著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.137, pp.135-156, 2007-03-30

炭素14年代を測定し,暦年較正した結果によると,北部九州の弥生前期の板付Ⅰ式は前780年頃に始まる。南四国も前8世紀のうち,板付Ⅱa式併行期に始まる中部瀬戸内の前期は前7世紀,近畿の前期は前7~6世紀に始まる。すなわち,弥生前期は西周末頃に併行する時期に始まり,前380~350年の間,戦国中期に終わる。弥生前・中期の展開を考古学的に追究するうえで,青銅器の年代は重要な意味をもっている。日本出土の青銅器のうち年代がはっきりしている最古例は,福岡県今川遺跡出土の遼寧式銅剣の鋒と茎を銅鏃と銅鑿に再加工した例であって,板付Ⅰ式に属する。同様の例は朝鮮半島では忠清南道松菊里遺跡などから出土しているので,ほぼ同時期と考えてよいだろう。松菊里式の較正年代は前8世紀であるので,板付Ⅰ式の炭素年代とも整合する。青銅器鋳造の開始を証明する根拠は鋳型の出土である。現在知られている資料では,近畿では和歌山県堅田遺跡から銅鉇の鋳型が前期末の土器とともに見つかっている。北部九州では,福岡県庄原遺跡の銅鉇の鋳型が中期初めないし前半の土器と出土している。また,中期初めの甕棺墓に副葬してあった銅戈に朝鮮半島の銅戈と区別できる北部九州独特の型式が知られているので,中期初めには青銅器の鋳造が始まっていたとみられる。弥生前期の存続期間が著しく延びたので,北部九州の中期初めと近畿の前期末とが実年代では一部重なっていないかどうかの検討が必要である。銅鐸は愛知県朝日遺跡から最古型式の銅鐸の鋳型が中期初めの土器とともに見つかっている。同時期の石川県八日市地方遺跡出土の木製竪杵のみに知られている独特の羽状文を身に施しているので,北陸の集団も関与して銅鐸が創出されたことは確かである。朝日遺跡から出土した銅鐸鋳型だけでは,最古の銅鐸の鋳造が中期初めに濃尾平野で始まったとまでは断定できないとしても,きわめて重要な手がかりが得られたことはまちがいない。
著者
樋浦 郷子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.219, pp.1-20, 2020-03

本稿は植民地期台湾の一地域にとって「御真影」がいかなる役割を担ったのかということを,学校沿革誌,郡誌,当該時期の戸口統計等の資料を手がかりに検討したものである。第一に,台湾における御真影は,朝鮮への下付と異なり,戦闘状況下の日本軍の展開に合わせて開始された。1920年代以降学校への下付は中等教育機関から広まりだしたものの,公学校(台湾人初等教育機関)へはほとんど下付されなかった。第二に,新化尋常小学校は,「御真影奉護」の人員確保を考えれば,教員数の減少は避けねばならかったが,1930年代には新化街の日本人人口が減少していた。学級編成および教員の数を確保できたのは,台湾人児童の尋常小学校在籍数に支えられたことが推定される。第三に,新化尋常小学校への御真影下付が同校だけにとどまらず,新化公学校と農業補習学校児童生徒に対する一定の役割も担った。その人数を見れば天皇・皇后写真による「教育」の対象は台湾人児童が圧倒的多数である。御真影を下付されていない学校の児童生徒に対して,「紀元節」「四方拝」(一月一日)などの学校儀式のあと尋常小学校まで移動して拝礼を実施する,奉護燈設置の寄付金を拠出させるなどの要求がなされた。一方では学校として御真影下付校に選ばれないという構造的な劣位への配置と同時に,他方で天皇崇敬教育のために御真影およびその奉護設備を利用した「教育」には巻き込まれたことを具体的な事象をもって示した。From the late 19th century to the almost first half of 20th century, Japan's schools are known that they received Emperor and Empress's official photos from the Ministry of Imperial House. The photos that called Goshin'ei were very strictly and carefully reserved, supervised by school staffs and made full use of for the school rituals. But recent research is making it clear that prudent and deliberate observation in accordance with the actual situation in those days are needed before settling into short paradigm like "Tennōsei [Emperor System] Ideology".Based on understanding described above, this paper examined the social and educational role of the Japanese Emperor's photos in colonized Taiwan through making use of school official documents, the materials in local office and population statistics in those days.Taiwanese schools in Xinhua haven't been selected as the school that could receive the Emperor's photo, on the one hand. Taiwanese children were, however, involved in "education" by Goshin'ei , on the other. The reason for this is firstly because Taiwanese common school are placed next to the Japanese school and secondly because Xinhua normal elementary school, which had been established for children of Japanese residents in Xinhua area, received the photos.This kind of intricate social structure cannot always be applied for all Taiwanese schools. However, the case in Xinhua shows one characteristic conformation in colonial education.
著者
小谷 真吾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.109, pp.293-319, 2004-03

