著者
中島 信親
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.134, pp.275-298, 2007-03-30

本論は、光仁・桓武朝にあたる奈良時代後半から平安時代初期に都城や国家が造営した寺院で用いられた軒瓦を、文様および造瓦技術に着目しつつ概観し、その中で長岡宮式軒瓦がどの様に位置づけられるかを検討した。奈良時代後半に存在した文様および造瓦技術が異なる二系統の造営官司(宮造営官司と造東大寺司)が二度の遷都を通じて再編・融合される中で、その渦中で製作された長岡宮式軒瓦は、文様が稚拙なものも含めてほぼすべてが宮造営官司の造瓦技法が用いられていることを確認した。また、文様と分布から長岡宮式軒瓦を区分し、分布の集中域に存在する殿舎や施設とそれが文献に記載される年号から、区分した軒瓦に製作年代の一定点を与えた。
著者
上野 和男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.97-159, 1993-11-10

本稿は日本各地の隠居制家族の比較分析を通じて、日本における隠居制家族の諸類型を設定し、その地域的変差を通じて隠居制家族の構造を明らかにし、さらに日本の家族類型における隠居制家族の位置と村落社会構造との関連を明らかにしようとする一試論である。ここで試みる隠居制家族の類型化は、日本の家族の地域類型設定の一部をなすものであり、その意味でこの研究は日本社会の地域性研究の重要な一部をなすものである。隠居制についてはこれまでさまざまな概念規定が試みられてきているが、ここでは地域社会に規制された家族内部において、居住分離を基本とするある程度独立した複数の生活単位を形成する家族制度である、と規定した。この規定にしたがえば、隠居制家族は福島県を北限とし、トカラ列島宝島を南限とする各地の村落に認められる。これらの隠居制家族を比較分析して本稿では、あとつぎの結婚から隠居形成までの期間、生活単位の成員構成、隠居者と母屋構成員との関係および婚姻居住形態の三つを指標として、日本の隠居制家族の類型化を試み、「父性型」「婿入婚型」「双性型」の三類型を設定した。父性型は嫁入婚を基礎として、親夫婦と息子夫婦が家族内で別個の生活単位を形成する型である。婿入婚型は妻訪いをともなう婿入婚を基礎とする隠居制家族であり、父―息子二世代夫婦不同居の原則が貫徹されている。双性型は夫方の親夫婦のみならず、妻方の親夫婦との間にも隠居制家族を形成する型である。これらの型によって地域的分布も異なる。隠居制家族は構造的には、夫婦関係を中心とする日常生活上の分離と、親子関係を軸とする家族としての統合との妥協的な家族構造であり、程度の差を内包しつつも分離と統合のふたつの側面をもつ家族構造である。また隠居制家族と世代階層制、宮座などの村落組織との構造的な関係は稀薄である。
著者
藤沢 敦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.179, pp.365-390, 2013-11-15

古墳時代から飛鳥時代,奈良時代にかけての,東北地方日本海側の考古資料について,全体を俯瞰して検討する。弥生時代後期の様相,南東北での古墳の築造動向,北東北を中心とする続縄文文化の様相,7世紀以降に北東北に展開する「末期古墳」を概観した。さらに,城柵遺跡の概要と,「蝦夷」の領域について文献史学の研究成果を確認した。その上で,日本海側の特質を太平洋側の様相と比較しつつ,考古資料の変移と文献史料に見える「蝦夷」の領域との関係を検討し,律令国家の領域認識について考察した。日本海側の古墳の築造動向は,後期前半までは太平洋側の動向と基本的に共通した変化を示すことから,倭国域全体での政治的変動と連動した変化と考えられる。ところが後期後半以降,古墳築造が続く地域と途切れる地域に分かれ,地域ごとの差違が顕著となる。終末期には太平洋側以上に地域ごとの差違が顕著となる。時期が下るとともに,地域独自の様相が強まっており,中央政権による地方支配が強化されたと見なすことはできない。続縄文文化系の考古資料は,日本海沿いでは新潟県域まで分布し,きわめて遠距離まで及ぶ。また海上交通の要衝と考えられる場所に,続縄文文化と古墳文化の交流を示す遺跡が存在する。これらの点から,日本海側では海上交通路が重要な位置を占めていた可能性が高く,続縄文文化を担った人々が大きな役割を果たした可能性が指摘できる。文献史料の検討による蝦夷の領域と,考古資料に見られる文化の違いは,ほとんど対応しない。日本海側では,蝦夷の領域と推測される,山形県域のほぼ全て,福島県会津盆地,新潟県域の東半部は,古墳文化が広がっていた地域である。両者には,あきらかな「ずれ」が存在し,それは太平洋側より大きい。この事実は,考古資料の分布に見える文化の違いと人間集団の違いに関する考えを,根本的に見直すことを要求している。排他的な文化的同一性が先に存在するのではなく,ある「違い」をとりあげることで,「彼ら」と「われわれ」の境界が形成されると考えるべきである。これらの検討を踏まえるならば,律令国家による「蝦夷」という名付けは,境界創出のための他者認識であったと考えられる。
著者
千田 嘉博
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.64, pp.223-235, 1995-11-30

