著者
小泉 和子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.63-78, 1995-03-31

「歴博本江戸図屏風」の右隻第五扇と六扇の下部に人形を並べた家が描かれているが、この家は人形店であること、しかも並べてあるのは当時、幼児の疱瘡除けとして使われた土人形か張り子の赤物であるということがよみとれる。この場所は浅草寺の門前通りであると判定されるが、この地域は江戸時代から近代に至るまで人形産地であった。このことは貞享四(一六八七)年の『江戸鹿子』をはじめとして幾多の地誌類によって確認される。しかも当初は素朴な土人形や張り子人形であって、後世のいわゆる雛人形とよぶ着付け雛にかわるのは一八世紀前期の享保年間からだという。するとこの情景は、素朴な人形として描かれていることからみてすくなくとも一八世紀にまで下がることはないだろう。浅草ではじまった赤物は、やがて武州の鴻巣で発展し、さらに練物で作られるようになって鴻巣名物となる。熊谷・川越・大宮・越谷・鴻巣など武州一帯では一七世紀中期すぎころから野間稼ぎとして雛人形の製造がはじめられていた。その中で鴻巣では一七世紀後期になると、この地域一帯で盛んになった桐簞笥製造の際、多量に出る大鋸屑を用いた練り物を開発し、好評を博すようになったのである。これは鴻巣は江戸との関係が密接であったため、おそらく早い段階から江戸の情報が入り、浅草を真似て赤物を製造していたからではないかと考えられる。ともあれ一七世紀中期すぎには鴻巣でも雛製造をはじめていたとすると、浅草はそれより早かった筈であるから、この場面は一七世紀中期以前ということになるのではないか。
著者
福田 アジオ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.195-227, 1992-03-31

本稿は、今回の研究計画の定点調査地の一つである静岡県沼津市大平において継続的な調査を行なってきた結果の報告である。個別地域の個性は、自らの地域の歴史認識によって大きく支えられ、あるいは形成されるものと予想しつつ、調査を行なった。人々の自分たちの社会に対する認識が歴史を作り出すと言ってもよいであろう。史実としての歴史だけでなく、意識される歴史、あるいは時には作り出される架空の歴史的世界も含めて、民俗的歴史世界を文字資料と現実の民俗事象の双方から追いかけることを意図した。幸いにして大平には前者の問題を究明するに適う年代記という興味深い人々の作り出した歴史書がある。大平を対象村落としたのも、この年代記が存在したからである。調査はこれを基点にして、その内容と現実の豊富な民俗との関わりを考察することに主眼を置いた。なお、大平の民俗については、本調査とほぼ同じ時期に並行して別の調査が実施され、民俗誌の形式での調査報告書が刊行されている(静岡県史民俗調査報告書『大平の民俗』)。本稿では、それとの重複をできるだけ避けて、大平の民俗的な特質を把握すべく内容を絞ったので、大平の具体的な民俗については網羅的には記述していない。大平の民俗的特質は以下のように理解することが可能であろう。大平の開発過程とその後の狩野川との戦いの連続が、大平の現在まで伝承されてきた民俗を作り出したと言えよう。道祖神祭祀自体は駿東から伊豆に大きく展開しているものであり、大平もその分布地域内の一村落に過ぎない。また道切り行事も全国的に行なわれているもので珍しいものではないし、大平のように札を笹竹に挟んで立てることもごく一般的な姿である。しかし、その道祖神祭祀や道切り行事を夏に重点を置いて行なっているのは必ずしも一般例とは言えない。大平が開発形成過程で背負った条件がこのような特色ある領域をめぐる民俗を作り出し、維持させてきたものと理解できる。そして、その歴史の重みが現在なお近隣の諸村落では見ることのないほどの熱心さでこの二つの民俗を保持しているのであろう。
著者
鈴木 映里子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.115, pp.7-38, 2004-02-27

本稿は原典史料の検討を中心とした史料論的考察である。千葉県東総地域を舞台に活動した農村指導者大原幽学、彼に関する研究はその多くが『幽学全書』『幽学全集』に依拠してなされてきた。しかしまたそのことが要因として事件発生時期の事実誤認や、読み違いがあることも指摘されてきている。刊行から半世紀を過ぎてなお、幽学研究に大きな影響を及ぼすこの「聖典」を、その収録著作類を点検することで、底本としての「全書」「全集」が刊行されてから抱える問題を僅かでも明らかにすることが本稿の目的である。これまで俎上に載せられることが稀であった「奉行所本」とよばれる稿本類が再発見された。関東取締出役の手先が、幽学の教導所である改心楼に押し入るという「牛渡村一件」が起こったのが嘉永五年四月、幽学と門人たちが銚子本城村で関東取締出役の吟味をうけた後、上部機関である勘定奉行所に差出になり、幽学が召喚されて出府したのが嘉永五年十月である。この召喚の際に証拠書類が提出された。判決が下った安政四年には返却され村に持ち帰られたと思われる。そしてそのうちの数点が特別にまとめて残され現在まで伝わってきたのである。幽学の門人たちをして、もっとも重要な書類と認識された自筆稿本、それが奉行所本である。つまり幽学の核をなす基礎資料ともいえるものである。『幽学全書』『幽学全集』にも収録されているこれら史料を、奉行所本九冊と現存する遺稿を含め、再度検討し現在の視点でその成り立ちを捉えなおしてみたいと思う。This paper is an examination of historical documents based predominantly on primary sources. Most research on the subject of OHARA Yugaku, an agrarian leader who was active in the Toso region of Chiba Prefecture, has been based on "Yugaku Zensho" and "Yugaku Zenshu," collections of his works. However, as has been pointed out, this has been a factor in misconceptions and misinterpretations concerning the true facts surrounding the time of Yugaku's capture by Edo authorities.The purpose of this paper is to shed even a little light on the problems faced since the publication of Yugaku's "Zensho" and "Zenshu" as source books by checking the works recorded in these "sacred books" that today, some 50 years after their publication, have a huge effect on research on Yugaku.The manuscripts referred to as the "Bugyosho-hon," that have over the years been taken up for discussion only rarely, have been rediscovered. The Ushiwata Village Incident, when agents of the Kanto authorities forced their way into Kaishinro, Yugaku's education center, occurred in April 1852, and after undergoing investigations by the Kanto authorities in Choshi Honjo village Yugaku and his disciples were sent to the magistrate's office, a higher authority. Then in October that same year Yugaku was summoned to the Edo capital. Evidential documents were submitted at the time of this summons. It is believed that Yugaku took these documents with him back to the village he returned to when the magistrate's decision was handed down in 1857. And it is a number of these documents that have been specially put together and handed down to the present day. The personal writings of Yugaku, which would have been recognized by Yugaku's disciples as most important documents, are collected in what is known as the Bugyosho-hon. In other words, they are fundamental materials that form the core of Yugaku's beliefs.Thus, the objective of this paper is to form a new understanding of the course of events surrounding Yugaku's capture by authorities from a present-day perspective through a re-examination of the nine volumes of the Bugyosho-hon, which are also recorded in Yugaku Zensho and Yugaku Zenshu, and extant papers and documents.
著者
宮本 一夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.151, pp.99-127, 2009-03-31

