著者
橋本 政亘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.289-329, 2008-12

江戸幕府により寛文五年(一六六五)七月十一日付で出された「神社条目」により、卜部吉田家はこれをテコに諸国の神社・神職を支配下におくべく、神道裁許状の交付、官位の執奏等を通してその推進をはかった。そしてその根拠としたのが、第三条および第二条であった。しかし第二条の条文には吉田家が格別の位置にあることが記されてはいなかったことからくる限界もあった。そこで、吉田家では、諸社家の官位執奏権を公認されるよう寛文八年十月出願するにより、幕府は京都所司代をして朝廷の評議を要める。かくて時の関白鷹司房輔と吉田家に肩入れする武家伝奏飛鳥井雅章との問で激しい論争が展開されることになるが、朝廷内の意見は一致をみないまま、翌々年八月幕府の裁許に委ねられることになる。そしてそれより四年後の延宝二年(一六七四)に至り幕府の結論が出される。「寛文九年吉田執奏一件争論」といわれるものがこれであり、幕府は儒者林春齋(弘文院)にこの一件に関する勘文を上呈させ、『吉田勘文』として纏められている。本稿は、『吉田勘文』を具体的に検討し、執奏一件争論の実態を明らかにすることを通し、吉田家の諸社家官位執奏運動の方針、朝廷や幕府の対応の在り方を明らかにし、「神社条目」の理念について改めて考察するものである。この一件につき、京都所司代を以て幕府の裁許が示されたのであるが、これは吉田家の望みが全くは否定されたものではなく、幕府の方針の転換であったともいえる。一方、吉田家でも諸社家の官位執奏問題はその後も主張を継続していき、幕府もその対応を微妙に変えていく。最後に、幕末までの大きな流れに基軸をすえ見ておいた。
著者
服部 英雄 楠瀬 慶太
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.277-297, 2010-03

1部(航海技術と民衆知)ではまず中世の文献資料を手がかりに航海技術を考えた。はじめに宣教師アルメイダ修道士の報告(1563年11月17日付書簡)に「日本人は夜間航海しない」とあることの意味を考えてみた。これは通常、夜間には労働をしないということと同等の意味にすぎないが、船を操る人は夜を避けた。特殊には、必要があれば夜間も航海する。ただし危険を伴った。つぎに治承四年『高倉院厳島御幸記』を検討した。貴族の場合、夜間航海はしない。夜間航海は危険があった。航海技術は潮の流れを見極め、時間調整をする。しかし毎日かならず朝に船出すれば、時間的に逆潮になることもある。その場合は沿岸流(反流)や微弱流・部分流にのって、人による漕力を駆使した。『大和田重清日記』でも、夜間航行は避けられている。『言継卿記』にみる伊勢湾航海は原則として潮に乗って、短時間に横断するが、潮の速さのみでは日記に記載された時間内に到着することは不可能だったから、風力と人力を必要とした。湾内南北通行の場合は、航海が長時間に及ぶため、潮が順である時間帯内に通過することは不可能であった。逆潮の航海も強いられている。1部後半及び2部では現地で聞き取った潮流と海の地名について具体的に(1)浜・磯(2)岬(3)山(4)瀬のそれぞれについて、長崎県平戸島春日・福岡県糸島半島の事例を報告した。瀬のようにつねに海中にあって、地図にも掲載されず、文字化されない地名がある(一部は海図に記載)。そうした海の地名は操業・山見・枡網(定置網)などの漁業に必要なものばかりで、民衆知(漁業技術)と一体化している。しかしじっさいには他人には容易には教えない個人知も一部にあって、共有されないものも含まれている。
著者
篠原 徹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.235-246, 2012-03

