著者
山下 裕作
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.181, pp.39-69, 2014-03

筑波研究学園都市は昭和55年に概成した計画都市である。43の国立試験・研究・教育機関とその勤務者,及び家族が移転・移住した。これほど大規模な計画都市は,筑波以前には無く,現在まで類を見ない。近年はつくばエキスプレスの開通に伴う民間ベースの都市開発により,洗練された郊外型都市に変貌しつつある。本報告はこの計画都市が最も計画都市らしかった時代(概成期)における自然と生活について検討する。筑波研究学園都市の「自然」は,周辺農村の二次的自然とは異なり,人工の緑地である。生産活動に利用されることは無く,当時植栽されたばかりの「自然」も人とのつきあいの経験が無い。それでも,学園都市の住民たちは,そうした「自然」を活用し,深い愛着を抱いてきた。特に移住者の子弟達にはそうした傾向が見られる。この移住者達は「新住民」と呼ばれていたが,その中身は一様ではない。移住時期によってタイプに分かたれ,それぞれ性格づけられていた。しかし,子供達は懸命に新たな同級生や環境に折り合いを付けつつ一様に筑波を故郷ととして開発しようとしていた。また,元々周辺農村に暮らしてきた住民達は,この新住民達,また学園都市そのものと対立することもあったが,徐々に気むずかしく見える新住民達や,人工的な自然にも慣れ親しむようになる。そして学園都市中心部で開催される「まつりつくば」は,これら旧農村部の住民達によって担われる。その一方で現在「新住民」たちの姿は見えない。彼等は「つくばスタイル」という都市開発のスローガンのもと,「知的環境」を担う要素となりつつある。また,概成後30年が経過し,人工緑地は著しく伸長した。もはやかつての子供達が遊びほうけてきた「故郷の自然」では無くなってきている。開発者の「ふるさと」は消滅しつつある。同様なことは,大規模団地で生活した多くの子供たちにも言えることであろう。ひとり筑波研究学園都市だけの問題ではない。
著者
栄原 永遠男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.192, pp.13-25, 2014-12-24

正倉院文書に関する研究は,写経所文書の研究を中心とすべきである。そのための前提として,接続情報に基づいて,断簡の接続を確認し,奈良時代の帳簿や文書を復原する必要がある。「東大寺写経所解」を例とすると,これは9断簡からなっている。『大日本古文書(編年)』の断簡配列は,その根拠があいまいで,誤りを含んでいる。接続情報に基づいて断簡を配列し直すことにより,これが天平19年12月15日付の文書であることを,かなりの確率で言うことができる。そうすると,この文書は「東大寺」に関する最古の史料であることになる。国家仏教の中心寺院として東大寺が位置付けられた画期を示しており,重要である。個別写経事業研究は,断簡の集合体である写経所文書を写経事業ごとに仕分ける意味を持つが,一方で,独自の意義を有している。その例として注陀羅尼4000巻の写経事業に注目する。これは,天平17年8~9月ごろに始まったと推定される。この推定が妥当であるとすると,この写経事業は,聖武天皇の病気平癒祈願として行われたと推定できることになる。そのころすでに宮中で密教的な修法が行われていたことを示す。個別写経事業研究は,奈良時代の仏教,仏教と政治との関係などの研究に資するところが大きい。
著者
山本 隆志
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.83-105, 2010-03

荘園・村落に居住する百姓の生活は田畠耕作を基本としたが、それだけでない。地域の自然を自然に近い状態で利用し、生活の糧としてきた。このような地域的自然の利用・用益を「生業」と概念化し、そのあり方を歴史的にとらえようとすると、「中世史」という時代区分のなかだけで問題をとらえることは難しい。本稿では、葦と菱を事例にして、平安時代から江戸時代前期の史料に基づいて考察するものである。難波浦では浦の用益の一つとして葦苅取が平安期から盛んであり、都の需要と結びついて増大したが、個別の荘園や村落の排他的独占地域は設定されなかった。琵琶湖周辺では鎌倉期からの用益が認められるが、南北朝期には荘園領域に編入されており、奥嶋庄では百姓等が庄官と対抗しつつ自己の独占的排他的葦場を設定する。これが戦国期になると村の排他的葦場を確保する動きが多くなり、当該地域の舟運・漁業などの多様な用益を否定することになるが、多様的用益を求める郷・村の動きも強く、相論が恒常的となり、調停も日常的となり、場合によっては領主権力に依存することとなった。菱の用益も奈良・平安期から見られるが、平安後期の武蔵大里郡のように水害地に在地側が意図的に栽培することも見られ、農民の救荒的食料として期待された。戦国~江戸期には、尾張や摂津の湿地帯では、菱栽培が都市需要を見込んだ商品的作物として栽培された例が見られるが、菱を独占的排他的に栽培する菱場を設定するにはいたらなかった。葦・菱ともに浦や湖辺の湿地に用益が見られるが、それは湿地の多様な用益の一つとして進展するのであり、葦場として特化した用益地の設定には在地での抵抗が起こり、葦場は設定されても、限定的な方向が在地の相論・調停のなかで展開する。湿地用益は、特定の用益目的に限定される傾向にも向かうことは少なく、多様な主体と用益形態が展開しており、そうした方向が在地での相論・調停のなかで維持されてきた、と考えられる。「湿田」もこのような多様な用益形態の一つであろう。
著者
岩井 宏実
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.36, pp.p333-352, 1991-11

