著者
川村 清志 葉山 茂 青木 隆浩 渡部 鮎美 兼城 糸絵 柴崎 茂光
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2014-04-01

本研究は,被災地域における文化的支援が地域の生活文化の復旧に貢献しうるのかについての可能性を検討し,文化的支援の新たな可能性を、フィールドワークを通して検証することができた。東北地方太平洋沖地震後,有形・無形の文化財を救援してきた文化財レスキューは,改めて活動の意味・意義・活用が問われ,被災地の生活を再創造するための手法の確立が求められている。この要請から本研究は,レスキューした被災物についての知識の共有、活用を通じて,文化的支援のモデルを確立する。具体的には民俗学・文化人類学が被災地で果たす文化的支援モデルを構築し,地域文化へのアプローチの手段を深化させるものとする。
著者
岡 美穂子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.223, pp.387-406, 2021-03-15

本稿では,16世紀に記された日本で活動するイエズス会士達の記録を手掛かりに,16世紀後半の九州=畿内間の航路の詳細を検証する。基本的には既刊の翻訳書である松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』を情報源とするが,原文の綴りや翻訳内容に疑義のある箇所については原文に遡って,手を加えた。これらの情報の検討の結果,イエズス会士達は主に瀬戸内航路で諸所の港に乗合船で立ち寄りながら移動していたこと,これらの港の一部にはイエズス会士が定宿とするような日本人の家があり,布教の拠点ともなったことが明らかとなる。また,頻繁ではないものの,南海路で移動することもあり,それは主に瀬戸内海の状況が戦争で不安定な時に用いられた。瀬戸内航路,南海路共に海賊は多数おり,海賊との折衝や遭遇の様子も詳細に記される。また彼等を運ぶ船乗り達,船のスペックなどについても詳細な情報がある。特筆すべきは,大友宗麟が大坂出身で塩飽を拠点とする大型船の船頭と直接契約して,宣教師を畿内へと運ばせたという情報である。この情報からも,瀬戸内海の商業航路の関係者が,相当に超領域的な活動を行っていたことが考えられよう。従来のイエズス会史料を用いた南蛮貿易研究では,マカオ=九州間の交易についてのものが多かったが,本研究では,九州より先の日本国内,主に畿内の商人たちの南蛮貿易への関わりに着目した。とりわけ第四節では,小西家のキリシタン入信前後の状況と南蛮貿易に携わる京都商人の動きに着目し,これまでの研究では言及されたことのない血縁ネットワークについても明らかにした。そこからは,京都商人の入信動機には,南蛮貿易での利益のみならず,西洋からもたらされる最先端の知識への探究心もあったことが推察可能である。
著者
鋤柄 俊夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.48, pp.p161-239, 1993-03

大阪府南河内郡美原町とその周辺の地域は,特に平安時代後期から南北朝期にかけて活躍した「河内鋳物師」の本貫地として知られている。これまでその研究は主に金石文と文献史料を中心にすすめられてきたが,この地域の発掘調査が進む中で,鋳造遺跡および同時代の集落跡などが発見され,考古学の面からもその実態に近づきつつある。ところで従来調査されてきた奈良時代以降の鋳造遺跡は,寺院または官衙に伴う場合が多く,分析の対象は梵鐘鋳造土坑と炉または仏具関係鋳型とスラグなどが中心とされていた。一方河内丹南の鋳造遺跡についてみれば,鍋などの鋳型片および炉壁・スラグ片は一般集落を構成する遺構群の中から出土し,炉基部をはじめとする鋳造関連施設の痕跡もその一部で検出される。これらは鋳造施設をともなった中世集落遺跡の中の問題なのである。そしてこの地域の集落遺跡は,河内丹南の鋳物師の本貫地であったという記録と深く関わっている可能性が強いのである。小論はこの前提に立ち,丹南の中世村落を復原する中で特に職能民の集落に注目し,それが文献史研究の成果により示されている河内鋳物師の特殊な社会的存在とどのように関わってくるのかを考えたものである。考察は中世村落研究と鋳造遺跡研究の2点に分けられる。前者では,灌漑条件を前提とした歴史地理と景観復原の方法から村落の成立環境を,文献記録と遺跡の数量化分析から村落の配置と規模および古代から近世にかけての移動を復原した。後者では,全国の鋳造遺跡の整理から遺構の特徴,日置荘遺跡の検討から遺物の特徴を抽出し,鋳造作業における不定型土坑と倉庫空間の重要性および,鋳造集団がもつ特殊な流通について指摘した。これらの分析から,丹南の村落は成立環境の異なる条件により,少なくとも2つの異なった変化過程を示す可能性があり,それぞれに付属する鋳造集落においても同様な傾向のみられることがわかった。この仮説について,小論では日置荘遺跡をモデルとした鋳物師村落の景観復原を例に提示しておいたが,丹南鋳物師の2つの系統との関連の問題とあわせて,今後社会史的に復原検討されるべき課題とされよう。The area in and around Mihara Town in Kawachi County, Osaka, is known as the home of the "Kawachi iron founders", who were active from the later Heian Period to the Period of the Northern and Southern Dynasties. Studies on this region have been made mainly based on inscriptions on stone monuments, and bibliographical materials; however, as excavational investigations in this region have progressed, founding sites and contemporary settlement sites have been discovered, enabling studies to be made from an archaeological approach.Now, most founding sites from the Nara Period onward which have so far been investigated were for the most part annexed to temples or provincial government offices, and the main objects of analyses have been earthen pits for temple-bell casting, furnaces, molds connected with Buddhist alter fittings, and slag. However, from founding sites in Tannan, Kawachi, fragments of molds for cooking pots etc., furnace walls and slag have been excavated from groups of structures that constituted ordinary settlements; traces of foundry-related facilities have also been detected from some of them. These were found within the sites of medieval settlements accompanying foundry facilities. It is also highly possible that the settlement sites in this region are closely related to the records that Tannan, Kawachi, was the home of iron founders.On the basis of the above assumption, the author, in this paper, focuses on the settlement of craftsmen as he reconstructs the medieval villages of Tannan, and considers how they related to the special social being of Kawachi iron founders shown in the results of bibliographical studies.This study can be divided into two parts, on medieval villages and on founding sites. In the former, the author restores the environment in which villages came into being, by means of historical geography and scenic restoration assuming conditions of irrigation, and also restores the location and scale of villages, and their movement from the Ancient to the Modern Period, using bibliographical records and quantitative analysis of sites. In the latter, the author picks out the characteristics of remaining structures through an arrangement of founding sites nationwide, and those of remaining articles through an examination of the Hioki-no-shō Site; he also points out the importance of non-fixed type earthen pits and warehouse space in founding works, and the special distribution system of the iron founding groups.These analyses made it clear that the villages in Tannan probably had at least two different processes of change according to the different conditions of the environment in which they came into being, and that the same trend can be seen in the iron founding settlements that were attached to them. Concerning this hypothesis, the author presents an example of the reconstructed scenery of an iron founders' village, modeled after the Hioki-no-shō. This will probably be taken up as a matter for sociological restoration and examination, together with the question of its relation with the two lineages of Tannan iron founders.一部非公開情報あり
著者
高橋 照彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.371-407, 2002-03

