著者
松波 めぐみ Matsunami Megumi マツナミ メグミ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.8, pp.51-64, 2003-03

論文人権課題を設定する際にマイノリティ当事者が発展させてきた視点は不可欠であるが、障害者問題に関する人権教育においては当事者の視点が十分に反映されていなかった。本論では「当事者の視点」と人権教育を架橋するため、障害学の文脈における「障害文化論」に注目し、検証軸の抽出を試みる。障害文化論とは、ろう文化運動や自立生活運動における「障害を肯定する」志向の影響を受けて展開され、障害者集団が育んできた価値観や生活文化を再評価するとともに、主流社会の健常者中心主義的なあり方が障害者の生を抑圧していることを批判し、主流文化の相対化を促す主張である。障害文化論に照らすと、従来の人権教育には健常者中心主義を相対化する視点を欠いていた。障害文化論は、障害者の経験や視点を経由して、自明とされていたこの社会の構成原理やあり方、つまりマジョリティ中心の「文化」のありようを変革するヒントを提供しており、それ自体が「教育的」と言える。仮説的に検証軸を挙げた。① 問題設定が「障害の個人モデル」「医療モデル」でないか、② 健常者に都合のよい障害者像でないか、③ 「健常者中心主義」に気づく契機の有無、④ 障害者運動が築いてきた価値の反映、⑤ 多様な当事者の生とリアリティの尊重、以上である。
著者
藤澤 佳澄 Fujisawa Kasumi フジサワ カスミ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.9, pp.107-118, 2004

論文深層心理学の分野では、昨今、女性の「霊性」について語られる機会が増えている。女性の「霊性」を表すモチーフとして例えば「女神」が考えられるが、中でもとりわけ「大女神」、「地母神」などと呼ばれる女神たちへの言及が目立つ。これらの女神たちは、人類が文明化される中で見失ってきた根源的な霊性を備える存在として、現在その価値を見直されている。.本論文ではこのような「地母神」の臨床心理学的意義を再確認する一方で、「地母神」ではない女神たちの臨床心理学意義について検討してみた。その女神とは「処女神」である。「地母神」と「処女神」を対比させながら考察した結果、新たな洞察が得られた。「地母神」が「死と再生」プロセスを司る存在であるとしたら、「処女神」が司るのは「状態の魔力」とも呼ぶべき、「異界に繋ぐ」働きである。「地母神」に関する研究は多くなされているが、「処女神」に関する研究はまだ手付かずのまま残されているように思われる。本論文をその第一歩にしたいと思う。
著者
加藤 善子 Kato Yoshiko カトウ ヨシコ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.1, pp.117-128, 1996-03

本稿は、文部省『学生生徒生活調査』(昭和13年)を手掛かりに、当時の学生の音楽趣味がどのようなものであったかを考察するものである。音楽は、昭和初期学生の多くが挙げる趣味であった。明治以来、音楽は文学などと同様、旧制高校をはじめ学生文化の中には成立しなかった趣味であったが、昭和初期に増加したのである。明治後期から昭和にかけて、学生の社会的構成の変化から新中間層出身の学生が増加したことや、学生数の増加や寄宿制度の廃止などにともなう学生文化の多様化がその一因であった。学生の出身階層や出身家庭の経済状態との関連をみると、スポーツは旧中間層出身の学生と、音楽と読書は新中間層出身で家庭が裕福な学生とそれぞれ関連が強く、スポーツと音楽の間に映画と美術鑑賞が位置する。また、多くの学生は、楽器などを積極的に演奏することはなく、レコードやラジオから流れてくる音で音楽を楽しんでいたことが、当時の資料や記録から推測される。音楽は都市新中間層出身の学生に結びっいた、バンカラ主義とも教養主義とも異なるところで発生した新しい趣味だったと考えられるのである。
著者
SILVA Cecilia
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
日本教育工学会大会講演論文集 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.863-864, 2002-11-02
参考文献数
5

