著者
伊藤 美登里
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.316-330, 2008-09-30

U.ベックは,20世紀後半,とりわけ1970年代以降に顕在化した社会の構造変化を「再帰的近代化」としてとらえる社会学者の一人である.再帰的近代の主要局面として,リスク社会,グローバル化と並び,「個人化」があげられている.本稿では,ベックの個人化論を検討することで,個人化という用語でもって彼がどのような事態を表現しようとしたのか,個人化論の学説史上の意義は何か,個人化は概念として社会学においてどのような機能をもつのかを探る.<br>具体的には,まず,ベックの個人化論は,〈一般社会学概念〉としての個人化,〈時代診断〉としての個人化,そして〈規範的要請〉としての個人化の3つに分類可能であること,この3者のうち彼の主要関心事は〈時代診断〉としての個人化にあることを示す.次に,個別科学としての社会学が成立した時期の「個人」ないし「個人化」に比べ,彼の「個人化」においては,社会のさらなる分化の結果,個人は社会との関連づけの度合いが減少し,自己関連づけがより強化されたものとして描かれていることを示す.加えて,ドイツ社会学の実証研究において,個人化論は社会の構造変化にともなって生じた社会と個人の関係の変化,個人のあり方の変化を分析し考察する目的において,「理念型」と同様の機能を果たしうることを指摘する.
著者
野入 直美
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.67, no.4, pp.448-465, 2016

<p>本稿では, 沖縄本島中北部に位置する金武という地域に着目する. 金武町は, 沖縄の海外移民発祥の地であり, 沖縄の米軍基地の中でも危険度の高さで知られるキャンプ・ハンセンを抱える基地の町でもある.</p><p>金武はいかにして「海外雄飛の里」となり, また基地の町となったのか. 本稿では, 金武町における移民をめぐる地域アイデンティティの構築を, 移民送出期の歴史よりも戦後の地域再編成に着目して検討する. 沖縄の移民研究には, 戦後の沖縄社会が成り立ってきた過程の中に移民の議論を位置づけるものがほとんどない. 本稿では, 金武町の戦後の成り立ち, 地域アイデンティティの構築をめぐって, 移民と米軍基地がどのように関連しているのかを考察する. これは沖縄の移民を, 戦後の沖縄社会の成り立ちの中に位置づける試論である. また地域アイデンティティの議論に, 越境という要素を取り入れる試みでもある.</p><p>また, 本稿では, 戦前の金武村で暮らしたハワイ沖縄帰米2世と, 現代の金武町で育ったアメラジアンのライフヒストリーをとりあげる. 彼らの語りは, 移民送出期が終わった後の金武における多様な越境を照らし出す. 仲間勝さんと宮城アンナさんは, 2つの故郷を同時に生きる越境者として, 困難の中で仕事を立ち上げ, 模索を重ねて学んできた. そのとき, 彼らは期せずして, 地域アイデンティティの構築につながる関与を行っている. 本稿では, そのような関与に着目して越境者の生活史をとりあげる.</p>
著者
古城 利明
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.17, no.3, pp.39-54, 1967-01-30

It seems to be valid that the dispute about community power structure will end in the opposition of the competing conceptual schema of power elite versus pluralism. At the present stage of the dispute, the pluralist approach is getting the main current of those denying the dominance of a single elite and the pyramidical power structure, and perhaps the basis of its method is behavioral science. In this paper, I critically examine this approach from the viewpoint of the class approach. The Pluralistic power theory consists mainly of the following elements: (1) the establishment of political community, (2) the distribution and use of political resources, (3) the concept of power considered through participant behavior in decision-making and (4) the creed of democracy. At the bottom of these elements, the community theory founded on pluralistic social theory lies, and from it, the element (1) and (2) follow. Another crucial theory is the power theory from which (3) follows, and (4) is the political ideology underlying all elements.<br>But, several weak points are contained within this theory. Those are as follows: (1) the lack of consideration about relation between a community and the entire society, (2) the lack of structural analysis of community, (3) the preponderance of public agencies' power, (4) the non-conflict of power function etc. And those are basically result from the lack of class theory. To be exact political dominance in the pluralistic power theory is built on the illusion of voluntary concensus toward the common order among community membership. In view of historical development, there is rich soil today in America for the power-structure theory to be united with the class theory, and this is now developing. And yet, it is the question to be solved in the future.
著者
澤田 唯人
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.460-479, 2015