本稿は,日本古代の鉛釉陶器を題材に,造形の背後に潜む諸側面について歴史的な位置づけを行った。まず,意匠については,奈良三彩が三彩釉という表層のみの中国化であるのに対して,平安緑釉陶では形態や文様も含めて全面的に中国指向に傾斜したということができる。また,日本における焼物生産史全体でみると,模倣対象としての朝鮮半島指向から中国指向への大きな比重の移動は,この奈良三彩や平安緑釉陶が生産された8世紀から9世紀に求められるとした。次に,用途・機能については,奈良三彩が祭祀具あるいは仏具など宗教祭器としての性格を持つのに対して,平安緑釉陶は宗教的機能が続くものの,基本的に実用食器としての用途が中軸となる点に大きな変質を認めることができる。その変容の契機は,弘仁期における宮廷儀礼の整備の中で,鉛釉陶器が国家的饗宴を彩る舞台装置として組み込まれたことが考えられる。生産体制については,奈良三彩が中央官営工房生産とみられるのに対して,平安緑釉陶では各地の在地生産を基盤にしつつ,中央からの品質規定のもと国衙が生産に関与する体制であったと判断できる。それは,中央から地方への技術委譲であり,窯業生産技術において奈良時代まで続いてきた畿内優越状況が終焉を迎え,畿外卓越化へと向かう転換点になったものといえる。最後に,技術導入過程については,白鳳期の緑釉技術が朝鮮半島系であり,特にその故地として百済が最も妥当と推測した。そして,百済滅亡前後の混乱の中で日本への亡命者が伝えた可能性を挙げた。続く奈良三彩は,前代からの鉛ガラス・鉛釉の技術を持っていた工人(玉生)が遣唐使として派遣されて,唐三彩の部分的技術を移入したものと想定した。奈良三彩は,日本在来の素地成形技術の上に,朝鮮半島系の施釉基礎技術と中国系の三彩技術が重なって成立したものといえる。一部非公開情報あり
著者
上野 和男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.106, pp.137-145, 2003-03

この報告は,儒教思想との関連で日本の家族の特質を明らかにしようとする試論である。考察の中心は,日本の家族の構造と祖先祭祀の特質である。家族との関連においては,儒教思想は親子中心主義,父子主義,血縁主義を原理としているといえるが,この3つの原理が日本の家族や祖先祭祀の原理をなしているかが,本報告の課題である。結論として,つぎの3点を指摘できる。第1は,日本には儒教的な親子中心型の家族とは異質な夫婦中心型家族が伝統的に広く存在してきたことである。この意味で儒教的な親子中心主義イデオロギーのみならず,夫婦中心主義イデオロギーも存在してきたのである。第2は,日本の祖先祭祀においては父方先祖のみを祀る形態もあるが,母方や妻方の先祖をも祀る型が広範に存在することである。このことは日本の祖先祭祀が父子主義のみによって貫徹されてきたわけではなかったことを意味している。第3に,日本の家族においては,財産を相続し祖先祭祀を担うのは必ずしも血縁によって結ばれた子供に限定されないこと,また,子供たちのなかでひとりの相続者がきわめて重要な位置を占めてきたことである。したがって,日本の祖先祭祀と家族は伝統的にも現代的にも儒教的な家族イデオロギーのみによって規定され,存在してきたわけではなかったといえよう。儒教的な家族行動規範は,日本社会の基本的な構造が確立した後に部分的に受容されたのであって,これが全面的に日本の家族や祖先祭祀を規定したことはこれまでにはなかったのである。
著者
高橋 敏
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.115, pp.61-82, 2004-02

