著者
中村 太一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.113, pp.11-33, 2004-03-01

日本古代の交易に関する従来の研究は、交易者・市の様相や法的規制、あるいは官司や官人による交易活動の解明に主眼を置いてきた。このため、交易活動の動機や目的などについては、必ずしも追究されてこなかった。そこで本稿では、ポランニーが指摘する交易者の動機や目的に着目し、交易者の実態やその類型を抽出することを目的とした。まず第一章では、ポランニーの指摘に基づいて、史料に見える交易の動機について、包括的な分析を行った。その結果、日本古代においては、外部産品の獲得を目的とした交易に従事する、身分動機の交易者が多く存在すること。他方、利潤動機の交易者は零細で、社会的地位も低いこと。したがって、交易量全体に占める割合では、獲得型・身分動機型交易が多数を占めるであろうことなどを明らかにした。また第二章では、官司や王臣家の交易は、基本的に獲得型・身分動機型交易であること。長屋王家による酒食販売事業なども、家政運営に必要な銭貨調達を目的としたものであることを指摘した。さらに第三章では、地方豪族が畿内で展開した交易は、利潤追求が目的ではなく、在地では入手しえない文物を獲得することに主たる目的があったこと。このため、列島や海外の物産が集まる京や難波に交易の拠点を設けたこと。また彼らの銭貨獲得は、純経済的な私富追求ではなく、威信財としての位階や銭貨の入手を目的としたものであることを明らかにした。最後に第四章では、利潤動機の商人について検討した。ここでは、彼らのうち市人や近距離型行商は、消費経済の進展につれて数的拡大傾向が認められるものの、大多数の経営体は小規模のまま推移したこと。その一方で平安時代後期になると、比較的大規模な交易を展開する遠距離交易商人の姿が見られるようになること。彼らは、王臣家等が展開してきた獲得型交易構造の一部を代替する形で事業を展開し、成長を遂げていったと考えられることなどを述べた。
著者
髙山 慶子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.222, pp.53-80, 2020-11-30

お竹大日如来とは、江戸で下働きをしていた竹という名の女性が、大日如来として出羽国に祀られたものである。幕末の江戸の落語家である入船扇蔵が収集した摺物を貼り合わせた『懐溜諸屑<ふところにたまるもろくず>』には、嘉永二年(一八四九)にお竹大日如来の出開帳が江戸で行われた際に版行された単色墨摺りの一枚摺「於竹大日如来縁記(起)」が貼り込まれている。本稿はこの一枚摺を手がかりに、お竹大日如来の由来や成り立ち、およびお竹大日如来を取り上げた摺物や関連する出版物を検討し、江戸庶民の信仰や文化のありようを摺物に着目して明らかにするものである。分析の結果、お竹大日如来は由来や成り立ちに厳密な正確さを欠くこと、それでも広く受容される神仏になったことを指摘した。嘉永二年の出開帳に際しては大量の出版物が版行されたが、複数の業者が販売目的で作成した縁起は記述が一定せず、内容の不正確さは助長されたと考えられる。また、お竹大日如来には娯楽としての役割も期待され、錦絵などの一枚摺の版行だけではなく、お竹大日如来に関する創作が著されたり、お竹大日如来を「おためだいなしわるい」と滑稽化したり、大日如来ならぬ大日用菩薩として見世物とされたりした。江戸の人びとはお竹大日如来を信仰としてだけではなく、むしろ信仰以上に娯楽として受容したが、多種多様な出版物の流布は、信仰と娯楽(聖と俗)の混交という現象を、進行・助長させる役割を担ったと考えられる。
著者
西村 明
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.147, pp.65-76, 2008-12