夫余は吉長地区を中心に生まれた古代国家であった。まず吉長地区に前5世紀に生まれた触角式銅剣は,嫰江から大興安嶺を超えオロンバイル平原からモンゴル高原といった文化接触によって生まれたものであり,遼西を介さないで成立した北方青銅器文化系統の銅剣であることを示した。さらに剣身である遼寧式銅剣や細形銅剣の編年を基に触角式銅剣の変遷と展開を明らかにした。それは吉長地区から朝鮮半島へ広がる分布を示している。その中でも,前2世紀の触角式鉄剣Ⅱc式と前1世紀の触角式鉄剣Ⅴ式は吉長地区にのみ分布するものであり,夫余の政治的まとまりが成立する時期に,夫余を象徴する鉄剣として成立している。前1世紀末から後1世紀前半の墓地である老河深の葬送分析を行い,副葬品構成による階層差が墓壙面積や副葬品数と相関することから,A型式,B型式,C・D型式ならびにその細分型式といった階層差を抽出する。この副葬品型式ごとに墓葬分布を確かめると,3群の墓地分布が認められた。すなわち南群,北群,中群の順に集団の相対的階層差が存在することが明らかとなった。また,冑や漢鏡や鍑などの威信財をもつ最上位階層のA1式墓地は男性墓で3基からなり,南群内でも一定の位置を占地している。異穴男女合葬墓の存在を男性優位の夫婦合葬墓であると判断し,家父長制社会の存在が想定できる。A1式墓地は族長の墓であり,父系による世襲の家父長制氏族社会が構成され,南群,北群,中群として氏族単位での階層差が明確に存在する。これら氏族単位の階層構造の頂点が吉林に所在する王族であろう。紀元後1世紀には認められる始祖伝説の東明伝説の存在から,少なくともこの段階には既に王権が成立していた可能性が想定される。夫余における王権の成立は,老河深墓地の階層関係や触角式銅剣Ⅴ式などの存在から,紀元前1世紀に遡るものであろう。沃沮は考古学的文化でいうクロウノフカ文化に相当する。クロウノフカ文化の土器編年の細分を行うことにより,壁カマドから直線的煙道をもつトンネル形炉址,さらに規矩形トンネル形炉址への変化を明らかにし,いわゆる炕などの暖房施設の起源がクロウノフカ文化の壁カマドにある可能性を示した。さらにこうした暖房施設が周辺地域へと広がり,朝鮮半島の嶺東や嶺西さらに嶺南地域へ広がるに際し,土器様式の一部も影響を受けた可能性を述べた。こうした一連の文化的影響の導因を,紀元前後に見られるポリッツェ文化の南進と関係することを想定した。
著者
山本 光正
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.165-181, 2003-10-31 (Released:2016-03-29)

近世の旅に関する研究は大きく分けて、旅における行動・見聞及び交通の実態を明らかにしようとするものと、社寺参詣そのものに重点を置き民衆の信仰を明らかにしようとするものがある。これらの研究はいずれも史料の関係から男性を中心としたものであったが、女性史研究の活発化に伴い、女性の旅についても研究成果が発表されるようになった。旅の研究は旅日記を主な素材として行われるが、女性の場合旅日記を書くことができるのは相当の教養を身につけた階層であるため、庶民女性の旅の実態をみることは困難である。女性の旅全般について把握するには、旅日記以外の史料の発掘が課題といってよいだろう。既に宿坊の台帳類や、供養塔等の石造物を利用した研究も行われているが、本稿では納経帳と絵馬によって女性の旅の一端を述べてみた。納経帳は千葉県市原市の万光院に同市勝間の茂手木氏が奉納したもので、同家の先祖「とら」が寛政七〜八年にかけて、西国・坂東・秩父の観音霊場及び四国八十八ヶ所を巡ったものである。納経帳は「とら」の足跡を追うことしかできないが、女性が一人でこれだけの旅をしたことは注目される。絵馬は信州の善光寺に参詣した女性達が千葉県岬町の清水寺に奉納したもので、明治から大正まで年代不明も含めて二六点が確認されている。図柄や墨書から旅のコースや参拝の様子・同行者の地域・名前を読みとることができる。絵馬は近代のものだが、近世においても同様の旅が行われていたと考えられる。納経帳・絵馬共に旅日記に比較すると情報量は少いが、これらのデータを蓄積することにより、近世における女性の旅の実態を明かにしていくことができるであろう。 Research on early modern travel can be divided into two main kinds. One seeks to clarify the actual forms of behavior, experience, and transportation related to travel, while the other attempts to clarify popular religious beliefs by focusing on temple and shrine pilgrimage as such.For reasons of research materials, both approaches have tended to focus on men. With heightened interest in research on women's history, however, the body of research on travel by women has now started to grow. While travel research typically relies on travel diaries as its principal source of materials, travel diaries by women are written only by women of considerable education, hence class, making it difficult to observe the actual forms of travel by commoner women.Clearly the effort to grasp travel by women as a whole makes the discovery of materials other than travel diaries a pressing concern. Some research has made use of registries from temple inns (shukubo) and statuary such as devotional pagodas (kuyoto). This study relies on a votive scripture ledger (nokyocho) and votive tablets (ema) to reveal a facet of travel by women. The ledger was offered to Mankoin Temple in Ichihara City, Chiba Prefecture, by the Motegi family (Katsuma, Ichihara City) and records the journey made by the family's ancestor "Tora" who visited the Kannon spiritual sites in Shikoku, Bando, and Chichibu and made the eighty-eight site Shikoku pilgrimage. The ledger only enables us to trace the footsteps of Tora, but the fact that a single woman could make such a journey deserves attention. The twenty-six votive tablets dating from the Meiji and Taisho periods, on the other hand, were offered to Kiyomizudera Temple in Misaki, Chiba Prefecture by women who had made a pilgrimage to Zenkoji in Shinshu. From the images and inscriptions on the tablets, we know the course they traveled, details of their pilgrimage, and their names and regions of origin. Although the tablets date from the modern period, it is believed that women in the early modern period conducted similar journeys.Votive ledgers and tablets do not provide the quantity of information available from travel diaries. Nonetheless, with the accumulation of information contained in such materials it should be possible to clarify further the nature of travel by women in early modern Japan.
著者
朴澤 直秀
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.112, pp.487-499, 2004-02-27