従来,遺構に即した踏み込んだ検討が行われてこなかった東北北部の山域について,墳館・唐川城・柴崎城・尻八館を事例に検討を行った。この結果,墳館は10世紀末~11世紀にかけての古代末の防御集落と中世の館が重複した遺跡であったことを示し,東北地域で数多くみられるこうした重複現象が,中世段階ですでに古代末に地域の城が構えられた場が,特別な意味をもち,そこに改めて城を築くことが,中世の築城主体にとって権力の権威や正当性を示す意義をもったとした。さらに唐川城・柴崎城・尻八館は,曲輪の整形が未熟な反面,堀が卓越して発達するという,同一系譜の特徴的な城であったことを明らかにし,その築造時期が14世紀末にはじまり,15世紀前半までに限定できるとした。この14世紀末という時期は,十三湊において都市を南北に2分した大土塁が築造されはじめた時期に当たり,また15世紀半ばという最後の改修の年代も安藤氏と南部氏の戦いの時期に一致したことを示した。そして諸状況から考え,これらの3つの山城は安藤氏の拠点城郭として機能したと評価した。堀を卓越させたこれらの城郭構成は,これまでみすごされてきた北の城郭の特徴を示したもので,中世後期の城郭形成に,北からの堀が不可欠であったことを述べるとともに,南方のグスクと共通した郭非主体の防御のあり方は,その先のさらなる北や南との交流の中で生み出されたものだとした。
著者
菅 豊
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.63-94, 1994-03-31

日本において,低湿地を積極的に稲作地として利用し,「水辺」を改変する農業は,通常,技術的未発達が指摘され,その技術に費やされる労苦からの脱却がことさら強調される傾向があった。確かに低湿な水田で行われる農耕は,重い労苦が伴い,不安定な収穫しか望めない泥濘だったのは間違いないし,従来,民俗,地理,歴史などの多くの研究者によって,この水との格闘の歴史は明らかにされてきた。しかし,果たして低湿地農耕は,生活環境によって規定されるがゆえにあらがうことのできない,いやいやながら,しぶしぶと行われていた不本意な農耕技術だったのであろうか。そしてその湿田は,人々が生計活動を行う上で,消極的,否定的,悲観的にしか取り組めないような苦渋に満ちたネガティブな生産空間だったのであろうか。この疑問を解決することが本稿の目的である。本稿では全国に分布する低湿地開拓技術が,必ずしも不利な状況で消極的に営まれていたのではなく,ポジティブにとらえ得る技術であったという視点から,この農耕技術を見直していくつもりである。本稿で対象とする地域において低湿地農耕は,むしろ完全に水田化されていない,不完全な耕作地であるがゆえに獲得できる,有利さを持っていると考えられる。土地所有制度の限界を克服することのできる低湿地農耕技術の社会的特質が顕在化する時,それは生産性の低さといったデメリットをさし引いても,なお余りあるものとして位置付けられるのである。この不完全な耕作地の活動が継続できた背景には,その経済的,社会的な有利さと共に,各生計活動のリスクを合い補え,より安定した生活を維持することのできる,複合的生計活動の展開があったと考えられる。
著者
出口 晶子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.223, pp.149-178, 2021-03-15