曲物は,刳物・挽物・指物(組物)・結物などとともに木製容器の一種類であるが,その用途はきわめて広く,衣・食・住から生業・運搬はもちろんのこと,人生儀礼から信仰生活にまでおよび,生活全般にわたって多用されてきた。そして,円形曲物・楕円形曲物は,飛鳥・藤原の時代にすでに大小さまざまのものが多く用いられ,奈良時代には方形・長方形のものがあらわれ,古代において広くその使用例を見ることができる。今日広く普及している桶・樽などの結物は,鎌倉時代後期から室町時代初期にその姿を見せるが,実際に庶民の日常生活に広く用いられるようになったのは,近世になってからである。したがって,それ以前は桶といえばすべて曲物であった。こうした曲物は神事・仏事にも多く用いられており,神具でいえば御樋代・奉納鏡筥・火桶・忌桶・三方・折敷・折櫃・行器その他さまざまな形状の神饌容器がある。また仏具では経筒内容器・布薩盥・閼伽桶・浄菜盆あるいは各種仏具容器として用いられている。神事や仏事は古風を尊び,できるだけ原初の姿を伝承しようとする風があるゆえ,それに用いる神具・祭具や仏具も古い用法や形状を伝えているものが多い。そこでそうした現行顕在曲物を検討していくとともに,出土遺物や文献資料あるいは絵巻物などの絵画資料をあわせて考察すると,曲物の様式的変遷も明らかになってくる。その結果,曲物のはじめは底板が固定されたものではなく,平らな板の上に側板を載せただけのもので,つぎに底板を側板の口径より大きく切り,随所に孔をあけて紐や樹皮で側板を底板に綴じつけたものになり,さらに底板に側の内径にあたる部分を厚くし,側板の接する部分から外側を薄くし,底板に側板がよく納まるようにしたカキイレゾコに似た仕様のものへとかわり,そこから漸次進歩して今日見るかたちになる過程を知ることができる。The round chip vessel is a type of wooden receptacle, together with the hollowed vessel, turned vessel, sectional vessel, tied vessel, and so on. Its wide range of applications extends from clothing, food, housing, industry, and transportation, to ceremonies in daily life and religious life; in other words, it has been widely used in all aspects of human life. Various sizes of round or oval chip receptacles were used as early as the Asuka and Fujiwara periods. In the Nara period, square or rectangular receptacles appeared. Thus, there are many examples of its usage in the Ancient times.Tied vessels such as pails or barrels, which are wide-spread today, appeared from the later Kamakura to the early Muromachi periods; but it was in the Early Modern period that they actually became widely used in the everyday life of the common people. Therefore, pails before the Early Modern Period can all be considered as round chip vessels.These round chip vessels were much used in Shinto and Buddhist ceremonies as well. Shinto ritualistic implements include Mihishiro, Honō Kagami Bako (mirror boxes), Hioke (fire pails), Imioke, Sanbō (offeratory stands), Oshiki (plates), Oribitsu (boxes), Hokai, and other various types of receptacles for food and wine offered to the gods. Buddhist ritualistic implements include Kyōzutsunaiyōki (cylindrical cases for sutras), Fusatsu Tarai Akaoke (water pails), Jyōsaibov (trays for vegetables), and other various cases for Buddhist implements. Since there is a tendency in Shinto or Buddhist rites to respect the ancient manner and to hand down the original styles, many of the Shinto or Buddhist implements used for these rites retain their ancient usages and shapes.Therefore, while studying the existing round chip receptables, excavated articles and materials seen in philological documents or picture scrolls were investigated to clarify the stylistic transition of round chip receptables, as a result of which, the following process came to light. 1) At first, the bottom board was not fixed, but the side board was put on a flat bottom board. 2) Then, the bottom board was cut larger than the side board, and holes were pierced at appropriate positions for stitching the side board together with the bottom board, using a cord or bark string. 3) The bottom board was made thicker in the part where it touched the inner diameter of the side board, and the outside of the side board was thinned starting from where it touched the bottom board, so that the bottom board would fit well to the side board. This is similar to the specification for Kakiirezoko. 4) Finally, the round chip receptables were improved into the form we see today.
著者
金菱 清
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.241-269, 2011-11-30