寺元とは、特定寺院に子弟を入寺させる権利、ひいては特定寺院の住職の任免権及び寺院の支配権、そしてその権利をもった家(ないしはその当主)のことを指す。本稿では、山城国和束郷石寺村の霊照寺、大和国広瀬郡山坊村の金勝寺など、在地寺院の寺元の事例を数例検討した。在地寺院の寺元には、特別な身分的条件はなかったと考えられる。また、寺元慣行を有する在地寺院には、寺元家の菩提寺のみならず、宮寺や、広く宗判檀家を持つ寺院も含まれた。そして寺元慣行と特定宗派との関係は見出せない。近世の寺元慣行は、大和を中心に畿内においてみられるものである。その背景には、一つには、興福寺を中心とした中世以来の寺元慣行の(在地寺院への)影響があるのではないか。また、寺院の本末組織への編成の徹底度や、本寺・触頭等による寺院支配の貫徹度の相違が、他地域との、寺元慣行の有無と相関しているのではないかと考えられる。
著者
佐藤 孝雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.107, pp.119-165, 2003-03-31

For an archeologically discussion of the establishing process of Ainu's animal cult, including the “sending-off” ceremony for bears, it is first necessary to investigate modern Nusa sites, places where outdoor sacred altars were built, that have ethnographic information available and to organize the characteristics and remains of animals there so as to compare them with other archaeological evidence. However, only a few attempts have been made for Nusa sites in the mountains, far from an Ainu settlement, called a kotan. In particular, the species and characteristics of animal remains at a kotan's Nusa site important due to its relationship with the “sending-off” ceremony for reared bear cubs, called an iomante, have effectively not been studied.As far as I know, the Nijibetsu Shuwan Kumaokriba Site in Shibecha-town, east Hokkaido, is the only remains that is appropriate for the investigation of animal remains. The History Study Group of the basin of the River Kushiro excavated the Kumaokuriba Site in 1976 and 1978 with an about 5mm mesh sieve for collecting fine samples, and recovered over 18,000 pieces of animal body fragments from the Site, it is said that Mr. Kotaro Hashibami, a neighbor of the Site, sent off 200-300 bears from late 19th century (early Meiji era) to 1939 at the site, which is also famous for being the site of the last iomante (December 1939) that was observed by Dr. Takemitsu Natori and his colleagues. However, although these animal remains have a high academic significance, they have not been analyzed in detail.I scrutinized the animal body remains between December 1996 and January 1998. As a result, a statement of the details and characteristics of the animal body remains can be summarized as follows:・ The excavated species were 15 in total including wild animals such as brown bear (Ursus arctos yesoensis), fox (Vulpes vulpes schrencki), river otter (Lutra lutra), sable (Martes zibellina brachyura), deer (Cervus nippon yesoensis), Blackiston's fish owl (Ketupa blakistoni), and large eagles (Haliaeetus sp.); as well as boar (Sus scrofa, of course, which has a possibility of pig) and domestic animals such as dog (Canis familiaris), sheep (Ovis domesticus), cattle (Bos taurus), and horse (Equus caballus), which originally did not inhabit Hokkaido and is unknown as a cult object.・ At least 59 mandibular bones of brown bears were detected, including 11 cubs (<2 years old) that are the objects of the iomante. Beside, bones of extremities, those of trunks, which are rarely observed at rock shelter Nusa sites in the mountains, were also found, though their quantity was lower than 30 % of the mandibular bones on a population basis.・ Cranial bones were more marked in the excavated bones of small terrestrial animals (rabbit, fox, river otter, and otter) than in those of brown bears. One hundred, 49, and 7 mandibular bones of rabbit, fox, and river otter, respectively, were found. Small amounts of bones of extremities and trunks that were derived from one individual had been excavated. Moreover, only 3 sable mandibular bones were found; no sable otter bones were observed.・ The deer specimens were derived from only 2 individuals; this may be attributable to the hunting with bow or trap, and hunting by chasing animals being banned in the early Meiji era, and a reduced population size due to heavy snowfalls.・ The Blackiston's fish owl specimens obtained were derived from at least 3 individuals, with nearly entire body pars being excavated. These findings indicate the possibility of a “sending-off” ceremony for owls, something that is poorly researched in ethnographic information, and will be valuable for archeological study of the establishing process of that ceremony.
著者
山田 慎也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.95-112, 2015-02