論文本論文は外国語の授業で適用されたcritical literacyを活用したケースである。この論文の目的は外国語としてスペイン語を勉強している82人の日本人の学生がアルゼンチンの歴史牽学んでいった際に、プリントやビデオや自分達の経験をとおして知識を構築していき、又再構築していく過程を明確にすることである。学生はアルゼンチンのロサス知事について説明を受けてから、ロサス独裁の時に起こった悲しいラブストーリのビデオを視聴した。学生は先に受けた説明にも映画の中にも明.治されていなかったpowerful conceptsを作りあげた。授業中に議論したことについての記録と学生のレポートに基づいてその授業を分析した。授業はInterpretaion Construction (ICON) Design Modelというモデルに基づいて段階的に発展させた。また、学生はいくつかの興味のある概念を選んでその概念をSocial Inquiry Methodによりディベートを行った。
著者
菊池 城司 Kikuchi Jyoji キクチ ジョウジ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.2, pp.1-22, 1997-03

戦前の中等教育機会に関する最も詳しい資料のひとつに『尋常小学校卒業者ノ動向二関スル調査』(文部省教育調査部、1938年3月)がある。それによると、わが国の中等教育機会の特徴は、「中等教育機会(中学校、高等女学校、実業学校)から、資産下(下位約1/4)の児童がほぼ完全に遮断されていた… 。資産中(上位10-76%)… については、[社会全体の分布と見合う程度に]中等教育機会が与えられていた」(菊池、1967)。この結論は、集計されたデータに基づいており、調査結果を詳細に検:討した結果ではない。そこで、この集計のもとになっている41集計単位(多くの場合、大都市・都市の場合には1市、町村の場合は3-4町村)にもどって、再分析を試みる。その結果、成績別・資産別に中等学校進学率を算出して、成績「丙丁」、資産「下」などの選抜度指数に注目すると、1.0をこえることはないがゼロでもない地域はいずれも、東京旧市区および新市区あるいは地方都市などに現われる。東京あるいは地方の都市(県庁所在地あるいはそれに準ずる)における小学校の中には、成績「丙丁」、資産「下」だからといって、中等教育機会から必ずしも遮断されていたとはいえない場合もある程度は存在したということである。ここに現われるイメージは、高進学率の世界と低進学率の世界の併存である。これらは、具体的には、東京を始めとする大都市と農村とにかなりの程度までは対応する。その中間段階には、後者から前者への移行過程にある地方都市が存在する。東京にも部分的には進学率の低い地区があり、逆に地方都市にも部分的には進学率の高い地区が存在していた。高進学率の世界においては、かつて成績「丙丁」、資産「下」の層が遮断されていた教育機会の断層はすでに崩れつつあった。それに対して、低進学率の世界では、教育機会の断層は依然としてほとんど不動のままであった。東京市を例外として除いて、全体を合計すると、大きなウェイトをもつ低進学率の世界の傾向がドミナントとなり、高進学率の世界とそこへ向かう変化の傾向が見えにくくなっていたと考えられる。
著者
藤川 信夫 Fujikawa Nobuo フジカワ ノブオ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.16, pp.3-15, 2011-03-31

2008年に出版された論文集『教育学における優生思想の展開』は、19世紀末にイギリスで生まれた優生学が、今日に至るまで教育(学)に対していかなる影響を及ぼしたのかを多様な観点から解明しようとする試みである。しかし、その多様性を総括するような論文は、この論文集には収められていない。本論文では、この論文集の著者の一人であり編者でもある筆者の立場から改めて論文集の全体像を提示するとともに、論文集の著者たちの歴史的立ち位置についても(自己)反省を試みることにする。
著者
秋田 茂
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.23, pp.153-167, 2018

