著者
山岸 常人
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.161-193, 1992-12-25

本稿は、中世の寺院において本堂或はその他の仏堂の中に何らかの意図をもって納め置かれた文書―仏堂納置文書と呼ぶことにする―をとりあげ、その納置の状態・納置文書の種類や機能・蔵に納置された文書との関係等について、主として栄山寺・高野山・金剛寺等の納置の事例をたどりながら、寺院内部における文書の安定的な保管についての原理と現実について考察を加える。文書納置には様々な種類の仏堂が使われているが、中でも御影堂・本堂、とりわけ御影堂が特に史料的に豊富な情報を残しており、御影堂が多くの寺に共通して重用されていた。多数の文書が仏堂に納置された要因は、併存する複数の僧侶集団、さらには寺外の諸権門との間での様々な権利が対立する際、権利を保障する支証となる文書の所在とその確かな伝領を実現するためにふさわしい機能を仏堂がもっていた点にある。寺の開祖や宗祖を祀る御影堂が特に選ばれているのは、世俗の諸権力より上位の権力に文書の保管を委ねたと見ることができる。ただしこのシステムは架空の上位権力の存在を想定して成立している擬制とも言えるものであった。このことは笠松宏至氏の言う「仏物」誤用禁止の法理とも共通する理念であるが、その法理の裏では、高野山の御手印縁起等の奉納状や十聴衆評定で定められた出納手続、或は文書の書面上に御影堂納置文書である旨を示す文言を加筆すること等、実態を伴った管理制度の完備によって初めて保管の実効性が保証されていた。更には金堂には下書を、御影堂には正文を置くような危険を分散する方式も編み出されて、それを補完したはずである。即ち理念や擬制だけで現実の利害や権力に対抗しきれるものではなかった。なお仏堂に納置される文書は公験・荘園文書など寺家の権利に直接関わるものに主として限られ、法会文書などは納められず、また年貢なども別の収納施設に納められ、寺内の収納施設は目的により俊別されていた。仏堂に文書を納置することは正に中世寺院の組織構造を直接に反映した現象であった。
著者
藤田 盟児
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.196, pp.53-90, 2015-12

宮島にある厳島神社の門前町には,オウエという吹き抜けになった部屋をもつ町家群があり,中部・北陸地方の町家形式に酷似する。平成17年度から18年度にかけて実施した伝統的建造物群保存対策調査で,それらの建造年代を形式や技法の新旧関係から推定する編年を行ったが,18世紀後期と推定した田中家住宅と飯田家作業所について¹⁴C年代調査を行ったところ,両方とも17世紀後期の建築である可能性が高まった。このことから,厳島神社門前町の町家建築の編年を見直して,¹⁴C年代調査が民家調査の編年に及ぼす影響について述べた。さらに,両遺構はこれまで実在しないと思われていた17世紀の平屋の町家建築である可能性が高まったので,従来は洛中洛外図屏風など中世末期から近世にかけての絵画史料や文献史料で行われてきた中近世移行期の民家史と都市史に新たな知見をもたらす非常に重要な町家遺構であることを述べた。そして最後に,伝建調査では吹き抜けになったオウエをもつ町家形式が中近世移行期の町家の形状を残す古い形式である可能性があることを示したが,厳島神社門前町の町家遺構の年代観の変化と,関連する史料と類例の追加によって,それについても修正し,町家形式の変遷過程に対する展望として提示した。厳島神社門前町の町家は,そうした全国の類例の中でも間口が狭く,中世の町家の特色をよく残していると推測されるが,それは厳島が中世の住民と都市環境を近世まで継承した希有な宗教都市であったという歴史の反映であると考えられる。Like in Chūbu and Hokuriku Regions, there are townhouses with open-ceiling rooms called "oue" in front of Itsukushima Shrine in Miyajima Island, Hiroshima Prefecture, Chūgoku Region. The dates of their construction were estimated by chronologically comparing their architectural styles and techniques in the Study for Historic Building Preservation from FY2005 to FY2006. Among them, the Tanaka family's residence and the Iida family's workshop were dated to the late 18th century; however, radiocarbon dating results indicated that they were more likely to have been built in the late 17th century. Therefore, in this study, the dates of the houses estimated by the Study for Historic Building Preservation are reviewed and re-estimated as necessary.The above-mentioned two buildings can disprove the assumption that there was no one-story townhouse in the 17th century. In this regard, they are important buildings that may lead to new findings in the medieval-to-early-modern townhouse research, which has been mainly based on historical documents and pictures from late medieval to early modern times, such as Rakuchu-rakugai-zu screen paintings. Moreover, although the Study for Historic Building Preservation presumed, based on its analysis of similar cases across Japan, that townhouses with oue may have been one of the oldest models, because the dates estimated by the Study were found incorrect, this paper considers the prospect of further detailed analysis of transitions in the model of townhouses by examining a wider range of historical documents and cases.With narrower frontages, townhouses in front of Itsukushima Shrine are presumed to preserve features characteristic of medieval townhouses. This seems because they are situated in a religious town that had preserved the medieval urban environment and residents until early modern times.