本論文は日本の俗信とことわざおよび俳諧のなかに現れる他種多様な動物や植物の表現について、俗信とことわざおよび俳諧の相互の関係性を論じたものである。こうした文芸的世界が華開いたのは、庶民にあっては「歩く世界」と「記憶する世界」が経験的知識の基本であった日本の近世社会の後半であった。俗信やことわざおよび俳諧は、近世社会のなかで徐々に発展していったと思われる。農民や漁民の生業や生活のなかでの自然観察の経験的知識は、記憶装置である一行知識として蓄積され人びとに共有されていった。この経験的知識の記憶装置である一行知識は、汽車や飛行機などの動力に頼る世界ではなく「歩く世界」を背景にした繊細な自然観察に基づいている。同時に一行知識は、そうした観察に基づく経験的知識を、活字化し書籍として可視化する世界とはまだほど遠く、記憶しやすい定型化した文字数に埋め込んだものである。経験知としての一行知識は、大きくは動植物に関する観察による領域と人間に関する観察による領域の二つに分けられる。この経験知は基本的には生活や生業におけるものごとに対する対処の方法なのであるが、経験知は感性的な側面と生活の知恵の側面と生活の規範の側面の三つの方向にそれぞれ特徴的な定型化の道を歩んだのではないか。感性的な側面は、季節のうつろいと人生のうつろいを重ね合わせる俳諧的世界を創造していく。生活の知恵の側面は、自然暦や動植物の俗信を発展させていく。生活の規範の側面は、人の生き方や社会のなかでの個のありようを示すことわざの世界を豊饒にしていく。俗信やことわざそして俳諧の世界に通底しているのは「歩く世界」と「記憶する世界」で醸成された一行知識であり、それを通じて三つの領域は親和性をもっているといえる。
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.393-415, 1990-03-30

The purpose of this paper is to grasp the color culture mainly of the urban environment in Japan from the viewpoints of the history and folklore, and discusses what sort of materials should be aimed at as the subjects.Firstly, the ranking system of colors of the clothes and the symbolism in the ancient and middle ages in Japan are outlined. Then, the actual states of colors of dresses, props., theatesr, etc. used for “Izumo Kagura”, a folk art currently performed in mountain villages in Izumo-city, Shimane Prefecture are shown. Since this is an art using a myth as its theme, a question is proposed that the symbolism of color in the ancient and middle ages may lie behind.Further, from “Comprehensive folk vocabulary in Japan” compiled by Yanagita Kunio and other folklorists, the words that show four colors, white, black, red and blue are extracted and the symbolisms of the folk natures are described. Combinations of colors such as white and black, white and red, white, black and red, etc. are shown as the basic subjects of color symbolism in the folklore in Japan, referring the examples of Akamata/Kuromata ceremonies in Yaeyama Islands, Okinawa Prefecture.Finally, the words of 783 popular songs often sung by the Japanese are studied to check what sort of color image they have. The result shows that words representing the colors are used frequently in the order of white, red, blue, seven colors and black. In it, color preference and folk symbolism unique to Japanese are included. It is emphasized that the historical study on the color sense of the Japanese is important as one of the subjects of methodology of the folklore study.
著者
佐野 静代
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.162, pp.141-163, 2011-01

エリとは,湖沼河川の浅い水域に設けられる定置性の陥穽漁法であり,全長1㎞にも及ぶ大型かつ精巧なエリは,琵琶湖にしかみられないものとされてきた。本研究では,近世・近代史料の分析から琵琶湖のエリの発達史に関する従来の説を再検討し,エリが琵琶湖でのみ高度な発達を遂げた要因について,地形・生態学的条件から分析した。原初のエリは,ヨシ帯の中に立てられる単純な仕組みのものであったが,中世には湖中へ張り出す湖エリタイプがすでに存在していたと推測される。また近世の絵図や文書の分析の結果,17世紀までの湖エリはツボ部分のみを連結した屈曲型の構造であったのに対して,18世紀後半には今日に近い「岸から一直線に伸びる道簀」+「大型の傘」を備えた形態へと転換がはかられていることがわかった。琵琶湖のエリは,江戸後期に大きく姿を変えていることが明らかである。さらにエリの「傘」内部の漁捕装置の発達については,「迷入装置(ナグチ)の複雑化」と「捕魚部(ツボ)の増設」という二つの方向性があり,その発展段階としてはそれぞれ5段階,4段階があること,そして天保期には「カエシ」のエリという大型エリの技術段階に到達していたことがわかった。この天保期における「カエシ」の技術の成立には,琵琶湖の水位低下という人為的な環境変化が関わっていた可能性が推測された。エリが琵琶湖のうち特に「南湖」において発達した要因としては,湖底の地形条件に加えて,漁獲対象となる琵琶湖水系の固有種の生態学的条件があげられる。なかでもニゴロブナの南湖への産卵回遊が,野洲郡木浜村の「エリの親郷」としての位置づけに深く関わっていることが明らかになった。一部非公開情報あり
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.50, pp.p343-370, 1993-02