世界各地に所在する「不法占拠」は,国家の法律の枠組みの外側に位置づけられるのかそれとも包含されているものなのか。通常「不法占拠」地域は,法律の外側で扱われる対象である。そのため,実際に法律を運用する行政当局は,「不法占拠」を仕方なく黙認するかそれを否定すべく強制退去の手続きをとることになる。それに対して,本稿が扱う事例は,日本最大級の「不法占拠」地域に対して,法制度に則って公的補償を実施し「不法占拠」を円満に解消するものである。この点からすると「不法占拠」とは国家の法律に内包された存在でもあると言える。本稿は,前者の「不法占拠」を法制度の外側として切り離していた事象について,「人格崇拝」概念を用いながら,法制度のなかに取り込み「不法占拠」と公的補償とを架橋する論理とは何かということを検討する。「人格崇拝」は,社会が複雑化し,分業が進み,変化しやすい個々の意見のなかで,唯一無二のものとして安定した保証できる概念である。ただし,当該の「不法占拠」地域は,環境(騒音)・国民国家(在日)・土地(法)という本来人格概念を適応される枠組みから外され,剥き出しにされた人々が集住する場所である。ところが,「人格崇拝」の概念が無効だと言っているのではなく,むしろ人格化される過程のなかで,再編成されていく契機が制度上あることを「不法占拠」地域に対する公的補償は示している。具体的には,①行政レベルにおいては,空港施設の人格化によって,②民間レベルにおいては,お地蔵さんの人格化によって,「不法占拠」地域に暮らす人々に対する公的補償が行われ,「不法占拠」地域が解消されたことを明らかにする。本稿の意義は,「人格崇拝」の再配置によって局所的で集積的な貧困を軽減させるための社会政策のヒントを提示することにある。Should squatting, which is a worldwide phenomenon, be treated as an extralegal concept positioned outside the framework of national law, or should it be incorporated within legal frameworks? Squats are normally regarded as areas in which national law does not apply, and as such, the civil authorities of nations that do not address squatting in their legal systems either turn a blind eye to it or resort to eviction. This report, however, concerns itself with one of the biggest cases of illegal occupation in Japan, and how the authorities sought to resolve the issue amicably through public compensation conforming to the nation's legal system. In this respect, illegal occupation could be seen as having been incorporated within the nation's legal system.In this paper, I use Durkheim's concept of the cult of the individual to examine the logic that enables squatting, which in many countries is treated as lying outside the law, to have been incorporated into a legal system along with public compensation. Durkheim's "cult of the individual" defines the individual as the one and only constant on which people can count in the modern world with its increasing complexity, division of labor and diversity of ever-changing opinion. The squatters concerned in this case were forced to live life bare, alienated from the privileges that normally attach to individuals, such as good environment (the site suffered jet noise pollution) , status as nationals (the squatters were Korean) , and property under the law, but this does not invalidate the concept of the cult of the individual. Public compensation for the illegally occupied land rather pointed to opportunities in the system for remediation in the process of personification.More specifically, I attempt to show how it was in the context of personification of (1) airport facilities at the public administration level and (2) roadside deities at the private sector level that compensation for the people living on the illegally occupied site was arranged and illegal occupation resolved. The purpose of this report is to provide social policy pointers to halting and reversing the localized proliferation of poverty.
著者
大出 春江
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.323-354, 2008-03

本論の目的は、性と出産の社会統制が大正初期にどのように進められたのかを明らかにすることである。そのための方法としては一九一一年から一九一四年までの間に、雑誌『助産之栞』(一八九六年〜一九四四年まで刊行された月刊誌)に採録された当時の社会的事件の内容分析を行う。この時期の内容分析から重要な点を四つにまとめることができる。一つは親による子殺しという残酷な事件や不義密通といった性的逸脱の出来事を掲載しつつ、同じページに〈聖なる出産〉ともいうべき皇室の出産記事が囲みで同時に報道されていること。二つめに、陰惨で汚穢に満ちた事件の状況がリアリティをもって具体的に数多く記述されること。三つめには畸形児に対する露骨なまなざしが存在すること。四つめはこれらの記事が一九一四年末から忽然と消え、それらの陰惨な事件にかわって多胎児の誕生に対する注目、産児調節、そして人口統計が繰り返し登場するテーマとなっていくことである。これら四つの特徴は特に一九三〇年代の性と生殖の統制に関する一連の動向を考えれば十分納得できることばかりかもしれない。しかし、より具体的にどのようなメディアがどのような形で機能し、結果としてよい性と悪い性、好ましい出産と好ましくない出産、優性な子どもと劣性な子どもの振り分けが人々の意識に埋め込まれていくのか、そのプロセスと回路とを知ることができるだろう。その一翼を担ったメディアとして、この助産雑誌自体も重要であったが、衛生博覧会や児童展覧会といった装置は模型や現物を提示することで、都市の一般市民を対象に好奇や驚き、不気味さの感覚と共に正常なるものの価値を教育し、性や生殖そして健康の社会統制を進める重要な機能を担ったといえる。こうしたメディアを通じて都市から村落へ伝搬する形で、性と生殖の統制が進行し、人々の性と出産をめぐる日常生活意識が変容していったのではないだろうか。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.50, pp.p3-22, 1993-02