著者
加藤 貴
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.155, pp.59-85, 2010-03-15

江戸市民にとっての名所は、自然との交流と神仏との交感によって、「延気」を約束してくれる場所であった。江戸市民は、一八世紀以降になると、名所をめぐる広範な行楽行動を展開するようになっていき、江戸の近郊では、新たに多彩な名所が成立していった。その多くは、日本橋からほぼ半径二里半(約一〇キロメートル)の範囲におさまっている。ところが、本稿でとりあげた半田稲荷社は、江戸から四里の距離にある葛飾郡東葛西領金町村に所在しており、日帰りが不可能ではないが、江戸市民にいわば小旅行をさせたのは、それだけの利益を半田稲荷社が約束してくれたからである。当時の医学では対症療法しかなく、しかも罹患すると死亡率の高い疱瘡除の利益である。こうした半田稲荷社と江戸市民との関係を、信仰主体・願人坊主・江戸出開帳などからみていった。半田稲荷社の疱瘡除の利益を江戸で宣伝して回ったのが願人であり、板東三津五郎が歌舞伎の舞台で踊ってみせたことで、さらにその存在が江戸市民に周知されていった。しかし、江戸市民からの信仰を集め、多くの参詣者があったものの、それほどの潤いを半田稲荷社や金町村にもたらさなかったようである。ここに同じく江戸市民から信仰を集めた王子稲荷社や王子村との大きな違いがみられる。江戸からの距離が、王子稲荷社は二里半、半田稲荷社は四里と、それほどの違いにはみえないが、江戸市民にとってはこの一里半の違いが大きかったようである。また、王子が四季を通じた行楽地として、多くの江戸市民を集めたのに対して、半田稲荷社が疱瘡除の強力な利益を与えても、それだけで江戸市民を常時魅きつけることはできなかったようである。王子稲荷社と半田稲荷社の違いは、江戸市民の名所をめぐる日帰り行楽行動の範囲が、日本橋を中心に一〇キロメートルの範囲にとどまったことを再確認させてくれる。それでもなおかつ江戸市民が半田稲荷社に参詣したのは、疱瘡除の強力な利益を約束してくれたからである。
著者
西谷地 晴美
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.329-356, 2009-03-31

『古事記』の語る「豊葦原水穂国」と『日本書紀』の記す「豊葦原瑞穂国」は全くの同義語であり,「水穂」と「瑞穂」はいずれも「イネの豊穣を意味することば」であると理解されている。しかし近年の研究では,『日本書紀』の過去認識は現在とのつながりを重視した過去認識であり,『古事記』のそれは現在につながらないものに視点を据えた過去認識であることが指摘されている。そこで簡便な調査を行い,『古事記』の語る「豊葦原水穂国」は,「葦原の広がる水の豊かな国」という意味であるとする仮説を得た。『日本書紀』は「水穂」を「瑞穂」に書き換えることによって,「水の豊かな国」を「稲穂の豊かに実る国」に変換したことになる。「トヨアシハラノミヅホノクニ」を,『古事記』が稲穂と関係のない「豊葦原水穂国」と表記し,『日本書紀』が稲穂と深く関わる「豊葦原瑞穂国」と表現したのは,天皇の国家統治を語る場面において,『古事記』が農への関心を示さず,『日本書紀』が農に執着することと深く関係している。しかし,農本主義の有無だけが書き換えの理由ではない。『日本書紀』は,天皇による人民支配の正統性の根拠を,天つ神から瓊瓊杵尊への国土授与におく。しかし,生民論を欠く『日本書紀』が,天皇と「民利」との関係を示すためには,天皇統治の場は初めから「豊葦原瑞穂国」である必要があったのである。
著者
大塚 宜明
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.200, pp.1-35, 2016-01-31

本論では,日本列島中央部(愛鷹・箱根山麓,関東地方,中部高地)を対象に,ナイフ形石器製作技術と石材の利用状況を検討する。それにより,姶良Tn火山灰(以下AT)下位石器群における石器製作技術の地域化のあり方とその背景を明らかにする。第一に,愛鷹・箱根山麓のAT下位石器群を対象に,ナイフ形石器の技術的特徴に注目し,出土層位を踏まえ4グループに区分した。そして,ナイフ形石器の調整技術とサイズおよび素材構成を観点に整理することで,時間的な4つの段階として捉えた。第二に,¹⁴C年代および広域テフラとナイフ形石器製作技術を観点に,中部高地と関東地方の石器群を検討し,愛鷹・箱根山麓との編年対比を行なった。以上の検討により,日本列島中央部のAT下位石器群における編年(Ⅹ~Ⅵ層段階)を構築した。その結果,Ⅸ層段階は全地域で対比できたものの,Ⅹ・Ⅶ層段階に対比される石器群は中部高地には確認できず,Ⅵ層段階の愛鷹・箱根山麓のナイフ形石器製作技術は中部高地と関東地方の両方と異なることが明らかになった。第三に,日本列島中央部における地域間の関係を明らかにするために,黒耀石利用の時期的変遷を検討した。結果,信州産黒耀石の供給地(中部高地)と消費地(関東地方,愛鷹・箱根山麓)という関係性,地域間のつながり,それらとナイフ形石器製作技術の結びつきを確認することができた。最後に,ナイフ形石器製作技術の変遷と石材利用を総合的に検討した。それにより,列島中央部のAT下位石器群には石材利用の在地化(Ⅶ層段階)とナイフ形石器製作技術の地域化(Ⅵ層段階)がみとめられ,それらは時期にして一段階分のズレがあることがわかった。そして,この石材利用とナイフ形石器の画期の時間的なズレを,原料の地域化がきっかけとなり,ナイフ形石器製作技術が地域独自化するという列島中央部における石器製作技術の地域化の過程(人類の定着)として位置づけた。
著者
小島 美子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.321-334, 1991-03-30

The most important characteristic the Japanese folkloric music has is to improvise words best suited to the mood of the moment, or to pick up the words that have been sung from old times, to a tune. There we find one of the most spontaneous behaviour of musical expression.In contrast to the above, at Edo (now Tokyo) from the Early Modern Times to the Present Days, much of people did not sing “min'yo” (folk songs), but they sang “zokkyoku” short popular tunes sang to the accompaniment of a Shamisen, or popular songs. Among the “zokkyoku” they used to sing, there were genres of songs like “Dodoitsu”(ditties) that can be sung easily by improvising the words, though the sentiment that can be expressed by this genre of songs is very much limited.In that context, we must say that the music of people at Edo at that time from the Early Modern to the present day, as an act of expressing their feeling, was extremely poor.It is with karaoke that the citizens of the presentday cities who have half lost the habit of singing have regained that habit. With karaoke, there exists a normative form even for singing, not to mention improvising the words, so much so that there is little space left for spontaneity. However, we can say that at least the act of singing spontaneously, that is, the very essential part of the folkloric music, is barely revived among the city dwellers with the help of karaoke, produced in its turn, by the development of audio devices.