日本人の色彩感覚に基づく文化および制度や技術の歴史に関して,これまで多くの研究が行われてきたが,本稿では主として日本の民俗文化において表徴される色彩に焦点をあて,その民俗社会の心意的機能,あるいは庶民の色彩認識についてのアプローチを試みたものである。特に都市社会において顕著な人為的色彩は,日本の各都市において様々な諸相をみせ,ここでは伝統都市として金沢,松江,熊本の各城下町を対象に,近世からの民俗的な色彩表徴の事例を現地調査および文献を参照しながら考察し,その特徴を引き出してみた。その結果,白色をベースにした表徴機能,赤色,赤と青色,藍色,紫色,黒色,五彩色といった色調の民俗文化に都市的要素を加味した展開のあることが見出された。金沢と熊本の場合は民俗事例と藩政期からの伝承により,松江はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『日本瞥見記』の著作を通して,明治初年の事例とハーンの見た印象をてがかりに探ってみたものである。また,都市がなぜ民俗的な色彩表徴の機能を前提としているかについての疑問から,建築物,あるいは染色,郷土玩具といった対象によって,多少,問題アプローチへの入口を見出し得たと思われる。都市は日本の社会構造の変革をもっとも端的に表出する場であるため,モニュメント,ランドマーク,メディアの変化など外側の表徴だけでも,その変容の速度は著しく,従って色彩の記号化も激しく変化するが,しかしそうであっても日本人の基本的な色彩の認識は変わっていないという前提にて,都市のシンボルカラーを捉えねばならないと考える。それはまったく日本の民俗文化の枠を越えてはいないからであろう。
著者
橋本 裕之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.263-286, 1991-03-30

Once there were two Narazaka Slopes. There are two passes passing through Narayama Mountain (though it is only small hill) that extends from the east to the west on the frontier between the Province of Yamato and that of Yamashiro, one on the western ridge is called Utahime Pass and another on the east, Hannya Pass; they are both important roads connecting Yamato with Yamashiro. In this paper, I wish to pay attention to Narazaka Slope on the Hannya Pass.After passing the period when Heiankyo was the capital, in the Middle Ages when the center of Nara moved to the east, and even in the present time, the image of Narazaka Slope seems to be always spun from the bundle of the collective memory twining about this region. Such Narazaka seems to offer a very effective clue for someone who seek for circumstances of how the new memories about the scene are being born. This paper has a character of, so to speak, a preliminary study for the matters mentioned above.Thus, the interest of this paper is directed first to elucidate the character of the border given to Narazaka. While we continue to try to grasp the meaning of various messages about a peculiar “scene” called Narazaka, it is certain that the external image buried in Narazaka as the border will gradually surface to our eyes.However, the memory about the scene is not single. This paper seeks for the circumstances about the generation of various memories traveling through Narazaka in history from the antiquity to the contemporary period, by being led by the clue that gave us a strong impression, out of various memories that must have been accumulated in Narazaka, of its being as the border.Perspective that obtained in this paper wakes up our interest in the performing arts in wider sense of the word, played once around the Narazaka. The separate article entitled “Salvation as the performing art” will be elaborated for discussing such a subject.
著者
佐藤 孝雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.48, pp.p107-134, 1993-03