<p>精神科臨床では近年, 「境界性パーソナリティ障害 (Borderline Personality Disorder)」と診断される人々の急増が指摘され, その高い自殺リスクや支援の難しさが問題視されている (朝日新聞「若年自殺未遂患者の半数超『境界性パーソナリティ障害』 : 都立松沢病院調査」2010年7月27日). 本稿の目的は, こうしたボーダーライン当事者が生きる現代的困難の意味を, インタビュー調査に基づく語りの分析から照らしだすことにある. 見捨てられ不安や不適切な怒りの制御困難による衝動的な自己破壊的行為を, 個人の人格の病理とみなす医療言説とは裏腹に, 当事者たちはそれらが他者との今ここの関係性を身体に隠喩化した意味行為であることを語りだしていく. この語りを社会学はどのように受けとめることができるだろうか. 本稿では, これら衝動的な暴力や自己破壊的行為が比喩的な意味の中で生きられるという事態を探るうえで, 個人に身体化された複数のハビトゥスと, 現在の文脈との出逢いにおいて生じる「実践的類推 (<i>analogie pratique</i>)」 (B. ライール) に手がかりを求めている. そこに浮かび上がるのは, 流動化する現代社会にあって, 自己をめぐる認知的な水準の再帰性 (A. ギデンズ) よりも一層深い, ハビトゥスの移調可能性を再帰的に問われ続けた, «腫れもの»としての身体を生きる当事者たちの姿である.</p>
著者
芳賀 学
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.205-220, 2007-09-30 (Released:2010-04-01)
参考文献数
33
被引用文献数
1
著者
中川 喜代子
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.48-68, 1971-12-30 (Released:2009-11-11)
被引用文献数
1

Kagawa prefecture has 48 outcast communities (buraku), some of which are situated in small islands like Shozu island. All of those buraku are densely populated, because of the relatively big size of population and household in a small-sized area, and left to be below standard in every aspect of living, from housing, to other living environments, working conditions and education. In Shozu island which has no important local industries except soy browing industry, many male-adults have been at work mainly in Osaka, Kobe and their surrounding areas and sometimes moved out there with their family, even before the W.W. II. Under the recent population trend of Kagawa prefecture which has been rapidly loosing polulation, Uchinomi-cho (town), situated in an eastern part of the island, has been also loosing about 15% of its population, especially its male population, for the last 10 years. But two buraku, Kusakabe-minami and Tachibana, with which I will deal in the study, have grown in population and household. It can be said a peculiar phenomenon that only buraku have been overpopulated under the general trend of underpopulation in Kagawa prefecture as a whole. For example, in a usual community contiguous to Tachibana buraku, many of those who sojourned in other industrial areas for work got settled in those places and the number of family in the village has been changed little for the last 80 years ; from 129 houses at the end of 21 year of the Meiji Era to 126 households at the time of our research. On the other hand, in the two buraku, the number of family has increased five times ; from 22 houses at the end of 21 year of the Meiji Era to 111 households at the time of our research. This shows the situation in which many of the collateral families, which have been produced from the frequent segmentation of original households, have been obliged to stay in buraku, as they were not able “to move out as a whole household” (“kyoka-rison” in Japanese).Because of this situation, the economic basis of buraku, already weakened by the fact mentioned above, has been demolished and the low standard of living has been lowered further. The employment pattern of buraku residents shows temporal and unstable working conditions, compared with that of usual community residents. The main jobs for male-adults of buraku are constructive works in Kusakabe-minami and fishing works as well as sailors' of small means of conveyance in Tachibana. On the other hand, in usual surrounding communities, many male-adults work as small independent fishermen and as seamen of ocean routes. There is also a big difference in working days and income between buraku and usual communities.Now I will briefly descrive the research strategies of our field work which has been done in two outcast communities in Uchinomi-cho and Tachibana usual community contiguous to them. Firstly, I would like to clarify what kind of distortion the discrimination against buraku has given to the employment structure and population trend of buraku in an island. Secondly, I would like to point out some causes which prevent outcast community members of an isolated from free employment and working in urban industrial communities. Generally speaking of the recent socioeconomic situation in Japan, urban industrial communities are keenly lacking in labor force on the one hand and rural communities are forced to be underpopulated, because many members sojourn in urban areas for work and move out from the village as a whole household on the other hand.
著者
友枝 敏雄 山田 真茂留
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.567-584, 2005-12-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
26
被引用文献数
1 1