大原幽学の東総地域における活動の結晶ともいうべきは、性学教団のシンボル、改心楼であった。改心楼をめぐっては幽学弾圧の端緒となった関東取締出役の手先と博徒の乱入事件がここで引き起こされたことでも著名である。関東取締出役が幽学に疑いを持ったきっかけは改心楼の大造な建築であった。幽学はじめ関係者は江戸訴訟のなかで、質素を趣旨とした道友の寄進にもとづく簡素な建築物であると弁明している。改心楼建築に関しては、その普請の過程の中で作成された第一次史料が多数のこされている。嘉永二年(一八四九)四月十五日の「絵図面定幷材木見立」から翌三年正月十九日の「開校」まで道友寄進の「土普請」から大工方、屋根、畳、石工、左官の職人を雇い入れての建物本体の建造、つづいて家具、食器、蒲団、蚊帳等の生活用具の購入までを実証する。また同時に動員された道友の労働力を克明に追求した。道友の寄進行為こそ、大原幽学の性学教団の力量をはかるバロメーターであるからである。江戸訴訟の際、評定所に提出された幽学側の改心楼建築の費用は金九九両余、これを九名の有力な道友が立て替えたと申告している。ところが普請関係の諸帳面を精査したところ、実際は金四四九両余も費しており、申告の四・五倍にのぼる。しかも、幽学は江戸まで出かけ主要な木材を買い付け、ぜいたく品と思しき道具類まで著名な大店から購入している。これだけでも金七二両余に及んでいる。改心楼造営に動員した道友は一八〇日間で四四三二人に達し、二四カ村を包括している。幽学の改心楼造営がこの地域に与えた影響を、決して過小評価することは出来ない。規模といい、建築費用といい、動員された道友の数と広がりといい、関東取締出役が疑いを抱くのは一面当然であったともいえる。改心楼は江戸訴訟の敗北とともに取り毀され、廃墟と化した。今その偉容はのこされた二幅の絵画で偲ぶのみである。
著者
藤尾 慎一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.68, pp.215-251, 1996-03

本稿は,ブリテン新石器時代の葬制研究を紹介したものである。ブリテン新石器研究は,近代考古学がはじまって以来,巨石建造物(メガリス)を研究対象にしてきた。巨石建造物が新石器時代の編年をおこなう際の指標として位置づけられてきたこともあるが,何よりもそこからみつかる大量のバラバラになった人骨が人々の関心をひきつけてきたからである。人骨がみつかるために,巨石建造物はしごく当然に墓と考えられ,なぜ,このような状況で大量の骨がみつかるのか,を考えた葬制研究が,ブリテン新石器研究の中心だったのである。1950年代までは,大量の人骨が,バラバラになった状態で建造物内につくられた石室内におかれるようになった原因をめぐり研究がすすんだが,'60年代のいわゆるプロセス期になると,このような行為には生の世界の社会組織や構成原理が反映しており,巨石建造物はモニュメント(巨石記念物)と認識されるようになる。'80年代のポスト・プロセス期になると,一転してそのような行為に,生の世界の社会組織や構成原理は反映されないとしてプロセス学派は批判され,行為自身や石室構造にこめられた象徴性の解明をめぐる研究がおこなわれる。そして現在,新石器前期は儀礼を再優先していた時代との認識と,儀礼行為自身が人々の表現戦略であったと考えられるにいたっている。縄文時代の葬墓制研究は,ここ20年ほど,親族研究・社会組織の解明を中心に進展してきた。最近わかってきたモニュメントでおこなわれていた祭りと,墓でおこなわれた死者儀礼とはどのような関係にあるのか。今後,どういう方向に向かおうとしているのか。再葬・合葬主体のブリテン前期新石期時代と一次葬・個人墓主体の縄文時代という枠組みをこえて考える。
著者
北條 勝貴
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.7-38, 2008-12-25

古代日本における神社の源流は、古墳後期頃より列島の多くの地域で確認される。天空や地下、奥山や海の彼方に設定された他界との境界付近に、後の神社に直結するような祭祀遺構が見出され始めるのである。とくに、耕地を潤す水源で行われた湧水点祭祀は、地域の鎮守や産土社に姿を変えてゆく。五世紀後半~六世紀初においてこれらに生じる祭祀具の一般化は、ヤマト王権内部に何らかの神祭り関係機関が成立したことを示していよう。文献史学でいう欽明朝の祭官制成立だが、〈官制〉として完成していたかどうかはともかく、中臣氏や忌部氏といった祭祀氏族が編成され、中央と地方を繋ぐ一元的な祭祀のあり方、神話的世界観が構想されていったことは確かだろう。この際、中国や朝鮮の神観念、卜占・祭祀の方法が将来され、列島的神祇信仰の構築に大きな影響を与えたことは注意される。律令国家形成の画期である天武・持統朝には、飛鳥浄御原令の編纂に伴って、祈年祭班幣を典型とする律令制祭祀や、それらを管理・運営する神祇官が整備されてゆく。社殿を備えるいわゆる〈神社〉は、このとき、各地の祭祀スポットから王権と関係の深いものを中心に選び出し、官の幣帛を受けるための荘厳された空間―〈官社〉として構築したものである。したがって各神社は、必然的に、王権/在地の二重の祭祀構造を持つことになった。前者の青写真である大宝神祇令は、列島の伝統的祭祀を唐の祠令、新羅の祭祀制と対比させつつ作成されたが、その〈清浄化イデオロギー〉は後者の実態と少なからず乖離していた。平安期における律令制祭祀の変質、一部官社の衰滅、そして令制以前から存在したと考えられる多様な宗教スポットの展開は、かかる二重構造のジレンマに由来するところが大きい。奈良中期より本格化する神階制、名神大社などの社格の賜与は、両面の矛盾を解消する役割を期待されたものの、その溝を充分に埋めることはできなかった。なお、聖武朝の国家的仏教喧伝は新たな奉祀方法としての仏教を浮かび上がらせ、仏の力で神祇を活性化させる初期神仏習合が流行する。本地垂迹説によってその傾向はさらに強まるが、社殿の普及や神像の創出など、この仏教との相関性が神祇信仰の明確化を生じた点は無視できない。平安期に入ると、律令制祭祀の本質を示す祈年祭班幣は次第に途絶し、各社奉祀の統括は神祇官から国司の手に移行してゆく。国幣の開始を端緒とするこの傾向は、王朝国家の成立に伴う国司権力の肥大化のなかで加速、やがて総社や一宮の成立へと結びつく。一方、令制前より主な奉幣の対象であった畿内の諸社、平安京域やその周辺に位置する神社のなかには、十六社や二十二社と数えられて祈雨/止雨・祈年穀の対象となるもの、個別の奉幣祭祀(公祭)を成立させるものが出現する。式外社を含むこれらの枠組みは、平安期における国家と王権の関係、天皇家及び有力貴族の信仰のあり方を明確に反映しており、従来の官社制を半ば超越するものであった。以降、神社祭祀は内廷的なものと各国個別のものへ二極分化し、中世的神祇信仰へと繋がってゆくことになるのである。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.50, pp.p49-70, 1993-02