アイヌ文化の「クマ送り」について系統を論じる時,考古学ではこれまで,オホーツク文化期のヒグマ儀礼との関係のみが重視される傾向にあった。なぜならば,「アイヌ文化期」と直接的な連続性をもつ擦文文化期には,従来,ヒグマ儀礼の存在を明確に示し,かつその内容を検討するに足る資料が得られていなかったからである。ところが,最近,知床半島南岸の羅臼町オタフク岩洞窟において,擦文文化終末期におけるヒグマ儀礼の存在を明確に裏付ける資料が出土した。本稿では,まずこの資料を観察・分析することにより,当洞窟を利用した擦文文化の人々がヒグマ儀礼を行うに際し慣習としていたと考えられる6つの行為を指摘し,次いで,各行為について,オホーツク文化の考古学的事例とアイヌの民俗事例に照らして順次検討を行った。その結果,指摘し得た諸行為は,オホーツク文化のヒグマ儀礼よりも,むしろ北海道アイヌの「クマ送り」,特に狩猟先で行う「狩猟グマ送り」に共通するものであることが明らかとなった。このことは,擦文文化のヒグマ儀礼が,系統上,オホーツク文化のヒグマ儀礼に比べ,アイヌの「クマ送り」により近い関係にあったことを示唆する。発生に際し,オホーツク文化のヒグマ儀礼からいくらかの影響を受けたにせよ,今日民族誌に知られる北海道アイヌの「クマ送り」は,あくまでも北海道在地文化の担い手である擦文文化の人々によってその基本形態が形成されたと考えるべきである。Discussing the tradition of "Iwomante" (the Bear Ritual in Ainu Culture), archaeologists have attracted much attention to the brown bear ritual of Okhotsk Culture than that of Satsumon Culture which was directly prior to Ainu Culture in Hokkaidō. This was affected by the fact that there was poor evidence of the brown bear ritual in Satsumon Culture, which restricted the comparison of cultural continuity on the ritual between the Ainu and Satsumon Culture. Recent Archaeological research of Otafuku-iwa Cave in Rausu, Hokkaidō, however, cleared existence of the brown bear ritual in Satumon Culture. And zoo-archaeological analysis of the findings enabled to compare the brown bear ritual with "Iwomante" of the Ainu.In this paper, firstly, I pointed out six features of acts included in the ritual were reconstructed from the excavated faunal remains. Then I compare each of these with archaeological evidence of Okhotsk Culture and ethnographical evidence of the Ainu. As a result, it becomes clear that these acts are much closer not to the brown bear ritual of Okhotsk Culture but to the Ainu in Hokkaidō.It is conceivable that brown bear ritual of Okhotsk Culture gave some influence to the formation of "Iwomante" of the Ainu, but the major body of "Iwomante" which was ethnographically known has been organized by Satsumon people, the natives of the land of Hokkaidō.
著者
君塚 仁彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.140, pp.185-200, 2008-03-31

日本国内で「異文化」とされる存在。そこには,在日外国人の歴史,そして生活・文化がある。その多くは,日本の近代化への歴史的過程における海外移民や植民地政策の延長線上にあるが,在日外国人のなかで,在日中国人である華僑とともに最も古い歴史を持つのが在日朝鮮人である。本稿では,在日朝鮮人の労働そして生活の記憶をとどめようとする,設立母体の異なる二つの博物館,丹波マンガン記念館(京都市)と在日韓人歴史資料館(東京都)の二館を取り上げ,在日朝鮮人の記憶をどのように記録し,いかに展示表象しているのか,その内容と意義を,在日朝鮮人による博物館運動に焦点をあてながら明らかにした。この2つの博物館展示が物語っているのは,日本人・日本社会にとって在日朝鮮人,あるいは在日朝鮮人社会が「隠された存在」であり続けているということである。日本社会で多文化共生を実質化していくためには,本稿で取り上げたような博物館は必要不可欠である。在日朝鮮人の記憶の継承と課題は,日本における固有の歴史的課題であり,今後は,行政立の施設もこれを分担すべきであろう。地域史概念の中に,より積極的に在日朝鮮人の生活史,彼ら,彼女らが果たしてきた歴史的かつ社会的役割について組み入れる必要があり,史実の掘り起こしや継承という点も含めて,公立博物館の展示にも反映させなければならない。博物館の歴史展示が,彼ら,彼女らを一方的に「異文化」として位置づけ,囲い込むのではなく,差別・抑圧の歴史を認識し,それを乗り越えていくためにも,産業・文化などで果たしてきた役割をより積極的に明らかにし,関連資料の収集・保存・公開を図っていくことが重要である。在日朝鮮人は文化的側面だけで記憶され,表象されることも多いが,差別や抑圧,人権問題を踏まえた展示や継続する植民地主義的な状況を伝えていくことも大切である。二つの博物館の展示表象は,そのことの大切さを端的に物語っている。
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.202, pp.213-224, 2017-03

本稿は柳田民俗学の形成過程において考古研究がどのような位置を占めていたのか、柳田の言説と実際の行動に着目して考えてみようとした。明治末年の柳田の知的営為の出発期においては対象へのアプローチの方法として考古研究が、かなり意識されていた。大正末から昭和初期の雑誌『民族』の刊行とその後の柳田民俗学の形成期でも柳田自身は、考古学に強い関心を持ち続けていたが、人脈を形成するまでには至らず、民俗学自体の確立を希求するなかで批判的な言及がくり返された。昭和一〇年代以降の柳田民俗学の完成期では、考古学の長足の進展と民俗学が市民権を得ていく過程がほぼ一致し、そのなかで新たな歴史研究のライバルとしての意識が柳田にはあったらしいことが見通せた。柳田民俗学と考古研究とは、一定の距離を保ちながらも一種の信頼のようなものが最終的には形成されていた。こうした検討を通して近代的な学問における協業や総合化の問題が改めて大きな課題であることが確認できた。
著者
小島 美子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.343-361, 1990-03-30