本論でとりあげる船漆喰とは、船の水密充填(caulking)に使う漆喰をさしている。木造船の板と板の接合面や釘頭に塗られる船漆喰には、水の浸入を防ぐため、石灰に麻縄等のほか、油を混ぜ合わせるのが常である。中国では油灰と呼ばれ、古代より現代にいたるまで広いエリアで使われている。油は、中国では桐油が主流であるのにたいし、日本では鱶油などの魚油が主流である。日本における船漆喰は、近世期の海外交易の拠点であった長崎と琉球を中心に、東シナ海の東部沿岸部の九州・沖縄地方に広がった文化であることが認められる。この分布特性について、本論では、主に一七~一八世紀の体験談や伝聞記録、博物知識に民俗学的知見をまじえて考察した。松脂を用いたチャン(瀝青bitumen)やタールなど、一七世紀ころに伝授したとみられる西洋船の技法との連関も考察した。用いた主な資料は、太平洋の無人島・鳥島に漂着した船乗りたちが自力で船漆喰を生産し、船を造って、無事帰還するまでの体験記録や、土佐に漂着した琉球人との問答記録、船や漆喰に関する和漢の百科全書、長崎にやってきた西洋人の旅行記録や日記、平戸・対馬藩士の聞書記録などである。その結果、長崎・琉球を拠点とする海外交易船に必要とされた船漆喰は、日本の木造船にも受容された技術であったが、その分布は九州・沖縄以外に大きく広がらなかった。また松脂と油を混ぜた西洋のチャンも取り入れられ、漆喰との融合もみられたが、それが全国的な船の水密充填として普及することはなかった。一方、近世日本の内航船で隆盛をみていたのは、マキハダ(Japanese oakum)である。日本における船漆喰の限定的な広がりは、近世日本の長崎・琉球を窓口とする限定的な対外交易政策が影響していた可能性を本論では指摘した。
著者
藤尾 慎一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.255-294, 1991-11-11

考古学からみた江戸は市中を中心に進んだ発掘調査によって全貌が徐々に明らかにされつつある。特に焼物をつかって江戸市民の暮しの復原や武家と町民の比較研究も盛んである。江戸時代の焼物には広域にわたって流通する陶磁器と各地で生産された素焼・瓦質の土器があるが,何を解きあかそうとするかによって資料として選ぶ焼物の種類は変わってくる。今回は江戸時代最大の消費都市である江戸とその周辺に位置する譜代大名の城下町の違いを日常生活のレベルからおさえるために,ゴマやマメを妙る土器である焙烙(ほうろく)を用いて迫ってみたものである。焙烙は底部がきわめて薄くつくられているため,長距離の運搬には向かず,広域流通には不適な土器と考えられるところから,各地でつくられその商圏は非常に狭かったといわれている。したがって焙烙にみられる地域色を追求すれば,その商圏の範囲をおさえることができるし,各地の生活レベルや囲炉裏や竈といった火力施設にあった焙烙がつくられていたと予想されるため,当時の各地の生活の実態を探るうえでも有効な遺物であるといえよう。分析の結果,江戸市中に比べて佐倉では囲炉裏から竈への転換がかなり遅れたことや,江戸とその周辺に中世からつながる工人集団と17世紀に関西から招聘されたとされる関西系工人が存在し,両者が消費のニーズにあわせてしのぎを削っていた状況があきらかとなった。しかし絶対数が多い在地系工人主体の生産がここ佐倉では大勢を占めていたのである。また彼らと歴史上の下総土器作り集団との関連も注目される。江戸時代の煮沸具にみられる地域差が当時の生活状態を反映していたことは,筆者の専門である縄文・弥生時代の生活実態にもつながるものとして大いに期待できる分野である。
著者
井上 宗一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.165, pp.225-249, 2011-03

昨今、日本の相撲、特に大相撲やアマチュア相撲の動態は、相撲に付与された「国技」という呼称、およびそれに付随して共有されているイメージを揺るがしつつある。大相撲における外国人力士の台頭、アマチュア相撲によるオリンピック正式種目登録への動きなど、選手構成、組織の運営方針や競技の形態などの多様な展開がその大きな要因のひとつである。その一方、力士の人間性や所作などについては、宗教的な言説を基盤とした一種の様式美とされ、「品格」、「品位」といった言説と絡み合いながら、「日本の伝統的競技」の代表的なもの、つまり「国技」として位置付けられる要因となっている。これまでの民俗学における相撲研究では、相撲の「国技」たる「品格」を保証するような、相撲の宗教儀礼としての側面のみを照射し、それ以外の側面についてあまり語られてきていない。そこには、民俗学固有ともいえる事例の選別や、言及の指向が存在しており、さらに言うならば、民俗学は相撲のみならず、競技を競技として対象化してこなかったのではないかと考える。本稿ではまず、民俗学における競技についての言及を振り返り、その固有ともいえる指向を検討する。次いで北陸地方で行なわれている神事相撲の事例を通して、対象とする事例を拡大して検討することで、民俗学での競技に対する、より開かれたアプローチの構築に寄与したい。一部非公開情報あり
著者
白石 浩之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.206, pp.1-37, 2017-03-31