特集 新教職課程にむけて2022年度から、高等学校歴史教育の科目編成は大幅な変更が予定されており、新たな必修科目として、世界史と日本史を統合した「歴史総合」科目が新設される。それに伴い、従来の「世界史A」「世界史B」は「世界史探究」科目に再編成される予定である。現在、新たな科目の学習指導要領の作成作業が進行しており、2018年3月には文部科学省から新学習指導要領が公表され、18年4月以降、それに基づいた教科書の執筆・作成の作業が始まる予定である。両新科目の中身(教育内容)については、日本学術会議をはじめとして、さまざまな提案がなされ、現在活発な議論が行われている。本稿では、特に新設科目である「歴史総合」科目の編成試案を、中教審答申を前提にしつつも、従来の「世界史A」「世界史B」での教育内容を踏まえて考察する。さらに、大項目「歴史の扉」と「近代化と私たち」に関わる具体的な授業例およびその解説を提示する。
著者
吉田 統子 Yoshida Motoko ヨシダ モトコ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.1, pp.87-95, 1996-03

人が様々な経験を通じて、自分自身の中に両極的な考えがあると見出していく過程を「視点の深化の過程」としてとらえ、その過程の具体的な在り方を示すために重症心身障害児を育てる母親六名にインタビュー調査を行ったが、本論文ではそのうちの一名に焦点をあてて考察を行った。その母親は、障害をもつ子どもとの生活を通じて様々な経験を重ねていったが、結局はもともと抱いていた考えにそれほど大きな変化はなかった、と語っており、そのため、一見するとそれほど視点が深化しないような過程を経たと感じられる事例である。しかしながらこの過程は、視点が深化しなかったのではなく、視点が深化することによって得た観点をもって、一方の考えを意識的に改めて選んでいく過程ではないかと考察した。そこで、Cβ.ユングが論じている「意識的で成熟しな観点」をもって「自分自身の運命を意図的、意識的に受け入れる」女性という概念を用いることによってさらにその考察を深めた。さらに、ユングの意識の「発展・分化」の様子に関する考えをもとにして「視点の深化の過程」とは円環的な軌跡を辿る過程であろう考え、この過程をに新たな一段階を加えて再定義した。
著者
高松 みどり Takamatsu Midori タカマツ ミドリ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.7, pp.283-290, 2002

研究ノート修士論文では、ヘンティヒの学校理論における経験概念について思想的にアプローチした。その際明らかとなった彼の経験概念は、その学校実践にどういった影響を与えているのか。今後こういった問題を考えるにあたり、本稿では生徒の経験という行為にアプローチする方法について考える。ここで取り上げるのは、クライネスペルらによる現象学的方法、グステットナーらによる規律化論的方法、ヴルフらによる儀礼・パフォーマンス概念を中核に据えた方法である。その結果明らかとなったのは、クライネスペルらの方法も、グステットナーらの方法も、筆者の問題設定には適合しないが、おそらくヴルフらによる方法であれば適用可能であるということである。確かにヴルフらの方法はヘンティヒの「経験の余地」を閉め出しているようにも思えるが、決してそうではないと思われる。というのもヴルフの場合、生徒達が経験の中で新しい共同体を作り出すというダイナミックな儀礼概念が見られ、それはヘンティヒの経験概念にも通じると思われるのである。
著者
上條 史絵 Kamijo Shie カミジョウ シエ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.14, pp.63-75, 2009