弥生時代のブタの形質について,家畜化現象を見るポイントを説明した後,第1頚椎と上顎第3後臼歯の計測値を中心に検討した。まず,第1頚椎の形態では,朝日遺跡の資料によって,イノシシとブタを区別できることを示した。第1頚椎の上部は,イノシシでは高くなるのに対してブタでは低くなる。縄文時代や現代のイノシシの計測値を参考にすると,高さが長さの58%よりも高いものはイノシシで,それよりも低いものはブタと推定された。これは,ブタが餌を与えられるために,イノシシよりも首の筋肉を使う程度が低く,そのため首の筋肉の発達が弱くなり,それにしたがって骨の発達も悪くなるのではないかと思われる。この基準に従えば,朝日遺跡ではイノシシ類の15%がイノシシで85%がブタということになった。次に上顎第3後臼歯では,縄文時代のイノシシに比べて弥生時代のイノシシ類では小さくなっていることが明らかとなった。この縮小の程度は,縄文時代以降のイノシシの縮小の程度と比べてみても大きい。気候変化や人口増加・狩猟圧などを含む島嶼化現象だけではなく,家畜化の影響が歯を小さくした大きな要因ではないかと推測された。その他の部位では,これまでにも述べているように,ブタでは頭蓋骨が高くなることを,下郡桑苗遺跡出土の資料で説明した。また,下顎骨では連合部と下顎骨底部の延長線の成す角度が,ブタではイノシシに比べて大きくなることを説明した。The author first explains the points to note in the phenomena of the domestication of the pig in the Yayoi period, then examines their physical character, centering on the measurements of the first cervical vertebrae and of the third molar of the upper jaw. With the shape of the first cervical vertebrae, the author show that the wild boar and the pig can be distinguished according to the materials excavated from the Asahi Site. The upper part of the first cervical vertebrae is high in the wild boar, and low in the pig. Referring to the measurements of wild boars of the Jōmon period and of the present, it was deduced that those in which the height of the first cervical vertebrae was more than 58% of the length were wild boars, and those in which the height was less than 58% of the length were pigs. The reason for this may be as follows: Since pigs were given their food, their neck muscles developed less than wild boars, and thus their neck bones also developed less well. According to this standard, among the genus of Sus at the Asahi Site, 15% were boars and 85% pigs.Next, an examination of the third molar of the upper jaw made it clear that the tooth of the sus in the Yayoi period was smaller than that of the Jōmon period. The degree of reduction was great even in comparison with the degree of reduction in wild boars seen after the Jōmon period. Not only the islanding phenomena, including climatic change, increase in human population and pressure from hunting, but also the influence of domestication, is thought to have been a large factor in the reduction in size of the tooth. As for other parts of the body, the author uses the materials of Shimogoori-Kuwanae to explain that the cranium of the pig became higher. The author further explains that the angle made by the extension of the copula and the bottom part of the mandible was larger in pigs than in wild boars.
著者
筒井 早苗
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.188, pp.99-113, 2017-03-31

高松院姝子は二条天皇の后となるものの、天皇との婚姻生活はわずか四年ほどで破綻してしまう。その後は出家を遂げ、女院に列せられて高松院と称し、静かな仏道生活を営んでいると思われたが、唱導の名手として名高い澄憲との間に、密かに海恵、八条院高倉という二人の子を儲けていたことや、さらに女院の早世の原因が澄憲の子を出産したことに伴う疾患であったことなどが、角田文衛氏や田中貴子氏により明らかにされている。これらの研究により、高松院と澄憲との密通関係は明白であるが、日記や寺院文書などに見られる断片的な記事の分析が中心であったため、これまで二人の具体的な関わりはほとんど見えてこなかった。本稿では、国立歴史民俗博物館蔵旧田中家本『転法輪鈔』や金沢文庫蔵の澄憲草の表白を中心に、高松院との関わりが見られる表白の内容を検討し、二人の関係性を捉え直した。澄憲は、高松院の病を癒すための祈祷をしたり、美福門院のための追善供養の導師を勤めたりして、出家後の高松院の人生を導いてきた。二人の関係は、導師と施主という信仰を媒介とした積み重ねをとおして深まっていったといえる。高松院は後半生の導き手として、十五歳年上の優れた唱導僧である澄憲を尊敬、信頼し、彼を重用した。澄憲もまた、聖天供表白に見られるように、高松院に対して導師という立場以上の感情を抱いて接し、女院の死後も懇ろな追善供養を営んで、女院とのつながりを保ち続けていたのである。澄憲の表白は公や他者のために作成したものが大半を占め、それらからは澄憲の教養や巧みな表現力、教説や信仰などを読み取ることができるが、澄憲の心情や内面を示すものは数少ない。そういった意味でも、高松院との関係性の中で自身の率直な心情を述べて祈願した天供の表白は大変貴重であり、今後の澄憲研究にとって有用な資料となり得ることを指摘した。
著者
上野 祥史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.217, pp.291-317, 2019-09