本稿は台形様石器の様相について検討した論稿である。このことについては佐藤宏之によって『台形様石器研究序論』が発表されており,該期の研究において姶良Tn火山灰降灰以前の石器群の解明が期待された。その後28年が経過し,全国的に台形様石器を出土する遺跡が広がった。とりわけ関東地方では層位的にも型式学的にも対応可能になり,あわせて台形様石器の機能・用途について使用痕研究や実験研究等により深みを増しつつある。筆者は該期の台形様石器について型式学的研究から見直そうと思う。先行研究では台形様石器は横長剥片を主たる素材とする点が強調されていたが,縦長剥片を素材とした例も看過できない。またペン先形ナイフと称された基部調整尖頭石器は東日本に卓越し,九州地方は僅少の分布状況を呈している。先端が尖状という点,基部加工のナイフ状石器と台形様石器が相互に影響して独自に製作されたものであろう。台形様石器は素材の切断を介して外形を作り出す。刃部の両縁は側縁加工と平坦剥離,とりわけ錯向剥離を顕著に用いる。このように形成された台形様石器の形態は6類に区分される。①水平刃で基部が尖基のもの。②水平刃で平基のもの。③水平刃で平基であるが,側縁が末広がりになり刃部と交わる部位が角状を呈すもの。④斜刃で尖基のもの。⑤斜刃で平基のもの。⑥縦長剥片の端部を切断して用いたもので構成される。台形様石器は関東地方で相模野B5層や武蔵野Ⅹ層下部まで遡り,立川ローム層において最古級を呈す。B4層,Ⅹ層上部からⅨ層は台形様石器が最も卓越し,Ⅰ~Ⅴ類の台形様石器が認められる。その終焉は黒色帯層の相模野B3層・武蔵野Ⅶ層の時期で縦長剥片を切断によって分割し,側縁加工を施したⅥ類の台形様石器が目立ってくる。北関東地方では台形様石器の石材が遺跡毎で差異があり,地域差的な様相を呈す。Ⅶ層以降に卓越する二側縁加工を主体としたナイフ形石器文化期以前の台形様石器文化が広く発達するのである。
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.133, pp.109-153, 2006-12-20

神奈川県小田原市中里遺跡は弥生中期中葉における,西日本的様相を強くもつ関東地方最初期の大型農耕集落である。近畿地方系の土器や,独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物などが西日本的要素を代表する。一方,伝統的な要素も諸所に認められる。中里遺跡の住居跡はいくつかの群に分かれ,そのなかには環状をなすものがある。また再葬の蔵骨器である土偶形容器を有している。それ以前に台地縁辺に散在していた集落が消滅した後,平野に忽然と出現したのも,この遺跡の特徴である。中里集落出現以前,すなわち弥生前期から中期前葉の関東地方における初期農耕集落は,小規模ながらも縄文集落の伝統を引いた環状集落が認められる。これらは,縄文晩期に気候寒冷化などの影響から集落が小規模分散化していった延長線上にある。土偶形容器を伴う場合のある再葬墓は,この地域の初期農耕集落に特徴的な墓であった。中里集落に初期農耕集落に特有の文化要素が引き継がれていることからすると,中里集落は初期農耕集落のいくつかが,灌漑農耕という大規模な共同作業をおこなうために結集した集落である可能性がきわめて高い。環状をなす住居群は,その一つ一つが周辺に散在していた小集落だったのだろう。結集の原点である大型建物に再葬墓に通じる祖先祭祀の役割を推測する説があるが,その蓋然性も高い。水田稲作という技術的な関与はもちろんのこと,それを遂行するための集団編成のありかたや,それに伴う集落設計などに近畿系集団の関与がうかがえるが,在来小集団の共生が円滑に進んだ背景には,中里集落出現以前,あるいは縄文時代にさかのぼる血縁関係を基軸とした居住原理の継承が想定できる。関東地方の本格的な農耕集落の形成は,このように西日本からの技術の関与と同時に,在来の同族小集団-単位集団-が結集した結果達成された。同族小集団の集合によって規模の大きな農耕集落が編成されているが,それは大阪湾岸の弥生集落あるいは東北地方北部の初期農耕集落など,各地で捉えることができる現象である。
著者
上野 祥史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.349-367, 2014-02-28