本稿は、アジア・太平洋戦争期の宗教学・宗教研究の動向、とくに戦時下の日本宗教学会の状況と、当時の学会誌に表れた戦争にかんする研究の二つに焦点をあて、当時の宗教学・宗教研究のおかれた社会的ポジションの理解を試みるものである。戦時期の一九三〇年・四〇年代前半は、日本宗教学会の草創期にあたり、宗教をとりまく大きな状況の変化が起った時期でもあった。学術大会における会長挨拶では、同時代の状況にたいする当事者的参加が要請され、諸宗教の理解という学問的関心の社会的意義が強調されたが、それは同時に本国や占領地等における政府の宗教統制・宗教政策と奇妙な同調を見せる結果となっている。一九四〇年前後に『宗教研究』誌に登場した、戦時下の宗教現象にかんする論考は、千人針などの当時の前線・銃後の日本人たちの宗教的・民俗的営みを視野に入れたものであったが、あくまで戦争遂行や天皇にたいする尊崇を第一義とするような体制的な価値判断に基づくものであったと言える。In this paper, I would like to try to understand the social position of religious studies in Japan under the Asian-Pacific War, focusing upon that situation of the Japanese Association of Religious Studies and the war researches appearing upon the Journal of Religious Studies.1930's and the former half of 40's were the pioneer days of the Association and also the days when the religious situation had changed drastically. In his address in the meeting, the president made a request for the engagement as interested parties to the members and a point of the meaning in the society of the academic interest in religions, which eventually came around with the religious policy of the Japanese government.The papers dealing with religious phenomena under the war appeared on the Journal around 1940. They were based upon the framework of social order which placed first priority upon the conduct of the war and the reverence for the Emperor although they brought the religious and folk practices of Japanese people in that situation into view.
著者
佐藤 雅也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.147, pp.133-196, 2008-12-25

ここでの問題意識は、民衆・常民の視点、民衆・常民の側に立った史学、文化史が民間伝承の学(民俗学)の本質とするならば、語りの部分、語られた部分を基礎に、戦争をとらえていくこと。日本の民衆・常民にとって、近代の戦争体験とその後の人生を明らかにしたうえで、戦争体験の記録と語りを継承していくことを目的としている。このことをふまえて、本報告では、三つのテーマから構成されている。第一に、「軍都」仙台の戦争遺跡と記念碑では、現在の時点から見た近代仙台の旧軍事施設の史跡、旧軍関係及び戦時関係の記念施設・記念碑・慰霊碑などについて、その概要を報告している。また、旧「軍都」仙台の陸軍施設の変遷と、近代の戦争に関わる記録を概観している。そして、昭和十五年(一九四〇)以降の仙台第二師団における宮城県・福島県・栃木県関係の旧軍施設に関する原本資料である仙台師管区経理部「各部隊配置図・国有財産台帳附図」について、その概要を紹介している。第二に、戦死者祭祀と招魂祭では、記念碑、文献資料、新聞記事などから、戊辰戦争、西南戦争、甲申事変、日清戦争、日露戦争、満洲事変、日中戦争、アジア太平洋戦争などにおける戦死者の慰霊と招魂の問題を取り上げている。第三に、戦争の民俗~戦争体験とその後の人生をめぐる民衆・常民の心意とは~では、「聞き書き」資料を基礎に、実物資料、文献資料、写真資料なども付け加えている。ここでは、①徴兵検査の意義と役割、②徴兵検査と軍隊への入営、③内地での軍隊生活、④一兵士が見た軍隊と戦争(召集、家族、戦地、敗戦と捕虜生活)、⑤満洲開拓と満洲移民、⑥「戦争未亡人」の戦中・戦後などについて、報告している。実際の調査では、約五十人の話者の方々のご協力をいただいたが、その中から十八人のインタビューをもとに記述している。このように民俗学の手法を駆使して、戦争の民間伝承を各地で継承していくことは、常民・民衆のための文化史としての民俗学にとって、課題の一つだと考える。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.79-104, 2009-03-31

安閑・宣化期に集中的に屯倉記事が記載されている点については,那津官家へ諸国の屯倉の穀を運んだとの記載を重視するならば,当該期における対外的緊張がその背景に想定され,屯倉と舂米部のセットにより兵粮米を用意し,「那津官家」を中心とする北九州の諸屯倉に集積する体制を構想した。先進的と評価されてきた白猪・児島屯倉における「田戸」は,編戸・造籍により戸別に編成された田部ではなく,成人男子の課役負担者を集計するのみであり,「田部丁籍(名籍)」も一旦作成されると十年以上更新されない単発的なリストであった。「田戸」・「田部丁籍(名籍)」などの表現はそのままでは信頼できず,通説的な律令制的籍帳支配を前提とする評価は疑問である。孝徳期の改革は,行政区画の設定よりも重層化した徴税単位の設定に重点があり,国造のもとで官家を拠点とする統一的,直接的な税の貢納および人の徴発を構想した。国造(国造制)だけでなく制度的に異なる伴造(部民制)・県稲置(屯倉・県制)が歴史的に「官家」(在地における貢納奉仕の拠点)を領したと認識され,その実績が評造や五十戸造といった新たな官家候補者の選定の前提になった。「譜第」意識の連続性において品部や屯倉の廃止命令は,国造を除く伴造や県稲置にとっては大きな転換点として認識された。ミヤケの伝承のうちには郡司の「譜第」に関係した伝承や註記が存在した。「皇太子奏請文」は「改新之詔」の原則に従って,王土王民的な建前から王族による大王への定量的な課役負担を新たに開始する宣言として解釈される。仕丁以外の王族が所有した旧部民たる民部(入部)や家人的奴婢たる家部(所封民)の実質は王子宮内部のツカサの運営費として温存され,基本的に天武四年の部曲廃止まで存続する。
著者
広瀬 和雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.150, pp.33-147, 2009-03-31