器物を媒介とした政治関係は,分与者の視点で語られる傾向が強い。器物の価値を自明とする意識を相対化し,分与者および受領者が価値を認識する場やプロセスに注目した検討が求められる。朝鮮半島南部の出土鏡は,その問題をもっとも先鋭化させ鮮明にする資料である。本論では,古墳時代と並行する三国時代において,朝鮮半島南部が保有した鏡をもとに,その入手経緯を整理し,倭王権が鏡分与を通じて企図した秩序とその構造を検討することで,倭韓の交渉の実態を描出しようと試みた。まず,朝鮮半島南部出土鏡の概要を整理し,中国での鏡の保有状況と日本列島での鏡の保有状況を対照して,中国鏡と倭鏡の流入プロセスを検討した。中国鏡の流入は,倭韓が対中国交渉を共有し,相互に関係をもちつつも独立した交渉を進め個別に入手したものとして理解することを提案した。倭鏡では,王権からの直接分与か二次流通を介した間接分与かを,価値の認識という視点で検討した。間接分与でも王権が意図した秩序は機能すること,日本列島内部でも間接分与がみえることから,倭王権が意図した秩序は,直接分与に限定しない柔軟な,拡大の可能性を内包する秩序であることを示した。朝鮮半島南部の倭鏡は,北部九州を介した間接分与(二次流通)が想定できることを指摘した。倭韓の交渉の実態を詳述するとともに,鏡を媒介とした秩序が,絶対基準を強く意識しすぎること,分与者と受領者の相互承認を強調しすぎることを改めて指摘し,第三者の認識を可能にする装置としての意義も考える必要があること,朝鮮半島南部の帯金式甲冑や鏡にはそうした機能が期待されたことを示した。
著者
鈴木 茂
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.81, pp.131-139, 1999-03

神奈川県鎌倉市においては,12世紀末の鎌倉幕府開府以来,それまでの農村的イメージから軍事都市へと急変した。この鎌倉の発展にともなって行われた大規模な土地開発と木材利用により鎌倉周辺の森林は多大な影響をうけたことが花粉分析から明らかとなってきた。以下に,(1)永福寺跡,(2)北条高時邸跡の花粉分析結果を示し,鎌倉における鎌倉時代の森林破壊について述べる。 (1)永福寺跡 13世紀初めから前半頃まではスギ,コナラ属アカガシ亜属,シイノキ属―マテバシイ属が優勢であった(花粉化石群集帯Y-Ⅰ)。13世紀中頃から後半の期間はスギが衰退し,マツ属複維管束亜属とコナラ属コナラ亜属が増加した(Y-Ⅱ)。13世紀後半以降ではアカガシ亜属やシイノキ属―マテバシイ属も衰退し,マツ属複維管束亜属が優占するようになった(Y-Ⅲ)。 (2)北条高時邸跡 13世紀前半まではスギ,アカガシ亜属,シイノキ属―マテバシイ属が優勢であった(花粉化石群集帯H-Ⅰ)。13世紀後半~14世紀?の期間はスギ,アカガシ亜属,シイノキ属―マテバシイ属が衰退し,ニレ属―ケヤキ属,エノキ属―ムクノキ属が優勢となり,マツ属複維管束亜属も増加した(H-Ⅱ)。15世紀以降ではニレ属―ケヤキ属,エノキ属―ムクノキ属も衰退し,マツ属複維管束亜属が優勢となった(H-Ⅲ)。このように,13世紀の前半から後半にかけて鎌倉の森林植生が大きく変わることが明らかとなってきた。この期間の鎌倉は大きく発展し,都市整備が盛んに行われた。また,鎌倉の発展にともない木材利用も増大した。以上のように,開府後しばらくした13世紀前半から後半にかけて鎌倉では都市整備・木材利用などにより植生破壊が進み,スギ,アカガシ亜属,シイノキ属―マテバシイ属からマツ属複維管束亜属へと植生の交代がみられた。
著者
浮ヶ谷 幸代
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.53-80, 2017-03-31