Recently,the issues regarding body awareness have been paid attention to in the practice of psychotherapy, We usually use our body without being conscious about our muscle functions and the endocrine and nervous systems. It might be possible to say that we have a vast unconscious component inside our body as well as mind. Freud referred to the relationships among the ego,internal perception,and surface skin in his early works on the theory of the ego. Jung also mentioned the importance of the body in which our minds dwell. However,both of them did not pursue the issues concerning the body,because they paid much attention to the mind. In this study,the author reviewed the theories about the body advanced by Freud and Jung and discussed the idea of the "bodily-ego." The possibility of verbalization regarding the experience of the bodily-ego as well as the ego seems to be the turning point in achieving the objective of integration. The author also pointed out the existence of a relationship between the ego and the surface skin and discovered a special function of tactile sensation. The case reports by the author propose that bodily sensations spread inside our bodies through the permeable membrane of the bodily-ego and the tactile function. The deterioration of body awareness leads to the destruction of the relationship between the body and the ego. Clients who projected their ego on the self-injured cuts and scars were found to experience unstable adjustment funcions. This result clarified that both the ego and the bodily-ego are crucial aspects of mental health as they form the foundation of our bodily health.近年心理臨床において,身体性が注目されている.身体機能には,内部筋肉や内分i必系,神経系など,意識とは無関係に働く領域があり,心と同様,広大な無意識領域ととらえることが可能だ.フロイトは自我論初期,内部知覚と自我,身体表面と自我の関係に触れている.またユングも独自の無意識論の初期に,生命が宿る身体の重要性に触れている. しかし両者とも心の領域への関心が高く,身体の問題を追究することはなかった.本論では両者の自我と身体に関する論を整理し,"身体自我"の考察を試みた.白衣と同様,身体自我についても言語表象可能かどうかが,統合作用への転換点となる.また皮膚表面にも着目し,自我との関係と触覚の特異な機能を見出した.さらに自傷行為の考察をもとに,身体自我と触覚の機能一身体表面を浸透膜として体内へ拡がり,自我と関係づけるプロセスーを抽出した.身体意識の劣化は,身体基盤と自我との連関をも破壊する.自我を自傷痕に投影する姿には,自己内部の安定機能の不十分きが推測された.これらによって,従来の自我意識だけでなく身体的な自我意識の重要性と,身体基盤との関わりが明らかになった.
著者
岡部 美香 Okabe Mika オカベ ミカ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.131-141, 1997-03

近年、家庭における子ども虐待が、現代社会の病理現象の一つとして問題視されている。この問題に代表されるような家族の変容あるいは解体といった社会的動向のなかで、教育学の領域でも、これまで自然かつ自明のものとみなされていた家庭の教育機能について批判的に検討することが、焦眉の課題として認識されるようになってきた。ここでは、そうした再検討の試みの一つとして、エレン・ケイの『児童の世紀』に焦点を当てる。そこで展開されている彼女の教育論は、「非入間的な学校(あるいは産業社会)」に対する「人間的な家庭」という二項対立の図式を思考の枠組みとしている。このように学校や産業社会の対立項としてく家庭〉が構想される場合、それは利益社会の原理を徹底的に排除した、一種のユートピア空間として描かれることとなる。本稿では、そのようにユートピア化されたく家庭〉における家族関係の構造を、ケイの『児童の世紀』における記述に即して解明することを目的とする。そのなかで、ケイが描いた〈家庭〉のもつ特徴と問題点を考察し、家庭の教育機能について現代のレベルで問い直すための端緒を見いだしたい。
著者
三宮 真智子 吉倉 和子 Sannomiya Machiko Yoshikura Kazuko ヨシクラ カズコ サンノミヤ マチコ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.17, pp.15-30, 2012