皇子宮とは、古代において大王宮以外に営まれた王族の宮のうち皇子が居住主体である宮を示す。本稿では、この皇子宮の経営主にはどのような王族が、どのような条件でなり得たのかを考察の目的とした。その結果、皇子宮の経営主体は大兄制と密接な関係にあるが、必ずしも大兄に限定されないことが確認できた。皇子宮の経営は、王位継承資格を有する王族内の有力者が担当し、とりわけ同母兄弟中の長子である大兄が経営主体になることが多かったが、それ以外にも、庶弟のなかで人格資質において卓越した人物が特に「皇弟(スメイロド)」と称されて、その経営権が承認されていた。穴穂部皇子・泊瀬仲王・軽皇子・大海人皇子・弓削皇子などがその実例と考えられる。「皇弟」は天皇の弟を示すという通説的解釈が存在するが、実際の用例を検討するならば、通説のように同母兄が大王位にある場合に用いられる例は意外に少なく、穴穂部皇子や弓削皇子など大兄以外の有力な皇子に対する称号として用いられるのが一般的であった。「皇弟(スメイロド)」の用字が天皇号の使用以前に遡れないとするならば、本来的には「大兄」の称号に対応して「大弟(オホイロド)」と称されていたことが推定される。ただし、大王と同じ世代のイロド皇子がすべて「皇弟」と称されたわけではないことに留意すべきであり、大兄でなくても、人格・資質において卓越した皇子が第二子以下に存在した場合に限り、こうした称号が補完的に用いられたと考えられる。「大兄の原理」のみにより王位継承は決定されるわけではなく、「皇弟の原理」とでも称すべき異母兄弟間の継承や人格・資質をも問題にする副次的・補完的な継承原理は「大兄の時代」とされる継体朝以降も底流として存在したことが推測されるのである。The term, "Prince's Palace" is used to mean a royal palace which is the main residence of a prince and run separate to the imperial palace, in ancient times. This paper aims to examine what kind of royal person was able to become the head of a prince's palace, and under what conditions.As a result, it was confirmed that the head of a prince's palace was not necessarily limited to the eldest brother, though there was a close connection with the eldest-prince system. An influential member of royalty with the right of succession to the throne was in charge of the management of the prince's palace. The eldest prince, that is the eldest of brothers born from the same mother, became the head in most cases. However, the right to manage the palace was often authorized to a brother born from a different mother, but gifted with excellent character and talent. Such a brother was given the special title of "Imperial Brother (Sumeirodo)". Princes Anahobe-no-miko, Hatsuse-no-Naka-no-ō, Karu-no-miko, Ōama-no-miko, and Yuge-no-miko are considered to be examples of such princes. There exists a conventional understanding that "Sumeirodo" meant a brother of the Emperor. However, an examination of examples of usage shows that there were in fact few Imperial Brothers whose brother born from the same mother was on the throne, as the conventional theory supposes. The term was generally used as a title for influential princes, such as Anahobe-no-miko and Yuge-no-miko, who were not the eldest of brothers. If we assume that the usage of "Sumeirodo" cannot date back to before the use of the title of "Tennō" (Emperor), it may be supposed that these princes were originally called "Ōirodo", as opposed to the title of "eldest brother".However, we should note the fact that not all Irodo princes of the same generation as the Emperor were called "Sumeirodo". It may be considered that only when there was a prince of outstanding character and talent among the second and subsequent brothers, the title of "Sumeirodo" was used supplementary. The succession to the throne was not determined only by the "principle of the eldest brother". It is supposed that there underlay a secondary and supplementary principle of succession, which may be called the "principle of Sumeirodo". It allowed for the possibility of succession from among brothers born from different mothers and took into account the character and talent of the successor, even after the Keitai era, which is regarded as the "age of the eldest brother".
著者
永島 朋子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.218, pp.183-204, 2019-12