本稿では,徳島県勝浦郡勝浦町のビッグひな祭りの事例を通して,地域固有の特徴ある民俗文化ではないごく一般的な民俗が,その地域を特徴付けるイベントとして成功し,地域おこしを果たしていく過程とその要因について分析し,現代社会における民俗の利用の様相を照射することを目的としている。徳島県勝浦町は,戦前から県下で最も早くミカン栽培が導入され,昭和40年代までミカン産地としてかなり潤っていたが,その後生産は低迷し,他の地方と同様人口流出が続いていた。こうしたなかで,地域おこしとして1988年,ビッグひな祭りが開催され,途中1年は開催されなかったが,以後現在まで連続して行っている。当初役場の職員を中心に,全国で誇れるイベントを作り出そうとして企画され,その対象はおもに町民であった。しかも雛祭り自体は勝浦町に特徴あるものではなく,また地域に固有の雛人形を前面に出したわけではない。各家庭で収蔵されていた雛人形を,勝浦町周辺地域からあつめて,巨大な雛段に飾ることで,イベントの特性を形成していった。さらに,町民が参加するかたちで,主催は役場職員から民間団体に移行し,開催会場のために土地建物を所有する。こうして民間主催のイベントにすることで,行政では制約が課されていたさまざまな企画を可能とするとともに,創作的な人形の飾り方を導入することで,多様な形態での町民の参加が可能となり,その新奇性からも町内外の観覧者を集めることに成功した。そして徳島県下から,近畿圏など広域の観光イベントとして成長していった。さらに,このノウハウとともに,集まった雛人形自体を贈与し,地域おこしを必要とする全国の市町村に積極的に供与することで,全国での認知も高まっていった。こうした状況を生み出す背景となったのは,実は戦後衣装着の人形飾りを用いた三月節供の行事が全国に浸透し,大量に消費された雛人形が各家庭で役目を終えたままとなっているからであり,それらを再利用する方法がみいだされたことによる。さらに自宅で飾られなくなった雛人形を観光を通して享受していくという,民俗の現在的な展開をも見て取ることができる。This article aims to reveal how folk customs manifest themselves in the modern society. To this end, the Big Hina-doll Festival in Katsuura Town, Katsuura District, Tokushima Prefecture, is used as a case study to analyze how and why a folk custom has developed to an event that represents and revitalizes a community even though it is not original or indigenous to the community.Katsuura Town, Tokushima Prefecture, was the first town in the prefecture to start orange cultivation before World War II and prospered as an orange-growing town until around the late 1960s to the early 1970s. Then, with the decline of orange cultivation, the town, like so many others, suffered depopulation. Against this backdrop, the Big Hina-doll Festival was held to revitalize the town in 1988, since when it has been held annually up to the present time except for one year. This was originally designed for town people and led by the town office staff who aimed to make it a nationally recognized festival. Although neither hina-doll festival nor hina dolls were unique to the town, the event distinguished itself by displaying a great number of hina dolls collected from households in and around the town on a huge red-carpeted staircase.Then, with more town people joining the management, the festival was transferred from public to private hands, and a private association possessed premises as a venue for the festival. Thus, by privatizing the festival, a variety of limitations due to being a public event were removed. Moreover, the adoption of new creative ways of displaying hina dolls enhanced the flexibility for town people to participate in the festival. This novelty drew a large audience from in and around the town, and the festival gradually grew to an event that attracted tourists from all over the prefecture and the Kinki Region. Furthermore, the town increased the national recognition of the festival by providing its knowhow, as well as collected hina dolls, for municipalities requiring revitalization programs all over Japan.The reason behind this success was because the festival was recognized as a new opportunity to reuse hina dolls which had spread throughout the country since the end of World War II along with the custom of the Girls' Festival in March and then been packed away at households as their daughters grew up. This also reflects the contemporary development of folk customs that hina dolls are shared through tourism after they were no longer used at home.
著者
荒木 敏夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.179, pp.295-311, 2013-11

古人皇子は,舒明天皇の皇子であり,母は蘇我馬子の娘の蘇我法提郎女である。本稿は,こうした存在の古人皇子を,これまで明らかにされてきた7世紀の王権の制度的事実を踏まえて,その歴史的位置を確かめてみるものである。その結果,1,古人皇子は,「ミコノミヤ(皇子宮)」を所持していることが確実視でき,古人皇子「謀反」事件の史料を検討することで,「古人皇子宮」に近侍する〈ウジビト〉として蘇我田口臣氏・倭東漢氏らを想定することができ,また,「古人皇子宮」の中核的構成員である〈トネリ〉も確かめることができる。2,古人皇子は,古人「大市」皇子とも呼ばれることに着目し,検討を加えた結果,古人皇子は,大和国城上郡大市郷と関わり,そこには古人皇子の「ミコノミヤ(皇子宮)」そのものか,「ミコノミヤ(皇子宮)」の家産体制を支える重要な生産基盤が存在したと考えられる,また,大市郷を本貫地とする渡来系氏族の「大市」氏との関わりも深くもっており,「大市」氏は,古人皇子の養育氏族と考えることができると思える。The father of Prince Furuhito no Oe was the Emperor Jomei, and his mother was Soga no Hohote no Iratsume, daughter of Soga no Umako. This paper focuses on Prince Furuhito no Oe and his illustrious background, and verifies his historical position in the light of the now more clearly understood history of the royal throne in the 7th century.The results show the following points:1. It is almost certain that Prince Furuhito no Oe owned miko no miya (temporary residences); examination of historical records of the rebellion by Prince Furuhito no Oe allowed us to assume that the Soga no Taguchi no Omi clan, and Yamato no Aya clan were ujibito (clan members), retainers belonging to the miko no miya of Prince Furuhito no Oe, and confirmed the toneri (footmen), who were the core members of the miko no miya of Prince Furuhito no Oe.2. Focusing on the fact that Prince Furuhito no Oe was also called Prince Furuhito no Ochi, further examination was conducted; as a result, it can be considered that Prince Furuhito no Oe had a connection with Ochi Village in Shiki no Kami no Kori County, Yamato Province, and in the area the miko no miya of Prince Furuhito no Oe, or an important production base supporting the homestead system of the miko no miya existed. Moreover, he had strong links with the Ochi clan, a Chinese and Korean clan who used Ochi Village as their base, and it can be thought that the Ochi clan were supported by Prince Furuhito no Oe.
著者
田中 晋作
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.110, pp.163-186, 2004-02-27 (Released:2016-03-29)