冗長な口頭説明がどのようにメモ・伝達されるのか,また, 3 分間の伝達計画時間を与えることが伝達にどう影響するのかを調べる実験を行った.24名の大学生を「計画あり条件」「計画なし条件」の2 群に分け,海外旅行参加者を対象とした説明をメモをとりながら聞かせ,説明会に欠席した友人のために留守番電話に録音するという設定で説明の伝達を求めた.結果として,以下の点が明らかになった.1)情報伝達の量的側面においては両群間の差は認められず,説明に含まれる重要度の高い情報ほどメモされ伝達されていた.2)情報伝達の質的側面においては,計画なし群の伝達に次のような冗長さが認められた:①話の導入・つなぎ,解釈,推測といった発話付加が多い.②情報の体系化度が低く無駄がある.3)質的側面において,計画あり群では,伝達計画時間を利用したメモへの加筆修正により,①情報の明確化および②情報の序列化を行っており,このことが冗長さの低減につながった.4)元の冗長な説明に対して,具体例の豊富さという要因についてはポジティブな印象を,話の非一貫性,未整理な話の展開,要点のわかりにくさという要因についてはネガティブな印象が形成された.The present experiment investigated how a redundant oral explanation is taken notes and transmitted the effects of note-taking and transmission of a redundant oral explanation in two conditions: with- and without-planning time (three minutes) conditions. Twenty-four undergraduates listened to an explanation of traveling abroad in a group tour while taking notes. Half of them were given three minutes of planning time before they transmitted the information to their friends who had missed the explanation. The notes and transmitted speech protocols of both conditions were analyzed. The main results were as follows. (1) Quantitative analysis revealed no difference between the two conditions: Both groups took notes and transmitted them according to the importance of information in the original explanation. (2) Qualitative analysis revealed that the transmitted explanation was more redundant in the without-planning condition: (a) introductory or conjunctive utterances, the participants' own remarks, and conjectures were more added; and (b) the information was less organized, which led to a waste of words. (3) Participants in the with-planning condition specified and arranged the information to be transmitted through an improvement of their notes, which made their transmission less redundant. (4) Participants formed a positive impression on the factor of abundant examples and negative impressions on the factor of inconsistency, disorganized structure, and pointlessness of the original redundant explanation.
著者
芝野 淳一 シバノ ジュンイチ Shibano Junichi
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.18, pp.81-96, 2013

本稿の目的は,高階層の人々が教育達成のために行うトランスナショナルな移動の内実を,高等教育進学以前にグアムへ海外留学している日本人学生の語りと現地でのフィールド調査の結果を手掛かりに明らかにすることである.調査の結果,次の3 つの事が明らかになった.①本事例の留学生たちは日本での学校経験をやり直すための「セカンドチャンス」を求めて海を渡ってきた.それは親の意向を色濃く反映したものであった.②彼らは留学当初,蓄積された資本(英語力や「海外経験」)を元手に日本の大学へ進学するという「成功物語」を描いていた.しかし,資本の蓄積が思いのほかハードであるという現実に直面した彼らは,「成功」へのプレッシャーと闘わなければならない状況に置かれおり,物語の崩壊を余儀なくされていた.③他方,自らの成功物語を書き換えながら次なるチャンスを模索し,トランスナショナルな移動を繰り返す学生や,日本に戻らず留学先に残り続ける学生も存在していた.この結果を踏まえ,トランスナショナルな移動と教育達成を単線的に結びつけて議論を展開してきた先行研究からは見えてこなかった移動することのリスクを明らかにしたこと,またその一方でトランスナショナルな空間が特権的な層に位置する人々の教育達成へのチャンスを与え続ける場になっていることを指摘した.
著者
岡邑 衛 上田 勝江 新谷 龍太朗 オカムラ エイ ウエダ カツエ シンタニ リュウタロウ Okamura Ei Ueda Katsue Shintani Ryutaro
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.97-110, 2014-03-31

本稿では、アメリカ合衆国における「共通コア州スタンダーズ」の現場への浸透具合とその課題をフィールドワークを通して探ることによって、同国の学力格差是正政策の実現過程とその課題を明らかにする。フィールドワークの結果、コミュニティと緊密な関係を構築している学校においては、保護者、教員が一体となって独自の学校文化を守ることで「共通コア州スタンダーズ」の影響を受けていない様子が見られた一方、民間組織がイニシアティブをとる教育機関と関係のある学校には、一定程度の影響が現れていた。すなわち、共通コア州スタンダーズが実践に影響を与える度合いは、官民連携の度合いと比例関係にあるという仮説が考えられる。だが、「共通コア州スタンダーズ」に適応した各学校の取り組みが校長の強いリーダーシップに依存している場合、その継続性や発展性は同じ志を持つ他校とのネットワークがあるかどうかにかかっていること、民間組織の教育支援機能が全ての公立学校を支援できるかという規模の問題を指摘することができる。