西日本各地の首長同盟が急速に東日本各地へも拡大し,やがて大王を中心とした畿内有力首長層は,各地の「反乱」を制圧しながら強大化し,中央集権化への歩みをはじめる。地方首長層はかつての同盟から服属へと隷属の途をたどって,律令国家へと社会は発展していく,というのが古墳時代にたいする一般的な理解である。そこには,古墳時代は律令国家の前史で古代国家の形成過程にすぎない,古墳時代が順調に発展して律令国家が成立した,というような通説が根底に横たわっている。さらには律令国家の時代が文明で,古墳時代は未熟な政治システムの社会である,といった<未開―文明史観>的な歴史観が強力に作用している。北海道・北東北と沖縄諸島を除いた日本列島では,3世紀中ごろから7世紀初めごろに約5200基の前方後円(方)墳が造営された。墳長超200mの前方後円墳32/35基,超100mの前方後円(方)墳140/302基が,畿内地域に集中していた。そこには中央―地方の関係があったが,その政治秩序は首長と首長の人的な結合で維持されていた。いっぽう,『記紀』が表す国造・ミヤケ・部民の地方統治システムも,中央と地方の人的関係にもとづく政治制度だった。つまり,複数の畿内有力首長が,各々中小首長層を統率して中央政権を共同統治した<人的統治システム>の古墳時代と,国家的土地所有にもとづく<領域的統治システム>を理念とした律令国家の統治原理は異質であった。律令国家の正統性を著した『日本書紀』の体系的な叙述と,考古学・古代史研究者を規制してきた発展史観から,みずからの観念を解き放たねばならない。そして,膨大な考古資料をもとに,墳墓に政治が表象された古墳時代の350年間を,一個のまとまった時代として,先見主義に陥らずにその特質を解明していかねばならない。
著者
藤尾 慎一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.155-182, 2014-02-28

弥生文化は,鉄器が水田稲作の開始と同時に現れ,しかも青銅器に先んじて使われる世界で唯一の先史文化と考えられてきた。しかし弥生長期編年のもとでの鉄器は,水田稲作の開始から約600年遅れて現れ,青銅器とほぼ同時に使われるようになったと考えられる。本稿では,このような鉄の動向が弥生文化像に与える影響,すなわち鉄からみた弥生文化像=鉄史観の変化ついて考察した。従来,前期の鉄器は,木製容器の細部加工などの用途に限って使われていたために,弥生社会に本質的な影響を及ぼす存在とは考えられていなかったので,弥生文化当初の600年間,鉄器がなかったとはいっても実質的な違いはない。むしろ大きな影響が出るのは,鉄器の材料となる鉄素材の故地問題と,弥生人の鉄器製作に関してである。これまで弥生文化の鉄器は,水田稲作の開始と同時に燕系の鋳造鉄器(可鍛鋳鉄)と楚系の鍛造鉄器(錬鉄)という2系統の鉄器が併存していたと考えられ,かつ弥生人は前期後半から鋳鉄の脱炭処理や鍛鉄の鍛冶加工など,高度な技術を駆使して鉄器を作ったと考えてきた。しかし弥生長期編年のもとでは,まず前4世紀前葉に燕系の鋳造鉄器が出現し,前3世紀になって朝鮮半島系の鍛造鉄器が登場して両者は併存,さらに前漢の成立前には早くも中国東北系の鋳鉄脱炭鋼が出現するものの,次第に朝鮮半島系の錬鉄が主流になっていくことになる。また弥生人の鉄器製作は,可鍛鋳鉄を石器製作の要領で研いだり擦ったりして刃を着けた小鉄器を作ることから始まる。鍛鉄の鍛冶加工は前3世紀以降にようやく朝鮮半島系錬鉄を素材に始まり,鋳鉄の脱炭処理が始まるのは弥生後期以降となる。したがって鋳鉄・鍛鉄という2系統の鉄を対象に高度な技術を駆使して,早くから弥生独自の鉄器を作っていたというイメージから,鋳鉄の破片を対象に火を使わない石器製作技術を駆使した在来の技術で小鉄器を作り,やがて鍛鉄を対象に鍛冶を行うという弥生像への転換が必要であろう。
著者
藤森 馨
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.73-83, 2008-12-25

