著者
中嶋 文雄 米地 文夫
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.71, pp.53-55, 2011

明治27年(1894年)に刊行された志賀重昂の著書「日本風景論」[1]における中心的命題の一つは、富士山が世界一の名山というべき美しさを有することの科学的裏付けとしてその形状が対数曲線であるということである。そして文脈からしてこの事が志賀自身の発見によるかのごとく書かれている。しかし1989年と1990年の日本地理学会において、本論文の著者の一人である米地文夫により、この命題は当時の日本の帝国大学工科大学の教授を務めていたイギリス人の地質学者であるJohn Milne の論文[2a]からの剽窃であることが指摘された[3a][, 3b]。問題となったのは[1]の89ページの次の文節である。
著者
長内 健治
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 = The annual report of the Faculty of Education, Iwate University (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
no.29, pp.35-38,図4p, 1969-12

キタサンシヨウウニ卵の色素顆粒ほ未受精卵では内部細胞質全体に分散しているが,受精後その一部は皮部細胞質へ移行し,他は内方へ移動して星状体のまわりに集まる。内部色素顆粒は分裂装置の変化に伴って娘細胞に分配される。バフンウニ卵では内部細胞質のオレンジ色素は初め均等に分散しているが,受精後星状体のまわりに濃縮し,発生の進行に伴って顆粒化する。この色素が中性赤によって生体染色されることなどから,内部色素顆粒は細取分裂活性に関与する可能性が示唆された。
著者
木村 直弘 KIMURA Naohiro
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.72, pp.39-57, 2012

〈音風景〉とは,カナダの現代音楽作曲家・音楽教育家マリー・シェーファー(1933~)が1960年代末に,「音」を意味する「サウンドsound」と「~ 景」を意味する接尾語「~スケープ-scape」から造語し提唱した「サウンドスケープSoundscape」という術語の訳語である。以下,日本サウンドスケープ協会公式ウェブサイトの用語説明から一部を引くと,サウンドスケープという用語とその考え方は,地球上のさまざまな時代や地域の人々が, 音の世界を通じて自分たちの環境とどのような関係を取り結んでいるのか,どのような音を聞き取りそこからどのような情報等を得ているのかを問題とし,それぞれの音環境を個別の「文化的事象/音の文化」として位置づけます。したがって,サウンドスケープとは「世界を聴(聞)く行為,音の世界を体験する行為によっておのずと立ち表れてくる意味世界」であるともいえるのです。人間とその音環境との関係を探るにあたって,シェーファーがこのサウンドスケープの重要な特徴として挙げたのは,〈基調音Keynote sounds〉〈音信号Sound signals〉〈音標識Soundmark〉の3つである。〈基調音〉とは,ある共同体にあって,いわば後景的に(ゲシュタルト心理学的に言えば「地」として)絶えず鳴り響いているが意識的に聞かれることはない音を指す。これに対し,〈音信号〉とは,特定の意味を伝達し,前景(ゲシュタルト心理学的に言えば「図」)として意識的に聴かれなければならない音である。そして〈音標識〉とは,〈音信号〉の中でも特に共同体によって尊重され,注意されるシンボル的意味合いが強い音を指す。たとえば,岩手県の平泉を例にとると,世界文化遺産に登録された観光地であるので,〈基調音〉としては,観光バスや観光客のたてる賑やかな音などが挙げられるだろうし,〈音信号〉としては,平泉町役場から毎日正午に流されるチャイムや,午後5時に流される「夕焼け小焼け」のメロディなどが挙げられる。そして,〈音標識〉としては,毎年ゴールデンウィークに(社)平泉観光協会主催で行われる「春の藤原まつり」における様々な音がそれにあたる。別表(57頁参照)に示したように,空間的には,中尊寺および毛越寺という両極とそれらを媒介する中間的場としての駅前広場や旧観自在王院庭園など,3つの空間に分けられる。そして,両極を媒介するものとして,町内神輿および県内の各国体による郷土芸能が,かならずその3箇所で披露される。また,時間的にみても,やはりこの「春の藤原まつり」は3部分に大別されうる。すなわち,第一は,中尊寺・毛越寺両極でほぼ同時進行する,前半の,開山大師や藤原四代あるいは源義経の供養法要といった仏教祭祀,第二は,後半の,古実式三番や延年の舞などに代表される神事的伝統芸能に,そして第三に,観光的にはこのまつりのピークと位置づけられる「源義経公東下り行列」に顕著な,両極間を結ぶ移動的イヴェントである。よって,「春の藤原まつり」の〈音風景〉は,観光客や観光車両のたてる地の音を背景に,交差点での信号音や平泉駅での列車の発着音などの〈音信号〉も含みつつ,すぐれて平泉を特徴づける〈音標識〉,すなわち仏教儀礼の音,神事的伝統芸能の音,郷土芸能の音,そして,行列の先導あるいは中間地点での吹奏楽やラジオ拡声器による大音量の音,などによって構成されていると言える。さて,春の藤原まつりのようなまさに今現実に鳴り響く音の世界だけでなく,たとえばこの平泉の地に,かつてどのような〈音風景〉があったのかについては,ジェーファーが「耳の証人」と呼ぶところの,さまざまな古文書等の記録類や文学・神話,あるいは絵画史料などを手がかりとして推測することが可能である。そこで,この小論では,前掲・平泉におけるいにしえの〈音風景〉を今に伝える絵画史料「平泉諸寺祭礼曼荼羅(ニ幅一対・紙本著色,中尊寺蔵・桃山末期~江戸初期)を「耳の証人」としてとりあげ,そこに描かれた〈音風景〉が示す「音の文化」を明らかにすることを目的とする。そこで注目すべき〈音風景〉としては,右幅に描かれた「御一馬(おひとつうま)」,左幅に描かれた「哭(なき)まつり」と「印地打」,そして両幅に描かれた「鐘声」が挙げられるが,本稿では,紙幅の都合上,これらのうちから「御一馬」をめぐる〈音風景〉に考察対象をしぼり論じてゆくことにする。
著者
菊地 洋一 西井 栄幸 武井 隆明 村上 祐
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.45-58, 2010-02-26