“Folkloric musicology” is a science of which subjects of study are folk musics such as children's songs, balladry, and musics used in the folk art and the folk religions. “Folkloric musicology” is closely connected with ethnomusicology. However, it is not widely approved in Japan. One of the major factors is the fact that the methodology has not been established.On the other hand, the review on the methodology has been quite inadequate in the field of the music history in the study of Japanese music. Some parts where the music history and “Folkloric musicology” overlap with each other are closely connected and useful for the both sciences in terms of methodology. In this paper, issues on methodology are discussed focusing on the parts where these two sciences overlap with each other.In Chapter 1, it is discussed that the music history should observe the movements of music in every stratum. In the music history in Japan so far, attention has been paid only to the art music, but it is not possible to grasp precisely even the movements of the art music. If the considerations are given to the movements of music of the people living in the agricultural, mountain and fishing villages in all over Japan, i. e., the dynamics of the folk music, then it will become possible to grasp the total picture. In this sense, a help from “Folkloric Musicology” will be necessary.In Chapter 2, it is discussed that the music history must be a study of history that can hear the sounds. Since in the Japanese music history in the past, researches have been made mainly based on the bibliographical data, the most important question, with what sounds the music was actually performed, has been forgotten.In Chapter 3, it is discussed how it is possible to imagine the past sounds that had already disappeared. To achieve it, it is necessary to analyse the direction of changes, factors of changes, etc. in details using, as the clues, the art music remaining up until now and the present sounds of the folk music, in order to feel out the from of the old sounds. In order to do that, a help from “Folkloric Musicology” will be necessary.In Chapter 4, it is discussed that it will be effective for “Folkloric musicology” and the music history to utilize the other's methodology with each other by clarifying the scientific natures of the two learnings, and to utilize the results of studies with each other as the supplement.
著者
高田 貫太
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.217, pp.239-259, 2019-09

5~6世紀前葉の朝鮮半島西南部には,竪穴式石室や竪穴系横口式石室が展開する。これらは,伝統的な木棺や甕棺とは異なる外来系の埋葬施設であり,その受容や展開の背景について検討することは,当時の栄山江流域やその周辺に点在した地域集団の対外的な交渉活動を,微視的な視点から明らかにすることにつながる。そのための基礎的な整理として,それぞれの事例の構造や系譜について,日朝両地域の事例との比較を通して検討を行った。その結果,5世紀前半の西南海岸地域に点在する竪穴式石室については,日本列島の北部九州地域の竪穴式石室に直接的な系譜を求めることが可能であり,基本的には当地へ渡来した倭系集団が主体となって構築した可能性が高いと推定した。その一方で栄山江流域に分布する竪穴系横口式石室については,特定の地域に限定した系譜関係をみいだすことは難しく,むしろ嶺南地域や中西部地域,あるいは北部九州地域の石室構築の技術を多様に受け入れ,それを各部位に選択的に取り入れながら,特色のある墓制を成立させたと把握できる。5世紀後葉~6世紀前葉においても,栄山江流域には竪穴系横口式石室が展開している。それを採用する古墳は,前方後円墳や在地系の高塚古墳などであり,地域社会が主体的に横穴系の埋葬施設(やそれにともなう葬送儀礼)を定着させつつあったことを示している。
著者
篠原 徹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.21, pp.p41-60, 1989-03