本研究では,家族内の子供のジェンダーについて,パプアニューギニアにおける女児の高死亡率に関する事例研究を行なうことによって,特に兄弟姉妹関係に焦点を当てながらその動態を追求する。現在,近代家族の構築性についての認識は近年の社会科学において広く共有され始めているが,家族内のジェンダーに関する分析において,多様な社会形態における子供のジェンダーに関する研究は,そこに多くの問題群が存在するにも関わらず,ほとんど行なわれてこなかった。その子供のジェンダーが関わっている問題の一つとして,低年齢層における「女児死亡」の問題がある。この問題は,男児選好についての研究をテーマとして追求されてきているが,社会の構築性及び多様性に対する視点が欠落している。筆者は,1998年11月から1999年11月までの約1年間,パプアニューギニア高地辺縁部に居住するカルリと呼ばれる言語集団において各種の調査を行ない,当該地域において「女児死亡」の問題が存在していることを明らかにし,その人口学的動態を分析した。その上で,参与観察に基づいた分析を行なうことによって,「女児死亡」は,親による差別によって起こるのではなく,「姉」が「弟」の世話をするという,当該地域に特有の兄弟姉妹関係によって起こっている可能性が高いことを示した。そしてその構築性について,親が多く死亡しているという人口構造が,兄弟姉妹を軸とする社会構造の背景となり,その結果「姉」の主体的な意思決定が導かれるという動態を明らかにした。本研究の結果に基づけば,親子関係のみに着目して「女児死亡」の問題,ひいては家族内のジェンダーを論じることは,問題を正しく理解できないだけではなく,解決の方法を探る上での障害になりかねないと考えられるのである。In this paper, I investigate the dynamics of the gender of children within the family, focusing on sibling relationship by analysis of the high mortality rate of female children in Papua New Guinea. Presently, while awareness of the constructiveness of the modern family has been shared among social sciences, the gender of children within the family construction in diverse social condition is seldom studied, in spite of a lot of relative problems. High mortality rate of female children is one of the relative problems. While this problem has been analyzed in biomedical paradigm focusing on parents "son preference", such focus overlooks the constructiveness of family or gender. I undertook various kinds of surveys in Kaluli, one of the language groups living in Highlands Fringe of Papua New Guinea, from November 1998 to November 1999. At first, by analysis of the dynamics of demographic feature, I found the high mortality rate of female children. Secondly, by participant observation, mechanism of the high mortality is revealed, in which a unique sibling relationship in this population, that "elder sister" must take care of "younger brother", will cause death of the "sister". Thirdly, I clarify the dynamics of the constructiveness, in which the social construction based on the sibling relationship constructed by the demographic condition that lacks of "parents" generation leads the autonomous decision making of the "sister". The results of this study object former studies, that discuss high mortality of female children or gender relationship within family focusing merely on the relationship between parents and children. Such studies are not able to understand the problems and obstruct the resolution of problems.
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.203-236, 2013-03

本稿は,近年の戦後民俗学の認識論批判を受けて,柳田國男が構想していた民俗学の基本であっ た民俗の変遷論への再注目から,柳田の提唱した比較研究法の活用の実践例を提出するものであ る。第一に,戦後の民俗学が民俗の変遷論を無視した点で柳田が構想した民俗学とは別の硬直化し たものとなったという岩本通弥の指摘の要点を再確認するとともに,第二に,岩本と福田アジオと の論争点の一つでもあった両墓制の分布をめぐる問題を明確化した。第三に,岩本が柳田の民俗の 変遷論への論及にとどまり,肝心の比較研究法の実践例を示すまでには至っていなかったのに対し て,本稿ではその柳田の比較研究法の実践例を,盆行事を例として具体的に提示し柳田の視点と方 法の有効性について論じた。その要点は以下のとおりである。(1)日本列島の広がりの上からみる と,先祖・新仏・餓鬼仏の三種類の霊魂の性格とそれらをまつる場所とを屋内外に明確に区別して まつるタイプ(第3 類型)が列島中央部の近畿地方に顕著にみられる,それらを区別しないで屋外 の棚などでまつるタイプ(第2 類型)が中国,四国,それに東海,関東などの中間地帯に多い,また, 区別せずにしかも墓地に行ってそこに棚を設けたり飲食するなどして死者や先祖の霊魂との交流を 行なうことを特徴とするタイプ(第1 類型)が東北,九州などの外縁部にみられる,という傾向性 を指摘できる。(2)第1 類型の習俗は,現代の民俗の分布の上からも古代の文献記録の情報からも, 古代の8 世紀から9 世紀の日本では各地に広くみられたことが推定できる。(3)第3 類型の習俗は, その後の京都を中心とする摂関貴族の觸穢思想の影響など霊魂観念の変遷と展開の結果生まれてき た新たな習俗と考えられる。(4)第3 類型と第2 類型の分布上の事実から,第3 類型の習俗に先行 して生じていたのが第2 類型の習俗であったと推定できる。(5)このように民俗情報を歴史情報と して読み解くための方法論の研磨によって,文献だけでは明らかにできない微細な生活文化の立体 的な変遷史を明らかにしていける可能性がある。
著者
中塚 武
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.203, pp.9-26, 2016-12-15

