著者
冨田 幸雄
出版者
北海道教育大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2002

水滴の大きさと落下高さを広範囲に変えて水面に衝突させ、その後の水面変形と空気泡の取り込みパターンを検討した。特に、「水琴窟」の音発生条件と密接に関わっているものの、これまで知見が少ない「気泡のイレギュラー取り込み」領域について詳細な実験を行った。その結果、次の事柄が明らかとなった:(1)イレギュラー領域には少なくとも3種類の空気泡形成のパターンがある。一つ目は収縮する変形水面に衛星滴が衝突して空気泡が分離する場合。二つ目は発達した水柱が沈降して水中に完全に沈み込む直前、水柱底部の空気層が閉鎖する際の不安定によって微細な気泡群が発生し、これらが合体してより大きな複数の空気泡になる場合。三つ目は最初の原因で発生した空気泡が水柱の中に取り込まれ、それが再び水中に戻る場合である。第三の原因で発生する空気泡は微弱な圧力変動にさらされるだけであるため強い音響は発生しない。これに対して最初の二つの原因で生じる空気泡は、その際の圧力変動(表面張力+水圧ヘッド)によって適度な振動を練り返して水中に過渡音響を放射する。(2)従来、安定的に音が発生しないとされてきた「イレギュラー領域」の中にも、衛星滴の衝突に起因して非常に再現性良く気泡音が発生する条件があることを明らかにした。これに対して第二の原因による空気泡の形成は極めてランダムであり、その結果発生する音域の範囲は広い。この第二の空気泡の生成機構については更に高い時間分解能による光学観察が必要であり、今後の課題となった。
著者
西原 千博
出版者
北海道教育大学
雑誌
語学文学 (ISSN:02868962)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.13-24, 2007
著者
牧野 博己
出版者
北海道教育大学
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.21-30, 1987-03-15

家庭ではふつうに話をするが幼稚園や学校ではひとことも話をしない子どもを緘黙という。我国では彼らは,情緒障害の一つとして特殊教育の対象ととらえられている。しかし,学校教育においてはその本態はあまり知られておらず,処遇についてもあいまいな状況におかれている。本研究は,最初に国内の先行研究の整理を行いながら,身近に7つの事例を得,親や学級担任から直接話をうかがい,内2例については筆者が直接かかわることができた。その経験から緘黙状態は,自我及び社会性の未発達による防衛機制の一つとして現れた適応障害であり,緘黙児は「特別に配慮された教育」の対象であることがより鮮明になった。ところが,緘黙に関する研究は主に医療機関,児童相談所,教育研究所で行われており,そこではさまざまな治療法が用いられ効果があげられていながら,それが学校教育にまで般化されていない。また学校では,軽度児の場合,周囲に迷惑にならないがゆえに放置される傾向にあり,重度児に至っては,問題とされながら指導の手だてが講じられないままになっているなど,いくつかの問題が明らかになった。同時に,早期教育,個別指導,養育者カウンセリング,学級における配慮などの必要性も明らかになり,緘黙の教育的処遇として,(1)緘黙本態に直接アプローチする特別な教育の場の設定,(2)養育者カウンセリングの実施,(3)学級の受け入れ体制の充実があげられ,この3者の連携によって指導がすすめられることを提言するに至った。
著者
遠藤 芳信
出版者
北海道教育大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2001

本研究課題名は「近代日本の要塞築造と防衛体制構築の研究」ということで、1910年要塞防禦教令の成立過程を中心に実証的に考祭を深めてきた。この結果、3年間にわたる本研究の実績と成果としては、下記の4点をあげることができる。第一に、1910年要塞防禦教令はその頒布(限定部数、閲覧者制限等)と保管自体が厳密な機密保護体制の下に管理されてきたので、参謀本部及び要塞司令部の限定された業務従事者のみが閲覧・調査・審議等の対象にすることができただけである。これによって、近代日本における要塞防禦の意味等の公開的な議論・研究はほぼ完全に閉ざされてきたということができる。これに対して、本研究は、1902年要塞防禦教令草案と1910年要塞防禦教令の各款項等が意味する内容を初めて解明・考察したことになる。第二に、1910年要塞防禦教令は日露戦争前の1902年要塞防禦教令草案の特に「編冊草案」の記載事項と比較するならば、戦備を基準にして、戦備実施、要塞守備隊配置、防禦戦闘等に関してかなり整理・整備した規定を示したことである。第三に、1910年要塞防禦教令は要塞内の民政・警察事項等の規定においては、1882年の戒厳令制定段階においては特に合囲地境内の具体的な戒厳業務が必ずしも明確でなかったのに対して、軍隊側の戒厳業務内容(地方行政機関との関係、治安維持対策、住民避難、給養・衛生、住民の軍務従事等)の具体的な考え方を示したことである。第四に、クラウゼヴィッツが指摘するように、常備軍建設以降には要塞の自然的な住民保護の自的が忘れ去られていくが、1910年要塞防禦教令の成立過程をみると、日露戦争後直後には、部分的には要塞の自然的な住民保護の議論は潜在化していたものと考えてよい。