Conventionally the natural and spiritual features of region (we call it "Fûdo" ) have seldom been discussed positively in our folklore. This is partly because the word "Fûdo" , which means natural and spiritual features, is much ambiguous in Japanese and that equivocal use of this word has been left to take its course both in its intensive and extensive sense. A number of people admit however that the "Fûdo" implies a sort of regional sense, sensitivity or inclination which cannot be expressed by any other wording.The "Fûdo" should therefore be regrasped in the general framework of people's recognition process of Nature, not as an object of natural science. Though this recognition was once applied in the basic theory of WATSUJI Tetsuro on which he discussed the "Fûdo" as his subject matter, his discussion developed only into his personal speculation, not into the process of people's recognition of the natural and spiritual features of regions.The "Fûdo" if it is to be defined in its intensive meaning, may be grasped as an image that can evoke a "subjectivization" of the environments which surround humans. From the standpoint of the subjectivization of environments this approach can be identified with that idea of KANI Toukichi according to which he attempted to classify the river from the point of view of the insects living therein in his ecological study.YANAGITA Kunio made no positive proposition on the problem of Fûdo. His final objective in his folkloristic works was to abstract the regional mind. He finally spellbound this mind contending that it can be understood only by persons from same regions. This paper attempted to prove that the mind is an intensive reality of the Fûdo. In the same line of understanding, such folklorists after YANAGITA as CHIBA Tokuji and TSUBOI Hirofumi, who were much interested in the problem of Fûdo, tried to break that spell.By way of abstracting an interrelation of vocabulary produced in some regions by an association, we can predict an existence of an association system such as "Saijiki" (a collection of haiku divided into four seasons), which is based on an emic image association. These predictions have been described in this paper taking up some material examples, which must be an effective approach to comprehend regional sense and sensitivity. Because the spatial range of the Fûdo is much elastic, it is not productive to understand it within the geographical framework only. The author thus proposes to rediscover our Fûdo in a folklore specialized in a study of regional sensitivity.
著者
久保 純子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.81, pp.101-113, 1999-03

東京低地における歴史時代の地形や水域の変遷を,平野の微地形を手がかりとした面的アプローチにより復元するとともに,これらの環境変化と人類の活動とのかかわりを考察した。本研究では東京低地の微地形分布図を作成し,これをべースに,旧版地形図,歴史資料などから近世の人工改変(海岸部の干拓・埋立,河川の改変,湿地帯の開発など)がすすむ前の中世頃の地形を復元した。中世の東京低地は,東部に利根川デルタが広がる一方,中部には奥東京湾の名残が残り,おそらく広大な干潟をともなっていたのであろう。さらに,歴史・考古資料を利用して古代の海岸線の位置を推定した結果,古代の海岸線については,東部では「万葉集」に詠われた「真間の浦」ラグーンや市川砂州,西部は浅草砂州付近に推定されるが,中央部では微地形や遺跡の分布が貧弱なため,中世よりさらに内陸まで海が入っていたものと思われた。以上にもとづき,1)古墳~奈良時代,2)中世,3)江戸時代後期,4)明治時代以降各時期の水域・地形変化の復元をおこなった。
著者
高田 貫太
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.211, pp.487-512, 2018-03