今期社会学教育委員会では, 社会学教育の一環として社会学テキストのありようについて検討してきた.この論文は, この作業をもとにした今号の特集の序論をなすものである.多くの社会学テキストのなかで, とりわけ焦点をあてるのは, 初学者向けの, もしくは概論的なテキストである.まず戦後日本社会の変動を概観すると, そこには個人化の進行という一貫した趨勢が看取される一方で, 「第1の近代」と「第2の近代」との間にそれなりの断層があることが認められる.「第1の近代」においては産業化・都市化・核家族化等が中心であったのに対して, 「第2の近代」では政治領域における新保守主義・新自由主義の台頭, 経済領域における消費社会的状況の先鋭化, 文化領域におけるポストモダンな言語論的・記号論的転回等が顕著になってきたのである.そして社会学テキストも, この社会変動に応じて相貌を大きく変えることとなった.まず, 社会学テキストが扱うべき内容やその範囲が時代によって変わっていったという局面がある.またそれとともに, テキストの形式面でも大きな変化が生起した.かつてのテキストではオーソドックスな概念や理論の伝達が中心的であったわけだが, 今日では読者にとって読みやすい形でのパースペクティブの紹介が主流になってきているのである.社会学テキストは近年, 内容面・形式面の双方にわたって大きな変容をとげている.
著者
千田 有紀
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.50, no.1, pp.91-104, 1999-06-30
被引用文献数
2

本論文では, 日本の家族社会学の問題構制をあきらかにする。家族社会学そのものをふり返ることは, アメリカにおいては, ロナルド・ハワードのような歴史家の試みが存在しないわけでもない。しかし日本の家族社会学自体が, どのような視座にもとづいて, 何が語られてきたのかという視点から, その知のあり方自体がかえりみられたことは, あまりなかったのではないかと思われる。<BR>日本の社会科学において, 家族社会学は特異な位置をしめている。なぜなら, 家族研究は, 戦前・戦後を通じて, 特に戦前において, 日本社会を知るためのてがかりを提供すると考えられ, 生産的に日本独自の理論形成が行われてきた領域だからである。したがって, 日本の家族社会学の知識社会学的検討は, 家族社会学自体をふり返るといった意味を持つだけではなく, ひろく学問知のありかた, 日本の社会科学を再検討することになる。さらに, 家族社会学は, その業績の蓄積にもかかわらず, 通史的な学説史が描かれることが, ほとんど皆無にちかかった領域である。そのことの持つ意味を考えながら, ある視角からではあるが, 家族社会学の理論・学説の布置連関を検討する。
著者
大野 光明
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.67, no.4, pp.415-431, 2016 (Released:2018-03-31)
参考文献数
50

本稿では, 「沖縄問題」がどのような力学のもと構成され, 変化するのか, そして, 人びとによって経験されてきたのかという問いをたてる. 具体的には, 沖縄の日本復帰直前の1970年代前半から復帰後の70年代後半の時期に焦点をあて, 宇井純 (1932-2006) が中心となり取り組まれた自主講座運動が, 日本本土と沖縄, そしてアジアの反公害住民運動をつなげ, 「沖縄問題」を提起した意味を検討する.復帰後の沖縄社会は, 「沖縄問題」をめぐる関心の減少, 沖縄振興開発計画に伴う開発の促進と観光地化, そして基地問題の非争点化という特徴をもつ. だが, 復帰後, 「沖縄問題」への関心を持続させ, 国家と資本, さらには両者の開発主義を受容する革新県政を批判したのが反公害住民運動であった. その特徴は, (1)沖縄への日本資本の進出を公害問題の実態に基づき批判したこと, (2)「沖縄問題」を日本本土との加害/被害や支配/被支配といった枠組みだけではなく, 遍在する公害問題をつなぐ形で再構成した点にある. 本稿は, 金武湾闘争を通じて反公害住民運動が, 国家と資本, そして革新県政による沖縄の問題化に対し, 別の政治の回路を開いたことを明らかにする.
著者
出口 剛司
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.61, no.4, pp.422-439, 2011-03-31 (Released:2013-03-01)
参考文献数
28