著者
川村 清志
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.143-169, 2015-12

本論は,近代日本において生地からの移動によって見いだされた故郷の物語が,現代においてどのように変貌し,実体と言説の境界面においてどのようなゆらぎを抱えているかを検討する。故郷を巡る物語は,様々なメディアのなかに表出され,出郷や離郷,場合によっては故郷喪失の経験をもつ多数の都市生活者の内面に刻み込まれてきた。そのような物語はいくつかの定型を構成しつつ,地方にとどまった者や地域間を往還する者たちにも受容され,変奏されて紡ぎだされていった。これまで故郷観や故郷の物語についての研究の多くは,都市に住む出郷者たちの社会組織や心性の問題として論じられてきた。しかし,本論では表象される側であった故郷において内在的に,あるいは相互交渉的に語られる故郷の物語に注目する。同時に現代において故郷からの移動の経験を身体化し,故郷と新たな生活の場としての「第二の故郷」との距離をはかりつつ生活する人びとによってどのように再構成されているのかに焦点をあてる。以上の目的を検証するために石川県輪島市門前町七浦地区にあった七浦小学校の同窓会の会誌を取りあげる。この同窓会は明治の終わりに成立して以来,本部を七浦地区におき,地元の卒業生と出郷者との交流を目的とした会誌を発行してきた。ここでは質量ともに会誌がもっとも充実していた1980年代中頃から90年代にかけての誌面に登場する記事の検証を行う。近代初期に移動によって生み出された故郷の物語が,世代を超えて続く地域間の往還の経験や,世帯や家格に関係なく生じる離郷経験のなかで,物語そのものの解体,ないしは内破にむかう可能性について考えていく。現実の故郷はひたすら過疎化し,高齢化していくなかで,故郷の物語がどのように語られていくのか,その徴候をこの時期の会誌から読み解いていきたいと考える。This paper analyzes how the hometown memories of emigrants who left their homes in modern Japan have changed in the present times and what differences exist between the memories and reality. Hometown memories have been expressed by various media and imprinted in the minds of many urban residents who left or lost their homes. While evolving into different forms, these memories have also been accepted and adapted by people who continued to live in their hometowns and who migrated between regions.Most prior studies on people's perceptions and memories of their hometowns focused on the social organizations and views of urban residents who emigrated from their homes; this paper is centered on how the people who continue to live in their hometowns create hometown memories by themselves or in interaction with emigrants. At the same time, this paper embodies the experience of emigration in the present times to analyze how people who are living in new places while keeping the balance between their original and second homes remember their hometowns.This paper examines some bulletins published by the alumni association of Shitsura Elementary School in Shitsura District, Monzen-machi, Wajima City, Ishikawa Prefecture, to analyze the above-mentioned points. Since its establishment at the end of the Meiji Period, the alumni association has placed its headquarters in Shitsura District and issued bulletins to facilitate communication between local alumni and those who emigrated from the district. This paper examines the articles of the alumni bulletins at their peak in quality and quantity, from the mid-1980s to the 1990s. The results are used to analyze the possibility that hometown memories created by migrants in the early modern times will be broken or imploded by the experience of migration between regions over generations or the experience of emigration that occurs regardless of the family rank or household they were born into. This paper analyzes the bulletins published when the population of the district was declining and aging to reveal how hometown memories changed in parallel with the process.