中国鏡は,弥生時代中期後半から古墳時代前期前半を通じて,継続して日本列島に流入した舶載文物である。北部九州を中心とした弥生時代の鏡分配システムから,近畿地方を中心とした古墳時代の鏡分配システムへの転換は,汎日本列島規模の政体が出現した古墳時代社会の成立過程を考える上で重要な視点を提供する。日本列島内における中国鏡の分配システムの変革という視点で評価を試みた。北部九州を中心とする分配システムは,集積と形態という二つの指標から検討した。集積副葬は漢鏡3期鏡が流入する段階から漢鏡5期鏡が流入する段階,すなわち弥生時代中期後半から後期後半まで継続しており,配布主体と想定できる集積副葬墓が実在するこの期間を通じて分配システムは機能したと論じた。なお,漢鏡3期鏡の序列の継続性を検討すべく,各段階の鏡の形態を検討した結果,早くも後期初頭の漢鏡4期鏡が流入する段階に,流入鏡に大きな変化が生じたことを指摘した。ここを起点に,弥生時代中期後半から後期後半までの期間に日本列島に流入した鏡を中国世界の視点で評価した。この期間における漢鏡の流入は安定性を以て形容されることが多いが,紀元前1世紀後葉に停滞期が介在するなど,決して一様ではないことを指摘したのである。近畿地方を中心とする分配システムについては,その成立時期をめぐる議論を整理し,各地域社会における漢鏡6・7期鏡の保有状況を比較検討することが一つの視座を提供するがあることを主張し,瀬戸内海沿岸・日本海沿岸・近畿地方・近畿地方以東に分けて各地域社会の様相を整理した。その結果,漢鏡6・7期鏡が流入する段階には,瀬戸内海沿岸地域の優位性を保ちつつ,北部九州から関東地方に至るネットワークが存在していたことを指摘した。そこに,卓越した配布主体は見出しにくく,後に卑弥呼を「共立」させる状況にも通ずる,「分有」された状況を想定したのである。漢鏡6・7期鏡が流入する段階は,北部九州で分配システムが終焉を迎え,瀬戸内海ネットワークを中心に汎日本列島規模の紐帯が形成された。2世紀の庄内式期に生じた分配システムの変革を,列島内交易ルートの変質とも関連した一つの画期であることを改めて指摘した。
著者
小林 謙一 春成 秀爾 坂本 稔 秋山 浩三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.139, pp.17-51, 2008-03-31

近畿地方における弥生文化開始期の年代を考える上で,河内地域の弥生前期・中期遺跡群の年代を明らかにする必要性は高い。国立歴史民俗博物館を中心とした年代測定グループでは,大阪府文化財センターおよび東大阪市立埋蔵文化財センターの協力を得て,河内湖(潟)東・南部の遺跡群に関する炭素14年代測定研究を重ねてきた。東大阪市鬼塚遺跡の縄文晩期初めと推定される浅鉢例は前13世紀~11世紀,宮ノ下遺跡の船橋式の可能性がある深鉢例は前800年頃,水走遺跡の2例と宮ノ下遺跡例の長原式土器は前800~550年頃までに較正年代があたる。奈良県唐古・鍵遺跡の長原式または直後例は,いわゆる「2400年問題」の中にあるので絞りにくいが,前550年より新しい。弥生前期については,大阪府八尾市木の本遺跡のⅠ期古~中段階の土器2例,東大阪市瓜生堂遺跡(北東部地域)のⅠ期中段階の土器はすべて「2400年問題」の後半,即ち前550~400年の間に含まれる可能性がある。唐古・鍵遺跡の大和Ⅰ期の土器も同様の年代幅に含まれる。東大阪市水走遺跡および若江北遺跡のⅠ期古~中段階とされる甕の例のみが,「2400年問題」の前半,すなわち前550年よりも古い可能性を示している。河内地域の縄文晩期~弥生前・中期の実年代を暫定的に整理すると,以下の通りとなる。 縄文晩期(滋賀里Ⅱ式~口酒井式・長原式の一部)前13世紀~前8または前7世紀 弥生前期(河内Ⅰ期)前8~前7世紀(前600年代後半か)~前4世紀(前380~前350年頃) 弥生中期(河内Ⅱ~Ⅳ期)前4世紀(前380~前350年頃)~紀元前後頃すなわち,瀬戸内中部から河内地域における弥生前期の始まりは,前750年よりは新しく前550年よりは古い年代の中に求められ,河内地域は前650~前600年頃に若江北遺跡の最古段階の居住関係遺構や水走遺跡の遠賀川系土器が出現すると考えられ,讃良郡条里遺跡の遠賀川系土器はそれよりもやや古いとすれば前7世紀中頃までの可能性が考えられよう。縄文晩期土器とされる長原式・水走式土器は前8世紀から前5世紀にかけて存続していた可能性があり,河内地域では少なくとも弥生前期中頃までは長原式・水走式土器が弥生前期土器に共伴していた可能性が高い。
著者
岸本 直文
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.369-403, 2014-02-28