真名鶴神話(真鶴神話・八握穂縁起とも)とは、六月・十二月十一日神今食と十一月中卯日新嘗祭の祭月朔日に、天皇に供進される忌火御饌の起源神話として、神祇官から村上天皇に天暦三年(九四九)に上奏された『神祇官勘文』に見られる神話である。その内容は以下の通りである。倭姫が天照大神を奉じ、伊勢国壱志郡を発し、佐志津に逗留した際、夜間葦原で鶴鳴を聞いた。使者を派遣し、捜索させたところ一隻の鶴が八根の稲穂を守護していた。倭姫はこれを苅り採り、大神の御饌に供えようとし、折木を刺し合わせ火鑚をし、彼の米を炊飯。大神に供奉し、この時から神嘗祭は始まった。そして以後三節祭毎に御飯を供進したという。こうした火鑚を行って鶴が守護した稲を炊飯する儀を忌火といい、宮中の忌火御饌の起源であると神祇官より村上天皇に上奏されたのである。すなわち、この神話伝承によれば、宮中の忌火御饌は、伊勢神宮内宮の由貴大御饌神事と不可分な関係があるという。のみならず、天皇親祭の形式で執行される六月・十二月十一日神今食と十一月中卯日新嘗祭と祭祀構造を同じくする神宮三節祭、すなわち六月月次祭・九月神嘗祭・十二月月次祭との関係を考える上でも、宮中の忌火御饌供進儀と神宮の由貴大御饌供進儀との密接さを窺わせる神話は看過できない。本稿では宮中の嘗祭の延長線上に神宮三節祭があることを検討してみたい。
著者
坪根 伸也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.210, pp.123-152, 2018-03-30

中世から近世への移行期の対外交易は,南蛮貿易から朱印船貿易へと段階的に変遷し,この間,東洋と西洋の接触と融合を経て,様々な外来技術がもたらされた。当該期の外来技術の受容,定着には複雑で多様な様相が認められる。本稿ではこうした様相の一端の把握,検討にあたり,錠前,真鍮生産に着目した。錠前に関しては,第2次導入期である中世末期から近世の様態について整理し,アジア型錠前主体の段階からヨーロッパ型錠前が参入する段階への変遷を明らかにした。さらにアジア型鍵形態の画一化や,素材のひとつである黄銅(真鍮)の亜鉛含有率の低い製品の存在等から,比較的早い段階での国内生産の可能性を指摘した。真鍮生産については,金属製錬などの際に気体で得られる亜鉛の性質から特殊な道具と技術が必要であり,これに伴うと考えられる把手付坩堝と蓋の集成を行い技術導入時期の検討を行った。その結果,16世紀前半にすでに局所的な導入は認められるが,限定的ながら一般化するのは16世紀末から17世紀初頭であり,金属混合法による本格的な操業は今のところ17世紀中頃を待たなければならない状況を確認した。また,ヨーロッパ型錠前の技術導入について,17世紀以降に国内で生産される和錠や近世遺跡から出土する錠の外観はヨーロッパ錠を模倣するが,内部構造と施錠原理はアジア型錠と同じであり,ヨーロッパ型錠の構造原理が採用されていない点に多様な技術受容のひとつのスタイルを見出した。こうした点を踏まえ,16世紀末における日本文化と西洋文化の融合の象徴ともいえる南蛮様式の輸出用漆器に注目し,付属する真鍮製などのヨーロッパ型の施錠具や隅金具等の生産と遺跡出土の錠前,真鍮生産の状況との関係性を考察した。現状では当該期の大規模かつ広範にわたる生産様相は今のところ認め難く,遺跡資料にみる技術の定着・完成時期と,初期輸出用漆器の生産ピーク時期とは整合していないという課題を提示した。
著者
堀部 猛
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.218, pp.279-298, 2019-12-27