本稿では、まず日本の近代化のなかで「精神病」という病がいかに「医療化」されてきたのか、そして精神病者をいかに「病院収容化(施設化)」してきたか、その要因について明らかにする。諸外国の「脱施設化」に向かう取り組みに対して、日本の精神医療はいまだ精神科病院数(病床数)の圧倒的な多さと在院日数の顕著な長さを示している。世界的に特殊な状況下で日本の精神科病院数の減少が進まない要因について探る。精神医療の「脱施設化」が進まない中、北海道浦河赤十字病院(浦河日赤)では日本の精神医療の先陣を切って「地域で暮らすこと(脱施設化)」に成功した。浦河日赤の「脱施設化」のプロセスには二度の画期がある。第一は、精神科病棟のうち開放病棟が閉鎖となったプロセスであり、それを第一次減床化とする。第一次減床化のプロセスについて詳細に描き出し、減床化に成功した要因について明らかにする。第二は、精神科病棟全体の廃止に至ったプロセスであり、それを第二次減床化とする。そのプロセスに起こった政治的なできごとや浦河町が抱える問題をもとに、第二次減床化に進まざるを得なかった浦河日赤の置かれた状況について描き出す。この二度にわたる「脱施設化」のプロセスを描き出すために、エスノグラフィック・アプローチとして、医師や看護師、ソーシャルワーカーなどの病院関係者、社会福祉法人〈浦河べてるの家〉の職員、そして地域住民へのインタビュー調査を行った。精神科病棟廃止に対するさまざまな立場の人が示す異なる態度や見解について分析し、浦河日赤精神科の二回にわたる「脱施設化」のプロセスを描き出す。第二次減床化の病棟廃止と並行して、浦河ひがし町診療所という地域精神医療を展開するための新たな拠点が設立される。診療所が目指す今後の地域ケアの方向性を探る。そのうえで、診療所が目指す地域精神医療のあり方と海外の精神医療の方向性とを比較し、浦河町の地域精神医療の特徴と今後の課題について考察する。最後に、今後のアプローチとして、精神障がいをもちながら地域で暮らす当事者を支えるための地域精神医療を模索するために、「医療の生活化」という新たな視点を提示する。
著者
海津 一朗
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.357-370, 2009-03

中世民衆の変革思想として注目される徳政(復活)の歴史的な位置について,先行研究の論点を整理した上で,高野山金剛峯寺の中核荘園である南部荘の新出史料を検討材料として具体的に考察する。その際,研究史上の最大の争点と思われる顕密仏教改革派の意義付けについて特別の注目をした。高野山領紀伊国南部荘では,通説と異なり中世前期以来,全荘規模の土一揆が発生して鎮守一宮を拠点に自治が行なわれているが,それは荘園領主代替わりや天下飢饉という条件下における百姓の徳政要求に根ざしたものであった。蒙古襲来の緊張のもと,異国征伐の徳政を希求する百姓の要求は,関東地頭と導御上人(唐招提寺律宗改革派)によって民衆運動に組織され,高度の河川灌漑と鍛冶工房敷設など卓抜した技術改革が進行して港湾・都市の整備が進んだ。一宮を変革実現の拠点にしようとした百姓の運動が,聖地興行により御霊宮を荘鎮守にしようとはかった領主層によって組織された時点で政治勢力としての惣国が成立したと評価されよう。このような徳政をめぐる鬩ぎ合いのなかで成立した紀州惣国は,一向一揆による自治を経てピークを迎え,1585年の統一権力による軍事侵攻「秀吉の平和」により終止符を打たれたのである。
著者
篠川 賢
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.44, pp.p119-147, 1992-03

『先代旧事本紀』巻10に収められる「国造本紀」は,序文と本文からなり,本文には130ほどの国造名が掲げられ,そのそれぞれに国造の設置時期と,初代国造の系譜を記した伝文が載せられている。本稿は,そのうちの系譜部分の史料性を検討し,それを通して「国造本紀」の成立過程を考察したものである。「国造本紀」の国造系譜が,単に『古事記』『日本書紀』などの古文献にみえる国造系譜の寄せ集めではないこと,また『先代旧事本紀』の編者による創作でもないことは,今日一般的に認められている。本稿では,まず「国造本紀」の国造系譜を『古事記』『日本書紀』のそれと比較検討することによって,この点を改めて確認した。次いで「国造本紀」の国造系譜の内容・表記等に検討を加え,それは,基本的には各国造氏が実際に称えてきたところの系譜を伝えたものであること,またその系譜が形成された時期は6世紀中頃から後半にかけての時期と考えられることを述べた。そしてそのことから,「国造本紀」の成立過程については,大宝2年(702)に国造氏が決定された際に,各国造氏からそれぞれが称えてきたところの系譜を記したものが提出され,それに基づいて「国造記」が作成され,さらにその「国造記」を原資料として「国造本紀」の国造系譜が書かれたと考えられるとした。The "Kokuzô Hongi" contained in volume 10 of the "Sendai Kuji Hongi" is composed of a preface and a text. The text lists about 130 names of Kuni-no-Miyakko (provincial governor), and contains, for each of them, a report on when the governorship was established and the genealogy of the first Kuni-no-Miyakko in the province. In the present paper, the author examines the historiographical value of the genealogical part,and thereby studies the process of the establishment of the "Kokuzô Hongi". It is generally accepted that the history of Kuni-no-Miyakko included in the "Kokuzô Hongi" is not a simple patchwork of genealogies of Kuni-no-Miyakko such as had appeared in earlier documents such as the "Kojiki" and "Nihon-Shoki", or a fiction fabricated by the editor of the "Sendai Kuji Hongi". In this paper, the author first examines the genealogies of Kuni-no-Miyakko in the "Kokuzo Hongi" by comparing them with those contained in the "Kojiki" and "Nihon-Shoki", and verifies the above assumption.Then, the author investigates the content, style of writing, and so on, of the genealogies of the "Kokuzô Hongi", and tells that the genealogies were basically reports of those actually stated by each Kuni-no-Miyakko, and that genealogies were conceived as formed from the middle to the late 6th century. Finally, the author draws the conclusion that "Kokuzô Hongi" was prepared based on the genealogies which had been presented by each Kuni-no-Miyakko when granted the title; that "Kokuzô-ki" was compiled based on the data presented, and that the genealogies in the "Kokuzô Hongi" were written using the "Kokuzô-ki" as original data.
著者
橋本 裕之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.80, pp.363-380, 1999-03