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.449-469, 2014-02-28

弥生時代の定義に関しては,水田稲作など本格的な農耕のはじまった時代とする経済的側面を重視する立場と,イデオロギーの質的転換などの社会的側面を重視する立場がある。時代区分の指標は時代性を反映していると同時に単純でわかりやすいことが求められるから,弥生文化の指標として,水田稲作という同じ現象に「目的」や「目指すもの」の違いという思惟的な分野での価値判断を要求する後者の立場は,客観的でだれにでもわかる基準とはいいがたい。本稿は前者の立場に立ち,その場合に問題とされてきた「本格的な」という判断の基準を,縄文農耕との違いである「農耕文化複合」の形成に求める。これまでの東日本の弥生文化研究の歴史に,近年のレプリカ法による初期農耕の様態解明の研究成果を踏まえたうえで,東日本の初期弥生文化を農耕文化複合ととらえ,関東地方の中期中葉以前あるいは東北地方北部などの農耕文化を弥生文化と認めない後者の立場との異同を論じる。弥生文化は,大陸で長い期間をかけて形成された多様な農耕の形態を受容して,土地条件などの自然環境や集団編成の違いに応じて地域ごとに多様に展開した農耕文化複合ととらえたうえで,真の農耕社会や政治的社会の形成はその後半期に,限られた地域で進行したものとみなした。
著者
吉水 眞彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.179, pp.199-228, 2013-11

天智天皇の近江大津宮は667年,後飛鳥岡本宮から遷都され,5年数ヶ月を経た672年の壬申の乱によって廃都と化した短命の宮都である。7世紀代の宮都で大和以外の地へ宮都が移されたのは前期難波宮と大津宮だけである。その一つである大津宮跡は,現在,琵琶湖南湖南西岸の滋賀県大津市錦織に所在することが判明している。大津宮の実像を知るために宮の構造や白鳳寺院の実態,周辺の空間構造を発掘調査で確認された遺構や出土遺物である第一次資料を再評価することと新たな発掘資料も加えて検討した。その結果,大津宮の特殊性が見えてきた。すなわち,対高句麗外交や軍事上の拠点整備を推進するために陸上・湖上交通の整備に重心が置かれ,大津宮の形が短期間のうちに推進されていた点である。大津宮遷都前夜までの比叡山東麓地域は,渡来系氏族の大壁建物や掘立柱建物の集落が営まれ,また各氏族による穴太廃寺や南滋賀廃寺などの仏教寺院も建立されており,周辺には萌芽的な港湾施設も存在していたものと推定される。このように遷都を受け入れる環境が一定程度整備されていた地域に大津宮は移されたのである。そして遷都の翌年,錦織の内裏地区の北西方の滋賀里に周辺寺院の中では眺望の利く最も高所に崇福寺を新たに造営し,対照的に宮の東南方向の寺院の最低地にあたる現在の大津市中央三丁目付近の琵琶湖岸にほぼ同時期に大津廃寺を建立した。つまり崇福寺跡と大津廃寺は川原寺同笵軒丸瓦を共通して使用していることから,大津宮と密接な関係がみられ,前者には城郭的要素があり,後者には木津川沿いの高麗寺と「相楽館」のような関係を有する港湾施設を近隣に配置し,人と物の移動ための機動力を重視して造営された。これらに触発されたかのように周辺氏族は穴太廃寺の再建例にみられるように再整備を行なっている。このように大津宮の内裏地区や,大津廃寺を除いた仏教寺院は高燥の地に立地し,かつ正南北方位を意識した配置がみられるのに対して,木簡などを出土した南滋賀遺跡の集落跡などは低地に営まれ,かつ正南北方位を意識しない建物を構築している。おそらく内裏地区や白鳳寺院,諸機能を分担した各施設は整斉に計画され,その周辺には地形に左右された集落などが混在した空間を呈していたものと思われる。近江朝廷の内裏や寺院・関係施設などを短期間に新設し,ハード面を充実させていくにつれて渡来系集落的景観から大津宮の交通整備重視の未集住な空間へと変遷していったものと考えた。Omi Otsu no Miya of the Emperor Tenchi was a short-lived imperial capital, which was relocated from Nochi no Asuka no Okamoto no Miya in 667, and a little over 5 years later, abandoned due to the Jinshin War in 672. From among all the imperial capitals of the 7th century, the only capitals relocated to other locations than the Yamato Province were the Early Naniwa no Miya and Otsu no Miya. Archaeological research has placed Otsu no Miya on the southwestern shore of Lake Biwa, in the current district of Nishikori, Otsu City, Shiga Prefecture.To understand the historical character of Otsu no Miya, its location and structure, the actual conditions of Hakuho Temple, and the spatial structure of the surrounding area was studied by reexamining the primary materials, mainly the ancient foundations and artifacts excavated by earlier digs, along with some newer excavated materials. As a result, several special characteristics of Otsu no Miya were found. Namely, to promote the establishment of a base for both diplomatic relations with Koguryo and military purposes, priority was given to the development of land and lake transportation, and