著者
伊藤 昌夫
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
no.29, pp.33-50,図5p, 1969-12

この研究は,岩手県・平泉・中尊寺蔵の木彫古仮面3面のうちの,老女面と伝えられている仮面について,その造形上の特徴を,特に人体美学・美術解剖学の立場から計測・観察し,老女面に表現されている特異なdeformation(歪曲性)やasymmetry(左右非対象)などの美的効果について考察論及したものである。人体美学的方向からは,その形態的特徴の中心的要素を,私は特に2重捻転性による効果としてとらえることをこころみた。 また美術解剖学的方向からは,この老女面と一般的な老婆の表情とを比較し,老女面の歪曲性を矯正してみることによって,更にこの仮面の特異性を考察してみたものである。また,あわせて類似面の作例の比較を若干こころみた。
著者
木村 直弘 KIMURA Naohiro
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.68, pp.81-106, 2009-02-28

日韓文化の比較研究で知られる李御寧イオリョンは、日本語について次のように指摘している。 ごく日常的な言葉でも、日本語を習う時にいつも苦労するのは、日本語はあまりに厚化粧していて素顔の意味が隠されていることだ。要するに、言葉の表と裏のズレである。激しい場合には、言葉自体の意味とそれが示していることが、まるっきり反対のことがあるからである(1)。 韓国語ではなるべく事実を「包み」込まないで伝えようとするのに対し、日本語の場合、物事を示すというよりはそれを「包む」といった感覚が強いと主張する李は、この相違の由来を日本における「包み文化」と「奥の美学」に措定する。「隠すことによってその特性をあらわす」前者は必ずしも日本の専売特許ではなくアジア一般に見られる特徴でもあるが、特に日本の場合、それは「形式論理では割り切れないパラドックスを生かした文化(2)」として特徴づけられる。「包む」ことによって「奥」を創出する後者も同様であり、「包むことによって、奥に隠すことによって、そして逆に心が表にあらわれるパラドックス(3)」の上に成り立っている。そして、それは「日本人らしさ」の要因のようにみなされている「慎ましさ」(「包む」=「慎む」)や「奥床しさ」が根差す文化的基底と言いうる。 前稿(4)では、喪葬という霊魂にかかわる両義的時空間に介在する哭声とその騒音性に着目し、そこに付された儀礼的機能の変遷に焦点をあてて論じたが、「つつみ隠す」という国風文化的心性と古代以来の「言霊思想」や、竹筒に通ずる「つつむ」構造を持った鼓つづみについての考察を割愛せざるをえなかった。そこで、この小論では前稿を補足するものとして、慎つつむ=「包む」というすぐれて日本的な表現方法について、楽器の象徴論や、「ツツミ」に関連する「ウツ」「コト」といった言葉の意味論、そしてそこに看取できる境界的な可逆性、往還性といった視座から光をあてることを目的としている。
著者
佐々木 全 伊藤 篤司 今野 文龍 SASAKI Zen ITO Atsushi KONNO Ayaru
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.75, pp.89-102, 2015

近年,子どもたちの健全育成のために,放課後や休日における地域生活の充実の必要性が指摘され,全国各地で多様な取組みがなされている1)2)3).このような活動は,当然ながら障害の有無や障害種を問わないテーマである. しかし,LD,ADHD,アスペルガー障害等いわゆる発達障害の子どもにおいては,既存の活動,例えば学童保育,学習塾,スポーツ少年団などに馴染みにくいことが少なからずあり,その補完的な活動の場が必要だったり,むしろ積極的な適応の場としての活動が必要だったりする.これらの事情に対応して,親の会や専門家グループなどの支援団体が放課後活動や休日活動を企画し提供する実践がある.岩手県内においても,このような支援団体は複数あり,それぞれに療育や訓練,あるいはレジャーや交流という生活自体を目的としている4)5). このような市民団体の活動を巡っては,その実践の意義を検討しようとする「実践論」と,その実践を持続するための運営方法を検討する「運営論」が必要である6)7)8).特にも,「運営論」に関しては,近年,全国各地の親の会等の支援団体における運営上の悩みが顕在化しており,重要視される9)10)11).岩手県内でも,いくつかの支援団体において,持続不能状態に陥ったり,過重な努力によってようやく持続したりしている状況が散見される.それゆえ,持続可能な運営に関する知見を相互参照可能な情報として共有することが役に立つだろう.本稿は,その一環として「実践論」と「運営論」を包括的に検討する事例研究である.具体的には,放課後活動「Act.(アクト)」を事例として,その実践の意義と,持続可能な運営のために施した工夫点を明らかにすることを目的とする.