本稿は後世の人々が古墳をいかなるものとして解釈してきたのかという関心に立脚しながら,装飾古墳にまつわる各種の伝承をとりあげることによって,装飾古墳における民俗的想像力の性質に接近するものである。そもそも古墳は築造年代をすぎても,その存在理由を更新しながら生き続けるものであると考えられる。古墳は多くのばあい,今日でも地域社会における多種多様な信仰の対象として存在しているのである。といっても,こうした位相に対する関心は考古学の領域にとって,あくまでも周辺的かつ副次的なものであった。だが,後世の人々が付与した意味,つまり土着の解釈学を無知蒙昧な妄信にすぎないとして,その存在理由を否定してしまうことはできない。それは古墳にまつわる民俗的想像力の性質に接近する手がかりを隠しており,古墳の民俗学とでもいうべき未発の課題にかかわっている。とりわけ特異な図文や彩色を持つ装飾古墳は,その存在が古くから知られているばあい,民俗的想像力を触発するきわめて有力かつ魅力的な媒体であったらしい。本稿はそのような過程の実際をしのばせる事例として,虎塚古墳・船玉古墳・王塚古墳・重定古墳・珍敷塚古墳・石人山古墳・長岩横穴墓群(108号横穴墓)・チブサン古墳などにまつわる各種の伝承をとりあげ,民俗的想像力における装飾古墳の場所を定位する。こうした事例は考古学における主要な関心に比較して,あまりにも末梢的なものとして映るかもしれないが,現代社会における装飾古墳の場所を再考して,装飾古墳の築造年代以降をも射程に収めた文化財保護の理念と実践を構想するための恰好の手がかりを提供している。地域社会における装飾古墳の受容史を前提した装飾古墳の民俗学は,そのような試みを実現するためにも必要不可欠であると思われるのである。How did people perceive and interpret the earlier Kofun Period burial mounds? In order to get an idea of how folk imagination worked concerning decorated tombs, I discuss several oral traditions related to the decorated tombs. Since the burial mounds are visible above the ground unlike most other archaeological sites, which are buried underground, they have managed to maintain and renew their raison d'etre over the centuries. Indeed, several Kofun Period burial mounds are still objects of local worship. In particular, decorated tombs with unusual signs and pictorial representations sometimes in color seem to have served as a means for people to stimulate and develop their imagination.In this paper, I discuss various oral traditions related to the Torazuka, Funatama, Ōtsuka, Shigesada, Mezurashizuka, Sekijinyama, Nagaiwa No. 108, and Chibusan tombs. I focus on the kind of places these tombs have occupied in people's imagination and mind.This kind of study has been considered marginal in Japanese archaeology, but it is in fact highly relevant to archaeological heritage management. It gives us a clue to understanding how and why archaeological sites such as decorated tombs have been protected. It also helps us put these archaeological sites into the context of contemporary society.
著者
齋藤 努
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.210, pp.153-169, 2018-03-30

神奈川県津久井郡(現在の相模原市)の津久井城御屋敷跡(16世紀後半)から出土した金粒付着かわらけに含まれている微細な金粒子を透過X線撮影によって検出し,そのうち表面に露出している5点を,マイクロフォーカス型蛍光X線分析装置で元素組成分析した。いずれからも,金粒に由来すると考えられる金,銀が見出された。銅も検出されているが,金粒が微細であることと,据置型蛍光X線分析装置によって周辺の付着熔融物にも銅が含まれていることがわかったので,金粒そのものに含まれているものか,付着熔融物に含まれているものか,あるいはその両者に由来するのか,判定できない。本分析資料の熔融物には,特徴的な元素として亜鉛が含まれていた。甲斐周辺の遺跡では,中山金山遺跡や甲府城下町遺跡の資料からも検出されており,化学組成とこれらの遺跡の年代のみで判断すると,甲斐から金がもたらされたとみることもできる。しかし,歴史的にみると,本分析資料は天正年間以降の,武田氏と後北条氏の関係が悪化していた時期のものと捉えられ,甲斐から金がもたらされたとは考えにくい。金・銀・銅・鉛・亜鉛などが一連の熱水鉱床で形成されていくことを勘案すると,駿河や伊豆の金山の可能性を考えておいた方がよい。特に,亜鉛が検出された中山金山と同じ鉱脈に属する富士金山には,注意を払っておく必要がある。神奈川県小田原市の小田原城跡御用米曲輪(16世紀後半)から出土した金箔かわらけ等を据置型蛍光X線分析装置で元素組成分析した。木の葉形金具と金箔片は,かわらけに付着している金箔とは異なる組成であり,異なる工程で作られたと考えられる。また,かわらけごとの金箔の組成の違いや,同一のかわらけ内でも金箔の分析部位による組成の違いなどが見出された。これらからみて,金箔はいずれも金,銀,銅を混合した合金として作られてはいるが,混合比率がわずかずつ異なる金箔が混在して使用されていることがわかった。
著者
新川 登亀男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.277-327, 2015-03