本稿は、延喜太政官式123考定条に規定されている挿頭花(かざし)を素材に、平安貴族社会の可視的表象の一端について考察した。挿頭花には造花を装飾する場合と生花を装飾する場合とがある。『延喜式』では一例のみ挿頭花についての記載が見える。それが延喜太政官式123考定条である。延喜太政官式123考定条は、八月十一日に太政官職員の長上官の考文を太政官曹司庁で大臣に口頭報告する儀式である。しかしながら、延喜太政官式123考定条は、挿頭花が穏座三献の場で装飾されることを定めているのみで、実態については記していない。そこで、定考の挿頭花装飾の具体的な様相を解明するため、『政事要略』巻二十二所引西宮記本文に着目し、検討を加えた。その結果、定考での挿頭花には大臣は白菊、納言は黄菊、参議は竜胆、弁以下少納言には時の花(=生花)の挿頭花が装飾されていること、その装飾の場面は太政官曹司庁で行われる饗宴のうち穏座三献であること、穏座三献で用いられている挿頭花は雅楽寮が奏楽を行う間、挿頭花装飾者よりも下位の者が手に取り、装飾者の冠に挿すこと、それがひと続きの作法であったことなどの特徴を抽出した。その上で、定考で用いられる挿頭花の区分は太政官政務処理上の権限の違いを可視化していることなどを指摘した。そして、『政事要略』所引西宮記本文が『西宮記』を著した源高明が大納言として習得した村上天皇の天徳・応和年間(九五七~九六三)までの様相を伝えていることから、この段階までには挿頭花装飾の序列と装飾者の固定化が生じていることを確認した。定考は、天皇の出御が見られないとはいえ、天皇の官制大権に関わる儀式でもある。その穏座三献で挿頭花を用いる制度的な根拠となったのが、延喜太政官式123考定条であることなどを述べた。
著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.70, pp.59-95, 1997-01

小林行雄は,1955年に「古墳の発生の歴史的意義」を発表した。伝世鏡と同笵鏡を使い,司祭的首長から政治的首長への発展の図式を提示し,畿内で成立した古墳を各地の首長が自分たちの墓に採用していった意義を追究したのである。この論文は,古墳を大和政権の構造と結びつけた画期的な研究として,考古学史にのこるものと今日,評価をうけている。小林は,この論文で,鏡と司祭者とのかかわりを説明するために,『古事記』・『日本書紀』の神代の巻に出てくる天照大神の詔を引用した。しかし,神の名を意図的に伏せた。この論文以後も,小林は伝世鏡について言及したが,天照大神の言葉を使うことはなかった。1945年の敗戦前には,国民の歴史教育の場では,日本の歴史とは天皇家の祖・天照大神で始まる記紀の記述を歴史的事実とする「皇国史」のことであった。そこには,石器時代に始まる歴史が介在する余地はなく,考古学の研究成果は抹殺されていた。敗戦後,石器時代から始まる日本歴史の教育がおこなわれるようになる。しかし,科学的歴史を否定し,「皇国史」を復活させようとする政治勢力が再び勢いをもりかえしてくる。小林は,敗戦前から,記紀の考古学的研究につよい関心をもち,それに関する論文を書いてきた。けれども,実証を重んじる彼の学問で,実在しなかったはずの天照大神の言葉を引用することは,一つの矛盾である。さらに,神話教育を復活させようとたくらむ勢力に加担することにもなる。小林はそのことに気づいて,伝世鏡の意味づけに天照大神の言葉を用いるのをやめたのではないか。昭和時代前・中期の考古学研究は,皇国史観の重圧下で進められたことを忘れてはならない,と思う。Prior to Japan's 1945 defeat in the-Second World War, the teaching of its early history consisted of stories taken from 8th Century accounts (the Kojiki and Nihonshoki) which emphasized the history of the Japanese imperial court, said to have begun with its divine ancestor the goddess Amaterasu Ōmikami. What came to be taught in the post-war period was a more credible Japanese history for which the Stone age served as a starting point. However it was not long before conservative political forces reemerged in an attempt to revive emperor-centered education by denying scientific history.In 1955 the excellent archaeologist Kobayashi Yukio published a paper entitled "The Historical Significance of the Emergence of Kofun", in which, using bronze mirrors as evidence, he investigated the meaning and significance of the chieftains of various local regions adopting the Yamatostyle key hole shaped burial mounds to their tombs, while suggesting a process by which the position of chief priest developed into that of political chieftain. Kobayashi's linking of the emergence of these tumuli to the establishment of a Yamato political authority is now recognized as a seminal piece of archaeological research.To explain the link between bronze mirrors and the role of chief priest, Kobayashi made use of the phrases attributed to Amaterasu Ōmikami in the Kojiki and Nihonshoki, but at the same time deliberately avoided mentioning her name. Even in his later work on the same issue he never used the phrases nor term of goddess. The importance he attached to material evidence made it impossible for him, when dealing with historical fact, to employ the phrases of the god or goddes like Amaterasu Ōmikami, who patently had never existed. Further, to have done so would have appeared to lend support to those political forces intent on reviving a form of education in which Japanese history was to be based on mythology. No doubt aware of this, Kobayashi refused to use the phrases of the goddess. It should always be remembered that progress in Japanese archeological studies has demanded resistance to the pressures inherent in emperor-centered history.
著者
杉井 健
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.173, pp.541-562, 2012-03-30