著者
土屋 明広 TSUCHIYA Akihiro
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.68, pp.9-28, 2008

問題の所在─「多文化共生」における「在日朝鮮人」 日本社会で「多文化共生」という言葉が聞かれるようになって久しい。その言葉の増加は、近年のグローバル化と労働市場の再編によって「ニュー・カマー」と呼ばれる外国人労働者が日本国内に多数呼び込まれ1)、各地にマイノリティ・グループが出現、定住するようになったことと強く相関していると考えられる。こうした新たなマイノリティ・グループの登場に促されるように国・地方自治体やNPO などは日本語教室や相談窓口の開設といった様々な社会的受入れ体制の整備に取り組み始めている2)。 しかし、他方で「共生」概念には疑問も向けられるようになってきた。その疑問とは、この概念が定住外国籍者をとり巻く劣悪な労働・居住環境、民族的な差別を不可視化させるものとして機能しているのではないか、「共生」概念には「国籍」「国民」「民族」などの指標によって当人を固定するカテゴリー化権力が潜み込んでおり、そのため、定住外国籍者は日本国籍者と彼岸と此岸の布置関係上に位置づけられ、日本社会に多年に亘って居住したとしても社会の構成員とはみなされないことになっているのではないか、さらには、日本社会は定住外国籍者に対して「ゲスト」としての不平等な取扱いに甘んじるか、それとも、「帰化」=「日本人に同化」3)するかという二者択一を迫っているのではないか、といったものである。 翻って考えてみるに、日本社会には戦後一貫して多くの定住外国籍者が存在してきた。そのなかで、近年まで最も大きかったエスニック・グループが「在日朝鮮人」である4)。本稿では「在日朝鮮人(以下、在日)」5)を、植民地政策に起因して日本に定住することとなった、朝鮮半島をルーツとする朝鮮籍者、韓国籍者、そして日本国籍者を含む広義の概念として使用するが6)、彼/ 女らの生活は世代を経るに従って帰国を前提としていた生活スタイル(「祖国志向」)から、日本社会に定住することを前提とした生活スタイル(「在日志向」)に移り変わってきたと言われている7)。それは定住を余儀なくされているという側面があることを前提としつつも、各種の運動を経て社会保障の適用や公立学校への就学、特別永住制度の設立などによって法的不平等が限定的ではあるが解消されてきたこと、それと同時に彼/ 女らの生活基盤が日本社会のなかに確立してきたこと、さらに祖地との距離感が生じたことなどの複合的な結果であると考えられる。このことから、現在の在日は「一時的に日本に滞在する朝鮮人」ではなく、日本社会を構成する一員であるとも位置づけられている8)。 しかし、以上のような定住化の一方で、日本人は在日を意識的、あるいは無意識的に彼岸に位置づけることで、両者の不連続性を維持させてきたように思われるのである。例を挙げれば、宋連玉は「見知らぬ日本人」から「反日分子」との言葉を投げつけられたことがあると述懐して、次のように述べている。「私たちが批判するのは、マイノリティにマジョリティに対する異見を発言させない社会の構造そのものである。というのも、民族差別の経験を通じて作り出された私たちのトラウマは、日本人との連帯を通じて差別の構造そのものを変えない限り、けっして癒えないということを、私たち自身が誰よりもよく知っているからである。つまり、脱植民地主義化を実現するしかないことを、身をもって知っているからである。」9) 宋連玉は、一方で日本がいまだマジョリティ主導の「植民地主義」社会であることを指弾しながらも、他方で、その社会差別構造の変革は在日と日本人との「連帯」なしにはあり得ないと指摘している。つまりこれまで、在日が様々な差別撤廃運動を行なってきたにもかかわらず、マイノリティとマジョリティとの断絶状態が継続される限り、社会構造の変革は生じ得ないと考えられているのである。