1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。今日の課題は,倭国の主導勢力となる弥生後期のヤマト国の実態,倭国乱を経てヤマト国が倭国の盟主となる理由の解明にある。一方で,弥生後期の畿内における鉄器の寡少さと大型墳墓の未発達から,倭王権は畿内ヤマト国の延長にはなく,東部瀬戸内勢力により樹立されたとの見方もあり,倭国の形成主体に関する見解の隔たりが大きい。こうした弥生時代から古墳時代への転換についても,¹⁴C年代データは新たな枠組みを提示しつつある。箸墓古墳が3世紀中頃であることは¹⁴C年代により追認されるが,それ以前の庄内式の年代が2世紀にさかのぼることが重要である。これにより,纒向遺跡の形成は倭国形成以前にさかのぼり,ヤマト国の自律的な本拠建設とみなしうる。本稿では,上記のように古墳時代を定義するとともに,そこに至る弥生時代後期のヤマト国の形成過程,纒向遺跡の新たな理解,楯築墓と纒向石塚古墳の比較を含む前方後円墳の成立問題など,新たな年代観をもとづき,現時点における倭国成立に至る一定の見取り図を描く。
著者
千田 嘉博
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.191-217, 2003-10-31

日本における城郭研究は,ようやく基本的な所在や遺跡概要の情報を集積する段階を終え,そうした成果をもとに新しい歴史研究を立ち上げていく新段階に入ったと評価できる。従来の城郭研究は市民研究者によって担われた民間学として,おもに地表面観察をもとにした研究と,行政の研究者による考古学的な研究のそれぞれによって推進された。しかしさまざまな努力にもかかわらず地表面観察と発掘成果を合わせて充分に歴史資料として活かしてきたとはいい難い。城郭跡を資料とした研究を推進するためには,地表面観察から城郭の軍事性を歴史資料化することと,発掘成果から城郭の内部構造を歴史資料化することを一貫して行い,分析することが必要である。そして発掘成果によって改めて中世城郭の実像をとらえ直すことが大切である。そこで本稿では,発掘で内部構造が判明した中・小規模の城郭遺構を軸に,地表面観察,文字史料をも合わせた学融合的検討を行った。検討の対象は,築城祭祀,塁線構築技法,陣城,包囲陣,中小規模の山城の内部構成,兵舎など多岐におよぶ。いずれも城郭跡から歴史を読み取っていくのに基本になる視点といえる。地表面観察でわかる情報から発掘成果まで学融合的に一貫して検討することで,城郭跡のもつ資料性をさらに高めることができる。本稿はそうした新しい研究方向を指向した試みである。
著者
近藤 修
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.208, pp.249-267, 2018-03-09

縄文人の地域性を探ることによって,その成立過程を探ることは可能だろうか。日本列島はその地史的環境から,ヒトの移住ルートが限られる。したがって,縄文人の成立過程を,その初期集団の日本列島各地への拡散と,外部からの(仮想的な)移住集団の影響によると考えると,その結果が縄文人の地域性に現れると考えることができる。この論考では,縄文人頭骨の計測値をもちいて,日本列島の縄文地域集団の変異を分析した。その結果,縄文人頭骨の形質には,北から南への地理的勾配があること,それぞれの縄文地域集団の形成には異なった背景があることが示唆された。さらに大胆に解釈すると,縄文人の形成の中心は西日本(中国,九州)にはなさそうだということ,九州縄文人は孤立した集団史により形成された可能性があること,北海道縄文人は比較的長い集団形成の歴史をもつかあるいは形成期に外部集団からの影響があった可能性が示唆された。
著者
福田 豊彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.84, pp.135-162, 2000-03-31