本稿は,法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘が日本列島史上における初期の仏教受容のあり方を物語る長文の稀有な情報源であるとの問題意識に立つ。そして,この光背銘をいかに読み,解釈するかということに終始するのではなく,この光背銘がどのように成り立ったのか,そこにいかなる歴史文化が投映されているのかを重要視する。そのためには,銘文中の不可解な用語を単語として切り出し論じることの閉塞性を反省し,人々の行為や心情ないし思考を言い表わしていると思われる表現用法や文に注目する。そこで注目したのが,「深懷愁毒」と「當造釋像尺寸王身」の2か所である。この2か所の表現とその文脈に沿う先例は,けっして多くはない。しかし,そのなかにあって極めて注目すべき先例が,『賢愚經』巻1第1品と『大方便佛報恩經』巻1・2・3に見出せる。それは,釈尊本生の捨身(施身)供養譚や,その他の死病譚,そして優塡王像譚(仏像起源譚)などの譬喩物語に含まれている。この二経は,ともに中国南北朝期に定着し,易しい仏教入門書として流布した。光背銘文の作者は,この二経の譬喩譚を承知しており,そこで語られている王や釈尊の激烈な死(擬死)や不在(喪失)の様と,それに遭遇した人々のこれまた壮絶な哀しみや恐れの様を,現実の「上宮法皇」らの病や死とそれへの反応とに当てはめて事態を認識し,受け止めようとしたものと考えられる。加えて,そこには,自傷行為や馬祭祀などをともなう汎アジア的な葬儀習俗も作用していた。そして,このような作文を可能にするのは「司馬鞍首止利佛師」であるとみる。なぜなら,「尺寸」単位や仏像起源譚に関心をもつ「秀工」,また「司馬」でもある「止利」だからである。This article considers the inscription on the halo of the Shaka Triad enshrined in the Kondo (Main Hall) of Horyu-ji Temple as a long script containing rare information about the early stages of acceptance of Buddhism in the Japanese Islands. Based on this acknowledgement, this article emphasizes the circumstances to create the halo inscription and the historical and cultural background behind it rather than its reading or interpretation. Therefore, instead of being trapped in arguments over the meaning of each term in the inscription, this study focuses on the expression styles and sentences considered to describe people's actions, feelings, and thoughts. Specifically, our attention is aimed at two phrases " 深懷愁毒" (deeply worry, lament, and agonize) and " 當造釋像尺寸 王身" (commit to create a statue of Shaka in the same size as the King) .There are not many precedents of these two phrases or contexts. Among such examples, Xianyu jing (the Sutra of the Wise and the Foolish) Vol.1, Book 1 and Da fangbian fo baoen jing (the Sutra of the Great Skillful Means of the Buddha to Reciprocate [His Parents'] Kindness) Vol. 1 to 3 are worth investigating. The related concepts can be found in the figurative stories of the sutras, such as the tales of self-sacrifice in the former lives of Buddha, the tales of death and illness, and the tale of King Udayana image (the first Buddha image) . These two sutras were established in the Nan-Bei Chao period and spread as an easy guide to Buddhism. The creator of the halo inscription is considered to have known the figurative stories in these sutras and compared the tragic deaths (feigning deaths) and absence (loss) of kings and Buddha, as well as the sadness and fear of the bereaved, described in the stories with the disease and deaths of the retired Emperor Jogu and others and the reaction of surrounding people in order to realize and accept the actual situation. He was also influenced by the funeral customs common across Asian cultures, such as practices including self-injurious behaviors and horse sacrifices. This study attributes the inscription to Shibano-Kuratsukurino-Obitotori, Buddhist Sculptor, since he was Tori from the Shiba clan and a craftsman interested in the tale of the first Buddha image and life-size statues.
著者
青木 隆浩
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.156, pp.245-264, 2010-03-15

近年,世界遺産の制度に「文化的景観」という枠組みが設けられた。この制度は,文化遺産と自然遺産の中間に位置し,かつ広い地域を保護するものである。その枠組みは曖昧であるが,一方であらゆるタイプの景観を文化財に選定する可能性を持っている。ただし,日本では文化的景観として,まず農林水産業に関連する景観が選定された。なぜなら,それが文化財として明らかに新規の分野であったからである。だが,農林水産業に関連する景観は,大半が私有地であり,公共の財産として保護するのに適していない。また,それは広域であるため,観光資源にも向いていない。本稿では,日本ではじめて重要文化的景観に選定された滋賀県近江八幡市の「近江八幡の水郷」と,同県高島市の「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」をおもな事例として,この制度の現状と諸問題を明らかにした。
著者
川森 博司
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.32, pp.p1-21, 1991-03

The two main topics of Japanese folktales are marriage and fortune-making. This thesis analyzes the latter type of folktales in an attempt to reveal the spirit of people who lived in a typical Japanese village community to hand down these pieces of folktales.Significant among the type of fortune-making folktales are stories characterized by antagonism between I-the main character who makes a fortune and II-another character who fails to make a fortune. The antagonism is expressed in various combinations of conflicting parties such as a man and his wife, a man and his neighbor, or a man and his real brother or stepbrother, among which the preferred one in Japan is that of a man and his neighbor.In the Amami and Okinawa islands, however, a type of antagonism between 'a man and his brother' appears in a high ratio depending on some kinds of stories. Detailed analysis of folktales in the Amami and Okinawa islands is expected to identify the difference from folktales in the main land of Japan so that the nature of antagonism between characters in Japanese folktales may be better understood.The Japanese features may also be more clearly understood by comparing her folktales with that of other nations to reveal their similarities and differences. For example, in Korea, a type of antagonism between 'a man and his brother' appears more frequently in their folktales. More careful comparison, however, requires a classified collection of materials from various countries, based on which international comparison should be made.The fact that a type of antagonism between 'a man and his neighbor' is the preferred type in Japanese folktales indicates that the relationship with neighbors was of main concern to people in a typical Japanese village community. Folktales provide valuable resources for investigating their inner world.