今回のシンポジュウムで与えられた課題は,古墳時代の軍事組織についてである。小論の目的は,この課題について,今までに提示してきた拙稿をもとに,とくに,古墳時代前期後半から中期を対象にして,①古墳時代前期後半以降にみられる軍事目的の変化,②中期前半に百舌鳥・古市古墳群の被葬者集団による常備軍編成の可能性,③中期における軍事組織の編成目的について検討し,つぎの私見を示すことである。前期後半,それまでの有力古墳でみられた示威や防御を目的とした武器が,一部の特定古墳で具体的な武装形態を反映した副葬状況へと変化する。この変化は,既存有力古墳群でみられるものはなく,この段階で朝鮮半島東南部地域の勢力とそれまでにない新たな関係を結んだ新興勢力の中に現れるものである。中期に入り,百舌鳥・古市古墳群の被葬者集団によって,形状および機能が統一された武器の供給がはじまり,大規模な動員を可能とする基盤が整えられる。この軍事組織の編成を保障するために,両古墳群の被葬者集団の特定の人物もしくは組織のもとに,人格的忠誠関係に基づいた常備軍が編成される。さらに,武器の副葬が卓越する一部の古墳で,移動や駐留を可能とする農工具を組み込んだ新たな武器組成が生まれる。このような武器組成は,国内に重大な軍事的対峙を示す痕跡が認められないことから,計画的で,遠距離,かつ長期間にわたる軍事活動を視野に入れた対国外的な組織の編成が行われていたことを示すものである。以上の検討結果によって,古墳時代前期後半以降にみられる軍事組織の編成は,政治主体が軍事力の行使によって解決を必要とした課題が,それまでの対国内的な要因から,朝鮮半島を主眼とした対国外的な要因へと変化したことを示していると考える。 The given theme in this symposium is the archaeological analysis of military organization in the kofun period. The aim of my article is to investigate 3points of analysis from the latter half of first period to the middle period of the kofun era. The first point is the evolution of change of the organization and function of the military since the latter half of the first period. The second point of analysis concerns the ability to establish a standard army in the first half of the middle period by the developing political power whose members were later buried during in the Mozu-Furuichi cluster of mound tombs. The final point is the aim of organization in the middle period.In the latter half of the first period, the change in the burial procedure of weapons in tombs reflects the change in the aim and purpose of the demonstration of power and use of defense. This influence was also reflected in the condition of the armament itself. At that time, this change was brought about by newly-risen groups connecting with other groups located in the south-east region of the Korean peninsula.During the middle period the foundation for the large scale mobilization of armies was established through the supply of similarity equipped weapons. These were unified in function and form and supplied by the Mozu-Furuichi group. The standard army was controlled by the presiding organization or chief of this group and bound by a pledge of allegiance. The standard army would then guarantee the stability of the military organization.Further, a new composition of weapons included farm implements used in the transferring and stationing of armies appeared in some tombs which surpassed previously buried weapons. This composition of weapons indicates the existence of a military organization that has the ability for deliberate, long-distance and long-prolonged military action, if the circumstance at a given time did not include a serious military confrontation in the country.Through these investigations I hope to present the following conclusion. The focus of the military organization that was established since the latter half of the first period in the kofun era changed from internal to external, mainly regarding the Korean peninsula.
著者
齋藤 孝正
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.86, pp.185-198, 2001-03-30

日本における施釉陶器の成立は7世紀後半における緑釉陶器生産の開始を始まりとする。かつては唐三彩の影響下に奈良時代に成立した三彩(奈良三彩)を以て,緑釉と同時に発生したとする考え方が有力であったが,今日では川原寺出土の緑釉波文塼や藤原京出土の緑釉円面硯などの資料から,朝鮮半島南部の技術を導入して緑釉陶器が奈良三彩に先行して成立したとする考え方が一般化しつつある。なおこの時期の製品は塼や円面硯などの極僅かな器種が知られるのみである。奈良時代に入ると新たに奈良三彩が登場する。唐三彩は既に7世紀末には早くも日本に舶載されていたことが近年明らかにされたが,新たに三彩技術を中国より導入し成立したと考えられる。年代の判明する最古の資料は神亀6年(729)銘の墓誌を伴う小治田安万呂墓出土の三彩小壺であるが,その開始が奈良時代初めに遡る可能性は十分に存在する。奈良三彩の器形は唐三彩を直接模倣したものはほとんど見られず従来の須恵器や土師器,あるいは金属製品に由来するものが主体となる。ここに従来日本に存在しなかった器形のみを新たに直接模倣するという中国陶磁に対する日本の基本的な受け入れ方を見て取ることができる。奈良三彩は寺院・宮殿・官衙を中心に出土し国家や貴族が行なう祭祀・儀式や高級火葬蔵壺器として用いられた。なお,先の緑釉陶器の含め三彩陶器を生産した窯跡は未発見である。平安時代に入ると三彩陶器で中心をなした緑釉のみが残り,越州窯青磁を主体とする新たな舶載陶磁器の影響下に椀・皿類を主体とする新たな緑釉陶器生産が展開する。生産地もそれまでの平安京近郊から次第に尾張の猿投窯や近江の蒲生窯などに拡散し,近年では長門周防における生産も確実視されるようになった。中でも猿投窯においては華麗な宝相華文を陰刻した最高級の製品を作り出して日本各地に供給しその生産の中心地となった。The glazed pottery first appeared in Japan in the latter half of the seventh century, these were green-glazed pottery. Before it was strongly believed that Nara sants'ai began to be made with the introduction of the Chinese Tang sant'sai technique in the Nara Period at the same time with green-glazed pottery. But now it is generally believed that green-glazed pottery appeared in Japan before Nara sants'ai with the introduction of the green-glazed technique of the southern Korean Peninsula, by the green-glazed tiles excavated at Kawaharadera Temple and the green-glazed circular ink slab excavated at Fujiwara capital, these were in the latter half of the seventh century. Today it is known by the archeological excavation that Chinese Tang sant'sai was brought to Japan by the end of the seventh century.The oldest Nara sants'ai pottery is the small vase dated 729 excavated at Owarida-no-Yasumaro grave, but it is possible to have been made in the early Nara Period. The shapes of Nara sants'ai are derived mainly from Sue ware and Haji pottery, or metal works that were popular in Nara Period, but few are imitated directly from the Chinese Tang sant'sai. We can understand that the Japanese newly imitated directly only the shape of Chinese ceramics that was not in Japan. In the Heian Period, Yueh kiln celadon were imported from China, and these Chinese ceramics greatly influenced the manufacture of green-glazed pottery, that was the main glaze of Nara sant'sai, like bowls and dishes. The green-glaze technique spread from the surrounding areas of Heian capital to the Sanage kilns in Aichi prefecture, Omi kilns in Shiga Prefecture, Nagato kilns and Suo kilns in Yamaguchi Prefecture. The Sanage kilns was the main that produced the highest green-glazed pottery elegantly inscribed floral pattern.
著者
高橋 照彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.133-169, 1995-03-31