きわめて良好な遺存状態を保つ甲冑や鉄鏃などが出土したマロ塚古墳であるが,その正確な所在地はいぜん不明のままである。しかし,熊本県北部を流れる菊池川の支流,合志川の中流域西半部左岸をそのもっとも有力な候補地域とすることまでは可能である。合志川中流域西半部左岸には,いくつかの注目すべき特質が存在する。第1に,当地域にはじめて築かれた前方後円墳(高熊古墳)には窖窯焼成技術導入期の埴輪が樹立され,しかもそれは畿内地域の埴輪と同じ技術体系のなかに位置付けられるきわめて精美なものである点である。第2に,合志川下流域まで含めると帯金式甲冑出土古墳が3基存在し,その基数は熊本県地域では緑川中流域に並ぶ多さである点である。第3に,大規模な円墳が古墳時代中期に集中して築かれる点である。第4に,方形周溝墓あるいは小規模な円墳が古墳時代前期から後期に至るまで連綿と築造され,そのなかに朝鮮半島系渡来文化の一要素とみられる馬埋葬をともなう円墳が存在する点である。こうした特質は,当該地域が,古墳時代中期中葉になって,古市・百舌鳥古墳群を造営した中央政権と密接な関係をもつに至ったことを示している。これと類似の動向を示す地域には,熊本県阿蘇谷や緑川中流域,あるいは福岡県八女地域や筑後川中流域の吉井地域などがあるが,これらは古墳時代中期前葉までには有力な古墳が築かれていなかった地域である。さらに,有明海に直接面しない内陸部である点でも共通する。これらのことから,古墳時代中期中葉の有明海沿岸地域では,海岸沿いのルート以上に河川づたいの内陸ルートが重視されたこと,しかもそれは中央政権側の意図のもとに新たに整備された可能性があることを指摘した。合志川中流域西半部左岸は菊池川中流域の菊鹿盆地と南の熊本平野部を結ぶ内陸ルートの要衝であるが,マロ塚古墳に多くの武器武具類が副葬された要因の一端はまさにここにあるのである。
著者
河西 英通
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.71-119, 2019-03

1960年代後半の北海道大学の事態(北大闘争)は,戦後民主化闘争の流れと,ベトナム反戦運動や大学が抱えていた諸矛盾,さらには党派間の対立がぶつかり合うなかで生じた。本論は学内に大量に散布されたビラや当該期の学長の関係文書を中心に,学生新聞の紙面も追跡しながら,学生教職員の心情にまで踏み込んだ分析を試み,北大闘争の普遍性・個別性そして個人性の解明をめざした。北大闘争は周回遅れの大学闘争に見えたが,戦後の大学民主化においては1947年に全国に向けて大学制度改革案を発表するなど先駆的役割を果していた。大学をあげて取り組んだ1950年のイールズ闘争も知られている。大学民主化運動は60年代後半の北大闘争の渦中でも,栄えある「革新」史として回顧された。しかし一方で,他大学と同様に反戦運動,寮自治,軍事研究などが問題化していた。こうした大学民主化の伝統と1950年代半ばから60年代半ばに蓄積された大学の諸矛盾解決の焦点として,1967年に「革新学長」が誕生する。以後,北大闘争は(1)「革新学長」を先頭とし,学生自治会や教職員組合が推し進める大学民主化路線と,(2)それに批判的で大学そのものの存在意味を問うクラス反戦連合や全共闘,新左翼の大学解体路線が対抗し,(3)その間に解放大学運動などを通じて大学の内実を大幅に変革しようとする「造反」教員が位置するという構図をとる。北大闘争のピークは1968年ではなく1969年であり,(1)~(3)のアクターは激烈な対立を見せつつ,それぞれの内部にも複雑な構造をはらんでいく。(1)には強固な革命思想や暴力志向,(2)には反マルクス主義的傾向やロマンチシズム,(3)には敗北主義・諦念主義が見られた。北大闘争とは,戦後民主化の系譜に立つ北大民主化運動が60年代から70年代にかけた政治情況と大学の大衆化のなかで展開しきれず,大学という存在が地域社会における絶大な知的権威にとどまることで,社会変革の主体として形成されなかった歴史である。
著者
真鍋 祐子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.293-309, 2001-03