これまで精神分析は,社会批判のための有力な理論装置として社会学に導入されてきた.しかし現在,社会の心理学化や心理学主義に対する批判的論調が強まる中で,心理学の1つである精神分析も,その有効性およびイデオロギー性に対する再審要求にさらされている.それに対し本稿は,批判理論における精神分析受容を再構成することによって,社会批判に対し精神分析がもつ可能性を明らかにすることをめざす.一方,現代社会学では個人化論や新しい個人主義に関する議論に注目が集まっている.しかしその場合,個人の内部で働く心理的メカニズムや,それに対する批判的分析の方法については必ずしも明らかにされていない.そうした中で,受容史という一種の歴史的アプローチをとる本稿は,精神分析に対する再審要求に応えつつ,また社会と個人の緊張関係に留意しつつ,個人の側から社会批判を展開する精神分析の可能性を具体的な歴史的過程の中で展望することを可能にする.具体的に批判理論の精神分析受容時期は,1930年代のナチズム台頭期(個人の危機),50年代,60年代以降の大衆社会状況(個人の終焉),90年代から2000年代以降のネオリベラリズムの時代(新しい個人主義)という3つに分けられるが,本稿もこの分類にしたがって精神分析の批判的潜勢力を明らかにしていく.その際,とくにA. ホネットの対象関係論による精神分析の刷新とその成果に注目する.
著者
竹中 均
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.61, no.4, pp.386-403, 2011-03-31 (Released:2013-03-01)
参考文献数
29

従来,社会学と精神分析は対立関係にあると思われてきた.その理由の1つは,社会学が社会に関心をもつのに対して,精神分析は個人に関心をもつと思われてきたからである.だが,社会学と精神分析の本質的違いは,社会学がおもに構造の現状に関心をもつのに対して,精神分析は構造の始まりに関心をもつという違いにある.よって,社会学が構造の始まりに関心を向ける際に,精神分析の知見は役立つであろう.今後,社会学と精神分析が協力できうる主題の一例が,自閉症をめぐる諸問題である.自閉症は個人の脳の機能障害なので,社会学とは無関係のように見える.しかし自閉症の中心的な障害の1つは社会性の障害であり,社会学と無縁ではない.ところが従来の社会学を用いて自閉症を論じることは難しい.そこで,役立つ可能性があるのがジャック・ラカンの精神分析である.ラカン精神分析の基本用語の1つに「隠喩と換喩」がある.とくに隠喩は個人の社会性成立に深く関わる機能である.ラカン精神分析から見れば,自閉症とは隠喩の成立の不調である.じっさい,自閉症者は隠喩を用いるのが得意ではない.隠喩という視点を採用することによって,自閉症をラカン精神分析さらには社会学と結びつけることができる.このような試みは,今後,社会問題として自閉症を考えるうえで重要な役割を果たすであろう.
著者
山崎 晶
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.56, no.4, pp.915-930, 2006-03-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
23

明冶維新期に路上でのふるまいを規制した風俗統制令, 違式?違条例への民衆の反応を通して, 当時における「公共」の捉え方を考察する.維新期の政策は, 日本社会の近代化の骨格となった.従来の維新期研究は, 当時の民衆の政策への反応形式として順応/反抗のいずれかに重きを置いて論じる傾向にある.しかし, 新政への不満が反抗という形に結実することは極めてまれであり, 民衆の日常的な反応を照射しきれているとは言いがたい.本稿は順応ても反抗でもない反応を「やり過ごし」と称し, 明冶初年にどのように現れていたかを明確にすることを目的とする.それに際し, 当時の庶民の生活慣習を禁じた違式?違条例に関する新聞記事の分析を行う.分析の結果, (2) 取締りの様子を茶化して報じる記事が多数存在し, その記事が (2) 取り締まる側のみならず, 取り締まられる側も笑いの対象としていることから, 「やり過ごし」の形式としてのおどけが確認された.おどけとは, 何がおもしろおかしいのかを客観的にとらえている状態である.ゆえに取り締まりをおどけてやり過ごした民衆は, ただ無意識のうちに〈迷蒙〉状態にあったのではなく, 政府と自らの思惑のズレを自覚していたといえる.この後, おどけが新聞に現れなくなることから, おどけは維新期に特徴的な「やり過ごし」のスタイルであり, 政府と民衆の「公共」の捉え方の違いから生したものと考えられる.
著者
青山 薫
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.224-238, 2014
被引用文献数
2