古代の代表的な金属加飾技法である鍍金は、水銀と金を混和して金アマルガムを作り、これを銅製品などの表面に塗り、加熱して水銀を蒸発させ、研磨して仕上げるものである。本稿は、『延喜式』巻十七(内匠寮)の鍍金に関する規定について、近世の文献や金属工学での実験成果、また錺金具製作工房での調査を踏まえ、金と水銀の分量比や工程を中心に考察を行った。古代の鍍金については、今日でも小林行雄『古代の技術』を代表的な研究として挙げることができる。専門とする考古資料のみならず、文献史料も積極的に取り上げ、奈良時代の帳簿からみえる鍍金と内匠式の規定を比較することを試みている。しかしながら、内匠式における金と水銀の分量比をめぐっては、明快な解釈には至っていない。氏の理解を阻んでいるのは、奈良時代の史料が鍍金の材料を金と水銀で表すのに対し、内匠式が「滅金」と水銀を挙げていることにある。「滅金」が何を指し、水銀の用途は何であるのか、また、なにゆえこうした規定となっているのかが課題となっている。内匠式では「滅金」は金と水銀を混和した金アマルガムを指し、その分量比は一対三としている可能性が大きいこと、それに続く水銀は「酸苗を着ける料」として梅酢などで器物を清浄にする際に混ぜ、また対象や部位によりアマルガムの濃度を調節するのに用いるものとして、式が立てられていると解した。鍍金の料物を挙げる内匠式の多くの条文では、水銀が滅金の半分の量となっており、全体に金と水銀が一対五の分量比となるよう設定されている。この分量比は、奈良時代の寺院造営や東大寺大仏の鍍金のそれとほぼ同じである。以上のような滅金と水銀による料物規定は内匠式特有のものであり、実際の作業工程に即して式文を定立したことによると評価できる
著者
三浦 正幸
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.85-108, 2008-12-25

寺院の仏堂に比べて、神社本殿は規模が小さく、内部を使用することも多くない。しかし、本殿の平面形式や外観の意匠はかえって多種多様であって、それが神社本殿の特色の一つと言える。建築史の分野ではその多様な形式を分類し、その起源が論じられてきた。その一方で、文化財に指定されている本殿の規模形式の表記は、寺院建築と同様に屋根形式の差異による機械的分類を主体として、それに神社特有の一部の本殿形式を混入したもので、不統一であるし、不適切でもある。本論文では、現行の形式分類を再考し、その一部を、とくに両流造について是正することを提案した。本殿形式の起源については、稲垣榮三によって、土台をもつ本殿・心御柱をもつ本殿・二室からなる本殿に分類されており、学際的に広い支持を受けている。しかし、土台をもつ春日造と流造が神輿のように移動する仮設の本殿から常設の本殿へ変化したものとすること、心御柱をもつ点で神明造と大社造とを同系統に扱うことを認めることができず、それについて批判を行った。土台は小規模建築の安定のために必要な構造部材であり、その成立は仮設の本殿の時期を経ず、神明造と同系統の常設本殿として創始されたものとした。また、神明造も大社造も仏教建築の影響を受けて、それに対抗するものとして創始されたという稲垣の意見を踏まえ、七世紀後半において神明造を朝廷による創始、大社造を在地首長による創始とした。また、「常在する神の専有空間をもつ建築」を本殿の定義とし、神明造はその内部全域が神の専有空間であること、大社造はその内部に安置された内殿のみが神の専有空間であることから、両者を全く別の系統のものとし、後者は祭殿を祖型とする可能性があることなどを示した。入母屋造本殿は神体山を崇敬した拝殿から転化したものとする太田博太郎の説にも批判を加え、平安時代後期における諸国一宮など特に有力な神社において成立した、他社を圧倒する大型の本殿で、調献された多くの神宝を収める神庫を神の専有空間に付加したものとした。そして、本殿形式の分類や起源を論じる際には、神の専有空間と人の参入する空間との関わりに注目する必要があると結論づけた。
著者
柴田 昌児
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.149, pp.197-231, 2009-03-31