それでは、このような言葉を投掛けられたマジョリティである我々日本人はいかなる応答をすることが可能なのであろうか。 本稿は、以上のような問題意識を背景として朝鮮人学校を手掛かりに、在日のエスニック・アイデンティティ志向と、その現状について、ある朝鮮人学校教師の「語り」を経由しながら検討し、日本社会におけるエスニック・アイデンティティ構築の自由度を高めるような法制度について構想するための足掛りを築くことを目的とするものである。以下、まずエスニック・アイデンティティの社会的構築性について法と関連づけながら試論的に述べる(Ⅰ)。次に朝鮮人学校に関する歴史と法的位置づけを確認する(Ⅱ)。そして、聞取データに基づいて朝鮮人学校が直面している課題について法の二律背反的な作用に着目して論じ(Ⅲ)、最後に検討を行う(Ⅳ)。
著者
内山 三郎 UCHIYAMA Saburo
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.73, pp.1-7, 2013

ヒトの生まれ月(誕生月)については、特に季節による変動は無いと考えられる。これは、厚生労働省による人口動態統計の月別出生数の比較により裏付けられる。しかしながら、運動成績成功者としての職業スポーツ選手の生まれ月分布に偏りがあることは、特に若者に人気のあるサッカー競技では国内・国外において良く知られた事実である。即ち、日本のJ リーグ・サッカー選手では、早生まれ(1月から3月生まれ)の選手が少なく、代わりに遅生まれ(4月から6月生まれ)の選手が多い。これに類似した現象は、オランダとイギリスのプロ・サッカー選手でも報告されている。日本のプロ野球選手においても、同様に早生まれが少ないことが報告されている。野球・サッカー等のプロ球技スポーツにおいて早生まれが少ないという現象は、幼少期における早生まれの体力的劣勢の影響と考えられる。幼少時の体力格差は月齢に比例しており、同学年の4月生まれと3月生まれの間には体力格差として約12 ヵ月の開きがある。学校教育は学年で輪切りにされた状態で行われており、学校スポーツが早生まれ・遅生まれ等体力格差の存在する児童群の中で競争が行われる結果、早生まれの者が正選手に選抜される割合は少なくなると考えられる。学校教育では、それが各学年で繰り返されることとなる。成人ではこの体力格差は解消しているが、幼少時の体力格差によって形成された成功体験が累積的に影響を及ぼし、その結果として幼少時の体力格差が成人後にまで影響すると考えられる。日本サッカー協会も、ヨーロッパサッカー連盟の早生まれの影響に対する取り組みに倣い、選手の育成と発掘において早生まれの影響を認識した対応をする重要性を報告している。 それでは、幼少時体力的に劣勢である早生まれは、学習成績にどのような影響を及ぼすのであろうか。早生まれが学習成績にも影響を及ぼすのであれば、入学試験を行う学校においては学生の生まれ月分布の偏りとなって現れてくることが考えられる。学習時間の持続や学習意欲においては体格・体力の充実が関与することが考えられ、その影響が大きければ幼少時の体力格差は運動成績と同様に学習成績にも影響を与え、成人後までその影響が残ることは充分に考えられることである。学習成績に対する生まれ月の影響については、早生まれによる影響が見られるという報告がある一方、調査の対象によって影響が見られないという報告もある。本研究では、小学校・高等学校・大学における入学者の生まれ月を調査し、早生まれの影響が現れる状況を検討した。次いで、早生まれと学習成績の関係について、親や教育関係者に求められる理解と対応についての考察を行った。
著者
宮川 洋一 福本 徹 森山 潤 MIYAGAWA Yoichi FUKUMOTO Toru MORIYAMA Jun