本稿は,平安時代における緑釉陶器生産の展開と終焉を検討対象とし,生産地の拡散過程・生産体制ならびにその歴史的背景について考察することを目的としている。緑釉陶器生産の盛衰過程は6段階に整理され,巨視的にみれば3度にわたる生産地の拡散が認められる。このうち,本稿は第2次拡散以降について検討を試みることにした。まず,第2次拡散期である9世紀中頃には,山城・尾張において基本的にその生産国内の技術により,国内の範囲で生産地拡散が行われる。この背景には,公的用途に限定されない需要の増大が推測され,9世紀前半からの緩やかな変質を認めることができる。その一方で,長門ではおそらく在地の生産基盤の薄弱さなどのために,他地域のように十分な生産の拡大は達成できなかったとみられる。この時期の緑釉陶器の生産体制としては,在地の生産組織に依拠しながらも中央の介在による共通規範の設定が行われていたものとみられ,国衙による生産過程への一定の関与が推測される。第3次拡散では,旧来の生産国を越えて丹波・美濃・近江・周防・三河などの新たな生産地が成立する。ここに9世紀的な3国による生産が崩れ,より一層の在地的展開が起こったことになる。ただし,生産体制としては従来から指摘のある荘園制的な新たな生産に転化したとは考えられず,それ以前からの延長的側面が残存していたと判断される。特に10世紀前半代には,近江窯の成立を初めとして9世紀代の緑釉陶器生産・供給体制を再現するために国家的に生産の再編が行われた可能性がある。11世紀前半代には,緑釉陶器生産がほぼ終焉を迎えることになる。この段階では緑釉陶器の需要が消滅したとは言えないため,終焉の背景としては生産側の要因がより大きかったと判断した。その一因としては原材料である鉛の不足も確かに重要であるが,規定的な要件はむしろ他の手工業生産にもわたるような国家的な変動の中で旧来的な生産が維持できなくなったという生産体制自体の変質に求められると考えた。平安期緑釉陶器生産は,奈良時代の中央官営工房による独占的な体制から,国衙が関与しつつ在地の窯業生産に依存する生産体制へと変容したことが大きな特質であった。そして,その生産は中世への萌芽的様相を見せながら変質していくが,最終的には国家的な後ろ楯なくしては存立できない古代的な生産体制に留まっていたために,在地に技術が根付かなかったものと結論付けた。
著者
西本 昌弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.134, pp.75-90, 2007-03-30

薬子の変については、藤原薬子・仲成の役割を重視してきた旧説に対して、近年では平城上皇の主体性を評価する見方が定着しつつある。これに伴い、「薬子の変」ではなく、「平城太上天皇の変」と呼称すべきであるとの意見も強くなってきた。しかし、平城上皇の主体性を強調することと、薬子・仲成の動きを重視することとは、必ずしも矛盾するものではない。私は前稿において、皇位継承に関する桓武の遺勅が存在した可能性を指摘し、平城上皇による神野親王廃太子計画について考察を加えた。私見によると、薬子の変もこの桓武の遺勅を前提とする神野廃太子計画と一連の動きのなかで理解することができると思われる。そこで研究史を振り返りながら、平城・嵯峨両派官人の動向に再検討を加え、薬子の変にいたる原因と背景について考察した。本稿の結論は以下の通りである。桓武天皇は死去のさいに、安殿・神野・大伴の三親王が各一〇ヶ年ずつ統治すべきことを遺勅したが、平城はこれを破って、第三子の高岳親王を皇位につけようとし、神野親王の廃太子を計画した。薬子の変の遠因は神野廃太子計画にも通じるこの皇位継承問題であり、平城の即位前後から平城派と嵯峨派の両派官人の対立ははじまっていたとみられる。神野の廃太子に失敗した平城は、三年ほどの治世で譲位した。これは嵯峨が一〇ヶ年統治したのち平城が数年間復位して、高岳への皇位継承をより確実にしようとの意図からであった。しかし、嵯峨が平城のこの提案を拒絶したため、平城は譲位したことを後悔しはじめ、嵯峨側との対立をさらに深めていった。薬子の変の直前には、平城派の官人が衛府や要衝国の国司に任じ、かつて北陸道観察使であった藤原仲成らが越前方面などで平城派の勢力拡大に努めていた。このため嵯峨側は弘仁元年(八一〇)九月、平城派官人の衛府や国司の任を解き、彼らを辺遠国に左遷するとともに、自派の官人で衛府と要衝国を固めた。また伊勢・近江・美濃三国の国府と故関に遣使して鎮固し、平城側の蜂起を未然に防ぐことに成功した。薬子の変では越前・近江・伊勢方面に勢力を扶植した仲成の活動が突出しており、平城の藩邸の旧臣の多くは平城に同調しなかった。変における平城上皇の主体性は否定できないが、薬子らの父種継の復権・顕彰が図られた事実や、薬子・仲成の係累が乱後も長く許されなかった事実を勘案すると、薬子・仲成がやはり中心的な役割を果たしていたことを認めない訳にはゆかない。平城上皇や薬子・仲成にとって、王都・王統に関する桓武の構想は否定すべきものであり、それゆえその遺命を無視して、高岳立太子を実現し、平城遷都を計画したのである。薬子の変は桓武の構想を肯定するか否定するかの戦いであったといえる。
著者
宮田 公佳
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.180, pp.209-229, 2014-02-28