物質の微視的概念である粒子概念(すなわち「物質はすべて目に見えない小さな粒(原子,分子,イオン)でできている.」という概念)は,物質を理解する上で最も根本的な要素であり,現代の自然科学および科学技術の礎となっている.物質のマクロ的な事象(物質の分類,状態,性質,反応など)を科学的に説明するには,粒子概念が不可欠となる.よって,小・中学校における物質学習のカリキュラムを考える際に,粒子概念の位置づけは大変重要な問題であるといえる.粒子概念をどの時期に導入するか,どのように取り扱うかによって,物質学習の中味が大きく変わる.例えば,小・中学校の理科教育では児童・生徒が,主体的に実験を行い,その結果を整理したり比較したりすることから新たな事実や法則性を見出すような活動が重視されている.この活動は,考える根拠になる科学的知識を持たない学習者にとっては実験事実としての知識の集積の段階である.実験事実に内在している科学のしくみ,すなわち“なぜそうなるのか?” の疑問,を対象に学習を構成するには,物質学習に関していえば粒子概念が必要となる.よって,粒子概念の導入前後では学習の質に大きな違いが生じることとなる.粒子概念の位置づけを考えた際に最も重要なことの1つは,粒子概念は物質学習における種々の場面で“活用する概念” だということである.最終的には,学習者が学校教育を終えるまでに獲得した教育内容が適切であるかが問われる.物質学習においては学習者が粒子概念を物質の種々の現象の説明に使えるものとして定着することが重要なポイントとなる.このことが,物質学習で獲得したことが最終的に単なる知識の集積に留まるか,科学的な思考と理解を伴うものとなるかの分岐点となる.粒子概念の扱いはそれだけの影響力を持っているといえる.我々は上記の視点から,中学生・高校生を対象として,小学校で学習する物質の基本的な現象(空気と水の圧縮性の違い)について粒子概念を用いて科学的に説明できるようになっているのか?を問う調査を行った1).その結果,中学生と高校生の正答率はいずれも非常に低く,粒子概念と種々のマクロな現象を繰り返し学習してきた高校生においても,粒子概念が現象の説明に使えるものとしては定着していないとの結果を得た.また,2006年1,2月に文部科学省・国立教育政策研究所が実施した理科学力テスト「特定課題調査」の結果が2007年11月に公表された2).対象は小学5年生と中学2年生である.物質学習に関わる「食塩水の質量保存に関する基本的内容の設問」についての正答率は,小学5年生で57%,中学2年生で54%と低い値であった.この結果は中学生の正答率が小学生を下回ったこともあり,マスコミ等でも注目を集めた.多くの中学生が小学校で学んだ質量保存の考えを深めることができていない理由には,中学生においても粒子概念を用いた本質的な理解が確立していないことが挙げられる.これらの調査結果は,近年の物質学習カリキュラムに対する重大な問題提起であり,カリキュラムの再構築の必要性を強く感じる.そこで我々は前報において,粒子概念を基軸にした新たな物質学習カリキュラム構想を提案した1).このカリキュラムでは,物質に関わる種々の現象の科学的な理解を深め,生徒の科学的な思考力を育成するために,粒子概念を早期に導入する考えに立っている.ここでカリキュラム案が実現可能かどうかの大きなポイントは,早期に粒子概念を導入する場面の学習が成り立つかどうかである.そこで本報では我々のカリキュラム案の粒子概念の取り扱いを小・中学校の学習指導要領における取り扱いと比較した上で,カリキュラム案のポイントとなる場面として,中学1年での原子・分子・イオンの導入場面を取り上げ,授業実践とその評価を行った.
著者
寺嶋 正義
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.46, no.1, pp.p77-99, 1986