the establishment of Otsu no Miya was promoted for only a short period of time.Up to right before the relocation of the capital to Otsu no Miya, in the area at the eastern foot of Mt. Hiei, Chinese and Korean clan settlements consisting of large walled buildings and dug-standing pillar buildings existed along with such Buddhist temples as the Ano Temple (abandoned) and Minami-Shiga Temple (abandoned) built by these clans; it can be inferred that in the surrounding areas the early stages of port facilities existed. Otsu no Miya was relocated to such an area in which to a certain extent an environment suitable for the relocation of the capital was being developed. In the year following the relocation, Sofukuji Temple was newly built at Shigasato, lying northwest of the Imperial Palace in Nishikori; the temple had a fine view and the site was the highest among the surrounding temples; at nearly the same time, in contrast, Otsu Temple (abandoned) was built in the lowest position of all the temples, southeastward from the Miya, on the shores of Lake Biwa in the current Hamaotsu. Since the Sofukuji Temple site and the Otsu Temple (abandoned) both used round-shaped roof tiles produced from the same tile mold as used at Kawara-dera Temple, a close relation with Otsu no Miya can be considered. The Sofukuji Temple was fortified to some extent, and the Otsu Temple (abandoned) was constructed with a focus on mobility for the transport of people and goods, and its nearby port facilities had a relation with Komadera Temple at Kizu River like "Sagaraka no Murotsumi" (guest house). As if inspired by such construction work, the clans in the surrounding areas carried out their own redevelopment as shown by the rebuilding of Ano Temple (abandoned). As mentioned above, the Palace area of Otsu no Miya and Buddhist temples apart from Otsu Temple (abandoned) were located on the higher and dry sites and arranged along a north and south line, whereas the settlement sites of the Minami- Shiga site, from which mokkan (a narrow strip of wood on which an official message is written) were excavated, were laid out on low-lying land and buildings constructed with no attention to a north/south axis. It is probable that the Palace area, Hakuho Temple, and each institution with an allocated function, were arranged in accordance with a deliberate and ordered plan, and the layout of its surrounding settlements was affected by the topography; these two different approaches coexisted in one spatial structure.In the author's view, the Palace of the Omi Imperial Court, temples and related facilities were newly established over a short period of time, and as the physical infrastructure was improving, the landscape of Chinese and Korean clan settlements was changing to a space with no settlements and a focus on developing transportation links for Otsu no Miya.