博物館等に収蔵されている資料のみならず,撮影された資料画像あるいは調査研究の成果である報告書等もまた情報資源であり,これらの情報資源から抽出された情報が展示や新たな研究へと活用されている。情報資源を有効活用するためには,情報の抽出,処理,利用に関する手段が必要であり,画像情報や文字情報を個別対象とした先行研究が行われている。画像と文字は情報種別としては異なるが,果たすべき役割には共通点が存在するため,両者の特徴を融合することで相乗効果を発揮し,情報資源をより有効活用することができると考えられる。膨大な情報を有効活用する手段として,データベースが広く用いられている。一般的に,データベースは検索語の入力によって検索が行われるため,検索語に関する事前知識が必要となる。博物館等が提供するデータベースには専門的な用語が多く入力されているため,必然的に利用者には専門知識が要求されることになり,結果として専門家のためのデータベースとなりやすい。そこで本研究では,画像情報と文字情報とを融合させることで,専門的な事前知識の有無に影響を受けにくい情報活用手段としてのデータベース構築について議論する。対象資料は洛中洛外図屏風歴博甲本であり,描かれている人物に関して抽出された文字情報と,デジタル化された資料画像とをデータベースという形式で融合する手法を検討する。博物館展示では,資料解説等の役割を担うデジタルコンテンツが運用されることがあるが,本研究ではデータベースをデジタルコンテンツ化することで,利用者に対してデータベースであることを意識させないインタフェイス設計についても検討を行った。本論文における対象資料は一点のみであるが,情報活用手段を入力,処理,出力の三要素に分解することで一般化を試みており,類似資料の活用においても本論文におけるデータベース構築手法は応用可能である。
著者
小椋 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.297-317, 2003-03-31

日本の植生景観は,有史以来,特に植生への人間の関わり方により大きく変化しながら今日に至っている。それは,たとえば第二次世界大戦後に特に顕著なスギやヒノキなどの人工林の急速な拡大,あるいはここ30~40年ほどの間のマツ林の急激な減少などの森林の樹種的な変化もあるが,その他にも明治期以降における里山の森林樹高の変化,あるいは草原の減少などもある。本稿では,京都府の場合を例に,文献から明治期における植生景観の変化の背景を考察したものである。その結果,明治期における京都府内における植生景観の変化の大きな背景として,砂防事業の推進,山野への火入れ制限・禁止,植林の推進があったものと考えられる。そのうち,砂防については,明治4年以降に大々的な砂防事業が展開され,樹木の伐採や採草の制限・禁止などの措置がとられた。また,山野への火入れ制限・禁止も,森林の保護や拡大を主な目的としてなされ,それに対する規制は明治10年代よりかなり強くなっていった。また,明治初期より植林の奨励がなされ,それは山野への火入れ制限・禁止などで支えられることにより,明治後期にはしだいに盛んになっていった。これらのことにより,淀川流域の一部に存在したはげ山,農山村の採草地などとして存在した草原,あるいは燃料として利用された低木の柴地が減少していく一方,スギ・ヒノキを中心とした森林が拡大し,あるいは森林の樹木が高木化するなど,京都府内の植生景観に大きな変化が見られるようになったと考えられる。
著者
五味 文彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.119-141, 1992-12-25

現在、国立歴史民俗博物館に所蔵されている「六曲屏風」貼付け高山寺文書は鈴木茂男・山本信吉両氏により紹介されて以来、広く注目を集めてきたものであり、その後、石井進氏は関係文書(八条院関係文書群)を収集して、ほぼ全貌を明らかしている。しかしその性格をめぐっては未だ不明な部分も多く、また未紹介の文書も幾つか存在する。そこで本稿では本文書群の全体的な性格をとらえるべく、その年代比定を出来うる限り行ってみた。第一章では、正月付の文書が多く存在する点に着目して、それらが文治四年正月の文書であること、摂関時代の僧安然が唐に渡った最澄・空海らの請来した典籍を分類整理した『諸阿闍梨真言密教部類総録』の書写に料紙として利用されたものであることを指摘した。第二章では、藤原実清充ての文書が多い点に着目して、それらが養和元年・二年の文書であることを解明した。第三章では、元暦元年の年号のある文書が多い点から、元暦元年の文書を拾い集めてその性格を考え、それらが実清の子長経の保管に関わる文書であることを指摘した。第四章では、以上には即断できない文書をまとめて考え、それらが養和元年・二年か、元暦元年のものかに分類できることを見た。全体として、藤原長経が八条院の別当として関与したことによる文書が、この八条院文書群の基本的な性格であることがわかった。
著者
橋本 裕之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.80, pp.363-380, 1999-03-31

本稿は後世の人々が古墳をいかなるものとして解釈してきたのかという関心に立脚しながら,装飾古墳にまつわる各種の伝承をとりあげることによって,装飾古墳における民俗的想像力の性質に接近するものである。そもそも古墳は築造年代をすぎても,その存在理由を更新しながら生き続けるものであると考えられる。古墳は多くのばあい,今日でも地域社会における多種多様な信仰の対象として存在しているのである。といっても,こうした位相に対する関心は考古学の領域にとって,あくまでも周辺的かつ副次的なものであった。だが,後世の人々が付与した意味,つまり土着の解釈学を無知蒙昧な妄信にすぎないとして,その存在理由を否定してしまうことはできない。それは古墳にまつわる民俗的想像力の性質に接近する手がかりを隠しており,古墳の民俗学とでもいうべき未発の課題にかかわっている。とりわけ特異な図文や彩色を持つ装飾古墳は,その存在が古くから知られているばあい,民俗的想像力を触発するきわめて有力かつ魅力的な媒体であったらしい。本稿はそのような過程の実際をしのばせる事例として,虎塚古墳・船玉古墳・王塚古墳・重定古墳・珍敷塚古墳・石人山古墳・長岩横穴墓群(108号横穴墓)・チブサン古墳などにまつわる各種の伝承をとりあげ,民俗的想像力における装飾古墳の場所を定位する。こうした事例は考古学における主要な関心に比較して,あまりにも末梢的なものとして映るかもしれないが,現代社会における装飾古墳の場所を再考して,装飾古墳の築造年代以降をも射程に収めた文化財保護の理念と実践を構想するための恰好の手がかりを提供している。地域社会における装飾古墳の受容史を前提した装飾古墳の民俗学は,そのような試みを実現するためにも必要不可欠であると思われるのである。
著者
腮尾 尚子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.77, pp.101-139, 1999-03-25