中世の東国には、鉄の加工に関する断片的な史料はあっても、鉄の生産(製錬)を示す証拠はなく、そこには学問的な混乱も認められる。しかし古代に関しては、律令・格式や風土記・和名類聚抄などを始め、鉄の生産と利用に関する文字史料は少なくないし、考古学的な遺跡と出土遺物にも恵まれている。そして何よりも、鉄生産では既に永い歴史をもつ大陸の状況を参考にすることができる。一方、近世になると、中国山地と奥羽山地の鉄山師の記録を始め、直接的な鉄生産の記録も少なくないし、流通・加工の関係史料にも恵まれ、本草家などの辞典的な記述も残されている。中世でも西日本に関しては、断片的ではあるが荘園関係史料によって生産と流通の大要を把握できるし、近年は考古学的に確実な生産遺跡も発掘され、文書史料との関係も推察されるようになってきた。しかし東国に関しては、鉄の生産方法を示す史料もない。また考古学的な発掘遺跡にも確実なものはなく、鉄生産(鉄製錬)の遺跡か鋼精錬の遺跡かについて、その性格評価が分かれているものもある。そこで本稿では、資料的に豊かな近世史料によって、市場に流通していた鉄の名称と種別を調べ、その鉄の生産方法を検討し、それを過去に遡って中世の鉄の生産と加工技術を推定しようとした。その結果、次の諸点をおおよそ明らかにできた。① 市場に流通した鉄の種類に関しては、近世の前期と後期で多少の変化が認められるが、炭素量の多い鋳物用の「銑(せん)」と、炭素量のごく少ない「熟鉄(じゆくてつ)」が基本であった。刃物生産に使われる「釼(はがね)」が、商品として市場に流通するのは江戸時代も後期以降のようで、中世の釼製造技術は、当時の刃物鍛冶の職掌に属していたものと推察される。② 近世後期、宝暦年間と伝えられる大銅(おおどう)の発明以後には、直接製鋼を主とするいわゆる「鉧(けら)押技法」が登場するが、それ以前は銑鉄生産を主とする技法が主流で、わが国でも二段階製鋼法が一般的に行われていた。③ しかし『和漢三才図会』や『箋注倭妙類聚抄』の記述によると、この銑鉄生産の技法では、銑鉄の他に熟鉄が生産され、これが「鉧(けら)」と呼ばれていた。以上のような近世初期の鉄の生産と流通・加工の方式は、中世にもほぼ適用できるであろう。
著者
岩本 通弥
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.113-135, 1990-03-30

This paper is to indicate the importance of taking the total view of, introspecting and understanding the folklore of YANAGITA Kunio from the methodological point of view. So far, it has been understood that the YANAGITA Kunio's methodology in the folklore study has a trait similar to that of the natural science, constituted of the inductivism and positivism. In this paper, however, a question is posed on that particular point. YANAGITA'S method should be grasped in the framework of the comprehension science opposed to the natural science and the elucidation of “mind” (the hidden inner value such as feelings, sense, awareness of the people) which was his scientific final target is to make clear the teleological “inclination”. In this paper, this method is positioned appropriately in accordance with the main stream of the hermeneutical scientific theory.“Total view”, “introspection” and “understanding” are the words used by YANAGITA Kunio in an attempt to express his own folklore methodology. He described what the methodology ought to be using these key words. I. e., “the total view” is a gestalt and holistic Point of view setting the totality and dynamism of the culture as the premise and tries to grasp them in the hermeneutical scientific circulation. “Introspection” is used to show the method and the direction of taking “the total view”. It does not simply mean an empathy or to experience for oneself what another person has gone through, but it indicates a method of objective development of the logic in order to elucidate the mind using “words” as the medium which are the “recognition” itself that connects the subject and the object.As a result, a method to discover the hypotheses in the folklore has been made clear. On the other hand, the word “understanding” does not only used to comprehend the mental states but also offers a way of conclusively proving the discovered hypotheses to justify them through a logic of science. It has been shown that, in the folklore study, hypotheses can be clearly proved through the process of recognition-interpretation-understanding, in addition to the verification through deduction-counter evidence. In this paper, it is indicated that the presentation of hypotheses was made through the intrinsic intuition based on the substantial data, gestalt perception as Lorenz, K. put it, and that the words, induction and actual proof, when used by YANAGITA, should be understood as above mentioned.