近年,朝鮮半島西南部で5,6世紀に倭の墓制を総体的に採用した「倭系古墳」が築かれた状況が明らかになりつつある。本稿では,大きく5世紀前半に朝鮮半島の西・南海岸地域に造営された「倭系古墳」,5世紀後葉から6世紀前半頃に造営された栄山江流域の前方後円墳の造営背景について検討した。5世紀前半頃に造営された西・南海岸地域の「倭系古墳」を構成する諸属性を検討すると,臨海性が高く,北部九州地域における中小古墳の墓制を総体的に採用している。よって,その被葬者はあまり在地化はせずに異質な存在として葬られたと考えられ,倭の対百済,栄山江流域の交渉を実質的に担った倭系渡来人として評価できる。そして,西・南海岸地域の在地系の古墳には,多様な系譜の副葬品が認められることから,海上交通を基盤とした地域集団の存在がうかがえる。倭と百済,または栄山江流域との交渉は,このような交渉経路沿いの要衝地に点在する地域集団の深い関与のもとで,積み重ねられていたと考えられる。5世紀後葉から6世紀前半頃,栄山江流域に造営された前方後円墳と,在地系の高塚古墳には,古墳の諸属性において共通性と差異性が認められる。これまで両者の関係は排他的もしくは対立的と把握される場合が多かったが,いずれの造営集団も,様々な交通路を利用した「地域ネットワーク」に参画し,倭や百済からの新来の墓制を受容していたという点において,併存的と評価すべきである。したがって,前方後円墳か在地系の高塚古墳かという違いは,諸地域集団の立場からみれば,新来の墓制に対する主体的な取捨選択の結果,ひいては百済中央や倭系渡来人集団との関わり合い方の違いの結果と評価できる。このような意味合いにおいて,その被葬者は基本的には百済や倭と緊密な関係を有した栄山江流域の諸地域集団の首長層と考えられる。ただし,倭や百済との活発な交渉,そこから渡来した集団の一部が定着した可能性も考慮すれば,その首長層に百済,倭に出自を有する人々が含まれていた可能性もまた,考慮しておく必要はある。In the southwestern Korean Peninsula, some tombs were built based on the burial practices of Yamato in the fifth and sixth centuries. While recent studies are elucidating the background of these Japanese-style tombs, this article broadly examines the background of Japanese-style tombs built in the southern and western coastal areas of the Korean Peninsula in the early fifth century and keyhole tombs built in the Yeongsan River Basin in the late fifth and early sixth centuries.Japanese-style tombs built in the southern and western coastal areas of the Korean Peninsula in the early fifth century were characterized by their nearness to the sea and their burial practices informed by those of small and medium-sized tombs in the northern Kyūshū region. These characteristics imply that the occupants of Japanese-style tombs had not assimilated into the local culture and were buried as foreigners. They seem to have been Japanese immigrants who played a substantial role in negotiations between Yamato and Baekje or other kingdoms in the Yeongsan River Basin. Moreover, the diversity in grave goods unearthed from local-style tombs in the southern and western coastal areas indicates the existence of local clans thriving with marine trades. The active engagement of such local clans based in major hubs along trade routes seems to have strengthened diplomatic relations between Yamato and Baekje or other kingdoms in the Yeongsan River Basin.Keyhole tombs and local-style burial mounds built in the Yeongsan River Basin in the late fifth and early sixth centuries have similarities and differences in their burial practices. Although most previous studies suggested that they had been exclusive or opposed to each other, the fact that all of the clans that built these tumuli participated in a regional network of various trade routes and accepted new burial practices from Yamato and Baekje implies that these two styles of tumuli coexisted without excluding each other. From the perspective of local clans themselves, the selection between keyhole tombs and local-style burial mounds was a mere result of their decisions on what new burial practices to adopt and what relations to build with the central government of Baekje and Japanese immigrants.In this sense, Japanese-style tombs in the Yeongsan River Basin are principally attributed to chiefs of local clans who had close relationships with Baekje and Yamato. Given that these local clans interacted so actively with Baekje and Yamato and that some of immigrants may have settled in the basin, it is also worth considering the possibility that some of the chiefs interred in Japanese-style tombs originally came from Baekje or Yamato.
著者
高田 貫太
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.211, pp.487-512, 2018-03-30

近年,朝鮮半島西南部で5,6世紀に倭の墓制を総体的に採用した「倭系古墳」が築かれた状況が明らかになりつつある。本稿では,大きく5世紀前半に朝鮮半島の西・南海岸地域に造営された「倭系古墳」,5世紀後葉から6世紀前半頃に造営された栄山江流域の前方後円墳の造営背景について検討した。5世紀前半頃に造営された西・南海岸地域の「倭系古墳」を構成する諸属性を検討すると,臨海性が高く,北部九州地域における中小古墳の墓制を総体的に採用している。よって,その被葬者はあまり在地化はせずに異質な存在として葬られたと考えられ,倭の対百済,栄山江流域の交渉を実質的に担った倭系渡来人として評価できる。そして,西・南海岸地域の在地系の古墳には,多様な系譜の副葬品が認められることから,海上交通を基盤とした地域集団の存在がうかがえる。倭と百済,または栄山江流域との交渉は,このような交渉経路沿いの要衝地に点在する地域集団の深い関与のもとで,積み重ねられていたと考えられる。5世紀後葉から6世紀前半頃,栄山江流域に造営された前方後円墳と,在地系の高塚古墳には,古墳の諸属性において共通性と差異性が認められる。これまで両者の関係は排他的もしくは対立的と把握される場合が多かったが,いずれの造営集団も,様々な交通路を利用した「地域ネットワーク」に参画し,倭や百済からの新来の墓制を受容していたという点において,併存的と評価すべきである。したがって,前方後円墳か在地系の高塚古墳かという違いは,諸地域集団の立場からみれば,新来の墓制に対する主体的な取捨選択の結果,ひいては百済中央や倭系渡来人集団との関わり合い方の違いの結果と評価できる。このような意味合いにおいて,その被葬者は基本的には百済や倭と緊密な関係を有した栄山江流域の諸地域集団の首長層と考えられる。ただし,倭や百済との活発な交渉,そこから渡来した集団の一部が定着した可能性も考慮すれば,その首長層に百済,倭に出自を有する人々が含まれていた可能性もまた,考慮しておく必要はある。