十二支・十二支獣に関する俗信の一種に、江戸時代後期に盛んに行われた「七ツ目信仰」がある。これは、自己の生まれ年の十二支から七ツ目の十二支――子歳生まれなら午――の動物を絵像にしてまつると、幸運を授かる、という俗信である。この七ツ目信仰は、現在すっかり廃れ、そればかりか、かつて存在していたという事すら忘れられている状態である。このため、七ツ目信仰を題材とした江戸時代の文学・美術作品の解釈をするのに、支障が生じている程である。本稿では、江戸時代後期における七ツ目信仰の実態を、絵画資料も活用しつつ、紹介するという事に重点を置く。七ツ目の支獣は、一種の神であり、その加護を受けるために、前述の七ツ目獣の絵像の他、七ツ目獣をかたどった家具や小物なども用いられていた。当時、月日や方位を表す十二支についての吉凶説では、ある支とその七ツ目の支の組み合わせを、縁起の悪いものとして断じていた。七ツ目信仰は、このような吉凶説と根本的にくい違うものなので、人々の中には、なぜ七ツ目の獣を礼拝するのか納得のいかぬ者もいたようである。しかし、このような矛盾点を抱えていたにもかかわらず、七ツ目信仰は、特に安永・天明期を一つの山として流行した。七ツ目信仰が人気を集めた原因としては、時の人であった田沼意次が七ツ目獣を信仰していると噂されていた事が挙げられる。田沼家の紋は七星を表す[黒丸×7個の紋様]であるが、これが別名「七ツ梅(んめ)」と呼ばれており「七ツ目(め)」を人々に連想させ易い素地をもっていた。隆盛した七ツ目信仰の辺縁には、生年の支が七ツ違いである男女は相性がいいという俗説も新たに生まれた。七ツ目信仰は根拠不明の俗信にすぎないが、これがかつて社会現象ともいえる程のブームを形成した事を考えれば、文化史上、現状の如く看過ごされていてよいはずはない。
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.126, pp.3-31, 2006-01-31

近代化を目指し幕府によって進められた軍制改革は維新により頓挫するが、ある部分については後身である静岡藩に継承された。士官教育のための学校設立という課題が、沼津兵学校として静岡藩で結実したのは、まさに幕府軍制改革の延長上に生まれた成果であった。その一方、軍制のみならず家臣団そのものの大規模な再編を伴った新藩の誕生は、幕府が最後まで解決できなかった大きな矛盾である寄合・小普請という無役の旗本・御家人の整理を前提になされなければならなかった。静岡藩の当初の目論見は、家臣数を五〇〇〇人程度にスリム化し、なおかつ兵士は土着・自活させるというものであった。しかし、必要な人材だけを精選し家臣として残すという、新藩にとってのみ都合のよい改革は不可能であった。実際には無禄覚悟の移住希望者が多く、家臣数を抑えることはできなかった。移住者全員に最低限の扶持米を支給することとし、勤番組という名の新たな無役者集団が編成されたのである。静岡藩の勤番組は幕府時代の寄合・小普請とほぼ同じものと見なすこともできる。しかし、すでに幕末段階において寄合・小普請制度には数次にわたり改革の手が加えられ、変化が生じていた。本稿では、主として一人の旗本が残した史料によったため、彼の履歴に沿って具体的に言えば、小普請支配組→軍艦奉行支配組→海軍奉行並支配組→留守居支配組→御用人支配組といった流れになる。もちろん、彼とは違う小普請のその後のコースには、講武所奉行支配組、陸軍奉行並支配組などがあった。静岡藩勤番組はこのような過程の果てに誕生したのである。小普請改編は、文久期の陸海軍創設から幕府瓦解前までは、軍備拡張の一環として推進された。そのねらいは、無役・非勤者を再教育・再訓練し、その中からできるだけ実戦に役立つ人材を確保しようというものであった。鳥羽・伏見敗戦後から駿河移住までの間は、軍事目的というよりも徳川家の再生に向けた取り組みの一環であった。従来からの小普請に加え、廃止された役職からの膨大な転入者の受け皿になったほか、逆に朝臣になる者や帰農・帰商を希望する者を切り離すための作業もこの部署が行った。このような系譜の上にできあがった静岡藩の勤番組は、決してかつての寄合・小普請制度ではなかった。勤番組には旧高三〇〇〇石以上の一等、御目見以上の二等、以下の三等といった等級が設けられ、支給される扶持米も旧高に対応し多寡が決定されていたが、上に大きく下に小さく削られた結果、全体としては低レベルで平準化されていた。藩の官僚制度は役職とそれに対応した俸金にもとづく序列が基本となっており、幕府時代の身分・格式はほぼ解消された形になっていた。負の遺産たる無役家臣集団は、静岡藩でも温存されたが、在勤(役職者)と非勤(無役者)という二分は、幕府時代に比べるとより流動性の高いものとなっていたはずである。能力さえあれば職務に就くことができる可能性を文武の学校(静岡学問所・沼津兵学校)への進学が保証したからである。勤番組という処遇は、原理上、越えられない壁ではなくなっていた。ただし、藩が存続したわずかな期間ではそれを実証することはできなかったが。