水の落下音を研究する目的で,最も単純な洗面器に1mの高さから水滴,水を落下させて,その際に発生する音をマイクでとらえて,その出力の高速フーリエ変換をパソコンにて行ない,振動数の分析を行なった結果,つぎのことがわかった。(1)洗面器に水のない場合には,水滴の一滴落下により,器の固有振動を励振した。これは予想した通りであった。(2)水深1cmの場合と水深3cmの場合の水滴の一滴落下により水面の振動を励起したと思われる,58-137Hz,39-107Hzの低い振動数のものが出た。水深3cmで一滴落下の場合に,明らかに気泡が発生して,この気泡の固有振動が出たと考えられるものがあった。器の固有振動数の励振も発生したが,水深が深くなるほど少くなる傾向であった。(3)水深1cmの連続落下,水深3cmの連続落下,水深5cmの一滴落下,連続落下の場合には,340-615Hzや,2200-2300Hzの振動が出たが,これは水の落下に伴う気泡巻込みの気泡の振動か,飛散した水滴の振動と考えられるが,本実験のみからでは確定出来ない。(4)このような単純な実験でも,現象としてはかなり複雑なことが,非常に短い0-0.03s位の間に起っている。
著者
木村 直弘 KIMURA Naohiro
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.144-117, 2009

「日常的には行わない反対(逆さま)の行為」の民俗学的意味について考察した民俗学者・常光徹は、井戸に関する次のエピソードを紹介している。岩手県では、バカ(ものもらい)ができたときは、小豆三粒で目をこすり、後ろ向きになって井戸に落としながら「あったらバカ落とした」と唱えて、後ろを振り返らずに帰る。~(中略)~魔を移したり封じ込めたものを、辻・川・井戸で捨てるのは、そこがこうしたものを捨てるに適した場所、つまり日常の生活空間とは異なる世界との出入り口(境界)と認識されていたからだろう(1)。 この事例でのポイントは、意図的に「後ろ向き」の姿勢をとるということである。常光は、こうした行為が行われる場合、その「背後に異界や妖異など非日常的な世界やモノが想像されている」場合が多いこと、そして例えば「後ろ手」には「異界や妖異との関わりを拒否しつつ一方でそれらに働きかけるという二面性」が看取できるとしている(2)。井戸は彼岸たる地中へ深く差し込まれた筒であり、まさに彼岸と此岸を往還しうる=ウツりうる「出入り口」、すなわちすぐれて境界的な「回路」である。能の夢幻能によく見られるシテの造型は、まさにこうした両義的時空を、往来できる存在として設定されている。たとえば、世阿弥作の夢幻能《井筒》の場合、前シテの登場歌は、後ろ向きで謡われる。まさにその理由は、能舞台中央に置かれる作り物の井筒が象徴する、この謡曲の主題である「井筒」が極めて境界的な場だからと考えられよう。 「井筒」が筒によって囲われた穴空間であることは言を俟たない。評論家・松岡正剛は、日本文化の特質のひとつとして「囲い」を挙げる(3)。もとは幕や屏風を立て廻すことを意味した「囲い」はのちに茶道で茶室を意味する語としても使われるようになるが、その特質は「仮設的」であるにもかかわらず、その内側に別世界が出現させられるという点にある。例えば、古代では、神籬や榊(境木)や注連縄(標縄)によってある特定の場を「囲う」ことによって区切られた空間は「しろ」と呼ばれ、屋根のある「しろ」=「やしろ」が神「社」が始まりである。この「しろ」に「代」の字を充てたことから、「しろ」という語が、「何か重要なものの代わりを担っているもの」あるいは「何かの代理の力をもったものやスペースやそのスペースを象徴するもの」を示していることがわかる(4)。