西部瀬戸内の松山平野で展開した弥生社会の復元に向けて,本稿では弥生集落の動態を検討したうえでその様相と特質を抽出する。そして密集型大規模拠点集落である文京遺跡や首長居館を擁する樽味四反地遺跡を中心とした久米遺跡群の形成過程を検討することで,松山平野における弥生社会の集団関係,そして古墳時代社会に移ろう首長層の動態について検討する。まず人間が社会生活を営む空間そのものを表している概念として「集落」をとらえたうえで,その一部である弥生時代遺跡を抽出した。そして河川・扇状地などの地形的完結性のなかで遺跡が分布する一定の範囲を「遺跡群」と呼称する。松山平野では8個の遺跡群を設定することができる。弥生集落は,まず前期前葉に海岸部に出現し,前期末から中期前葉にかけて遺跡数が増加,一部に環壕を伴う集落が現れる。そして中期後葉になると全ての遺跡群で集落の展開が認められ,道後城北遺跡群では文京遺跡が出現する。機能分節した居住空間構成を実現した文京遺跡は,出自の異なる集団が共存することで成立した密集型大規模拠点集落である。そして集落内に居住した首長層は,北部九州を主とした西方社会との交渉を実現させ,威信財や生産財を獲得し,集落内部で金属器やガラス製品生産などを行い,そして平形銅剣を中心とした共同体祭祀を共有することで東方の瀬戸内社会との交流・交渉を実現させたと考えられる。後期に入ると文京遺跡は突如,解体し,集団は再編成され,後期後半には独立した首長居館を擁する久米遺跡群が新たに階層分化を遂げた突出した地域共同体として台頭する。こうした解体・再編成された後期弥生社会の弥生集落は,久米遺跡群に代表されるいくつかの地域共同体である「紐帯領域」を生成し,松山平野における特定首長を頂点とした地域社会の基盤を形づくり,古墳時代前半期の首長墓形成に関わる地域集団の単位を形成したのである。
著者
鳥越 皓之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.35-51, 2001-03-30

民俗学において,「常民」という概念は,この学問のキー概念であるにもかかわらず,その概念自体が揺れ動くという奇妙な性格を備えた概念である。しかしながら考え直せば,逆にキー概念であるからこそ,民俗学の動向に合わせてこの概念が変わりつづけてきたのだと解釈できるのかもしれない。もしそうならば,このキー概念の変遷を検討することによって,民俗学の特質と将来のあり方について理解できるよいヒントが得られるかもしれない。そのような関心のもとに,本稿において,次の二つの課題を対象とする。一つが「常民」についての学説史的検討であり,もう一つが学説史をふまえてどのような創造的な常民概念があり得るのかという点である。後者の課題は私自身の小さな試みに過ぎないためにそれ自体は一つの主張以上の評価をもつものではない。だが,機会あるごとにこのような方法論レベルの試みを行うことが,民俗学の可能性を広げるものであると信じている。前者の学説史においては,柳田国男の常民の使用例は三つの段階に区切れること,また,神島二郎,竹田聴洲の常民についての卓越した見解の位置づけを本稿でおこなっている。後者の課題については,学説史をふまえて「自然人としての常民」とはなにかという点を検討している。そして常民概念は,集合主体レベル,文化レベルでのみとらえるのではなくて,個別の生存主体としてのワレからはじまり,それが私的世界を越えて公的世界に開かれたときにはじめて集合主体や文化主体として現象すると理解した方がよいのではないかと提案している。つまり民俗学は,一個一個の人間の個別な生存主体を大切にしてきたし,今後もそれを大切なものとみなしていくことが民俗学の方法論的特性だから,常民概念の基本にそれを設定すべきだと指摘しているのである。
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.207, pp.11-41, 2018-02-28