本稿の目的は,政治的事件を発端としたある〈巡礼〉の誕生と生成過程を追うなかで,民俗文化研究の一領域をなしてきた巡礼という現象がかならずしもア・プリオリな宗教的事象ではないことを示し,その政治性を指摘することにある。ここではそうした同時代性をあらわす好例として,韓国の光州事件(1980年)とそれにともなう巡礼現象を取り上げる。すでに80年代初頭から学生や労働者などの運動家たちは光州を「民主聖地」に見立てた参拝を開始しており,それは機動隊との弔い合戦に明け暮れた80年代を通じて,次第に〈巡礼〉(sunrae)として制度化されていった。しかし,この文字どおり宗教現象そのものとしての巡礼の生成とともに,他方ではメタファーとしての巡礼が語られるようになっていく。光州事件の戦跡をめぐるなかでは犠牲となった人びとの生き死にが頻繁に物語られるが,それは〈冤魂〉〈暴徒〉〈アカ〉など,いずれも儒教祭祀の対象から逸脱した死者たちである。光州巡礼における死の物語りは,こうしたネガティヴな死を対抗的に逆転評価するなんらかのイデオロギーをもって,「五月光州」のポジティヴな意味を創出してきた。すなわち光州事件にまつわる殺戮の記憶の物語りに見出されるのは,自明視された国民国家ナショナリズムを超え,それに対抗する代替物としての民族ナショナリズムを指向する政治的脈絡である。光州をめぐるメタファーとしての巡礼は,それゆえ,具体的には「統一祖国」の実現過程として表象される。そこでは統一の共時的イメージとして中朝国境に位置する白頭山が描出されるとともに,統一の通時的イメージとして全羅道の「抵抗の伝統」が語られる。
著者
谷口 榮
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.118, pp.137-164, 2004-02-27

東京都東部に広がる低地帯を東京低地と呼んでおり,隅田川以東の現在の葛飾・江戸川・隅田・江東区域は歴史的に葛西と呼び慣わされてきた。江戸時代,葛西は江戸近郊の行楽地として,多くの江戸庶民が足を運んだ。その様子は,十方庵敬順の『遊歴雑記』や村尾正靖の『嘉陵紀行』など当時の史料からうかがい知ることができる。本稿では,江戸人が訪れた葛西地域の景観はどのようなものであったのかを探り,その景観的特徴から東京低地に位置する葛西の地域性の一端を明らかにすることを目的とした。分析の結果,葛西の景観の特徴として,眺望の利く「打闢きたる曠地」と,川辺を中心とした川沿いの風景であると指摘することができた。葛西は,河川が集中し,低地ならではの起伏の乏しい平らな土地といえる。その土地には「天然なる奇麗にして眺望いわんことなし」と,水辺には蘆荻が繁茂し,開けた土地には草花・木・鳥などの自然の織り成す「天然」があり,また眺望の素晴らしさが江戸の人々から好まれていたことがわかった。中川や小合溜には釣人が集う格好の憩いの場ともなっていた。18世紀以降,江戸庶民の「延気」の場として『江戸名所図会』の中でも紹介されるようになった葛西は,江戸の人々を受け入れるために,寺社仏閣や信仰だけでなく,茶屋などの休み処が設けられ,川魚料理などの名物や花名所を整備したり,江戸と行楽地葛西を結ぶ曳舟川に引舟を運行するなど,行楽地としての舞台装置が整えられていったのである。しかし近代以降,荒川放水路開削に伴いかつて葛西と呼ばれた広大な開けた土地が分断されてしまう。さらに関東大震災と第二次世界大戦という二つの災害を契機として,都市化という波に浸食されながら,江戸の人々に愛された葛西の風景は,川の汚れとともにその面影を失ってしまった。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.175-194, 1991-11-11