日本を含む東アジアでは,近年,樹木年輪幅の広域データベースや樹木年輪セルロースの酸素同位体比,或いは古日記の天候記録や古文書の気象災害記録などを広く用いて,過去2,000 年以上に亘って気温や降水量の変動を年単位で解明する,古気候復元の取り組みが進められている。その最新のデータ群を歴史史料や考古資料と詳細に比較することで,冷害や水害,干害といった気候災害に対して,過去の人々がどのように対応できたか(できなかったか)を,時代・地域ごとに詳細に明らかにできる可能性がある。近世・中世・古代のそれぞれの時代における,これまでの気温や降水量の復元結果からは,数十年の周期で夏の気温や降水量が大きく変動した際に,大きな飢饉や戦乱などが集中的に発生していたことが明らかとなってきた。このことは,地震や津波による災害を含めて数十年以上の間隔をおいて同じ種類の災害が再発する際に,つまり数十年間平穏な時期が続いた後に災害が起きる際に,社会の対応能力が低くなるという普遍的なメカニズムの存在を示唆する。本論ではさらに,古代から近世に至る歴史の時間・空間座標の中から,数十年以上の時間間隔をおいて大きく気候が変動した無数の事例を抽出して,気候災害の再発に際して社会の中のどのような要因が災害の被害を増幅(縮小)させたのかについて,普遍的に明らかにするための統計学的な研究の枠組みについて提案した。こうしたアプローチは,「高分解能古気候データからスタートする歴史研究」において初めて可能になる方法論であり,伝統的な歴史学・考古学の方法論を補強できる,新しい歴史研究の可能性を拓くものになるかもしれない。災害への社会の対応力を規定する要因が何であるのかは,現時点では結論は下せないが,中世や近世の事例は,特に「流通経済と地域社会の関係のあり方」が飢饉や戦乱の有無に深く影響することを示唆しており,関連するデータの収集が急がれる。
著者
大久保 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.203, pp.65-84, 2016-12