本稿は, 公序良俗を守り, 「健康な成人向け娯楽」を提供し, 「女性と子ども」をこの産業から保護する法が, 男女を分け, 女性を, 公序良俗の内部にいる「善い女性」と商業的性行為によって無垢さを失った「悪い女性」に分断する性の二重基準にもとづいていることを批判的に検証する. そして, この法によってセックスワーカー (SW) が社会的に排除され, あるいは保護更生の対象とされることを問題視する. さらに本稿は, 法の二重基準に内包された階級とエスニシティにかかわるバイアスが, グローバル化が広げる格差と不安定さによって鮮明になったことを指摘する. そして, このような二重基準が, 近年, 移住SWをつねに人身取引にかかわる犠牲者あるいは犯罪者と位置づけ, とくに逸脱化・無力化する法とその運用にもあらわれていると議論する.<br>以上の目的をもって, 本稿では, SW支援団体と行ったアウトリーチにもとづいて, 人身取引対策と連動した性産業の取り締まり強化が, SW全体の脆弱性を高めていることを明らかにする. そして, 脆弱な立場におかれたSWの被害を真に軽減するためには, 従来の性の二重基準に替えて, 当事者の経験にねざしたエイジェンシーを中心に性産業を理解し, 法とその社会への影響を当事者中心のものに変化させようと提案する. それは, これもまたグローバル化によって広がっているSWの当事者運動に学ぶことでもある.
著者
額賀 淑郎
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.56, no.4, pp.815-829, 2006-03-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
48
被引用文献数
2 1

近年, 生物医学や先端医療の問題に対して, 科学社会学のアプローチを医療社会学に導入した「医科学の社会学」が起こりつつある.本稿の目的は, 医療社会学と「医科学の社会学」の交錯を理解するため, 医療化論から生物医療化論へ展開してきた過程を分析することにある.1970年代の医療化概念は, 1) 日常生活の問題から医学の問題への再定義, 2) 医療専門職の統制強化, を特徴とする.医療化論は「生物学的事実としての疾病」と「逸脱としての病い」という分類を前提とし, 前者を所与と見なし後者の分析のみを行ってきた.その結果, 1980年代には, 社会構築主義者は, 生物医学の社会的側面のみを分析し, 明確な定義がないまま「生物医療化」の術語を導入した.1990年代には, ゲノム研究などの進展により, 「遺伝子化」概念が生物医療化の1つとして提唱されたが, 遺伝医療の内容の分析は行われなかった.しかし, 2000年代になると, 科学社会学者は, 生物医療化をイノベーションによる生物医学の歴史的変動として定義づけた.そのため, 近年の生物医療化論は, 1) 科学的知識と社会的知識を共に含む包括的な研究, 2) 実証的な事例研究, 3) 内在的な立場からの内容の分析, という新たな展望を開く.

2 0 0 0 OA 記憶と場所

著者
浜 日出夫
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.60, no.4, pp.465-480, 2010-03-31 (Released:2012-03-01)
参考文献数
31
被引用文献数
1

近代社会は,均質で空虚な空間のなかに位置する社会がやはり均質で空虚な時間のなかを前進していくものとして自らの姿を想像してきた.そして,近代社会の自己認識として成立した社会学もまた社会の像をそのようなものとして描きつづけてきた.本稿では,「水平に流れ去る時間」という近代的な時間の把握に対して,「垂直に積み重なる時間」というもう1つの時間のとらえかたを,E. フッサール・A. シュッツ・M. アルヴァックスらを手がかりとして考察する.フッサール・シュッツ・アルヴァックスによれば,過去は流れ去ってしまうのではなく,現在のうちに積み重なり保持されている.フッサールは,過去を現在のうちに保持する過去把持と想起という作用を見いだした.またシュッツは,この作用が他者経験においても働いていることを明らかにし,社会的世界においても過去が積み重なっていくことを示した.アルヴァックスによれば,過去は空間のうちに痕跡として刻まれ,この痕跡を通して集合的に保持される.この考察を通して,時間が場所と結びつき,また記憶が空間と結びつく,近代的な時間と空間の理解とは異なる,〈記憶と場所〉という時間と空間のありかたが見いだされる.