著者
一ノ瀬 俊也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.593-610, 2003-03-31

各市町村における従軍者記念誌は、日露戦争終結直後、戦死者が忘却されていくことを嘆いて作られた。だが第一次大戦後、主に在郷軍人会市町村分会によって作られた記念誌は、そのような後ろ向きの意図ではなく、ある積極的な政治的意図、すなわち過去の栄光の記録・記憶化を通じて軍人という自己の存在意義を再確認し、反軍平和思想の盛んだった社会に訴えていくために作られていった。そのような記念誌の中で日清・日露の追憶を語った老兵たちは、戦死者の壮絶な死を語って戦争の「記憶」に具体性を与えて、人々の共感を呼び起こす役回りを演じた。そうした語りのあり方は「郷土の英雄」を求める人々の心情にもかなうものだった。老兵たちが自己の従軍体験を語る際、確かに悲惨な体験も語ったものの、基本的には名誉心充足の機会として戦争を描いていた。そのような従軍者たちの「語り」を彼らの〝郷土〟が一書に編む時、彼らが国家の大きな歴史に占めた位置、役割の説明が熱心に行われた。それは戦死者の死の〝意味〟を明らかにし、ひいては戦争自体の持つ価値を地域ぐるみで再確認、受容することに他ならなかった。以上の過程を通じて、満州事変勃発以前から満州は「血をもって購った」土地であり、したがってその権益は擁護されるべきという論理や「社会主義共産主義」の脅威が市町村という末端レベルで繰り返し確認されていった。満州事変に際して軍、在郷軍人会などが国民の支持を調達する際、日露戦争の「記憶」を強調したことは周知のことだが、本稿が掲げた諸事例は、そのような「記憶」が当時の社会において具体的にいつから、どのようにして共有化されていったのかを示すものである。
著者
村井 章介
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.201, pp.81-96, 2016-03

本誌第一九〇集に掲載された宇田川武久氏の論文「ふたたび鉄炮伝来論―村井章介氏の批判に応える―」に対する反論を目的に、「鉄砲は倭寇が西日本各地に分散波状的に伝えた」とする宇田川説の論拠を史料に即して検証して、つぎの三点を確認した。①「村井が鉄砲伝来をヨーロッパ世界との直接のであいだと述べている」と反復する宇田川氏の言明は事実誤認である。②〈一五四二年(または四三年)・種子島〉を唯一の鉄砲伝来シーンと考える必要はなく、倭寇がそれ以外のシーンでも鉄砲伝来に関わった可能性はあるが、宇田川氏はそのオールタナティブを実証的に示していない。③一五四〇~五〇年代の朝鮮・明史料に見える「火砲(炮)」の語を鉄砲と解する宇田川説は誤りであり、それゆえこれらを根拠に鉄砲伝来を論ずることはできない。以上をふまえて、一六世紀なかば以降倭寇勢力が保有していた鉄砲と、一六世紀末の東アジア世界戦争(壬辰倭乱)において日本軍が駆使した鉄砲ないし鉄砲戦術との関係を、どのように捉えるべきかを考察した。壬辰倭乱直前まで、朝鮮は倭寇勢力が保有する鉄砲を見かけていたかもしれないが、軍事的脅威と感じられるほどのインパクトはなかったので、それに焦点をあわせた用語も生まれなかった。朝鮮が危惧していたのは、中国起源の従来型火器である火砲が、明や朝鮮の国家による占有を破って、倭寇勢力や日本へ流出することであった。しかしその間、戦国動乱さなかの日本列島に伝来した新兵器鉄砲が、軍事に特化した社会のなかで、技術改良が重ねられ、また組織的利用法が鍛えあげられ、やがて壬辰倭乱において明や朝鮮にとって恐るべき軍事的脅威となった。両国は鉄砲を「鳥銃」と呼び、鹵獲した鳥銃や日本軍の捕虜から、鉄砲を駆使した軍事技術をけんめいに摂取しようとした。The purpose of my present article is to reply to the article of Udagawa Takehisa that appeared in issue 190 of this journal with the title "Another Study of the Introduction of Guns to Japan: As a Counter-argument to the Criticism of Dr. Shōsuke Murai". In my article I examined Udagawa's theory that says, "wakō-pirates introduced and gradually distributed muskets to several places in Western Japan". During my examination of his arguments based on the historical sources I came to the following three conclusions.First, the often repeated statement of the author that says, "Murai states that the introduction of muskets was a direct encounter with the European world", is a misunderstanding of that what I stated in fact in my article. Second, I agree with the author that it is not necessary to think about the year 1542 (or 1543) and the island Tanegashima as the only possible time and place for the introduction of muskets, and that it is possible that wakō-pirates also played a part in the introduction of muskets in other different ways. Still, the problem is that the author does not provide concrete examples or evidences for possible alternatives based on the historical sources that would support this argument. Third, the author's theory, according to which he is interpreting "huopao / hwap'o 火砲(炮) (cannon)" - a word that can be seen in the Chinese and Korean sources in the 1540-50s- as "musket", is a mistake. Therefore, it is not possible to discuss the introduction of musket based on this theory.Based on these conclusions, I examined the following question: What was the relationship between those muskets possessed by wakō-pirates after the middle of the 16th century and the muskets used by the Japanese army during the war in the East Asian world at the end of the 16th century (the so called Imjin war)?It is possible that Koreans saw the muskets of wakō-pirates before the Imjin war, but these muskets had probably no impact on them, and the Koreans did not feel yet the threat of muskets at that time. Therefore they did not create a special word for musket. Rather, Koreans felt apprehension that "huopao / hwap'o (cannon)", the conventional firearms of Chinese origin would flow out from Korea or China into the hand of wakō-pirates or Japanese.But during the following years, musket, the new weapon introduced to Japan in the midst of the disturbances of the Warring States period, underwent several technical improvements in the Japanese society that was characterized by continuous wars. Further, with the time Japanese soldiers became also perfectly trained in the use of musket in organized groups. Thus, musket soon became a fearful military menace to Ming China and Chosŏn Korea during the Imjin war. Both countries called musket "niaochong / choch'ong 鳥銃 (fowling piece)" and both of them eagerly tried to learn the military technique of muskets from captured Japanese soldiers and the confiscated "fowling pieces".