安政2年10月2日に関東南部を襲った大地震は,江戸の下町を中心に甚大な被害を与えることとなった。この安政の江戸大地震に関しては,地震の被災状況を簡略な絵図と文字情報で周知した瓦版類,地震の被害や被災者の逸話などをまとめた冊子,地震の原因であると信じられていた地中の大鯰をテーマとした一種の戯画・諷刺画である鯰絵など,多様な出版物が売り出された。これらは災害史や民俗学の分野で注目を集めつつあるが,一部に精細な被災の光景を描く図を含みながらも,絵画史の領域での検討はかならずしも十分ではなかった。本稿では,安政江戸地震を機に盛んとなった出版物における災害表象を,主に風景表現の視点から検討する。安政の大地震に関する一枚刷には,従来の瓦版などの簡素な印刷物とはことなる,高度な木版多色摺の技術を用いた臨場感豊かなものが散見され,たんに災害を速報するという以上の機能が期待されている。それらに見られる被災の表現は名所図会の挿絵の視点や造本趣向を応用した『安政見聞誌』でひとつの頂点を見せ,その工夫は『安政見聞録』『安政風聞集』などにも踏襲されている。安政の大地震における災害絵図出版の盛行により,点数こそ多くはないものの錦絵の出版にも災害図の一領域が生み出されることになり,明治期には地震や火山の噴火,大火災などをテーマとした作品が出版され,やがて関東大震災の絵葉書などにもつながってゆく。The great earthquake that hit the southern Kantō region on the second day of the tenth month of Ansei 2 (1855) caused immense damage, especially in the downtown of Edo. This Great Earthquake of the Ansei Era was featured in various publications, such as newssheets describing the impact of the disaster with simple illustrations and texts, booklets containing the accounts of the aftermath and the narratives of victims of the calamity, and cartoons and caricatures depicting the giant catfish which was allegedly living under the ground and to which the catastrophe was attributed (the drawings were known as "Namazu-e"). These historical sources are attracting increasing attention from folklorists and historians who study disasters. In contrast, despite including fine drawings and paintings of the scene of the catastrophe, these historical materials have not been fully analyzed by art historians. Therefore, this paper examines the depiction of disasters in prints, especially in landscapes, which were increasingly produced after the Great Earthquake of the Ansei Era.The single-sheet prints illustrating the Great Earthquake of the Ansei Era seem to have assumed a more important role than merely reporting the disaster situation as many of them were produced using the sophisticated technique of multicolor woodblock printing to add a sense of reality that could not be provided in simple prints such as conventional newssheets.The expression of disaster situations in these prints reached a peak with the publication of Ansei Kenmonshi (A Chronicle of Events of the Ansei Era), which used the same illustration perspectives and bookmaking techniques as meisho zue (illustrated topographies). These devices and techniques are also observed in contemporary publications such as Ansei Kenmonroku (A Record of Events of the Ansei Era) and Ansei Fūbunshū (A Collection of Reports of Events of the Ansei Era).The popularity of disaster paintings after the Great Earthquake of the Ansei Era led to the emergence of the genre of disaster paintings in Nishiki-e prints, though the number of such paintings remained small. In the Meiji period, drawings and paintings of earthquakes, volcanic eruptions, conflagrations, and other catastrophes were published, which led to the production of picture postcards of the Great Kantō Earthquake.一部非公開情報あり
著者
大久保 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.203, pp.65-84, 2016-12-15

安政2年10月2日に関東南部を襲った大地震は,江戸の下町を中心に甚大な被害を与えることとなった。この安政の江戸大地震に関しては,地震の被災状況を簡略な絵図と文字情報で周知した瓦版類,地震の被害や被災者の逸話などをまとめた冊子,地震の原因であると信じられていた地中の大鯰をテーマとした一種の戯画・諷刺画である鯰絵など,多様な出版物が売り出された。これらは災害史や民俗学の分野で注目を集めつつあるが,一部に精細な被災の光景を描く図を含みながらも,絵画史の領域での検討はかならずしも十分ではなかった。本稿では,安政江戸地震を機に盛んとなった出版物における災害表象を,主に風景表現の視点から検討する。安政の大地震に関する一枚刷には,従来の瓦版などの簡素な印刷物とはことなる,高度な木版多色摺の技術を用いた臨場感豊かなものが散見され,たんに災害を速報するという以上の機能が期待されている。それらに見られる被災の表現は名所図会の挿絵の視点や造本趣向を応用した『安政見聞誌』でひとつの頂点を見せ,その工夫は『安政見聞録』『安政風聞集』などにも踏襲されている。安政の大地震における災害絵図出版の盛行により,点数こそ多くはないものの錦絵の出版にも災害図の一領域が生み出されることになり,明治期には地震や火山の噴火,大火災などをテーマとした作品が出版され,やがて関東大震災の絵葉書などにもつながってゆく。
著者
三上 喜孝
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.113, pp.169-180, 2004-03-01

律令国家により銭貨が発行されると、平城京や平安京などの都城を中心に銭貨が流通すると同時に、銭貨による出挙(利息付き貸付)が広範に行われるようになった。この銭貨出挙については、これまでも古代史の分野で膨大な研究蓄積がある。なかでも正倉院文書に残るいわゆる「月借銭解」」を素材とした研究により、古代の写経生の生活の実態や、各官司・下級官人による出挙運営の実態を明らかになってきた。だが古代の都市生活の中で銭貨出挙が果たした役割についてはなお検討の余地がありそうである。そこで本稿では、正倉院文書、木簡、六国史の記事を再検討し、銭貨出挙が都市民に果たした役割を総体的に検討した。正倉院文書の「月借銭解」(借銭文書)といえば宝亀年間の奉写一切経所のものが有名だが、宝亀年間より前の借銭文書からは、短期貸付の場合の無利息借貸、銭の運用のために貸し付けられた「商銭」、天皇の即位等にともなう「恩免」など、出挙銭のさまざまな存在形態をうかがうことができる。出土木簡からも銭貨出挙が平城京や平安京で広範に行われていたことが推定でき、借用状の書式の変遷を知る手がかりを与えてくれる。銭貨出挙の際に作成される借用状は、奈良・平安時代を通じて「手実」「券」などと呼ばれ、不整形な紙が用いられていた。平安時代の借銭文書の実物は残っていないが、書式は奈良時代の借銭文書のそれを踏襲していたとみてよいだろう。康保年間(九六四〜九六七)の「清胤王書状」の記載から、銭貨出挙のような銭貨融通行為が、銭貨発行が途絶える一〇世紀後半に至ってもなお頻繁に行われていたものとみられることは興味深い。銭貨出挙は律令国家による銭貨発行以降、都を中心に恒常的かつ広範に行われており、これを禁ずることは平安京における都市生活にとって支障をきたすことになったのであろう。それはとりもなおさず、平安京の都市生活における大規模な消費と深く関わっていたと考えられる。
著者
平川 南
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.133, pp.317-350, 2006-12-20

