうした七五三が文芸資源として俳句作品に用いられる際には、子どもの成長や晴れ着の着こなし、儀式のなかでの動きを切り取るものとして機能している。社会的な儀礼よりも一時的な儀式としての意味合いが強調される。一方、岡見は「堀川百首」の源俊頼の和歌における「をかみ」の語釈として胚胎し、近世の季寄せや歳時記の類にこの語に関する関心が引き継がれてきた。記録上は、多少のバリエーションがあり、担い手や方法に差異があるが、実際の民俗儀礼として明確に確認はできない。この語は俳句作品のなかでは年の暮の情景を示すものとして、さらには時間感覚を表出させるものとして働く場合が多い。それは幻想的であり、年中行事というよりも特殊な境界の時空をとらえるものとなっている。This paper considers the haiku season words originated from folk rituals as the resources of literature and examines how they have developed.One example is Shichigosan (a gala day for children of three, five, and seven years of age). This is rather a new ritual, established in urban settings. Today it is a superficial ritual to dress children up to celebrate their climb up the ladder of life, rather than a ritual to make a transformation from the existing to a new situation. When this ritual is used as a resource of literature in haiku, the word is intended to conjure images of growing children, their gorgeous gala dresses, and their behaviors in the ritual process. A focus is placed on the meaning of being a temporary ritual, rather than a social ritual.Another example is Okami (a ritual held on the New Year's Eve to tell a fortune for the next year). This was originated from the word "okami" referred to in a tanka poem of Minamoto no Toshiyori in Horikawa Hyakushu (Horikawa One Hundred Poems) and continued to appear in kiyose and saijiki (catalogues of haiku season words) compiled in the early modern times. Surviving documents indicate that there were some variations in who and how to perform this folk ritual though these details cannot be actually confirmed. In haiku, the word "okami" is often used to indicate year-end sentiments or a sense of time. The word conjures a fantastic image, suggesting the time and space on the boundary with a fantasy world, rather than an annual event.
著者
中島 圭一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.113, pp.181-192, 2004-03-01

一五二六年に石見大森銀山が発見されると、まもなく大量の日本銀が大陸に流出する。しかし、銀は京都方面には向わず、京都においては専ら金が、贈答や遠隔地間の送金に使用された。一五六三年、政治的理由から毛利氏が大森銀山を室町幕府と朝廷に寄進したのを契機として、銀が京都に流入を始めた。その後、京都においては急速に金から銀への交代が進み、七〇年代には銀が送金・贈答の主流となる。この間、六〇年代後半までに金が貨幣的機能を具えるに至っており、それを前提として、六〇年代末までに銀も舶来品取引を中心に用いられる貨幣となった。そして、七〇年代には舶来品以外にも用途を広げ、八〇年代から九〇年代にかけて銀貨の使用が完全に定着し、近世の京都が銀貨使用圏に入る基盤が調えられた。