本論文は,高度経済成長期に向かう時代,昭和30 年代初期のダム建設と水没集落の対応に一つの形があることに注目して民俗誌的分析を試みたものである。広島県の太田川上流の樽床ダム建設で水没した樽床集落(昭和31~32 年に移転)と前稿でとりあげた福島県の只見川上流の田子倉ダム建設で水没した田子倉集落(昭和31 年に移転)とは,どちらも農業を主とした集落で,移転時には民具の収集保存や村の歴史記録の刊行,移転後の故郷会の継続など,故郷とのつながりの維持志向性が特徴的であった。とくに,樽床の報徳社を作った後藤吾妻氏,田子倉の13軒の旧家筋の家々などが,村人の面倒見がよく,村の存続の危機への対応のなかで村を守る連帯の中心となっていた。村の中には貧富の差が大きかったが,富める者が貧しい者の面倒をみるという近世以来の親方百姓的な役割が村落社会でまだ活きていた可能性がある。それに対して,岩手県の湯田ダム建設で水没した集落(昭和34~35年に移転)は農家もあったが鉱山で働く人が多い流動的な集落で,代替農地の要求はなかった。さらに樽床ダムより約30年後に建設された太田川上流の温井ダムの場合には1987年に集団移転がなされたが,その際村人たちは受身的ではなく能動的に新たな生活再建を進めた。このように,移転時期による差異や定住型か移住型かという集落の差異が注目された。そして,故郷喪失という生活展開を迫られた人たちの行動を追跡してみて明らかとなったのは,土地に執着をもたず都市部に出て行った人たちの場合は新しい生活力を求めて前向きに取り組んだということ,その一方,農業で土地に執着があった人たちはその故郷を記憶と記念の中に残しその保全活用をしながら現実の新たな生活変化に前向きに取り組んでいったということである。つまり,更新と力(移住型)と記憶と力(定住型)という2つのタイプの生活力の存在を指摘できるのである。もう一つが世代交代の問題である。樽床も田子倉も湯田もダム建設による移転体験世代の経験は子供世代には引き継がれず,「親は親,子供は子供」という断絶が共通している。
著者
一ノ瀬 俊也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.126, pp.119-131, 2006-01-31

太平洋戦争中、補給を断たれて多くの餓死・病死者を出したメレヨン島から生還した将校・兵士たちをして体験記の筆をとらしめたのは、死んだ戦友、その遺族に対する「申し訳なさ」の感情であり、そこから死の様子が描かれ、後世に伝えられることになった。あるいは自己の苛酷な体験を「追憶」へ変えたいというひそかな願いもあった。自己の体験をなんとか意義付けたい、しかし戦友の死の悲惨さは被い隠せない、と揺れる心情もみてとれた。このように生還者たちの記した「体験」の性格は多面的であり、容易に単純化・一本化できるような性質のものではない。戦後行われてきた戦死者「慰霊」の背後には、そうした複雑な思いがあった。いくつかのメレヨン体験記を通じて浮かびあがってきたのは、「昭和」が終わり、戦後五〇年以上たってなおやまない、〈戦争責任〉への執拗な問いであった。その矛先は、時に天皇にまで及んだ。たとえそこで外国への、あるいは己れの戦争責任が問われることがなかったとしても、「責任を問うこと」へのこだわりや「死んでいく者の念頭に靖国はなかったろう」という当事者たちの文章は、戦後日本における「先の戦争」観の実相を問ううえでも、さらには戦争体験の風化・美化を進める今後の世代が前の世代の「戦中の特攻精神や飢えの苦しみは戦後教育と飽食に育った世代の理解は不可」という声に抗して「戦争体験」を引き継ぐさい、今一度想起されてよいのではないか。
著者
伊藤 幸司
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.223, pp.51-73, 2021-03-15

本稿は、日本と明朝との交流に使われた航路のうち、南海路を考察対象とするものである。日明航路は、東シナ海を横断する「大洋路」と「南島路」があり、これに接続する国内航路として「中国海路」と「南海路」がある。南海路は、南九州から九州東岸を北上し、豊後水道を横断して四国に渡り、土佐国沿岸を経て、紀伊水道から畿内の堺へと至る航路であり、一六世紀中葉に日本に来航した鄭舜功の『日本一鑑』では「夷海右道」として記されている。南海路は、一五世紀後期の応仁度遣明船が帰路に使用してから注目されるようになるが、実際は遣明船以前からの利用が史料から確認できる。ただし、瀬戸内海を通過する中国海路と比較すると、南海路は、距離も長く時間もかかるうえに、室戸岬や足摺岬を迂回し、太平洋に直面する土佐湾を航行するという自然条件の厳しさもあったため、中国海路の沿線が不安定化した場合や、政治的な背景がある場合に限って利用されることが多かった。本稿では、これまで断片的に蓄積されてきた南海路にかかる研究史を整理した上で、南海路を利用した遣明船について個別に取り上げ、南海路の港町との関係等に注目しながら考察をした。対象とする遣明船は、応仁度船、文明八年度船、同一五年度船、明応度船、永正度船、大永度船、天文一三年度船である。