著者
青木 隆浩
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.197, pp.321-361, 2016-02

本稿では,明治時代から1980年代までの長期にわたり,日本における美容観の変遷とその原因をおもに化粧品産業の動向から明らかにしたものである。そのおもな論点は,明治時代以降の美容観が欧米化の影響を受けながらも,実際に変化するには長い時間がかかっており,欧米化が進んだ後でも揺り戻しがあって,日本独自の美容観が形成されたということであった。まず,明治時代といえば,白粉による白塗りと化粧品の工業製品化による一般家庭への普及がイメージされるが,実際には石鹸や化粧水,クリームといった基礎化粧の方がまず発達していったのであり,メイク方法は白粉をさらっと薄く伸ばす程度のシンプルなものだった。口紅やアイメイクに対する抵抗感は,現在から考えられないほど強かったため,欧米の美容観はなかなか受容されなかった。1930年代に入ってから,クリームや歯磨,香油などの出荷額が伸びていくが,第二次世界大戦による節制と物品税の大増税によって,すぐに化粧をしない時代に戻っていった。その後,1960年前後までの日本の女性は,クリームや化粧水による基礎化粧はするものの,メイクはほとんどしなかった。欧米型のメイク方法は,1959(昭和34)年におけるマックスファクターの「ローマンピンク」キャンペーンと1960(昭和35)年におけるカラーテレビの放送開始を契機として,普及し始めたと考えてよい。とくに1966(昭和41)年からそのキャンペーンにハーフモデルを起用して成功を収めたことが,ハーフモデルの日焼けした肌と大きな目に憧れる結果となって,欧米型のメイクが普及する大きな要因となった。ところが,1970年代の初めにハーフモデルを起用した日焼けの提唱がいったん終わり,その後,日本の美が見直されていくことになる。さらに,1980年代に入ると自然派志向やソフト志向が顕著となり,その中でアイドルタレントが化粧品のプロモーションに起用されるようになると,日本独自の自然でソフトな女性像,つまり1980年代の「かわいらしさ」のイメージが形成されていった。This article examines the trends of the Japanese cosmetics industry from the 1870s to the 1980s to reveal the changes in the Japanese sense of beauty and their causes. The results consist of two main findings: (i) after the Meiji period (1868-1912), the Japanese sense of beauty was affected by westernization but changed very slowly; and (ii) the westernization was followed by a backlash, resulting in the creation of a new sense of beauty unique to the Japanese.It is generally considered that in the Meiji period, cosmetics were commercialized and became popular among ordinary women and they started to powder their faces. In actual fact, however, skin care products such as soap, skin lotion and cream were developed earlier. Japanese women preferred simple makeup and thought light powdering was enough. Their reluctance to wear lipstick and eyeshadow in those days was much stronger than we can imagine today; therefore, it was difficult for them to accept the western sense of beauty.In the 1930s, the sales of skin cream, toothpaste, and scented oil products expanded; however, soon all the cosmetics products disappeared from the market due to the frugal habits and drastic commodity tax hikes during the Second World War. From after the war until around 1960, Japanese women used skin care products such as skin lotion and cream but hardly wore makeup.Western-style makeup techniques began to penetrate into Japan through the Roman Pink Campaign of Max Factor starting in 1959, also receiving a nice tailwind from the start of color TV broadcasting in 1960. In 1966, the advertising campaign starred a half-Japanese model, which resulted in a huge success. Many women admired her light suntanned skin and big eyes. This served as a great impetus for the spread of western-style makeup techniques.However, once the campaign starring the half-Japanese model with light suntanned skin finished in the early 1970s, Japanese women reviewed their sense of beauty once again. In the 1980s, when a desire for the soft, natural look became prominent and pop stars started to appear in cosmetics advertisements, the Japanese shaped their own unique image of female beauty that was soft and natural by emphasizing "cuteness" in the 1980s.