弥生時代の遣跡から出土する「イノシシ」について,家畜化されたブタかどうか,再検討を行った。その結果,「イノシシ」が多く出土している九州から関東までの8遺跡では,すべての遺跡でブタがかなり多く含まれていることが明らかとなった。それらのブタは,イノシシに比べて後頭部が丸く吻部が広くなっていることが特徴である。また,大小3タイプ以上は区別できるので,複数の品種があると思われる。その形質的特徴から,筆者は弥生時代のブタは日本でイノシシを家畜化したものではなく,中国大陸からの渡来人によって日本にもたらされたものと考えている。また,ブタの頭部の骨は,頭頂部から縦に割られているものが多いが,これは縄文時代には見られなかった解体方法である。さらに,下顎骨の一部に穴があけられたものが多く出土しており,そこに棒を通して儀礼的に取り扱われた例も知られている。縄文時代のイノシシの下顎骨には,穴があけられたものはまったくなく,この取り扱い方は弥生時代に特有のものである。このことから,弥生時代のブタは,食用とされただけではなく農耕儀礼にも用いられたと思われる。すなわち,稲作とその道具のみが伝わって弥生時代が始まったのではなく,ブタなどの農耕家畜を伴なう文化の全生活体系が渡来人と共に日本に伝わり,弥生時代が始まったと考えられるのである。
著者
李 亨源
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.63-92, 2014-02

本稿は,突帯文土器と集落を使って韓半島の青銅器文化と初期弥生文化との関係について検討したものである。最近の発掘資料を整理・検討した結果,韓半島の突帯文土器は青銅器時代早期から前期後半(末)まで存続した可能性が高いことがわかった。その結果,両地域の突帯文土器の年代差はほとんど,なくなりつつある。したがって,突帯文土器文化は東アジア的な視野のもとで理解すべきであり,中国東北地域から韓半島の西北韓,東北韓地域,そして南部地域と日本列島に至る広範囲の地域において突帯文土器を伴う文化が伝播したことを想定する必要がある。集落を構成する要素のうち,これまであまり注目してこなかった地上建物のうち,両地域に見られる棟持柱建物,貯蔵穴,井戸を検討したところ,韓半島の青銅器文化と弥生文化との間には密接な関連があることを指摘した。集落構造では韓半島南部の網谷里遺跡と北部九州の江辻遺跡との共通点と相違点を検討し,とくに網谷里遺跡から出土した九州北部系突帯文土器の意味するものについて考えた。さらに青銅器中期文化において大規模貯蔵穴群が出現する背景には社会変化があること,初期弥生文化においてやや遅れて出現する原因を,水田稲作を伝えた初期の渡海集団の規模が小さく,社会経済的な水準あるいは階層が比較的低かったことに求めた。弥生早期に巨大な支石墓や区画墓のような大規模の記念物や,首長の権威や権力を象徴する青銅器が見られないのも同じ理由である。これは渡海の原因と背景を,韓半島の首長社会の情勢変化と気候環境の悪化に求める最近の研究成果とも符合している。
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.133, pp.109-153, 2006-12

神奈川県小田原市中里遺跡は弥生中期中葉における,西日本的様相を強くもつ関東地方最初期の大型農耕集落である。近畿地方系の土器や,独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物などが西日本的要素を代表する。一方,伝統的な要素も諸所に認められる。中里遺跡の住居跡はいくつかの群に分かれ,そのなかには環状をなすものがある。また再葬の蔵骨器である土偶形容器を有している。それ以前に台地縁辺に散在していた集落が消滅した後,平野に忽然と出現したのも,この遺跡の特徴である。中里集落出現以前,すなわち弥生前期から中期前葉の関東地方における初期農耕集落は,小規模ながらも縄文集落の伝統を引いた環状集落が認められる。これらは,縄文晩期に気候寒冷化などの影響から集落が小規模分散化していった延長線上にある。土偶形容器を伴う場合のある再葬墓は,この地域の初期農耕集落に特徴的な墓であった。中里集落に初期農耕集落に特有の文化要素が引き継がれていることからすると,中里集落は初期農耕集落のいくつかが,灌漑農耕という大規模な共同作業をおこなうために結集した集落である可能性がきわめて高い。環状をなす住居群は,その一つ一つが周辺に散在していた小集落だったのだろう。結集の原点である大型建物に再葬墓に通じる祖先祭祀の役割を推測する説があるが,その蓋然性も高い。水田稲作という技術的な関与はもちろんのこと,それを遂行するための集団編成のありかたや,それに伴う集落設計などに近畿系集団の関与がうかがえるが,在来小集団の共生が円滑に進んだ背景には,中里集落出現以前,あるいは縄文時代にさかのぼる血縁関係を基軸とした居住原理の継承が想定できる。関東地方の本格的な農耕集落の形成は,このように西日本からの技術の関与と同時に,在来の同族小集団-単位集団-が結集した結果達成された。同族小集団の集合によって規模の大きな農耕集落が編成されているが,それは大阪湾岸の弥生集落あるいは東北地方北部の初期農耕集落など,各地で捉えることができる現象である。