道祖神は、日本の民間信仰の神々のうちで、古くかつ広く信じられてきた神の代表格である。筆者は古代朝鮮の百済の王都から出土した一点の木簡に注目してみた。王宮の四方を羅城(城壁)が取り囲んでおり、木簡は羅城の東門から平野部に通ずる唯一の道付近にある陵山里寺跡の前面から出土した。木簡は陽物(男性性器を表現したもの)の形状を呈し、下端に穿孔もあり、しかも「道縁立立立」という文字が墨書されていた。おそらく六世紀前半の百済では、王京を囲む羅城の東門入り口付近に設置された柱に陽物形木簡を架けていたのであろう。日本列島では、旧石器時代から陽物形製品は、活力または威嚇の機能をもち、邪悪なものを防ぐ呪術の道具として用いられていたとされている。現在各地の道祖神祭においても、陽物が重要な役割を果している。古代においても、七世紀半ばの前期難波宮跡および東北地方の多賀城跡から出土した陽物形木製品は、宮域や城柵の入り口・四隅で行われた古代の道の祭祀の際に使用されたと考えられる。七世紀から一〇世紀頃まで「道祖」は、クナト(フナト)ノカミ・サエノカミという邪悪なものの侵入を防ぐカミと、タムケノカミという旅人の安全を守る道のカミという二要素を包括する概念であった。陽物形木製品を用いた道の祭祀は都の宮域や地方の城柵の方形の四隅で行われてきたが、一〇世紀以降、政治と儀礼の場の多様化とともに実施されなくなったと推測される。そして、平安京の大小路や各地の辻(チマタ)などに木製の男女二体の神像が立てられ、その像の下半身に陽物・陰部を刻んで表現し、その木製の神像が道祖神と呼ばれるようになったのである。近年の陽物形木製品の発見とその出土地点に着目するならば、道祖神の源流を古代朝鮮・日本における都城で行われた道の祭祀に求めることができるであろう。
著者
相川 陽一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.169-212, 2019-03

成田空港の計画・建設・稼働・拡張をめぐって長期にわたって展開されてきた三里塚闘争は,学問分野を問わず,運動が興隆した時期の研究蓄積が薄く,本格的な学術研究は1980年代に開始され,未開拓の領域を多く残している。先行研究を概観すると,歴史学では近年の日本通史において戦後史の巻等に三里塚闘争に関する言及が複数確認でき,高度成長期における諸社会矛盾に異議を申し立てた住民運動の代表例や住民運動と学生運動の合流事例として位置づけられている。近年は,地域住民と支援者の関係に着眼して運動の歴史的推移を論じた研究も発表されている。だが,運動の盛衰と運動展開地域の政治経済構造の変容を関連づけた研究は手薄であり,地域社会の構造的把握と反対運動の歴史的推移の連接関係を明らかにする研究が必要である。そこで,本稿では,三里塚闘争に関する既存研究や既存の調査データの整理と検討を行った後に,空港反対運動の展開による地域社会構造の変容と空港開発の進行による地域社会構造の変容の2視点から,三里塚闘争の歴史的推移を跡づけた。反対運動が実力闘争化する1960年代末には,空港建設をめぐる衝突が繰り返されたが,同時期の運動展開地の議会において反対派が多くの議席を獲得するなど多様な抗議手段が試みられており,空港反対運動の開始以前から農民運動等の経験をもつ住民層が参画した。しかし,1970年代後半からは空港開発の進行とともに交付金や税収増などによる空港城下町化が進行し,地方議会選挙における多数の候補者擁立といった制度的資源を介した抗議が困難化する傾向も認めることができる。地域社会内の政治経済構造の変容をふまえた運動の歴史的推移をまとめた後には,空港建設にかかる利害を直接に共有しないにもかかわらず多数の支援者が参入した経過や支援者の動員構造を明らかにする課題が残されている。