著者
藤尾 慎一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.1-77, 1990-03-10

Included in the earthenwares in the period when the paddy farming was started in Japan is a ware with incised plastic band. The representative pottery of this kind is a jar type pottery (a cooking tool) found mainly in the Western Japan, west of the districts along the Ise Bay. As the distinctive features, it is a deep bowl, and has incised patterns: the plastic bands are adhered at the mouth and the outer surface of its body, and then the plastic bands are incised using a finger or spatula. This is a pot positioned at the transition period from the Jômon period of the culture of gathering and hunting to the Yayoi period of the culture of paddy farming. When dealing with the issues of the transition period, it is quite important where to position this ware. For example, when the division of the times is discussed, such as when the Yayoi period starts, a different conclusion may be drawn depending on the assumption whether this ware is regarded to belong to the Jômon pottery or this ware is regarded to belong to the Yayoi pottery. The western Kyûsyû (Fukuoka Prefecture, Saga Prefecture, Nagasaki Prefecture, Kumamoto Prefecture and Kagoshima Prefecture) is known as the district where the paddy farming had been started in the first place. It is an important fundamental work to put in order the chronological researches on the wares with incised plastic band found in these districts in order to carry on the studies on the start of the Yayoi period.In this paper, attentions were given to the decorative patterns on the mouth and on the body of the jar and six forms were set up. Then, each form was classified into 5 types based on the six attributes (a method to incise patterns, positions to adhere the pastic band around the mouth, the form of the pots, the sizes or the clay bands at the mouth and on the body, surface adjustment of pots and clay band adjustment). As a result, the beginning and the end of the first half of the Yayoi period (approx. BC400~BC100) can be divided into five stages. Period I: a period the pottery with the incised plastic band was born and spread; the pottery of this kind appeared in the Western Kyûsyû under the influence of the Setouchi and Kinki districts. On that occasion, Nijô-kame unique to this district was born.Period II: Nijô-kame born in the Western Kyûsyû appeared also in the Setouchi and Kinki districts. Based on this phenomenon, it can be assumed that the paddy farming had been started even in the Setouchi and Kinki districts.Period III: Itaduke-Ongagawa wares were born in the coastal districts of the Genkai-nada in the Western Kyûsyû (the district from Karatsu-city, Saga Prefecture to Fukuoka-city, Fukuoka Prefectute) and the distribution was expanded. In some regions of the Western Japan from Kyûsyû to Kinki district, the pottery with the incised plastic band almost disappeared, but continued in other regions.Period IV: In the Setouchi district where the pottery with the incised plastic band had disappeared in the period III, the pottery with the incised plastic band reappeared.Period V: The style of the pottery of this period onward developed further based on the patterns of potteries born in the various regions, as a result of the interchanges of the pottery with the incised plastic band born in the period I and Itaduke-Ongagawa wares born in the period III.It is possible to vividly reproduce the circumstances how the Yayoi culture, a period of the agriculture unique to Japan, was born and developed in the dissension of the culture introduced from the Asian Continent and the conventional Jômon culture, if the pottery with the incised plastic band is confrontally positioned with the pottery of Itaduke-Ongagawa wares.
著者
黒田 篤史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.202, pp.225-242, 2017-03

柳田國男の記念碑的著作『遠野物語』の一一二話に考古学的な記述があることは、これまであまり注目されてこなかった。本稿はこの『遠野物語』一一二話の成立過程とその背景を明らかにすることで、柳田國男の考古学的関心について考察するものである。『遠野物語』の成立に最も深く関与しているのは、話者である佐々木喜善の語りである。本稿では、一一二話に何が記されているのかを紐解いた後、佐々木の語りの原形を探るため、彼が少年時代に採集した考古遺物のリストである『古考古物號記』を読み解いた。そこには、佐々木が主に地元で採集した遺物の地点やその形状などが記されていて、一一二話の内容と大まかに一致する。また佐々木が後年著した「地震の揺らないと謂う所」にも考古学的記述があり、佐々木が柳田に一一二話の元になる話を語った意図を見出すことができた。このように佐々木の語りの原形を明らかにしていくことで、佐々木の語りの意図は必ずしも『遠野物語』一一二話に反映されていなかったことが見えて来た。このズレを生んだのは、柳田の意図が介在したためである。柳田の意図はどこにあるのか、佐々木に聞き書きを行っていた頃に柳田によって著された「天狗の話」や「山民の生活」に、その答えを見出すことができた。柳田は鎌倉時代頃まで少なくとも東北地方には先住民にあたる「蝦夷」と「日本人」は隣接する地域に併存していたという先住民観を持っていた。そうした考え方が『遠野物語』一一二話に色濃く顕れていることが、これらの文献を比較することで明らかとなった。本稿の検討から、柳田の考古学的関心は、日本人と先住民の関係を探るために寄せられていたことがより明白となった。