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.89-101, 2009
被引用文献数
3

近年,「青少年が利用する学校非公式サイト(匿名掲示板)等」,いわゆる「学校裏サイト」の存在が話題となっている.平成20年4月に公表された文部科学省スポーツ・青少年局青少年課による調査(2008)では,このようなサイト・スレッド数は38,260件に上ることが明らかとなった.また,抽出調査した書き込みの2,000件の内,「キモイ」「ウザイ」の誹謗・中傷の32語が含まれるものが50%,性器の俗称などわいせつな12語が含まれるものが37%,「死ね」,「消えろ」,「殺す」など暴力を誘発する20語が含まれるものが27% になることが確認された.高度情報社会の影に対する教育の必要性は,多くの研究者が述べているが,社会問題化している学校における「いじめ問題」とインターネットをはじめとする情報通信環境の普及が絡み合い,情報モラル教育は新たな段階をむかえている.これまでも,義務教育諸学校では,情報モラル教育,メディアリテラシー教育などを通して,高度情報社会の影の部分を指導するとともに,教育活動全体で推進する道徳(道徳の時間も含む)などを通して,基本的な生活習慣や人間としてしてはならないことなど,社会生活を送る上で人間としてもつべき最低限の規範意識,自他の生命の尊重,自分への信頼感や自信などの自尊感情や他者への思いやりなどの道徳性を養う指導を継続している.しかし,児童・生徒を取り巻く環境は急速に変化しており,携帯電話に代表されるネット端末の普及は「学校裏サイト」などへの関わりの温床となっていることが,容易に想像できる.これまで以上に,高度情報社会の影に対する学校教育のあり方,言い換えれば,学校における情報モラル教育の重要性が増してきたといえる.特に,義務教育では,学習指導要領改訂の時期となり,これまでの研究を整理し,今後の課題を明確にしておくことは,意義あることと考えられる.一般に,義務教育では,児童・生徒の実態把握→カリキュラムの立案→教材の選定または開発→授業実践及び評価という一連の手順を経て,教育実践がなされる.この観点から先行研究を整理しておくことは,学校現場の教員にとって,有意義なものになると考えられる.これまで,情報モラル教育,情報倫理教育に関する研究を整理したものでは,阿濱(2004)が,高等機関における情報倫理教育,初等中等教育における情報倫理教育という区分で先行研究を概観している.そして,これらの先行研究で取り上げられてきた学習すべき内容を整理し,カテゴリ分けをしている.義務教育における研究の概観もなされているが,既述した四つの観点において,先行研究を整理したものではなく,情報モラル教育,情報倫理教育に関する研究を,既述した四つの観点から整理したものは,管見の限り見あたらない.そこで,本研究では,情報モラル,情報倫理に関する教育の先行研究について,特に義務教育段階に焦点を当てて,児童・生徒の実態把握,カリキュラム,教材開発,授業実践及び評価のカテゴリを設定して整理をした上で,今後の研究を展望することにした.なお,西・本郷(2005)よれば,情報モラルについては,「情報倫理意識に基づき,個人の自主的な判断,自己の内的規制ないしは自己統制による,個人の行動や態度」と捉え,情報倫理は,「情報社会における人間のあり方にかかわる問題として,人間社会としての共同体を存続させるための道理あるいは社会規範」と捉えている.一方,越智(2000)は,情報モラルについて,「情報モラルという標語とともに言及されていることがらは,すべてこれまで『情報倫理』という言葉で問題とされてきたものばかりである.」とした上で,「情報モラルが,発達段階を考慮して造語された初等中等教育向け情報倫理だと見なすのが自然である」と指摘する.これらの用語には,いくつかの捉え方があることを踏まえつつ,本研究では,基本的に以後「情報モラル」で括り,使用することにする.